学マス~チートPと一緒に初星学園を無双する話~ 作:みちみちお
リビングを包んでいた賑やかな喧騒が一段落した頃、天宮優はローテーブルの上のグラスを静かに片付け、立ち上がった。
目にかからない長さに切り揃えられた白銀の髪を軽く揺らし、サファイアのような碧眼を二人へと向ける。
「さて……僕の家事の壊滅ぶりについてはこれくらいにして、そろそろ本来の目的に移りましょうか」
「本来の目的……?」
ソファの端でマカロンの包み紙を畳んでいた月村手毬が、黒い瞳を丸くして顔を上げた。
隣に座る秦谷美鈴も、お淑やかに首を小さく傾げる。
「優さん、今日はお屋敷へのお招きだけではなく、何か他にご予定がございましたか?」
「ええ。せっかく青山の自宅まで来てもらったんですからね。学園のスタジオでは試せないような、特別な環境で二人の声を聴かせてもらいたいと思っていたんです。……ついてきてください」
優は穏やかに微笑み、リビングの奥へと歩き出した。
二人は顔を見合わせ、ソファから立ち上がって優の背中を追った。
大理石の廊下を抜け、リビングの最深部に位置する重厚な扉の前で優が立ち止まる。
その扉は他の部屋のものとは明らかに異質で、分厚いチタン合金のような鈍い光を放ち、壁面には電子キーパッドと生体認証用のセンサーが埋め込まれていた。
ピッ、ポッ、パッ、と優が軽やかな指先で十桁のパスコードを入力し、続いて右手の親指をセンサーへと押し当てる。
『――認証完了。セキュリティを解除します』
無機質なアナウンスとともに、ゴウンと重々しいモーター音が響き、分厚いドアのロックが解かれた。
ドアが開くと、そこには地下へと一直線に続く、間接照明で照らされた石造りの階段が口を開けていた。
「わ……なにここ。地下シェルターにでも行くの?」
手毬が思わず唾を飲み込み、優の背後から階段の奥を覗き込む。
「ふふ、シェルターのようなものかもしれませんね。外の音を完全に遮断し、中の音を一滴たりとも外へ漏らさないための構造ですから」
優は苦笑しながら、手すりに手を添えて階段を降り始めた。
カツン、カツン、と靴音が静かな階段室に反響する。
段を下りるごとに、外の世界の気配が薄れ、空気の肌触りがひんやりとした、極めて密度の高いものへと変わっていくのが分かった。
階段を降りきった先には、銀行の金庫を思わせる巨大なハンドルが取り付けられた、特注の二重防音扉が立ちはだかっていた。
優がその大型ハンドルを力強く回し、分厚い扉を手前に引き開けた。
プシューッ――と、気圧調整の空気が抜ける微かな音が響く。
そして、その奥に広がる光景を目にした瞬間――。
「――っ……!!」
「まあ……っ」
手毬と美鈴の二人は、完全に息を呑み、言葉を失ってその場に硬直した。
そこに広がっていたのは、まさに「地下の要塞」と呼ぶに相応しい、常軌を逸したスケールの巨大プライベートスタジオだった。
広さは優に百平方メートルを超え、天井高は吹き抜けのように高い。
壁面全面には、音響工学の最先端理論に基づいて幾何学的に配置された特注のウッド製音響拡散パネルと、ダークグレーの吸音パネルが隙間なく敷き詰められている。
部屋全体が建物の基礎から浮かせた完全な浮き床構造になっており、外界の振動やノイズは一ミリも侵入しない。
コントロールルームの中央には、世界中の名門レコーディングスタジオでも滅多にお目にかかれない、特注の巨大アナログミキシングコンソールが鈍く優雅な光を放っていた。
その周囲を取り囲む特注のラックマウントには、Neve、SSL、Fairchild、Pultec、Teletronixといった伝説的なアウトボードや真空管コンプレッサー、至高のイコライザー群が整然と組み込まれ、何百ものインジケーターが準備完了を示す微かな光を点滅させている。
正面の特大防音ガラスの向こう側には、独立した広大なレコーディングブースが見渡せ、完全な防湿・調温管理が施されたガラスキャビネットの中に、歴史的な名機と呼ばれるマイクロフォンが整然と鎮座していた。
初星学園の特別棟にある最新鋭のミュージックラボやレコーディングルームを、設備、音響設計、機材の質、あらゆる面で何倍も凌駕している。
個人が所有する設備としては、完全に世界の常識を逸脱していた。
「な……な、なんなのよ、これ……」
手毬の震える声が、無音に等しいスタジオの空気を震わせた。
「これ、全部……優さんの機材なの……!? テレビ局とか、大手のレコード会社の本社スタジオより凄いんじゃないの……!?」
美鈴もまた、息を凝らしたままコンソールやラックの並びを見つめていた。
そして、何かに気づいたようにハッと息を呑み、優を振り返った。
「……優さん。ここが……あの『天月』の音楽の結晶、なのですか?」
美鈴の問いかけに、優は少し気恥ずかしそうに頬を緩め、苦笑いを浮かべた。
「ええ。高校二年生の頃に『天月』として曲を出していた時は、まだ実家の地下室に機材を持ち込んで作っていたんですが……その後、十八歳でこの家を買った時に、株で運用していた資金と、天月としての活動で得た楽曲の収益を注ぎ込んで、一から設計して作り上げたスタジオなんですよ。
僕自身の理想の音響空間を極限まで突き詰めて作った場所ですが……今は、これから世界へ羽ばたく二人のために、この場所を役立てたいと思っているんです」
四十億円の資産を惜しみなく投じられた、音の絶対領域。
手毬は目の前のコンソールにそっと触れそうになり、慌てて手を引っ込めた。
胸の奥から、熱い震えが込み上げてくる。
かつて自分が擦り切れるほど聴き、魂を救われたあの伝説の歌い手『天月』が、その理想のすべてを注ぎ込んで作り上げた聖域に、いま自分は立っているのだ。
「さて、見学はこれくらいにして……せっかくだから、ここでレッスンを少ししてみましょうか」
優が機材のメイン電源を立ち上げると、コンソールのVUメーターが一斉に美しく跳ね上がり、スタジオ全体が生命を吹き込まれたように微かな駆動音を響かせた。
「学園のレッスン室では見えなかった、二人の声の微細な響きや、マイクへの乗り方を精密にチェックしたいんです。……まずは、月村さんからいきましょうか」
「えっ、わ、私から!?」
手毬がぎょっとして肩を跳ねさせた。
優は笑いながら、ガラス張りのレコーディングブースのドアを開けて手毬を促した。
「どうぞ、ブースに入ってください。ヘッドホンをつけて、マイクの前に立ってみてくださいね」
「う、うん……」
手毬は緊張で唾を飲み込みながら、ブースの中へと足を踏み入れた。
完全に調音されたブース内は、足音一つすらクリアに吸い込まれるほどの静寂に満ちている。
中央に据えられたマイクスタンドの前に立った手毬は、そこにセットされているシルバーの大型コンデンサーマイクを見た瞬間、ピタリと動きを止めた。
「――っ!?」
手毬の息が止まった。
クラシカルで武骨、しかし圧倒的な存在感を放つそのマイクのボディには、象徴的なひし形のエンブレムが刻まれていた。
――Neumann U47。
それも、現代のリイシューモデルではない。半世紀以上前に製造され、極上のコンディションで保管されてきた、本物のオリジナルヴィンテージだった。
手毬は中等部時代からボーカル機材にもある程度の知識を持っていた。
現在のヴィンテージ市場において、完全なオリジナルパーツを保ったU47がどれほどの天文学的価値を持つか、知らないはずがなかった。
ブースのガラス越しに、手毬はインカムマイク越しに優へと叫んだ。
「ゆ、優さん……っ!! こ、これ……ノイマンのオリジナルヴィンテージじゃないの……!?」
コンソール前のトークバックマイクを通じて、優の穏やかな声が手毬の耳元のヘッドホンに届く。
『よく知っていますね、月村さん。その通り、一九五〇年代製のU47ですよ』
「よ、よく知っていますねじゃないわよ!! これ、一本で一千万円は下らない幻のマイクでしょ!? なんでこんなものが個人のスタジオに転がってんのよ!」
手毬はマイクから思わず一歩後ずさり、青ざめた顔で両手を振った。
「わ、私……これ、使っていいの!? 息を吹きかけただけで壊れたりしたら、私、一生かかっても弁償できないんだけど……っ!!」
ガラスの向こうで、優は思わず吹き出し、優しく首を横に振った。
『あはは、壊れたりしませんよ。道具はね、使ってこそ初めて価値が生まれるんです。ケースにしまっておくだけじゃ、マイクも可哀想ですからね。……月村さんの、芯が強くて感情のダイナミクスが激しい歌声には、このマイクの持つ太い中低域と、艶やかな倍音の抜けが完璧にマッチするんです。遠慮なんていりません。君のありったけの声を、そのマイクにぶつけてみてください』
優の言葉に、手毬は胸を打たれた。
一千万円もする国宝級の機材を、何の躊躇いもなく「君のために用意した」と差し出してくれるプロデューサー。
手毬は深呼吸を一つし、ぎゅっと拳を握りしめて再びマイクの正面へと立った。
ヘッドホンを両耳に装着する。
『それじゃあ、月村さん。先日の課題曲のサビを、アカペラで自由に歌ってみてください。伴奏は僕がピアノで合わせます』
優の合図とともに、優雅なピアノのイントロがヘッドホンから流れ込んできた。
手毬は目を閉じ、優から教わった呼吸法を思い出す。
背中側の肋骨を開き、深く息を吸い込む。喉の力を抜き、眉間の奥に響きを集めて――。
「――果てしない空の彼方へ、届かない願いを叫ぶ――……っ!」
手毬の声が、マイクへと解き放たれた。
その瞬間、手毬の全身を電流のような快感が駆け抜けた。
(な……何、これ……っ!?)
ヘッドホンから自らの耳へと返ってくるモニター音。
それが、あまりにも信じられないほど、気持ちが良かった。
学園のスタジオや市販の機材で歌う時のような、耳が詰まるような圧迫感や、自分の声がオケに埋もれる感覚が一切ない。
自らが発した吐息の微細な揺らぎ、声帯の繊細な振動、そして空間を満たす豊かな倍音が、まるで温かなシルクの毛布のように滑らかに、寸分の狂いもない解像度で耳朶を包み込んでくるのだ。
歌えば歌うほど、声がどこまでも自然に前へと飛んでいく。
喉に一切の負担を感じない。まるで声そのものが翼を得て、無限の青空を羽ばたいているかのような錯覚。
「――冷たい風に打たれても、私は立ち止まらない……っ!!」
最高音へと駆け上がるフレーズ。
普段ならストイックさゆえに喉を締め付けてしまいがちだった高音が、驚くほど軽やかに、太く、圧倒的な熱量を帯びてブース内に木霊した。
最後のロングトーンが美しく減衰し、スタジオ内に完全な静寂が戻る。
手毬はヘッドホンを押さえたまま、肩で息をして立ち尽くしていた。
胸が熱く脈打ち、鳥肌が全身に立っている。
『素晴らしい歌声でしたよ、月村さん』
優の優しい声がヘッドホンから響いた。
手毬は震える唇を開き、ガラス越しに優を見つめた。
「ゆ、優さん……これ、どういうこと……? なんでこんなに歌いやすいの……? 自分の声じゃないみたいに、すごく気持ちよくて……っ」
優はコンソールのフェーダーから手を離し、サファイアの碧眼を細めて悪戯っぽく微笑んだ。
『月村さんだけの、オーダーメイドにリアルタイムで音を調整しているからですよ』
「オーダーメイド……?」
『ええ。君の骨格と声帯の特性に合わせて、ヴィンテージのPultecイコライザーで中域の濁りを削り、高域のエア感を絶妙に持ち上げています。さらに真空管コンプレッサーのアタックとリリースを君のブレスの間隔にミリ秒単位で同期させ、特注のリバーブでブース内の反響を最適化しました。……君が一番気持ちよく、一番自然に声を出せる音響空間を、僕がリアルタイムで作っていたんです』
優が事もなげに語るその技術。
だが、それは世界最高峰のサウンドエンジニアでも数時間を要する作業を、歌唱中に即座に行うという、女神から授かった『音楽に愛されし者』のチート能力だからこそ成し得る神業だった。
「優さん……やっぱり、あなたって人は……」
手毬は胸元をぎゅっと押さえ、顔を真っ赤にして俯いた。
この人の前で歌うことが、どれほど幸福なことか。
月村手毬という歌姫の魂が、天宮優というプロデューサーの才能に、完全に射抜かれていた。
「ふふ、満足していただけたようで良かったです。……さあ、次は秦谷さんの番ですよ」
優が促すと、コントロールルームで待機していた美鈴が、期待と緊張に胸を高鳴らせながら立ち上がった。
ブースから出てきた手毬とすれ違いざま、手毬が美鈴の腕を掴んで小声で囁く。
「……美鈴。覚悟しなさいよ。あそこの音、本当に次元が違うから……っ」
「まりちゃんがそこまでおっしゃるなんて、本当に楽しみですね」
美鈴は優雅に微笑み、ブースの中へと足を踏み入れた。
すると優は、コントロールルームの壁際にある専用の防湿キャビネットから、手毬の使ったU47とは異なる、別の頑丈な木箱を取り出した。
厳重な緩衝材の中から現れたのは、淡いミントグリーンのボディに金色のメッシュグリルが輝く、極めて優美なヴィンテージマイクだった。
優はブースに入り、手毬のマイクスタンドからU47を慎重に外し、新たなマイクを手際よくセットした。
美鈴はその美しいマイクを見つめ、目を細める。
「優さん、こちらは……まりちゃんのマイクとは違うものなのですか?」
「ええ、そうです。これはTelefunkenの『ELA M 251』という、こちらも世界的に極めて希少な伝説のヴィンテージマイクなんですよ」
優はマイクの角度を美鈴の口元の高さへミリ単位で合わせながら、柔らかく説明した。
「まりちゃんのとは違う……こちらも、とてもお高いマイクなのですか?」
美鈴がおっとりと尋ねると、優は小さく肩をすくめて苦笑した。
「ええ、U47と同じか、コンディションによってはそれ以上の値がつく代物ですね。……ですが秦谷さん、値段の問題ではありません。このマイクは、シルクのようにきめ細やかで、艶やかな超高域の抜けと、包み込むような甘い中音域を捉えることにかけては右に出るものがありません。……月村さんの力強い声とは違う、秦谷さんの持つ圧倒的な包容力と、色気のある歌声にこそ、このマイクが最も真価を発揮するんです。こっちは、秦谷さんに合わせたマイクですよ」
「私に……合わせた、マイク……」
美鈴の黒い瞳が、熱い光を帯びて潤んだ。
自分を誰かのオマケとして扱うのではなく、秦谷美鈴という一人の歌い手の個性を誰よりも深く見つめ、最高のもてなしで迎え入れてくれる優の誠実さ。
美鈴の胸の奥で、優への愛しさと熱情が、止めどなく溢れ出していくのを感じていた。
優がコントロールルームへと戻り、防音ドアが閉ざされる。
美鈴はヘッドホンを装着し、マイクの前に凛と立った。
『秦谷さん、準備はいいですか? 君のその温かな声で、このスタジオ全体を抱きしめるように歌ってみてください』
トークバックからの優の優しい声。
美鈴はふわりと微笑み、小さく頷いた。
「はい、優さん。……私の歌、聴いていてくださいね」
優の指がピアノを奏で始める。
美鈴は静かに息を吸い込み、唇を開いた。
「――木漏れ日の下、静かに揺れる花のように……あなたを包み込みたい――……」
澄んだ、蜜のように甘く艶やかな歌声が、ブースの空気を震わせた。
その瞬間、美鈴の耳元に広がったのは、かつて体験したことのないほどの極上の音響空間だった。
優の神調整によって整えられた音像は、まるで優自身の温かな両腕に抱きしめられているかのように、美鈴の声を優しく、そしてどこまでも深く響かせていく。
一歩引いて手毬を立てる歌い方ではない。
自らの愛と包容力で、聴く者すべての心を奪い去るような、至高のソロボーカルがスタジオ全体を満たしていった。
コントロールルームのガラス越しに、優は満足そうにサファイアの碧眼を輝かせ、手毬は息を呑んで幼馴染の覚醒を見つめていた。
青山の地下要塞に響き渡る、二つの至高の歌声。
天宮優という規格外のプロデューサーの手によって、二人の歌姫の才能は、いま確実に新たな次元へと昇華されようとしていた。