学マス~チートPと一緒に初星学園を無双する話~ 作:みちみちお
青山の住宅街を包む五月の風は、初夏の香りを微かに含み、木々の葉を爽やかに揺らしていた。
地上に広がる穏やかな季節の移ろいとは対照的に、天宮優の邸宅の地下――厚さ数十センチの重厚な二重防音扉に守られた要塞スタジオの中は、息が詰まるほどの熱気と、張り詰めた緊張感に満ちていた。
ドォン、と重低音のビートが空気の粒子を揺るがし、スピーカーから流れる高品位なトラックがフェードアウトしていく。
コントロールルームの正面、ガラス張りのレコーディングブースの扉が開き、肩で息をしながら二人の少女が出てきた。
「――ふぅ……っ、はぁ……っ! 今日も、めちゃくちゃ声を出したわ……っ!」
月村手毬が腰まで届く漆黒のウェーブヘアを乱暴に手で払い、額に浮かんだ大粒の汗を手の甲で拭った。
その黒い瞳には、疲労の色など微塵もなく、限界まで歌い切った者特有のギラついた興奮が宿っている。
そのすぐ後ろから、秦谷美鈴がお淑やかに歩み出てきた。
「本当ですね、まりちゃん。優さんのスタジオで歌わせていただくたびに、身体中の血が沸き立つような心地がいたしますよ」
美鈴は首筋に滲んだ汗を小さなハンドタオルで優雅に押さえながらも、その陶器のように白い頬を熱っぽく紅潮させていた。
五月の「フレッシュアイドル公演」への出場をあえて見送り、六月下旬の「実力発表ライブ・学期成績判定」に向けて基礎固めに専念すると決断してから、早くも数週間が経過していた。
二人は連日のように放課後になると青山の豪邸へと足を運び、優の指導のもとで過酷なレッスンを重ねていた。
コンソール卓の前に座っていた優は、手元のタブレットに録音データの波形を保存し終えると、サファイアのような碧眼を細めて二人へと振り返った。
目にかからない長さに切り揃えられた白銀の髪が、空調の風にさらりと揺れる。
「二人とも、本当にお疲れ様でした。今日も素晴らしい集中力でしたよ」
優が労いの言葉を口にした瞬間、美鈴が軽やかな足取りで優の傍へと歩み寄ってきた。
「優さん、お疲れ様でございました。はい、冷たいレモンミントティーを淹れておきましたよ。喉とお身体を潤してくださいな」
美鈴はあらかじめ用意していた結露するグラスを優に手渡し、さらに別の冷えたおしぼりを優の首筋へとそっと差し出した。
「優さんも、ずっと集中してコンソールを操作してくださっていたのですもの。お首が凝ってしまわれたでしょう? 後でお揉みしましょうか?」
「あ、ありがとうございます、美鈴さん。でも大丈夫ですよ、これくらい」
美鈴の甲斐甲斐しく、完璧な「お世話係」としての立ち振る舞い。
当然、それを手毬が黙って見ているはずがなかった。
「ちょ……ちょっと美鈴っ! なんであんたが一番に優さんにお茶を渡してんのよ!」
手毬がドカドカと足音を立てて割り込んできた。
「優さん! 私だって、優さんのために扇風機の風向きをベストポジションに合わせてあげたんだから! ほら、ちょうどいい風が当たってるでしょ!? 感謝しなさいよね!」
「ふふ、まりちゃん、扇風機の風を直接当て続けると優さんのお身体が冷えてしまいますよ。体調管理の基本がなっておりませんね」
「うぐっ……! な、なら首振りにしてあげるわよ! ほら、首振りポチッ! これで文句ないでしょ!!」
ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てる手毬と、涼しい顔で優の隣をキープし続ける美鈴。
優は冷たいミントティーを一口含んで喉を潤しながら、思わず吹き出すように小さく肩を揺らした。
「あはは……二人とも本当にありがとう。扇風機の風も気持ちいいし、お茶もとても美味しいですよ」
優が優しく微笑みかけると、手毬は「えへへ……でしょ!」と誇らしげに胸を張り、美鈴も満足そうに目を細めた。
日々の同居生活とレッスンを通じ、互いを「手毬さん」「美鈴さん」と名前で呼ぶようになってからというもの、三人の空気感は以前にも増して自然で、温かなものへと溶け合っていた。
優はグラスをサイドテーブルに置くと、姿勢を正し、二人にソファを勧めた。
「さて……水分補給も済んだことですし、今日のレッスンの振り返りと、今後の進め方について反省会をしましょうか」
優の声色が変わったのを察し、手毬と美鈴も表情を引き締めてソファへと腰を下ろした。
優はコンソール卓の椅子を回転させ、二人と真っ直ぐに向き合う。
手元のノートには、この数週間で蓄積された二人の歌唱データ、ピッチの安定度、ブレスの流速、共鳴腔の使い方に関する詳細な分析結果がびっしりと書き込まれていた。
「まず、総括から伝えますね」
優のサファイアの碧眼に、確かな賞賛の光が灯る。
「レッスンは、驚くほど順調に進んでいます。僕の想像を遥かに超えるスピードですよ」
「本当、優さん!?」
手毬がパッと顔を輝かせ、前のめりになった。
「ええ、本当です。手毬さんは、高音へ向かう際の喉の力みが劇的に改善されました。以前は音程を完璧に合わせようとするあまり、声門を過剰に締め付けて響きを自ら狭めてしまっていましたが、今は感情の爆発をそのまま豊かな倍音へと変換できるようになっている。
ベルティングの抜けも、中音域の太さも、初星学園の同年代どころかプロの現場でも通用するレベルに達しつつあります」
「ふふん! 当然よ、私の努力の成果なんだから!」
手毬は得意げに鼻を鳴らし、腰に手を当てて笑った。
「そして、美鈴さん」
優は隣の美鈴へと視線を移す。
「美鈴さんも見事です。息の支えが一段と深くなり、声の立ち上がりにあった僅かなタイムラグが完全に解消されました。
何より、ウィスパーからチェストボイスへのグラデーションが驚くほど滑らかになり、君の最大の武器である『聴く者を包み込むような艶やかな包容力』が、スタジオの空気を支配するほどの密度を帯びてきています」
「ありがとうございます、優さん。優さんの神がかったご調整とご指導があったからこそですよ」
美鈴もお淑やかに頭を下げ、嬉しそうに微笑んだ。
二人の成長は、優の目から見ても疑いようのない事実だった。
五月のフレッシュ公演をあえて見送り、基礎固めに専念させた優の判断は、完全に正しかったのだ。
二人は自らの肉体と発声のメカニズムを正しく理解し、驚異的なポテンシャルを着実に開花させつつあった。
だが――。
優はそこで一度言葉を切り、ノートをパタンと閉じた。
そのサファイアの碧眼から柔らかな笑みが消え、プロデューサーとしての鋭く、研ぎ澄まされた光が宿る。
スタジオ内の空気が、ふっと冷たくなった。
手毬と美鈴の背筋が、本能的な予感によってピンと張り詰める。
「……ですが、二人とも。基礎の土台が完成しつつあるからこそ、僕たちは今、最も高くて険しい壁の前に立っています」
「高い、壁……?」
手毬が黒い瞳を瞬かせた。
美鈴もまた、静かに優の次の言葉を待つ。
優は立ち上がり、コントロールルームの中央、二人の正面へと歩みを進めた。
二十歳の青年らしい落ち着きと、常人離れした知性を漂わせながら、優は静かに、けれど逃れようのない絶対の重みを持って、告げたのだ。
「六月の『実力発表ライブ』で学園中の度肝を抜き、二人を真のトップアイドルへと押し上げるために――僕は今から、二人に『新たな課題』を課します」
「新たな課題……!」
手毬が息を呑む。
優は二人の瞳を、一人ずつ射抜くように見据えた。
「――『かつてのグループの枠組みを完全に忘れ、完全に個人としての個性を確立すること』です」
その言葉が落ちた瞬間、地下スタジオの静寂が、一瞬にして凍りついたかのようだった。
「かつての……グループの、枠組み……?」
手毬が掠れた声で呟く。
美鈴の整った眉も、微かにピクリと動いた。
優は二人から視線を逸らすことなく、淡々と、しかし核心を抉るように言葉を重ねた。
「手毬さん、美鈴さん。二人は中等部時代、『Syng UP!!』という伝説的な三人組ユニットで活動していましたね。あのユニットの完成度の高さ、そして三人で生み出していた音楽の凄まじさは、僕もよく知っています。
……ですが、二人は今、無意識のうちに『あのユニットの亡霊』に囚われているんです」
「ぼ、亡霊だなんて……っ!」
手毬が思わず反論しようと身を乗り出す。
「私たちはもう、あんな解散のことなんて吹っ切れてるわよ! 仲直りだってしたし、過去のトラウマなんか引きずってないわ!」
「ええ、過去の蟠りや人間関係のわだかまりが解消されたことは、僕もよく分かっていますよ」
優は手毬の言葉を優しく受け止め、しかし首を静かに横に振った。
「僕が言っているのは、感情の痼りのことではありません。……『パフォーマンスにおける無意識の役割分担』のことです」
「役割分担……」
美鈴の唇から、小さな吐息が零れる。
「そうです。二人の歌やダンスを見ていると、驚くほど息が合っている。それは幼馴染としての絆であり、長年積み重ねてきた阿吽の呼吸でしょう。
……ですが同時に、手毬さんは無意識のうちに『後ろに美鈴さんがいる前提』で歌っている。自分がどれだけ猪突猛進に声を張り上げても、後ろで美鈴さんがバランスを取り、隙間を埋めてくれるという甘えが、心のどこかに残っているんです」
優の言葉に、手毬の肩がピクリと跳ねた。
「そ、そんなつもりは……っ!」
「そして、美鈴さん」
優は鋭い視線を美鈴へと向けた。
「美鈴さんはもっと深刻です。君はソロパートを歌っている時でさえ、無意識に『手毬さんを引き立てるためのサブ』としての立ち位置から抜け出せていない。
手毬さんの感情が突出した時にそれを包み込むクッション、手毬さんの鋭さを中和するバッファー……君の表現の基点は、常に『手毬さん』という他者にあるんです。
自分一人でステージの真ん中に立ち、観客の視線を根こそぎ奪い去ってやるという、強烈なエゴが抜け落ちている」
優は二人の前に立ちはだかり、両手を広げた。
「いいですか、二人とも。六月の『実力発表ライブ』は、ユニットの審査ではありません。完全な『ソロ』としての実力判定です。
ステージの上に立った時、隣には誰もいません。頼れる美鈴もいなければ、引き立てるべき手毬もいない。たった一人、スポットライトの真下で、己の魂の形だけで何千人もの観客を圧倒しなければならないんです」
優のサファイアの碧眼が、熱く、激しく燃え盛っていた。
「かつての『Syng UP!!』のセンター・月村手毬を捨ててください。『Syng UP!!』のバランサー・秦谷美鈴を捨ててください。
あのグループの枠組みを完全に壊し、ゼロから『月村手毬という唯一無二の個』を、『秦谷美鈴という至高の個』を確立するんです。
……それができなければ、二人は一生、過去の残響の影に怯え続けることになりますよ」
地下要塞のスタジオ内に、優の宣告が重く、鋭く突き刺さった。
それは、二人が最も愛し、最も誇りにしてきた、そして最も無意識に依存していた「原点」を真っ向から解体しろという、あまりにも過酷な要求だった。
静寂の中、手毬の荒い息遣いだけが響いていた。
手毬はぎゅっと両拳を握りしめた。爪が掌に食い込み、微かな痛みが走る。
(Syng UP!!の枠組みを、捨てる……? 私が……?)
胸の奥底で、激しい反発心とプライドが沸騰した。
自分はいつだって一人で戦ってきたはずだ。誰かに頼ったつもりなんてない。美鈴に甘えていたなんて、そんなことあるはずがない――。
手毬はバッと顔を上げた。
その黒い瞳には、剥き出しの闘志の炎がギラギラと燃え盛っていた。
「……望むところよ、優さんっ!」
手毬はソファを蹴るように立ち上がり、胸を突き出して優を睨み据えた。
「やってやろうじゃないの! 誰が美鈴に甘えてるって!? 私はいつだって、自分一人の力でナンバーワンを獲るつもりで歌ってきたわよ!
グループの枠組みなんか、今ここで綺麗さっぱり脱ぎ捨ててやるわ! 私一人だけで、世界中の度肝を抜く本物の個性を確立して、優さんを跪かせてみせるんだから!!」
手毬の咆哮のような意気込み。
顔を真っ赤に染めながらも、不敵に笑ってみせるその姿は、かつて中等部の頂点に君臨した孤高の歌姫そのものだった。
そして、隣の美鈴もまた、静かにソファから立ち上がった。
お淑やかに微笑みながらも、その黒い瞳の奥には、手毬に決して引けを取らない強い光が宿っていた。
「ふふ……まりちゃんの言う通りですよ、優さん」
美鈴は胸の前で両手を重ね、優の碧眼を真っ直ぐに見つめた。
「私も、受けて立ちますよ。まりちゃんのお世話役や引き立て役ではなく……秦谷美鈴という一人のアイドルとして、優さんの視線と心をすべて奪い去るような、絶対的な個性を手に入れてみせます。
優さんのためでしたら、私、どんな古い殻だって脱ぎ捨てて差し上げますもの」
二人の力強い宣言。
その気迫と覚悟に、優はふっと口元を綻ばせた。
「頼もしいですね。その意気です、手毬さん、美鈴さん」
だが――。
優のサファイアの碧眼の奥底には、温かな励ましと同時に、深い憂慮の影が静かに揺らめいていた。
(……意気込みは素晴らしい。けれど、二人ともまだ分かっていないんだ)
優は内心で静かに息を呑んだ。
長年染み付いた「枠組み」を壊すということは、自らの存在意義の根幹を一度完全に破壊し、暗闇の中で手探りで自分を再構築する作業に他ならない。
口で「やってやる」と言うのは容易い。
だが、いざ一人で鏡の前に立ち、何の後ろ盾もない己の空虚さと向き合った時、彼女たちは本当の恐怖と孤独を知ることになるのだ。
「諦めればそこでお終いだ。泥臭くてもいい。それで前に進めるなら僕は惨めでも歩み続ける」
優は自らの信条を胸の中で反芻した。
これから二人が迎えるのは、これまでのどんなハードなレッスンよりも過酷な、魂の葛藤の季節だ。
迷い、苦しみ、己の無力さに涙を流す夜が必ずやってくる。
だが、その暗闇を通り抜けなければ、本物のトップアイドルとしての殻を破ることは絶対にできないのだ。
「それじゃあ、今日のレッスンはここまでにして……一階へ上がって夕食にしましょうか」
優が柔らかく声をかけると、手毬は「ふん、夕飯を食べたら、夜中まで自主練してやるんだから!」と息巻き、美鈴は「まりちゃん、夜更かしはお肌の大敵ですよ」と窘めながらキッチンへ向かう準備を始めた。
二重防音扉を抜け、石造りの階段を上がっていく三人の背中。
いつも通りの賑やかで温かな夕暮れの豪邸の光がそこにはあったが、二人の少女の胸の奥底には、すでに「新たな課題」という名の、静かで巨大な波紋が広がり始めていた。
かつての栄光の枠組みを脱ぎ捨て、真の「個」へと生まれ変わるための、長く苦しい試練の幕が、いま静かに切って落とされようとしていた。