2018年11月5日、6時34分。
ひろしは目を覚ました。
双星大学病院の白い天井。焦点がゆっくりと合っていく。消毒液の匂いが鼻を突き、耳が痛いほどの静けさが病室を満たしていた。
生きている。まず、それを確かめた。
次に、夢の光景が頭に焼き付いたままなのを思い出す。広。巨大な皿。橙色の世界。最後には、声にならない唇の動きで、何かを必死に伝えようとしていた。
「私は――」読み取れたのは、そこまでだ。
その先を思い出そうとすると、耳の奥で不快なノイズが鳴り、思考を塗り潰してしまう。
結局、手元に残った確信は2つだけだった。
広が、最後まで何かを伝えようとしていたこと。
もう1つは、自分の術式が「再契象」ではないこと。
「じゃあ一体、オレの術式は何なんだよ……」
ひろしはベッドに腰掛け、軋む身体を抱えて腕を組んだ。再契象ではない。それでも、昨夜の現象はあまりにも似ている。車を出した。薬を出した。
診療明細書から、治療の結果そのものまで引き出した。レジィの術式と同じではない。けれど、近い領域にあるのは疑いようがなかった。
机の上には、昨夜、領収書選びに四苦八苦して積み上げた書類の山がある。ひろしはそれを眺めた。
……考えよう。
顎に手を当て、目を閉じる。
営業マンとして、仮説を立てるのは得意だ。数字が合わない時は、まず前提を疑う。広は言った。
再契象ではない、と。なら、前提のほうを変えればいい。その発想が、不意に一つの答えを弾き出した。
「まさか……」
ひろしの脳裏に閃光が迸る。
オレはレジィの術式を、宿しているのではなく。
オレがレジィの術式を、真似たのではないか。
「オレの術式は……コ……
声に出した途端、途方もない違和感の辻褄が、綺麗に合い始めた。
再契象そのものではないから、微妙な差が出る。
それでも、似た現象は起こせる。
広の言葉とも矛盾しない。模倣。コピー。
口にするほど、言葉が現実味を帯びていく。
呪術界に前例がないわけではない。
特級術師、乙骨憂太。
他人の術式を模倣し、自分の術式として使用できる。
初めて会った時の底なし沼のような呪力は、今でも皮膚が覚えている。
体格は華奢なのに、規格外。
乙骨と自分を並べることなど、月とスッポンどころの話ではない。
それでも、術式の方向性は近いのではないか。
「いいや、待てよ……」
自然と口角が上がっている。
ひろしは思わず身を乗り出した。
もしオレが、他人の術式を模倣できるなら。
使えるのは、レジィの術式だけとは限らない。
冥冥、七海、伏黒、釘崎、東堂。
出会ってきた術師たちの顔が、次々と浮かぶ。
思考を巡らせた末に、一番眩しい光を放つ男の姿が、頭の真ん中に居座った。
――現代最強の呪術師、五条悟。
「いやいやいや」
即座に首を振った。
そんな都合のいい話があってたまるか。
それでも、もしもだ。仮にだ、万が一にもだ。
「……オレにも、五条の術式が使えたりするのか?」
口元が、自分でも気づかないうちに緩んでいた。
「五条の術式さえあれば、一級なんてあっという間だ! いやいや、勢い余って、特級!?」
無下限呪術。五条家相伝の術式。
無限を操り、絶対不可侵を可能とする、攻防一体の術式。
最強。取らぬ狸の皮算用が止まらない。
男なら誰でも、一生に一度は胸が躍る響きだ。
呪術界において、最強の五条悟を知らぬ者はいない。
ひろしも例外ではない。
生意気な後輩だと思う一方で、最強を背負う男に密かな憧れを抱いていた。
もし本当に模倣なら。
試してみる価値は、あるのではないか。
一度芽吹いた妄想は、勢いよく頭をもたげ始めていた。
どうやら野原ひろしという男は、自分で思っている以上に、自分の可能性に浮かれていたらしい。
その甘い見通しが、後の失態に繋がる。
2018年11月5日、7時03分。
ひろしは双星大学病院の玄関を後にした。
血まみれの服は捨て、院内を探索して見つけたスーツに着替えていた。
身体を休め、睡眠もとった。
しかし、腹は減っている。
資料を漁っている時に見つけた、職員のものらしい菓子を食べた。
だが、かえって腹が減ってしまった。
(もはや危険なんてない。物資を調達しに行こう)
ひろしの足取りは驚くほど軽かった。
理由は単純。気分が最高だったからだ。
病院から街へ出て、最初の路地裏に足を踏み入れた。そのとき。
「待てっつってんだろ!!」
粗暴な怒鳴り声が、路地の空気を引き裂いた。
続けて、何かが力任せに砕ける硬い音がした。
ひろしの顔から、浮ついた色が消える。
足が、反射的に地面を蹴っていた。急いで現場に向かう。
角を曲がった先で、3人の泳者と1人の青年が対峙していた。
多勢に無勢、一方的な狩りだった。
背後から見た青年は、黒いアロハシャツに薄いサングラス。
腕には、ブレスレットのように巻いた布。
必死に距離を取って応戦しているが、劣勢は明らかだった。
人数の差が、あまりにも大きい。
青年が布を変形させて壁を作った。
だが、すぐに拳で叩き割られる。
間合いを取ろうと後退するものの、逃げ道を塞がれて追いつかれる。
(泳者による泳者狩りか)
ひろしは一瞬で状況を掴んだ。青年を助ける。
迷いは微塵もなかった。
決断を下した直後、先ほどの能天気な妄想が、頭の中に鮮明に蘇る。
(オレの術式は模倣。五条悟の術式は無下限。つまり、無下限を模倣できるオレは、最強——!!)
ひろしは迷わず、泳者たちの前へ躍り出た。
「……あ?」
泳者の1人が、不快そうに振り返る。
アロハシャツの青年も動きを止めた。
全員の視線が、自信満々に中心に立ったひろしに集まる。
ひろしは、ゆっくりと右手を高く掲げた。
どこかで見たことのある、あまりにも有名なポーズ。
本人の中では、完璧に格好良く決まったつもりだった。
「あ……あの……」
アロハシャツの青年は、気取った中年に困惑しながらも、自分に危害を加える存在ではないと判断し、ひろしに話しかける。
「危ないですよ……」
「大丈夫」
青年に心配されたひろしは、ニィっと笑う。
密かに憧れていた。言いたくても言えなかった言葉を、ついに口にする。
「オレ 最強だから」
青年が、きょとんと目を丸くする。
泳者たちも、意図を測りかねて固まった。
ひろしは、不敵な笑みを浮かべる。
今の自分なら、何でもできる気がした。無敵だ、と錯覚していた。何しろ、オレの術式は模倣なのだ。
「何が最強だよ! 引っ込んでろオッサン!」
目の前に立ちはだかる泳者が、忌々しげに拳を振りかぶる。
直後、泳者の拳が、ひろしの顔面に吸い込まれた。
「ぶべっ!?」
潰された蛙のような情けない悲鳴。
ひろしは見事な放物線を描いて宙を舞い、壁に激突した。
湿った地面へ、べしゃりと崩れ落ちる。
――路地裏に、静寂が満ちた。
青年は息を呑み、泳者たちも呆然と立ち尽くす。
数秒の重苦しい沈黙。ひゅうう、と冷たい風が吹き抜ける。
「…………え?」
最初に掠れた声を漏らしたのは、青年だった。
前触れもなく現れた中年男が、「オレ最強だから」と自信満々に言い放った直後、ただの一発で惨めに吹き飛ばされたのだ。
困惑するなというほうが無理な話だった。
「は、はぁ!?よっわ!!弱いぞコイツ!!」
泳者の1人が、耐えかねたように爆笑した。
「何だよコイツ!」 「ギャハハハ!」 「最強だってよ!」
3人とも腹を抱え、涙を流して地面を叩いている。
ひろしは、湿った壁際で膝を抱えるようにうずくまっていた。
殴られた頬が熱を持ち、じんじんと痺れている。
視界がぐらぐらと揺れていた。
咄嗟に顔へ回した呪力が、拳の威力を殺していた。
呪術師として染み付いた反射だ。
それがなければ、首から上がなくなっていたかもしれない。
(……何でだ?)
本気で、理由が分からなかった。
無下限は? 不可侵は? 最強の術式は?
全能感の全てが、一瞬で露と消えていた。
(ちくしょう……おかしいだろ……)
腫れ上がった頬を押さえる。普通に殴られた。
普通に拳が届いた。痺れるほど、痛い。
「だ、大丈夫ですか!?」
青年が慌てて駆け寄ろうとした、その時だった。
「おい! 余所見してんじゃねぇ!!」
泳者の1人が牙を剥き、青年へ跳びかかる。
青年は咄嗟に腕の布を展開し、板状に硬化させて防御の姿勢を取った。
だが、防ぎきれない。体勢が悪く、人数の差も圧し掛かる。
「くっ――!」
じりじりと押し込まれ、青年の足が石畳を滑る。
1人で逃げ出せば、まだ助かる目はあるかもしれなかった。
だが、青年の背後には、壁際にうずくまったまま動けずにいる中年男がいる。
この人は、自分を助けるために飛び出してくれた人だ。
今のうちに見捨てて、1人で逃げる。
そんな選択肢だけは、彼の信念が許さなかった。
「今です! 早く逃げてください!」
振り絞るような叫びだった。
泳者たちの意識は、完全に青年へ絞られている。
もう獲物だと高を括っていた。1人が深く踏み込み、腰を落とす。
確実にとどめを刺す構え。
青年も歯を食いしばり、覚悟を決める。一瞬。
銀色の閃光が、横合いから一直線に空を裂いた。
ヒュッ。
乾いた音。直後、泳者の頬に、一本のメスが深々と突き刺さった。
「ぎゃっ!?」
男が悲鳴を上げて顔を押さえる。
その場の全員の動きが、ぴたりと止まった。
青年も目を丸くして立ち尽くす。
泳者たちが、一斉に視線を向けた。
少し離れた路地の壁に、だらしなく背を預けて、ひろしが立ち上がっていた。
片頬は見事に腫れ上がり、口元には血が滲んでいる。
右手は、だらりと下ろされていた。
「抜くなよ」
ひろしは言った。
刺された男が顔を歪める。
「……は?」
「今それを抜いたら、血が噴き出る」
ひろしの眼差しは、至極真剣だった。
泳者たちは顔を見合わせた。理解が追いつかない。
自分たちは襲撃している側のはずなのに、なぜか目の前の中年に説教をされている。
青年も事態を呑み込めずにいた。誰も口を開かなかった。
路地裏には、居心地の悪い空気だけが残っていた。
ついに、1人が不機嫌そうに吐き捨てた。
「何なんだよ……」
頬にメスを突き立てたままの男が、低く呟く。
誰も動かない。3人とも、ただ眼前の中年男を凝視していた。
最強だと名乗った。そして即座に殴り飛ばされた。
そこまでは、ただの滑稽な道化だった。
だが、その後の挙動が読めない。
いつの間にか、メスが飛んできた。誰が投げたのか。
どうやって投げたのか。術式なのか。
それとも驚異的な投擲技術なのか。何1つ判別できない。
しかも当人は、命の危険に晒されているというのに、まるで動じていない。
ひろしは続ける。
「もっかい言う。それ、抜くなよ」
腫れた頬を手で押さえながら、ひろしは重ねて告げた。
「今抜いたら血が噴き出るからな」
どこまでも真剣な面持ちだった。
「止血の準備をしてから抜け」
泳者たちは、再び顔を見合わせた。
頭の中が混乱で埋め尽くされている。
目の前の男はただの馬鹿なのか。
それとも、実は隠れた強者なのか。
見当もつかない。その正体の分からなさが、彼らの背筋を冷やした。
ひろしは淡々と追撃する。
「ああ、それと傷口は洗え。雑菌が入って感染すると面倒だからな」
「……」
完全な沈黙。助けられたはずの青年ですら、口を挟めずにいた。
路地裏に、何とも言えない奇妙な空気が漂う。
やがて、リーダー格らしい泳者が、苛立ちを隠さず舌打ちした。
「もういい、行くぞ」
「えっ!? でもよ……」
仲間が小声で不満を漏らす。
「まだやれんじゃ……」
数においては、まだ有利だ。
「やめとけ」
男は、ひろしから一瞬も視線を逸らさずに言った。
「こいつは、得体が知れねぇ」
その一言に、他の2人も反論できなかった。
実際、その通りだった。
本当に無力な弱者なら、とっくに腰を抜かして逃げ出している。
本当にハッタリなら、あれほど落ち着いた表情は浮かべられない。
何より、突然現れたメスだ。
呪力を帯びている以上、呪具である可能性が高い。
「チッ」
男は吐き捨てるように舌打ちした。
3人はゆっくりと後退していった。
そのまま素早く路地の暗がりへ身を隠し、気配を消していく。
静寂が戻った。ひろしは、深々と息を吐いた。
「いてててて……」
頬が痛い。痺れるほど、痛い。
普通に殴られた。もちろん普通に効いている。
だが、診療明細書を使って治すほどではない。
数時間もすれば痛みは引くだろう。それくらいの傷で済んでいた。
「大丈夫ですか!?」
青年が慌てて駆け寄る。
「ああ、大丈夫だ」
ひろしは精一杯取り繕い、見栄を張った。
せめて格好くらいはつけておきたかった。
「だ、大丈夫じゃなさそうですけど!?」
いてててて。
青年は勢いよく腰を折り、深々と頭を下げた。
「本当にありがとうございました!」
(うわ、声が大きい!)
ひろしに汗が伝う。
感謝の言葉は、路地に響き渡るほどの大声だった。
(大きな声出すな! 呪霊や泳者に見つかるだろ!)
「本当に助かりました!」
(だから、声が大きいって!)
脳内でツッコむ。
青年は感極まっているのか、声の大きさなど気にも留めていない。
せっかく危機を切り抜けたというのに、これでは別の危険を呼び寄せかねない。
「どうしたんですか?」
青年が不思議そうに首をかしげる。
ひろしは答えず、遠い目で空を仰いだ。
ぽつりと――。
「オレの術式は模倣じゃなかった……」
「はい?」
青年は頭の上にいくつも疑問符を浮かべた顔で聞き返す。
「無下限呪術、使いたかった……」
ひろしの腫れ上がった頬を、ほろりと涙が伝った。
青年は硬直した。頭の中の理解が、全く追いつかない。
本当に、何1つ意味が分からなかった。
少しして、青年ははっと我に返った。
「と、とにかく、手当てをさせてください。僕の拠点が近いんです。……あ、名乗り遅れました。僕は
白倉がサングラスを外すと、澄んだ瞳と、すっと通った鼻筋があらわになった。
目元には人懐っこい柔らかさがあり、笑えば年相応のあどけなさが覗く。
爽やかで整った顔立ちは、青春映画の主人公を思わせた。
気取ったところが少しもない。
そこにいるだけで周囲まで明るくしてしまいそうな、不思議な魅力がある。
若いっていいなぁ。
と、ひろしは思った。
「オレは野原ひろしだ。見ての通りの、ただのおっさんだよ」
白倉の澄んだ爽やかさにあてられ、ひろしは自虐的に返した。
心は諦念の淵に棲んでいる。
「野原さんですね」
白倉は、にっこりと笑った。
白倉の潜伏先は、古い雑居ビルの一室だった。
窓は厚手の布で固く塞がれ、室内には食料や飲料水が整然と確保されている。
ひろしは室内を興味深く見回した。
白倉は見た目に似合わず、几帳面だ。
「すげえ……ちゃんとしてるな」
ひろしは嘆息する。
「えっへへ……恐縮です。色々と試行錯誤してたら、こうなりました」
白倉は褒められたのが嬉しかったのか、気恥ずかしそうに鼻の頭を掻いている。
2人はパイプ椅子に向かい合って腰を下ろした。
わずかな静寂。先に口を開いたのは、白倉だった。
「改めて」
彼は姿勢を正し、深々と頭を下げる。
「先ほどは助けていただいて、本当にありがとうございました! 野原さんは、僕の命の恩人です」
「気にするなよ。オレが勝手に首を突っ込んだだけだ」
顔だけでなく心も澄んでいる。麗美とは天と地の差だ。彼を助けてよかったと、心から思った。
「それでもです」
白倉はひるむことなく、ひろしを見つめた。
「僕、あのままだと本当に危なかったので」
ひろしは苦笑いを浮かべた。確かに一理ある。
だが、自分も似たようなものだ。
人を助けようと意気込んで飛び出し、格好良く宣言した直後。
無様に殴り飛ばされたのだから。
思い出すだけで、少し悲しい。
白倉はひろしはたっぷり時間をかけて、手際よくひろしの手当てをした。
几帳面さが他者の応急処置にも現れていた。
「それでですね」
白倉が居住まいを正した。
「僕の術式なんですけど」
ひろしの眉がぴくりと動く。
「呪布操術って言います。繊維に呪力を籠め、形状を変化させることができます」
白倉は淀みなく説明する。
ひろしは泳者たちとの戦闘から、白倉の術式をある程度推察できていた。
しかし、それとこれとは別だ。
白倉に呪術師としての心構えを一から教えないと、早死にしてしまう。
ひろしは言葉を選び、口を開いた。
「いいか白倉君。術式ってのは呪術師にとって個人情報、プライバシーにかかわるものなんだ」
「はい?」
白倉は間の抜けた顔をしている。イケメンはどんな表情をしても顔が崩れないのがずるい。
そう思いながら、ひろしはレクチャーを続ける。
「呪術による戦いは初見殺しや情報の探り合いが勝敗を大きく左右する。バレても困らない術式もある。でもすぐに他人に明かしていいものではないんだ」
白倉は沈黙した。ひろしの言葉をゆっくりと噛み締めるように、しばし目を閉じる。ややあって静かに目を開き、ひろしに真剣な視線を向けた。
「忠告ありがとうございます。今後は気を付けます」
「でも、野原さんに話したこと自体は、間違いだったとは思っていません」
ひろしは言葉を失った。しかし、不快ではない。
あまりにも澄み切った瞳だった。
計算も、裏の駆け引きも一切ない。
心からそう確信している目だった。眩しくて直視できない。
「野原さんは自分の身も顧みず、危険を承知で助けてくれた。信頼する理由としては、十分なんです」
白倉の中では、ひろしが調子に乗った挙げ句、殴り飛ばされたことなど、すっかりなかったことになっているらしい。
――危うい。
あまりにも無防備で、危うい。だが、不思議と嫌いにはなれなかった。
その素直さに、ひろしは五条悟の教え子の1人、虎杖悠仁の姿を重ねた。
「もう少し具体的に説明します。僕の術式は、繊維の性質を自在に変化させ、操る能力です」
白倉は落ち着いた口調で説明を続けた。
自分の能力を語ることに、ためらいは見られない。
言葉を選びながらも、その声には自信が宿っていた。
「硬化させて板状にすることもできますし、衝撃を吸収する盾にも変形できます」
繊維を媒介にする術式なのか。ひろしは質問する。
「それは攻撃用の武器にもなるのか?」
「はい、なります。繊維の質にもよりますが」
「いいな〜! 応用の幅が広い、便利な術式だな」
「はい、便利です。その分呪力消費も激しいですが」
白倉は少年のように笑った。
自分の術式を褒められたことが、素直に嬉しいのだろう。
取り繕うことも、謙遜することもない。
その屈託のなさに、ひろしもつられて笑った。
長所だけでなく、欠点まで包み隠さず明かす。
裏を返せば、自分の情報を他人に知られることへの警戒心が薄いということでもあった。泳者としては、致命的と言っていい。
会話を交わしながら、ひろしは胸中で考えていた。
――白倉君を、このままにしてはおけない。
だが、不思議なことに、ひろしは白倉への警戒心を抱くどころか、かえって心を許し始めていた。危ういほどの率直さが、白倉という人間の本質なのだろう。
――だからこそ、彼を信用できる。
ひろしの中で、白倉を信じたいという思いが、少しずつ強まっていた。
考えた末に、意を決して口を開いた。
「なら、オレの術式も明かしておくか」
白倉が目を丸くし、身を乗り出した。
思いがけない申し出だったのだろう。先ほどまでの穏やかな表情が一変し、好奇心に目を輝かせながらひろしを見つめている。
「野原さん、いいんですか? さっき僕に、みだりに手の内は明かすなって……」
ひろしは咳払いをして、胸を張った。
「白倉君は信用できるからだ。それじゃ不十分か?」
相手には警戒を促しておきながら、自分から情報を明かす。
言っていることに矛盾があるのは承知の上だった。
今さら引っ込めるつもりもない。
人との関係は、理屈や損得勘定だけではないのだ。
ひろしは上着のポッケから小さく丸められた紙くずを取り出し、呪力で燃やす。
すると、何もない場所から輸血パックが現れた。
白倉は驚き、息を呑んだ。
ひろしは病院から調達した領収書を限りなくコンパクトにするため、文字が記載されている部分を残して余白を切り取り、ちり紙のように小さく丸めていた。
「これがオレの術式だ。再契象って名前なんだ」
白倉は確かめるように輸血パックへ手を伸ばした。
「再契象……つまり、契約を再現する術式ですか?」
飲み込みが早い。
双葉商事の後輩、川口に白倉君の爪の垢を煎じて飲ませてやりたい気分になった。
「ああ、紙に刻まれた契約の内容を、現実に再現する」
「それは……ものすごい能力じゃないですか!!」
食いつくような即答だった。
白倉は感嘆の眼差しを向けた。その反応に、ひろしの顔がにやけた。
――やはり、そう思うか。そうだろう、そう思うよな。
客観的に聞いても、かなり破格の能力だよな。
自分の術式を他人に説明するのは初めてだったが、どうやら見立ては間違っていないらしい。
ひろしは内心、満更でもなかった。
これまでの人生で、術式などというものとは無縁だった。
ところが、死滅回游に巻き込まれた今。
自分の身に宿った術式が、こうして他人から高く評価されている。
見栄っ張りな性格のひろしにとって、それは何よりの自慢だった。
状況を考えれば喜んでばかりもいられない。
それでも、頼りになる力だと認められたことが、心強かった。
……しかし。問題がある。
ひろしの本当の術式は、別にあるということだ。
騙すわけではない。混乱させるわけにもいかない。
他に何か分かるまで、「再契象」を暫定術式にする。
「あのメスも、それで出したんですか?」
「ああ。病院の書類に、手術器具の領収書が混じっててな。攻撃に使えそうなのを何枚か丸めて入れてる」
「すごい……あの一瞬で……」
白倉の声が弾む。
メスの出現は、ほんの一瞬の出来事だった。
ひろしが何をしたのか、白倉にはすべてを把握できていたわけではない。
それだけに、術式の仕組みを聞かされたことで、先ほどの行動がいかに大胆なものだったかを改めて理解したのだろう。
それから2人は、時間をかけて言葉を交わした。
死滅回游の過酷な現状。あちこちを徘徊する呪霊の脅威。
これから生き残るために、何をすべきなのか。
白倉もひろしのように巻き込まれた泳者だった。
高専に関係する情報は持っておらず、13日と19日に関する情報も持っていなかった。
互いが知っている情報を持ち寄り、危険な状況を乗り切るための手段を探っていく。話題は戦い方や術式のことだけにとどまらなかった。
胸の奥に抱え込んでいた孤独と不安。
いつ襲われるとも知れない恐怖。
頼れる者もいないまま、先の見えない状況を生き抜かなければならない重圧。
口に出してしまえば、少しは気持ちが軽くなる。
相手が耳を傾けてくれるというだけで、張り詰めていた心がわずかに緩むこともある。
初めは情報交換のつもりだった会話が、いつしか互いの本音に変わっていた。
言葉を重ねるうちに、相手の考え方や人柄が少しずつ見えてくる。
気づけば、旧知の仲のように言葉を交わしていた。
ひと通り話し終えた頃、白倉が真剣な眼差しをひろしへ向けた。
「……野原さん」
「ん?」
不意に名前を呼ばれ、ひろしは白倉へ視線を戻した。
先ほどまでの柔らかな空気が、わずかに引き締まる。
白倉の表情からは笑みが消え、その瞳には揺るぎない強い意志が宿っていた。
「僕はこの環境で、信じられる人はもう誰もいないと思っていました。ですが、あなたなら信じられます」
ひろしは白倉の目を見返した。
「生き残りましょう」
死滅回游という過酷な状況にあって、明日を無事に迎えられる保証などどこにもない。それでも、白倉は生き残ることを諦めていなかった。
その言葉には、これから先に待ち受ける危険も、戦いの厳しさも承知した上で生き抜こうという決意が込められていた。それは、ひろしも同じだった。
「2人で」
短い言葉だった。
けれど、その一言が加わったことで、白倉の言葉は単なる願望ではなくなった。
1人で生き残るのではなく、ひろしと共に生き残る。
その意志を、白倉は真っ直ぐに伝えていた。
ひろしは小さく笑った。
「ああ、生き抜いてやろう」
ひろしは右手を差し出した。
言葉だけでは足りない。
互いの手を取り、確かめ合うように約束を交わす。
それが今の2人には、何よりの意思表示だった。
白倉は躊躇うことなく、その手を強く握った。
「約束です」
「ああ」
互いの手に、力がこもる。
交わされた握手は、力強く、温かかった。
その温もりは、死滅回游に巻き込まれてから、ひろしが一度も感じていなかったものだった。
命の危険がすぐそばに迫る世界で、誰かと手を取り合い、同じ未来を目指せる。その事実が、ひろしの胸に静かな安堵をもたらしていた。
こうして野原ひろしは、死滅回游という絶望の渦の中で初めて、白倉飛鷹という背中を預けられる味方を得たのだった。