Neptune Ⅱ~蒼海の追跡者~ 作:R提督(旧SYSTEM-R)
今回は、コンソルシオ側の幹部たちの初登場回となります。今回、ふそうクルーが対峙する黒幕たちとはいったい…?なお、今回は日本側の人物は一切出てきません。また、会議シーンのため会話がかなり多くなります。それではどうぞ。
太平洋。その名を冠する巨大犯罪組織が、中南米に存在する。コンソルシオ・デル・パシフィコ。メキシコ、コロンビア、エクアドルを中心に、複数の国家にまたがる密輸網を築き上げた国際犯罪組織である。
その活動は麻薬の製造や販売にとどまらない。海運、港湾、倉庫、貿易、金融、不動産。合法的な経済活動の中にも、組織の影響力は深く浸透していた。
もっとも、その全容を正確に把握している人間は、組織の内部にさえほとんど存在しない。製造に携わる者は輸送先を知らず、輸送に携わる者は最終的な販売先を知らない。港湾企業の従業員に至っては、自分たちの扱う貨物の一部が犯罪組織の利益につながっていることすら知らない場合がある。
それぞれが異なる仕事をしている。しかし、そこから生まれる莫大な利益は、最終的に一つの組織へと集約されていた。その頂点に立つのが、ラファエル・モンテロ。そして今、彼の下に、組織の中枢を担う3人の幹部が集められようとしていた。
メキシコ・モンテレイ。市街地から少し離れた丘陵地帯に、一棟の邸宅が建っていた。
周囲を囲む高い塀。整えられた庭園。大きな窓からは、遠くにモンテレイの街並みと、特徴的な山々の稜線を望むことができる。
外観だけを見れば、成功した実業家の私邸としか思えない。実際、その認識は半分ほど正しい。この邸宅の所有者は、表向きには複数の企業を経営する資産家だった。そして、彼が合法的な事業によって莫大な財産を築いてきたことも、決して嘘ではない。
ただし、その資産のすべてが合法的な事業によって得られたものかと問われれば、答えは大きく異なる。
邸宅の2階。広い会議室の中央に、重厚な長方形のテーブルが置かれていた。その上座に座る男は、手元の資料を静かに読み進めている。銀色を帯びた髪を丁寧に整え、仕立てのよい濃色のスーツを着た男。年齢は50代前半。端正な顔立ちと落ち着いた所作には、長年にわたって人の上に立ってきた者特有の余裕があった。
ラファエル・モンテロ、53歳。コンソルシオ・デル・パシフィコ会長にして、組織の最高意思決定者である。
やがて、扉が静かに開いた。
「失礼する」
最初に姿を現したのは、長い黒髪を後ろに流し、顎に無精髭を蓄えた男だった。エステバン・カルデナス、48歳。コロンビア出身。コンソルシオの副会長であり、海上輸送部門と特殊海運部門を統括する人物である。
「早かったな、エステバン」
モンテロが資料から顔を上げた。
「呼び出したのはあんただろう、ラファエル。日本の件だと聞いた」
「ああ。座ってくれ」
カルデナスは椅子を引き、モンテロの右側に腰を下ろした。
「報告は読んだか?」
「概要はな。だが、現場から上がってきたものと、あんたの秘書がまとめた資料では、少しばかり印象が違う」
「どう違う?」
「現場は『目撃されたが、追跡を振り切った』と報告している。こっちの資料には『日本側による捕捉を回避』とある」
「同じことではないのか?」
「違う。少なくとも、俺にとってはな」
カルデナスは腕を組んだ。
「追跡を振り切ったというなら、実際に追跡されたことになる。だが、報告を読む限り、向こうは俺たちの船を見失った後に現場へ来ている。そもそも追跡が成立していない」
モンテロはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「なるほど。報告書の表現が、実態を正確に示していないということか」
「そういうことだ。余計な手柄を立てたことにする必要はない。海の上じゃ、そういう勘違いが命取りになる」
「訂正させよう」
短い返答だった。カルデナスはそれ以上何も言わず、テーブルの上に置かれた水のグラスを手に取った。やがて、再び扉が開く。
「お待たせしました」
落ち着いた女性の声が響いた。長い赤褐色の髪を背中へ流し、深い赤色のブラウスに黒のジャケットを合わせた女性が入ってくる。イサベル・ベラスコ、42歳。エクアドル出身。副会長の1人であり、港湾物流部門と企業部門を統括する人物だった。
「まだ始まっていなかったのね」
「マテオが来ていない」
モンテロが答える。メキシコ、コロンビア、エクアドル。お互いに語彙やイントネーションに細かい違いはあっても、出身国を異にする彼らが話すのは同じスペイン語だ。意思疎通にはほとんど支障はない。
「珍しいわね。あの人が時間に遅れるなんて」
「遅刻ではない。警備状況を確認している」
「それなら仕方ないわ」
ベラスコはカルデナスの向かい側に座り、持参した端末をテーブルに置いた。
「エステバン。日本の件、あなたの部門から報告を受けたわ」
「ああ」
「随分と楽観的な内容だったけれど」
「楽観的?」
カルデナスが眉をひそめる。
「船体は確保できた。乗員も無事。積荷にも問題はない。俺の部門からすれば、事実を報告しただけだ」
「私が心配しているのは、そこじゃないの」
ベラスコは微笑を浮かべた。
「日本側に何を見られたのか。その情報が、どこまで広がる可能性があるのかよ」
「目撃されたのは船体の一部だ。詳しい形状までは確認されていないはずだ」
「『はず』なのね?」
「そうだ」
「なら、確定情報ではないわ」
「イサベル」
カルデナスの声が少し低くなる。
「俺は、確認できていないことを確認できたとは言わん」
「それは結構なことね。私も同じよ」
2人の視線が交わった。険悪というほどではない。しかし、互いに譲るつもりもなさそうだった。その様子を見ていたモンテロが、静かに口を開く。
「続きはマテオが来てからにしよう」
ちょうどその時だった。扉が開き、大柄な男が入ってきた。身長は2メートルに迫ろうかという巨躯。鍛え上げられた肩と腕。袖口からは、雄牛を模した刺青の一部が覗いていた。マテオ・“エル・トロ”・サラサール。メキシコ出身の45歳。コンソルシオの警備・武装部門を統括する男である。
「遅くなった」
「問題ない。状況は?」
モンテロが尋ねる。
「異常なし。警備担当者の配置も確認した」
「ご苦労」
サラサールは軽く頷くと、残された席に腰を下ろした。それを確認したモンテロが、手元の資料を閉じた。
「では、始めよう」
「議題は日本だ」
モンテロの声が、静かな会議室に響いた。
「九州西方の海域で、我々の特殊輸送船が民間船舶に目撃された。その後、日本の沿岸警備隊が現場へ向かったが、船体の捕捉には至っていない」
ベラスコが端末を操作する。
「目撃されたのは、黒島という島の近海だったわね」
「ああ」
カルデナスが頷く。
「佐世保の近くだ。日本の沿岸警備隊が警戒していた海域でもある」
「警戒していた?」
サラサールが尋ねる。
「以前から不審な船舶に関する情報があったらしい。もっとも、それが俺たちに関係するものだったかどうかは分からん」
「つまり、今回が最初の目撃とは限らないわけか」
「そういうことだ」
モンテロは2人のやり取りを聞きながら、資料の一部を指で押さえた。
「エステバン。船の状態は?」
「航行能力に問題はない。乗員にも負傷者はいない。積荷についても異常は報告されていない」
「船長の判断は?」
「目撃されたと判断した時点で、当初の行動予定を変更した。結果として、日本側が到着した時には現場から離れていた」
「それは適切な判断だったのか?」
「結果だけを見れば、そうだ」
カルデナスは答えた。
「だが、船長本人には確認したいことがある。なぜ目撃されるような状況になったのか。その時点で何を認識していたのか。そこを調べずに、成功とも失敗とも言えん」
「船長の処分は?」
サラサールが短く尋ねた。
「まだ決めていない」
「必要なら俺の部門で調査する」
「必要になったら頼む」
カルデナスが答えると、ベラスコが小さく息を吐いた。
「処分の話をする前に、確認しておきたいことがあるわ」
「何だ?」
モンテロが尋ねる。
「その船が日本側に目撃されたことで、私たちの物流網にどれだけ影響が出るのか、ということよ」
彼女は画面に表示された資料を見渡した。
「船が1隻無事だったからといって、事業全体が無事だとは限らない。日本側が海上輸送の実態に疑問を持てば、当然、港湾や輸出入の記録にも目を向けるでしょう」
「そこまで分かるとは限らん」
カルデナスが答える。
「もちろんよ。でも、分からないとも限らない」
ベラスコは落ち着いた口調のまま続けた。
「私たちの企業には、何も知らずに働いている従業員が大勢いる。取引先だって同じ。捜査が広がれば、そうした人々まで巻き込まれる可能性があるわ」
「だから、どうしろと?」
「今の段階で、影響の範囲を評価すべきだと言っているの」
「現場を知らん人間が、机の上で勝手に危険だと騒いでも仕方ないだろう」
「逆よ、エステバン」
ベラスコの声に、わずかな鋭さが混じった。
「現場しか見ていない人間が、船を1隻失わなかったから問題なしと判断する方が危険なの」
カルデナスの表情が変わった。
「…、言ってくれるな」
「あなたが海の専門家であることは認めているわ。だから、船の運航についてはあなたの判断を尊重している」
彼女は一度言葉を切った。
「でも、船が港に着いた後の世界は、私の担当なのよ」
沈黙が落ちた。やがてカルデナスが、ゆっくりと息を吐く。
「…、分かった。そこはあんたの言うとおりだ」
ベラスコが少しだけ目を細めた。
「珍しいわね。素直に認めるなんて」
「俺は頑固だが、馬鹿じゃない」
「それなら安心したわ」
「ただし、船のことは俺に任せてもらう」
「もちろん」
彼女は微笑んだ。
「そのために、あなたがいるんでしょう?」
モンテロは2人のやり取りを見守っていた。意見が衝突すること自体は、珍しくない。
むしろ、彼にとっては必要なことだった。
海上輸送の専門家が、海の事情を主張する。港湾物流の専門家が、陸上の事情を主張する。それぞれが自分の責任範囲を守ろうとするのは当然だ。
問題は、その対立によって組織全体の判断が歪むことである。
「2人とも、意見は理解した」
モンテロが口を開いた。
「エステバンには、船と乗員に関する事実関係を確認してもらう。イサベルには、日本側の捜査が物流事業へ波及した場合の影響を評価してもらいたい」
「了解した」
「承知しました」
2人が頷く。
「そして、マテオ」
「何だ」
「今回の件について、内部に不自然な動きがないか確認してくれ」
サラサールは短く答えた。
「分かった」
「もう一つ、重要な話がある」
モンテロは新しい資料を開いた。
「日本国内の流通網についてだ」
その言葉に、ベラスコの表情がわずかに引き締まった。
「国内の関係者から、何か報告が?」
「一部の取引先が、日本の捜査機関による摘発を受けている」
「それは以前から把握しているわ」
「問題は、その後だ」
モンテロは資料の一部を示した。
「摘発された関係者が、海外側との通信記録を残していた可能性がある」
カルデナスが顔を上げた。
「通信記録?」
「ああ」
「どの程度だ?」
「現時点では不明だ。ただ、押収された端末の一部から、過去のやり取りが復元された可能性がある」
ベラスコは眉をひそめた。
「…、Chuta.」
小さく漏れたその言葉に、カルデナスが反応した。
「珍しいな。あんたがそんな言葉を使うとは」
「あなたの部門の話ばかりだと思っていたのに、急にこちらまで関係してきたんですもの」
「俺の部門だけの問題だとは、最初から言っていない」
「そうね。そこは認めるわ」
ベラスコは端末に視線を戻した。
「通信記録に、私たちの企業名が含まれている可能性は?」
「確認できていない」
モンテロが答える。
「ただし、海外側の連絡先を示す識別情報が残っていた可能性はある」
「それなら、誰がその連絡先を管理していたのか確認する必要があるわ」
「既に確認を進めている」
「識別名は?」
カルデナスが尋ねた。
モンテロは資料に目を落とした。
「アルバトロス04」
その瞬間、カルデナスの表情が変わった。
「…、何だと?」
ベラスコが彼を見る。
「知っているの?」
「もちろんだ」
カルデナスは椅子に深く座り直した。
「…、そいつは、俺の部門で使っている識別名だ」
「あなたの部門で?」
「ああ。海外の取引先との連絡に使う窓口の一つだ。だが、何でそいつの名前が日本の押収記録に出てくる?」
「日本側の流通網と、海上輸送部門の両方に関係があるということ?」
ベラスコが尋ねる。
「そう断定するには早い」
カルデナスは答えた。
「ただ、全く無関係だと言い切るつもりもない」
「なるほど」
モンテロは頷いた。
「では、その識別名について、改めて確認してくれ」
「分かった」
「マテオ。必要ならエステバンの調査を支援してくれ」
「了解した」
サラサールは短く答えた。しかし、その表情には、先ほどまでとは異なる緊張が浮かんでいた。
「ラファエル。一つ確認したい」
「何だ?」
「日本側が、その識別名を既に把握している可能性は?」
「ある」
モンテロは即答した。
「ただし、どこまで把握しているかは分からない」
「なら、向こうの動きを確認する必要がある」
「当然だ」
「必要なら、関係者を黙らせることも考えるべきだ」
その言葉に、ベラスコが顔を上げた。
「待ちなさい、マテオ」
「何だ?」
「その『黙らせる』というのは、具体的に何を意味しているの?」
「必要な措置だ」
「それでは答えになっていないわ」
サラサールはベラスコを見た。
「俺は、組織に危険を及ぼす人間を放置するつもりはない」
「私も同じよ」
ベラスコは静かに答える。
「でも、関係者を1人消したところで、押収された通信記録が消えるわけじゃない」
「分かっている」
「なら、まずは状況を確認すべきでしょう?」
「そのつもりだ」
「それなら、最初からそう言ってちょうだい」
サラサールの眉がわずかに動いた。
「イサベル。俺を、何でも殺して解決する人間だと思っているのか?」
「思っていないわ」
彼女は即答した。
「あなたが必要のない暴力を嫌うことも、十分に知っている」
「なら、何が問題だ?」
「必要だと判断する基準が、私とは違うのよ」
しばらく、2人は互いの顔を見つめていた。やがてサラサールが、小さく息を吐いた。
「…、それは否定しない」
「でしょう?」
ベラスコは少しだけ微笑んだ。
「私は、まだ利用価値のある人間を失いたくないの。あなたは、組織に危険を及ぼす人間を残したくない。その違いよ」
「組織を守るためなら、必要なことはする」
「私も同じ。ただ、必要なことの中身が違うだけ」
モンテロが口を開いた。
「そこまでだ」
2人の視線が、上座へ向いた。
「現時点では、誰かを処分する必要があるとは判断していない」
サラサールが頷く。
「了解した」
「ただし、内部から情報が漏れている可能性については、確認が必要だ」
「任せてくれ」
「イサベル。国内の取引先について、今後の対応を検討してもらいたい」
「承知しました」
「エステバンは、アルバトロス04に関する情報の確認を優先してくれ」
「分かった」
モンテロは3人を見渡した。
「我々が今すべきことは、誰かを罰することではない。何が起きているのか、正確に知ることだ」
「…、しかし、ラファエル」
しばらくして、カルデナスが再び口を開いた。
「日本について、あんたはどう考えている?」
「どう、とは?」
「これまでの取引を続けるつもりなのか。それとも、しばらく距離を置くのか」
モンテロは即答しなかった。
「イサベル。君の意見は?」
「市場としては、簡単に手放すべきではないと思うわ」
ベラスコは答えた。
「ただし、現在の不確実性を考えると、従来どおりの事業活動を前提にするのは危険ね」
「つまり?」
「合法事業への影響を最小限に抑えながら、状況を見極めるべきだということよ」
「エステバンは?」
「俺も、今すぐ全面的に手を引く必要はないと思う」
カルデナスが答えた。
「だが、船を動かす側としては、日本の沿岸警備隊がどの程度の能力を持っているのか、もう少し正確に知りたい」
「能力?」
「そうだ」
カルデナスは資料を指で叩いた。
「今回、俺たちの船を捜索したのは、普通の巡視船ではないらしい」
「どういうこと?」
ベラスコが尋ねる。
「海軍の駆逐艦に近い能力を持った、沿岸警備隊の大型艦だ」
「沿岸警備隊が?」
「ああ」
カルデナスは頷いた。
「航空機を運用し、水中の目標を捜索する能力もある。おまけに噂じゃ魚雷まで備え、複数の軍用潜水艦を実際に撃沈したなんて話まであるらしい。単なる海上警察の船だと思っていると、判断を誤るぞ」
モンテロが興味深そうに目を細めた。
「別に、俺たちの船に魚雷を撃ち込んでくると言っているわけじゃない。問題は、軍用潜水艦を相手にできる連中が、俺たちの船を探しに来るってことだ」
「繰り返しになるが、海軍の話じゃないんだな?」
「あぁ、そうだ。沿岸警備隊だ。だからこそ俺たちにとっては厄介だ」
「日本の沿岸警備隊は、そこまでの能力を持っているのか」
「少なくとも、今回の艦はそうらしい」
「艦名は?」
「フソウ」
「フソウ…、」
モンテロが繰り返す。
「日本語の名前か」
「そうだ」
「艦長については?」
「まだ詳しい情報はない」
カルデナスは答えた。
「ただ、俺の部門としては、今回の相手を軽く見るつもりはない。…、Berraco.」
彼が小さく呟いた。ベラスコが口元に微笑を浮かべる。
「随分と高く評価しているのね」
「褒めているわけじゃない」
「分かっているわ」
「厄介な相手だと言っているんだ」
モンテロが、静かに笑った。
「それなら、厄介な相手として扱えばいい」
「簡単に言うな」
カルデナスが苦笑する。
「簡単な話ではないことくらい、俺も理解している」
モンテロは答えた。
「だが、相手を過小評価することと、過大評価することは、どちらも判断を誤らせる」
「…、確かにな」
「日本の沿岸警備隊が、どの程度の能力を持っているのか。それを知ることは重要だ。だが、今ある情報だけで、我々の事業全体を見直す必要があると決めつけるつもりもない」
「慎重なのね」
ベラスコが言った。
「慎重でなければ、ここまで組織を大きくできなかっただろう」
モンテロは微笑んだ。
「我々の仕事は、利益を得ることだ。しかし、利益を得るために組織そのものを失っては意味がない」
サラサールが頷いた。
「そのとおりだ」
「マテオ。君はどう考える?」
「日本側が我々の存在を把握しているなら、いずれ接触してくる可能性がある」
「そうだな」
「その時に備える必要はある」
「具体的には?」
「組織の人間を守ることだ。特に、事情を知らずに働いている者を無用な危険にさらすべきではない」
ベラスコが彼を見た。
「…、意外ね」
「何がだ?」
「あなたから、そういう言葉が出てくるなんて」
「俺は警備の責任者だ」
サラサールは淡々と答えた。
「守るべきものを守る。それが仕事だ」
「なるほど」
ベラスコは頷いた。
「それなら、今回は意見が一致したわね」
「珍しいことでもないだろう」
「そうかしら?」
「少なくとも、俺はそう思っている」
カルデナスが小さく笑った。
「2人とも、喧嘩しているのか仲がいいのか分からんな」
「あなたに言われたくないわ、エステバン」
ベラスコが即座に返す。
「俺が何をした?」
「さっきまで私と口論していたでしょう?」
「意見を交換していただけだ」
「便利な言葉ね」
会議室に、小さな笑いが生まれた。それを見ていたモンテロも、わずかに表情を緩めた。しかし、その笑みは長くは続かなかった。
「では、方針を決めよう」
モンテロが言った。室内の空気が再び引き締まる。
「日本で起きた一件について、現時点で確認できているのは、我々の特殊輸送船が目撃されたこと。そして、日本側の沿岸警備隊が捜索に出たものの、捕捉には至らなかったことだ」
「そうだ」
カルデナスが頷く。
「一方、国内の流通網については、捜査機関による摘発が進んでいる可能性がある。海外側との通信記録が残されていたという情報もある」
ベラスコが頷いた。
「ただし、この二つが日本側で結びつけられているかどうかは分からない」
「そのとおりだ」
モンテロは続けた。
「したがって、現時点で日本から全面撤退する判断はしない」
カルデナスが顔を上げる。
「だが、従来どおりに続けるわけでもないんだな?」
「もちろんだ」
モンテロは答えた。
「不確実な状況で、これまでと同じ判断を繰り返すことは合理的ではない」
「それなら異論はない」
「エステバン。海上輸送部門について、今回の一件の事実関係を確認してくれ。日本側の能力に関する情報も、改めて整理してほしい」
「了解した」
「イサベル。日本国内の取引先と、我々の合法事業への影響を評価してくれ」
「承知しました」
「マテオ。内部の情報管理と、関係者の安全確保を担当してもらう」
「分かった」
「ただし、いずれの部門も、独断で大きな方針変更を行わないこと。重要な判断は、必ずここに持ち込んでくれ」
3人が頷いた。モンテロは椅子の背もたれに体を預け、静かに言った。
「世界はいつだって、金と恐怖で動く」
誰も口を挟まなかった。
「我々は、その仕組みを理解しているだけだ」
彼は窓の向こうへ視線を向けた。
「だが、恐怖に支配される側に回るつもりはない」
カルデナスが腕を組む。
「…、相変わらずだな、ラファエル」
「何がだ?」
「何が起きても、最後には利益の話に戻す」
「それが私の仕事だからな」
モンテロは穏やかに答えた。
「君は海を知っている。イサベルは物流と企業を知っている。マテオは人間がどこまで危険になり得るかを知っている」
彼は3人を順番に見た。
「私は、そのすべてを一つの組織として動かさなければならない」
「…、なるほど」
カルデナスは小さく頷いた。
「それなら、俺は俺の仕事をするだけだ」
「頼むよ」
モンテロはそう言うと、会議の終了を告げた。
3人が席を立つ。ベラスコは端末を閉じ、カルデナスに声をかけた。
「エステバン」
「何だ?」
「後で、あなたの部門の報告書をもう少し詳しく見せてくれる?」
「構わんが、何を確認したい?」
「船の話ではなく、今回の件が物流全体に及ぼす影響を知りたいの」
「…、分かった。必要な資料を送る」
「ありがとう」
彼女は微笑んだ。
「あなたの部門が、船を無事に戻してくれたことには感謝しているわ」
「珍しいな。あんたが素直に礼を言うとは」
「私はいつだって、感謝すべき時には感謝しているつもりよ」
「そうか?」
「そうよ」
2人は小さく笑った。その横を、サラサールが通り過ぎようとする。
「マテオ」
ベラスコが呼び止めた。
「何だ?」
「さっきの件だけど」
「関係者の処分か?」
「ええ」
彼女は真剣な顔になった。
「もし、誰かに責任があると分かったとしても、すぐに結論を出さないでほしいの」
サラサールはしばらく彼女を見つめた。
「俺は、必要のない人間を殺す趣味はない」
「知っているわ」
「なら、心配するな」
「心配しているのは、あなたの判断能力じゃない」
ベラスコは答えた。
「私たちが、まだ知らないことの方よ」
サラサールは一瞬だけ目を細めた。やがて、短く頷く。
「…、分かった」
「ありがとう」
「ただし、必要だと判断した時は躊躇しない」
「それも分かっているわ」
サラサールはそれ以上何も言わず、会議室を後にした。カルデナスも続いて退室する。最後に残ったベラスコは、上座のモンテロへ視線を向けた。
「ラファエル」
「何だい?」
「一つだけ、気になることがあるの」
「聞こう」
「今回の件、日本側が本当に何も知らないと思っている?」
モンテロはしばらく黙っていた。
「…、そうは思っていない」
「なら、なぜもっと強い対応を取らないの?」
「強い対応とは?」
「少なくとも、今より慎重になる必要はあるでしょう?」
モンテロは微笑んだ。
「イサベル。私は、慎重であることと、恐れることは違うと思っている」
「…、どういう意味?」
「我々が今、何を知らないのか。それを理解することが慎重さだ。知らないことを理由に、すべてを止めてしまうのは恐怖だよ」
ベラスコは黙って彼を見つめた。
「もちろん、君の懸念は正しい。だからこそ、調べてもらうことにした」
「…、分かったわ」
彼女は頷いた。
「結果が出たら、すぐに報告する」
「頼む」
ベラスコは一礼し、会議室を後にした。扉が閉まる。広い部屋に残されたのは、モンテロ一人だけだった。
彼はしばらく、テーブルの上に置かれた資料を見つめていた。その一番上には、日本近海で目撃された不審潜水体に関する報告書がある。そして、その隣には、国内の密売事件に関する別の資料。現時点では、二つの事件が日本側でどの程度結びつけられているのか分からない。しかし、モンテロは、それらが完全に無関係だと考えるほど楽観的ではなかった。
「…、日本、か」
小さく呟く。太平洋の向こう側。これまでコンソルシオにとって、日本は数多く存在する市場の一つにすぎなかった。しかし、今は違う。少なくとも、そうなる可能性が生まれつつあった。
モンテロは資料を閉じ、窓の外へ目を向けた。
「さて…、どう出る?」
その問いに答える者は、誰もいなかった。遠くに広がるモンテレイの街並みは、いつもと変わらず穏やかだった。だが、その静けさとは裏腹に、太平洋を挟んだ二つの組織は、互いの存在を少しずつ認識し始めていた。
日本国沿岸警備隊と、コンソルシオ・デル・パシフィコ。まだ、両者の間で直接的な衝突が起きたわけではない。しかし、やがて訪れる対決に向けて、歯車は静かに動き始めていた。
今まで自分が書いてきた小説の中で、こんなに会話が連続する話を書いたのは、初めてかもしれません。
コンソルシオは、メキシコ・コロンビア・エクアドルの3か国にまたがる超国家的組織ということもあり、上層部ではそれぞれの国の出身者同士が、同じスペイン語話者同士という強みを生かしてスカッドを組んでいます。それぞれ組織に忠誠を誓いつつ、異なる専門性を発揮して貢献する者同士が、どのようなシナジーを生み出すのか。そのあたりにも注目していただけたらと思います。
次回は第二章の締めくくりとなります。お楽しみに。それではまたお会いしましょう。