「ごめん……」
少女の声が聞こえた。
「ごめん……」
どこかで聞いた声だった。
「ごめん……ごめん、ね……」
しゃくり上げる音が混ざる。
ひろしはゆっくりと目を開いた。
最初に視界へ飛び込んできたのは、空中へ突き刺さる巨大なスプーンだった。
その周囲では、おにぎりやピザ、弁当、餃子、パンが重力を忘れたように漂っている。視線を巡らせる。橙色を帯びた幻想的な都市景観。
テント状の巨大なドーム。遠方を走る電車。
現実ではあり得ない配置で並ぶ建築物。巨大な皿。
巨大な食器。巨大な食べ物。まるで誰かが悪戯半分に都市と食卓を継ぎ接ぎしたような世界だった。
意味不明。その一言に尽きる。
だが忘れるはずがなかった。
ここは広と初めて出会った場所だからだ。
「ごめん……」 再び声が響く。
ひろしは振り向いた。広がいた。
皿の縁へ座り込み、ふるふると肩を震わせている。
両手で顔を覆っているのに、涙は指の隙間から零れ落ちていた。
「ごめん……」 小さな声だった。
今にも消えてしまいそうなほど弱々しい。
それでも広は、絶やさず謝罪を繰り返す。
「ごめん、ごめん、ね……」
ひろしはしばらく言葉を失った。
広が泣いている。初めて会った時の広は、不思議な少女だった。
何もかも知っているように見えた。
年齢に似合わない落ち着きもあった。
少なくとも、こうして泣きじゃくる姿だけは想像したことがなかった。
「おい……」 ひろしが声を掛ける。
広の肩がびくりと揺れた。だが顔は上がらない。
合わせる顔がないとでも言いたげに、涙で濡れた顔を隠していた。
「どうしたんだよ?」 返事はない。
代わりに嗚咽だけが漏れる。
やがて広は、震える声で言った。
「わたしは……」
言葉が続かない。
呼吸を整えようとしても上手くいかない。
広は顔を覆っていた手を、ゆっくりと膝の上へ下ろした。
「わたしは、ひろしに、生き延びて欲しかった……」
ぽたり、と涙が皿の上へ落ちた。
「ただ、生きて欲しかった……」
広は俯いたまま続ける。
「でも……優しいひろしは、わたしを守るために、探しに行く……」
小さな拳が震えていた。
「そういう人だって……分かってた……」
掠れた声が、溢れる涙に途切れて消えそうになる。
「分かってた、はずなのに……」
唇を強く噛む。堪えようとしても感情が溢れてしまう。
止めようとしても止められない。
「ままならないことが……」
広は両目を閉じた。大粒の涙がぽたぽたと溢れる。
「こんなにもどかしいなんて……思わなかった……」
広は言葉を探すように唇を動かした。
だが、溢れ出る感情に声が途切れ、また同じ言葉へと戻ってしまう。
「ごめん……ごめん……ごめん、ね……」
と、何度も同じ言葉を繰り返した。
涙は止まらない。
嗚咽を押し殺そうとしても、すぐに喉の奥から漏れ出してしまう。
ひろしはしばらく黙っていた。
何と声をかけるべきか皆目見当もつかなかった。
営業先でクレームを受けたことはある。部下の相談に乗ったこともある。
しんのすけを叱ったこともある。
だが、目の前で泣いている少女をどう慰めればいいのかは知らなかった。
「広」 ひろしは呼び掛ける。広は顔を上げない。
「お前のせいじゃねぇよ」 返事はない。
ひろしは頭を掻いた。次の言葉を探す。
上手い慰め方なんて自分には思いつかない。
だからひろしは思ったことをそのまま口にした。
「オレが勝手に動いただけだ」
広の肩が小さく揺れる。
「お前に命令されたわけじゃない」
ひろしは苦笑した。
「信じるって決めたのもオレだし」
「動くって決めたのもオレだ」
……少し、間を置く。
「つまり、オレの判断ミスだ。広は悪くねぇよ」
広は首を横に振った。けれど言い返そうとはしなかった。ただ涙だけが零れ続ける。
ひろしは小さく息を吐いた。
どうやら慰め成功、とはいかなかったらしい。
それなら話題を変えるしかない。
ずっと聞きたかったこともあった。広の居場所だ。
探しに出ても、手掛かりは何一つ掴めなかった。
他泳者から情報を得ようとして死にかけた。
幸運はそう何度も起きない。だが、今は広と話せる。
場所さえ教えてもらえば、広のところに向かえる。
それだけでも知りたい。ひろしは口を開く。
「広」
広がこちらを見る。可憐な顔が涙で赤く腫れていた。
ずきり、と、ひろしの胸が痛む。
「お前、一体どこに――」
そこまで言った。言ったはずだった。
……だが。
ひろしの口から出た言葉は、全く違った。
「――ダンスレッスンは終わったか?」
沈黙。世界が止まったようだった。
広が固まる。
ひろしも固まる。
数秒。いや、十数秒だったかもしれない。
「……え?」
広が目をぱちぱちと瞬かせる。
「……は?」
ひろしも負けじと間の抜けた声を出した。
何だ今の。オレ何て言った?
聞きたかったのはそんなことじゃない。
ダンス? 一体何の話だ。
そもそも、広がダンスを習っているなんて知らない。
知らないはずだ。
なのに、まるで以前から知っていたことを確認するみたいに、自然に言葉が出てきた。
広は呆然としていた。やがて、ぷっ、と吹き出す。
次の瞬間。
「ふふっ……」 こらえきれず、小さく息が漏れた。
肩を震わせながら。 「ふふふっ……!」 止まらない。
涙を流しながら笑っている。
さっきまであれほど泣いていたのに、今度は笑いが止まらなくなっていた。
目の前でころころと泣き笑う少女。
ひろしは完全に置いていかれてしまった。
「な、何だよ」自分と広に困惑しつつも理由を問う。
広は首を振る。それでも再び肩を揺らす。
「なんでも、ない……」 そう言いながら、また肩を大きく揺らす。
ひろしは納得できない。
できないが、不思議と嫌な気分もしなかった。
むしろ、どこか懐かしい響きだった。ダンスレッスン。
その言葉に覚えはない。意味を汲み取ることもできない。
それでも胸の奥が微かに疼く。遠い昔の記憶を掠めたような。
そんな感覚だけが残っていた。
広はしばらく笑い続けていた。
華奢な肩を小さく折り畳むようにして腹を押さえている。
涙を流しながら笑っているせいで、途中から息まで苦しそうだった。
「ふふっ……あは……っ」
ひろしは呆れたように頭を掻く。
何がそんなに面白いのか分からない。
でも、自然と口元は緩んでいた。
先程まで罪悪感に押し潰されそうになっていた少女が笑っている。
……それだけで十分だった。
「はは、いくらなんでもはしゃぎ過ぎだろ〜」
広は口元を押さえた。 「待って……」
笑いを堪えようと息を吸う。けれど失敗した。
「ふふっ……」 肩が小さく震える。
「待って……笑い過ぎ、て……」 そこでまた吹き出した。
「おなかいた、い……」
ひろしは思わず苦笑する。
泣いていたと思ったら、今度は笑い過ぎで腹痛だ。
本当に忙しい奴だな、と呆れ半分に思った。
でも、不快ではなかった。
やがて、広がようやく落ち着く。
広が呼吸を整えたところで、ひろしは口を開いた。
「そういや聞いてくれ」 広が顔を上げる。
「オレの生得術式のことなんだけどな」
ひろしは病院で起きた出来事を順番に話した。
車を出したこと。薬品を出したこと。診療明細書を使ったこと。
そして、自分なりに辿り着いた結論。
広は途中で口を挟まない。ただ静かに聞いていた。 話し終えたひろしは腕を組む。
「で、結局オレはレジィと同じ術式なんだと思う」
少しの沈黙の後、広は言った。 「違う」
ひろしは瞬きをする。 「……は?」
「違う、よ」 穏やかな否定。けれど迷いはなかった。
「ひろしの術式は、
「再契象」、聞き慣れない単語だった。
ひろしは眉をひそめる。 「
「そう。レジィの術式」 広は簡潔に答えた。
ひろしは腕を組み直す。なるほど、そうか。
紙を燃やし、契約した物を再現する術式。
あれには「再契象」という名前があったのか。
今までひろしの中では、レジィと同じような術式。
その程度の認識だった。
名前を知った今、その術式は初めて輪郭を持った。
そして同時に、広はそれを明確に否定した。ひろしは混乱し始める。
「いやいや待て待て」 ひろしは額を押さえる。
「同じように紙を燃やしたんだぞ」 「車も出した」
「薬も出した!」 「診療明細書だって使えた!」
広は黙って聞いていた。そして答えは変わらない。
「違う。ひろしの術式は、再契象じゃない、よ」
ひろしは完全に困惑し、広にまくしたてる。
「そ、それじゃあ、DIOの『
「……っ!…ふっ……ん……ぅん…的な、アレじゃない」
狼狽するひろしが面白かったのか、情けない敗走をヒロイックな逆転劇に例えたのが面白かったのか。
広は必死に笑いを堪えながら、それでも否定した。
なら、どうしてレジィと同じようなことが出来た?
……そもそも、オレの術式は、一体何なんだ?
「……なら、オレの本当の術式は何だ」
ひろしの問いに、広は答えなかった。
視線が少し落ちる。その反応を見て、ひろしは考える。
広は知らないわけじゃない、知っている。
――だが、言えない、そんなふうに見えた。
ひろしは集英ビルで立てた仮説を反芻する。
夢の中で離れた相手と接触し、情報を伝える。
そんな術式が本当に存在するなら、何らかの制約があっても不思議じゃない。
術式の使用条件か。
あるいは術式の効果範囲を広げるための“縛り”か。
どちらにせよ、広の言葉が途中で止まる理由としては十分だった。
それなら、会ってしまえばいい。
「広、オレからも聞きたいことがある」
ひろしの言葉に広の顔が真剣になる。
次こそは笑うまいと、きゅっと唇を結んでいた。
「広、お前は今どこに居るんだ?」 真っ直ぐ尋ねた。
「教えてくれ。お前自身に会えれば済む話だろ?」
広は目を伏せた。少し考えるような間があった。
……やがて重い口を開く。 「探さなくていい」
「は?なんでだよ」 ひろしは不満を隠せなかった。
「いくら探しても無駄だから」 広は小さく呟いた。
「無駄……無駄だって?」 ひろしは眉をひそめた。
時を消し飛ばし結果だけを得たい衝動に駆られる。
言えない、なら分かる。だが、無駄とは何だ。
そこが引っ掛かった。
あんまりだと泣き喚くか、オラオラと叫び、聞かなかったことにしたかった。
ひろしは腕を組む。広は言葉を探している。
「居場所を言えない、だけじゃないのか?」
広は答えない。正確には、答えられない。
「じゃあ何だ」 ひろしは少し考えてから口を開く。
「広は結界の外側から話してる……とかか?」
広は静かに首を横へ振った。 「違う、よ」
ひろしの顔が曇る。だったら何なんだ。
少しの沈黙の後、広は意を決したように口を開く。
「わたしは――」 そこで止まった。
まるで、不思議な力で声が掻き消されてしまったかのようだった。
広自身も驚いたように目を見開く。
「わたしは……」 続かない。話そうとする言葉が出ない。
何かに喉を締め付けられているわけではない。
それでも言葉が出ない。言いたい。伝えたい。
そんな様子だけは伝わってくる。 「くっ……」
広は悔しそうに唇を噛んだ。しばらく黙り込む。
そして、何かを思い付いたように顔を上げた。
「だったら……」 息を漏らすように、ぽそりと呟く。
「シーザー暗号。これなら上手くいく、かも」
聞き慣れない単語だった。ひろしが首を傾げる。
広は真剣な表情で続けた。 「3文字ずらす」
「お、おう」 何を言っているのか分からないが、本人は本気らしい。
広は1つ、息を吸った。
そして口を開く。 「わたしは――」 そこで止まった。
「わたしは……」 そこまでだった。数秒沈黙する。
広は俯いた。 「……だめ」 小さな声だった。
失敗したのだと分かった。広は再び考え込む。
「モジュロ演算……」 「いや、四則演算……」
ぶつぶつと呟く。難しい顔で何かを計算している。
ひろしは全くついていけない。
やがて広はひろしを見て、諦めたように小さく息を吐いた。
「でも……」 少しだけ申し訳なさそうな顔になる。
「ひろしの頭で解けるとは思えない、ね」
ひろしの眉がぴくりと動く。 「おい」
広は真顔だった。 「事実」
「さらっと失礼なこと言うな」 ひろしは呆れた。
「しかも、反論できねぇから余計にムカつくよ」
その言葉に、広はふふっと笑う。
先ほどまで泣いていたのが嘘のようだった。
そして、何かを思い付いたように目を見開く。
突破口を見つけたらしい。
広は手招きした。 「ひろし、こっち、来て」
ひろしは首を傾げながら広へ近付いた。
巨大な皿の上へ並んで腰を下ろす。広は真面目な顔をしていた。
冗談を言っている様子はない。
「今から」 広は小さく言うと、指を唇に添えた。
「わたしの唇の動きを、よく見てて、ね」
ひろしは頷く。なるほど、読唇術か。
もちろん専門的な訓練など受けたことはない。
だが、これだけ近ければ何となく意味くらいは分かるかもしれない。
後で自分でも確認できる。
「分かった」 ひろしは姿勢を正す。広も深呼吸した。
そして、ひろしは広の唇を見つめる。少しでも情報を掴みたい。
その一心だった。だから真剣だった。
……だが、広は一向に唇を動かさない。数秒。
沈黙だけが流れる。ひろしは訝しげに顔を上げた。
広の顔は真っ赤だった。耳まで染まっている。
視線も泳いでいた。そして、消え入りそうな声で呟く。
「……ひろしの、えっち」
「お前が見ろって言ったんだろうが!!」
反射だった。考えるより先に怒鳴っていた。橙色の空へ声が響く。
その瞬間。しまった、と思う。
だが同時に。懐かしい。そんな感覚が胸を掠めた。
理由は察しようもない。記憶にあるわけでもない。
それなのに、このやり取りそのものを知っている気がした。
広は怒鳴られても全く怯えなかった。
むしろ嬉しそうだった。頬を緩め、小さく呟く。
「やっぱりいい……ひろしの怒鳴り声、好き」
ひろしは額を押さえた。意味が分からない。
「なんで怒られてんのに喜んでんだ……?」
広は答えない。ただ、楽しそうに笑っている。
ひろしは困惑した。だが不思議と悪い気はしない。
このやり取りにも覚えのない懐かしさがあった。
やがて笑みが収まる。広の表情が変わった。
先程までの柔らかな空気が消える。真剣そのものだった。
ひろしも自然と表情を引き締める。
今度こそ本番らしい。広はゆっくり息を吸った。
そして、ひろしの目を見た後、唇だけを動かし始める。
ひろしは意識を集中する。一文字たりとも見逃さないように。
広の口が動く。ゆっくり、丁寧に。
私。 は。 寫。 不 此。 景█。 █違。 坤█。
その瞬間だった。
ブツンッ。壊れたテレビのようなノイズが視界を引き裂く。巨大なスプーンが歪む。
漂う食べ物が崩れる。橙色の都市景観が砂嵐に呑まれていく。
広の姿も霞む。 ひろしは声を出そうとした。
しかしその前に、世界そのものが砕け散る。
視界は黒く塗り潰され、全てが闇へと沈んだ。