フリーナ・ドゥ・フォンテーヌと魔法の世界 作:とりあえずお茶
洪水が引いていく。
城壁の上に立って、僕はフォンテーヌの街を見下ろしていた。濡れた屋根や石畳が午後の日差しを反射している。あちこちでは人々が歓声を上げて抱き合っている。流された荷物を拾ったり、倒れた看板を立て直したりしている人もいる。人々は水に溶けることなく、そこに生きていた。
フォンテーヌは救われたのだ。
この日のために僕は五百年を過ごした。凡人が不死の呪いによって長い命を得て、水神を演じ、人々の前に立ち、誰にも本当のことを話せないまま、いつ訪れるとも知れないその日を待ち続けた。
だから全部が終わったときには、もっと嬉しいものだと思っていた。解放された喜びに飛び跳ねるとか、街中のお菓子を買い占めるとか、少なくとももう少し分かりやすく喜べるものだと。だが、胸の中には喜びも悲しみもほとんどなかった。何か大きなものを全部使い果たしてしまったようで、その場から動く気にもなれない。
僕はぼんやりと空を見上げた。青く、穏やかな空だった。のどかなカモメの声が、ひどく遠く聞こえる。
風が吹いた。長い髪が頬にかかる。直そうとも思わず、そのままにしていると、もう一度、強い風が吹いた。
濡れた城壁に足が滑る。身体がぐらりと傾いた。
「あ」
手を伸ばしたときには、もう遅かった。空がひっくり返り、フォンテーヌの街が視界を横切る。その向こうに、陽の光をきらきらと返す水面が見えた。
「――え?」
間抜けな声が口からこぼれた。そしうて、僕は海へ落ちた。
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空には、大きな満月が浮かんでいた。
公園の古びたブランコに腰掛けながら、僕はぼんやりとそれを見上げていた。街灯の白い光が住宅街を照らしている。対して公園の中は深い闇に沈んでいる。遊具も木々もほとんど影に溶け、僕の座るブランコだけがかろうじて街灯から広がる光の裾に引っかかっていた。
海へ落ちたあと、次に目を覚ましたときには僕は町の中に倒れていた。服はずぶ濡れで、見たこともない街並みのなかを奇妙な形の乗り物が走っていた。道行く人々の話す言葉は聞いたこともないものだった。駆けつけた制服姿の男に保護され、今はその男の家で暮らしていた。
男には家族がいた。妻と幼い娘が一人。妻は男が突然連れてきたどこの馬の骨とも知れぬ娘をあまりよく思わなかった。それで、気まずくなった僕は彼らが寝静まるまで、こうして公園で時間を潰していた。
ただぼうっと何も考えることなく月を見上げる。前までなら、何も考えない時間なんてほとんどなかった。それなのに今は、考えなければならないことが何もない。何をしてもいいと言われても、どうすればいいのかさっぱり分からないのだから、困ったものだ。
気がつくと、小さく歌を口ずさんでいた。どこで最初に聞いたのかも思い出せないほど昔からあるありふれた歌だ。ふと下を見ると、足元に銀色のトラ猫が座っていた。目を閉じて、まるで僕の歌に聞き入るようにじっとしている。ブランコの柵にはフクロウが止まっていて、少し離れた木の根元ではリスがじっと耳を澄ませている。いつの間にか夜の公園は小さな歌劇場になっていた。
歌い終わって小さく息を吐く。舞台が終わると、トラ猫はその場に野花を置いていった。妙に礼儀正しい猫だ。他の動物たちも三々五々に散っていく。
「素敵な歌だね。」
突然背後から声がして、僕はびくりと肩を震わせた。
振り返ると、少し離れたところに少年が立っていた。年齢は十四か五くらいだろうか。黒い髪は寝癖なのか元からなのか分からないくらいあちこちへ跳ねていて、丸い眼鏡の奥から緑色の目がこちらを見ていた。額に稲妻形の傷跡があったが、それを除けばどこにでもいるような普通の子供に見えた。
はっ恥ずかしい。完全に気を抜いていた。フォンテーヌじゃ、こんなに気を抜いた姿を誰かに見られたことは一度もなかったのに。
「ごめん、驚かせるつもりはなかったんだ。ただいい歌だと思って。聞いたことがない曲だけど、なんていう歌なの?」
<あー、こっちの言葉は分からないんだ。>
僕が平静を装いながらそう答えると、少年は目を見開いた。
「……もしかして、言葉が分からないの?」
少年は困ったような表情を浮かべた。そして少し考えるような仕草をしてから、口元を示して何やら手を動かした。どうやら歌を褒めているらしい、となんとか理解する。
それから彼はおずおずと僕の隣のブランコを指さした。
<いいけど、もう歌わないぞ。>
僕が頷くと、少年はそこへ座った。沈黙が続く。なにせ、どちらも互いの言葉がわからないのだ。話のしようがない。正直、とても気まずい。ちらりと横を見ると、少年は緊張した様子もなくぼうっと夜空を見上げていた。なんだか自分だけ緊張しているのが馬鹿馬鹿しくなって、思わず肩の力が抜ける。
……そうだ。もう人の視線を気にする必要もないのだ。そう思うと、この沈黙も少しだけいいものに感じられた。
しばらくすると少年は二言三言何かを言って、帰っていった。
翌日も日が暮れた頃に彼はやってきた。やはり僕達は何も喋らなかった。
最初の日は気付かなかったが、少年の服はぶかぶかでところどころほつれていた。まあ、僕もよれたジーパンとぶかぶかのシャツを着ているのだ。僕に言えることでもない。彼にも家に居づらい事情があるのだろう。きっと彼も、僕がそうであることに気づいている。だけど僕達は何も言わなかった。
次の日も、その次の日も彼はやって来た。いつの間にか夜の公園での密会は、僕達二人の秘密の約束になっていた。
彼はときどきどこか遠くを恋い焦がれるように見た。そこに帰るべき場所があるとでもいうかのように。
ある日、公園にやってきた彼の顔は真っ青だった。まるで生の貝を食べてお腹を下して二日目のような顔色だ。思わず立ち上がって駆け寄る。
<どうしたんだい?>
彼は額の傷跡をこすりながらブランコに腰掛けた。
「大丈夫だ……。」
そういってからふと僕を見上げた。
「いや、うん、そうだ。聞いて欲しい。」
黙って頷く。こうも長く見ていれば、仕草だけでもある程度の意図は分かるようになる。
そして少年は話し始めた。もちろん、言葉が伝わらないことは僕達二人ともが知っている。それでも誰かに話さずにはいられなかったのだろう。秘密というのは一人で抱えているとどんどん大きく重たくなっていく。口に出すだけでも、それはほんの少しだけ軽くなる。
話す少年の顔は、まるで仇敵を見つめるように険しかった。長い話が終わると、少年は息を吐いた。
その肩を軽く叩いて、ポケットから取り出したガラスの小瓶を渡す。その中には水と砂と小さな光る星が入っていた。
<あげるよ。>
少年はそれを受け取って、しげしげと眺める。
<その生き物はルエトワールというんだ。夜の砂浜で、あるいは海の底で、誰も見ていないところでその生き物はキラキラと輝いている。僕が落ち込んだときは、よくその生き物を眺めるんだ。>
「ありがとう。」
少年はそう言って笑った。顔にはもうだいぶ元の顔色が戻っていた。
<それならよかった。>
「……君も魔法が使えればいいのに。そうすればホグワーツに一緒に行ける。」
少年はそう残念がった。それからふとなにかを思いついたように顔を上げる。
「そうだ!僕が君に英語を教えるよ。そうすればもっと話が出来る。」
そういうと彼は自分の胸に手を当ててこういった。
「ハリー」
<……どういたしまして?>
「ハリー」
首を傾げる。なにが言いたいのだろう。
「ハ・リ・ー」
彼はもどかしそうにそう繰り返した。ようやく彼の言わんとしていることを理解する。
「はりい?」
「そう!」
僕が繰り返すと、彼はぱっと顔を輝かせた。どうやらそれが彼の名前らしい。僕も自分の胸に手を当てる。
<フリーナ>
<ふゅりーな?>
<違う、違う。フ・リ・ー・ナ>
<ふりーな>
<そうさ。なかなか上手いじゃないか。>
僕が頷くと、彼は何度も、ふりーな、と繰り返した。
今まで互いの名前も知らなかった、ということがなぜだか可笑しくて思わず吹き出す。するとハリーも釣られて笑い出した。
それからハリーはいろいろなものを指差して、その名前を言った。砂、ブランコ、公園、私、あなた、家、星、月、花、木。どうやら僕に言葉を教えてくれようとしているらしいと途中で気付いた。別れる頃には頭のなかを無数の単語が飛び交っていた。次の日も、その次の日も様々な単語を教えられた。
しばらくの後、僕は片言程度なら英語を話せるようになった。
「実は秘密があるんだ。」
ある夜、ハリーは耳を寄せるように仕草で示した。
「僕は魔法使いなんだ。」
ハリーは真面目くさった顔でそういった。
「魔法の学校に通っていて、史上最悪の闇の魔法使いが僕の命を狙っているんだ。この間なんて、そいつが夢に出てきて僕を殺す計画を立てていた。」
僕も真面目くさった顔で答える。
「奇遇だね。僕にも秘密があるんだ。誰にも内緒だよ?」
口の前で指を一本立ててみせる。ハリーは真剣な顔で頷いた。
「実はこことは違う世界から来たんだ。僕は、本当は何の力もないのにそこで水と正義の神様として崇拝されていた、五百年もね。」
真剣な顔で見つめ合う。突然、ハリーが吹き出した。
「君が神様なら、僕は魔法界の英雄さ!」
その言い方が可笑しくて、僕も思わず吹き出す。ハリーが英雄だなんて!だってハリーはちょっと痩せ気味で額に傷があるだけの普通の少年だ。
「フリーナ!」
突然、ぶしつけな男の声が響いた。思わず猫のように飛び上がる。振り返ると、そこには例の警官の男がいた。
「こんな夜更けに何をしている。帰るぞ。」
ハリーが戸惑ったような顔でこちらを見る。
「保護者さ。」
そう囁いて、ブランコから立ち上がる。
「またね!」
ふとハリーが大声でそういった。警官が少年を睨む。僕は思わず笑みを浮かべながら振り返る。
「うん、また。」
帰り道、ずっと黙り込んでいた警官がふと口を開いた。
「いいニュースがある。」
僕が黙っていると、警官が続ける。
「保護施設に空きが出来た。明日にも向かうことになる。」
警官はどこかほっとしたようにそういった。
警官の家にたどり着いて、無言で玄関に入る。そっと音を立てないように階段を上がって、二階の奥にあるハシゴを上る。跳ね上げ戸を上げると、むわりと埃が舞った。真っ直ぐ立つこともままならないような屋根裏部屋に、古びた毛布とマットが敷かれていた。そこが僕の寝床だった。
翌日、朝日も昇らぬうちに僕たちは家を出た。音を聞きつけて起き出した警官の妻はようやくせいせいするといった顔で、娘はまだ眠っていた。車の窓に流れる住宅街の景色をぼうっと眺める。そういえば急すぎて、あの少年にお別れをいうのを忘れていた。まあ、例え覚えていたとしてもお別れをいう時間はなかっただろうけれど。そのときちょうどあの公園が窓の横を通り過ぎた。
「ちょっと止まってくれないかい。」
警官の肩を叩いて、車を止めてもらう。どうしたのかと訝しがる警官にペンとメモ用紙を借りて、車から降りる。一月にも満たない時間だったが、ハリーは僕にとって神様をやめて初めて出来た友人だった。最初は言葉すら分からない同士だったけれど、疲れ果てた僕にはそれくらいの距離感が心地よかった。
メモ用紙にテイワット語で短い手紙を書く。こんなことなら文字も教えてもらうんだったと思っても、あとの祭りだ。それでも、例え言葉が通じなくても伝わるものはあるだろう。
僕はこの町を離れます。別れの挨拶をする時間がなかったので、ここに手紙を残します。貴方と過ごしたのは短い時間でしたが楽しかったです。
フリーナより
宛名を書こうとして、ふとペンを止める。少し笑ってから、「魔法使いの友人へ」と書いて手紙をブランコの下に置く。風で飛ばされないように手紙の上に石を置いておく。これできっと見つけてくれるだろう。
車に戻る。警官がサイドブレーキを下げ、シフトレバーを操作してアクセルを踏む。低いエンジンの音とともにゆっくりと車は走り出した。
初投稿です。
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