学マス~チートPと一緒に初星学園を無双する話~ 作:みちみちお
初星学園の新学期が始まってから数日が経過していた。
東京都中野区に広がる広大なキャンパスは、春特有の浮き足立った熱気と、選ばれし者たち特有の張り詰めた緊張感が入り混じっていた。
この学園の根幹を成すのは、アイドル科とプロデューサー科の生徒が一対一でタッグを組む「ペア制度」である。
アイドル科の生徒にとっては自らの命運を預けるパートナー選びであり、プロデューサー科の生徒にとっては己のキャリアと情熱のすべてを懸けるに値する原石を見極めるための戦いであった。
放課後のアイドル科本棟、食堂や中庭では、プロデューサー科の生徒たちが積極的にアイドル科の生徒たちへ声をかける光景がいたるところで見られた。
「君のステップ、すごくキレがあるね。僕と一緒に五月のフレッシュアイドル公演を目指さないか?」
「私の企画書を見てほしい。君の魅力を最大限に引き出すブランディングを考えてきたんだ」
そんな熱心な売り込みが交わされる中、天宮優は一人、本棟の渡り廊下を静かに歩いていた。
目にかからない長さに整えられた銀髪が春風に揺れ、サファイアのような碧眼が学園の風景を穏やかに見つめている。
二十歳という年齢からくる落ち着いた佇まいと端正なハーフの顔立ちは、すれ違う生徒たちの視線を自然と集めていた。
それでも優自身は気取ることなく、すれ違う教職員や生徒へ柔らかに会釈を返していた。
「天宮さん、また一人で散策ですか?」
声をかけてきたのは、同じプロデューサー科の新入生である中野仁だった。
真面目そうな黒髪を整えた彼は、手元に分厚いバインダーを抱えている。
「ええ、中野さん。学園の設備や生徒の皆さんの自主練習を見学させてもらっていたんです。中野さんは、もう担当候補の方と面談を?」
優が柔らかく問いかけると、中野は少し苦笑い混じりに眼鏡の位置を直した。
「何人か気になる生徒のレッスンを見させてもらっています。特に、元バレエ経験者だという紫雲清夏さん……彼女のリズム感と身体能力には目を見張るものがありますから。
ただ、本人がレッスンに身が入っていないようで、どう向き合うべきか悩んでいるところです。……天宮さんは、誰か目星をつけている生徒はいないんですか?」
「いえ、まだです。焦って決めるつもりはありませんから。お互いに魂を預け合えるような、本当の出会いを探したいと思っているんです」
「天宮さんらしいですね。ですが、あまりのんびりしていると、優秀な生徒はすぐに他のプロデューサーに取られてしまいますよ。
……特に、あの三年生の高瀬さんなどは、すでに有望な新入生に次々と声をかけているようですし」
高瀬正人――プロデューサー科の三年生であり、学内でも指折りの作詞作曲家としてチャート十位以内を叩き出す実績を持つ実力者だ。
しかしその一方で、売れないと判断したアイドルは平然と切り捨てる冷徹な効率主義者としても知られていた。
「忠告ありがとうございます、中野さん。でも大丈夫です。僕には僕の信じる歩み方がありますから」
優が微笑んで一礼すると、中野もまた「お互い、妥協のない相手を見つけましょう」と頷き、去っていった。
ひとり残された優は、ふと耳に入ってきた周囲の噂話に意識を向けた。
購買部の近くで、プロデューサー科の男子生徒数人が小声で議論を交わしている。
「なあ、月村手毬のところにはもう行ったか?」
「行くわけないだろ。中等部時代は『Syng UP!!』でナンバーワンアイドルなんて持て囃されてたらしいが……あの性格だぞ? 妥協を許さない皮肉屋で、協調性がまるでないって有名だ」
「解散の時の炎上騒ぎもあったしな。実力だけは本物らしいが、扱いづらすぎる。俺たちの手に負えるタマじゃないよ。触らぬ神に祟りなしだ」
月村手毬。
かつて中等部において圧倒的な人気と完成度を誇ったユニット「Syng UP!!」のセンター。
類まれな歌唱力と表現力で「ナンバーワンアイドル」の称号をほしいままにしながらも、ユニットの空中分解とともに表舞台から転落し、今やその栄光は過去の「残響」として学園内で囁かれるのみとなっていた。
――ナンバーワンの残響、か。
優はその名を心の中で静かに反芻した。
他人がどう評価しようと、風評で人を判断することは優の主義に反する。
曲がったことや先入観を嫌う彼は、自分の目と耳で確かめたものだけを信じる男だった。
渡り廊下を渡り、アイドル科特別棟へと向かう。
夕暮れが近づき、多くの生徒たちがレッスンを終えて引き上げ始める時間帯。
特別棟の奥、第2スタジオ「メロディア」や個人練習室が並ぶ防音区画へと足を踏み入れたときだった。
――ドン、と空気が爆発するような音が響いた。
いや、爆発ではない。
それは、分厚い防音ドアの隙間から漏れ出してくる、圧倒的な熱量を帯びた「歌声」だった。
優の足が、その場に縫い付けられたように止まった。
『音楽に愛されし者』としての彼の全感覚が、凄まじい勢いで活性化していく。
歌声は、ピアノの伴奏音源に合わせてアカペラに近い形で響き渡っていた。
鋭く、研ぎ澄まされ、聴く者の鼓膜を劈くような高音。
哀切と激情が渦巻き、まるで自らの喉を引き裂いてでも魂を吐き出そうとしているかのような、痛切なまでのダイナミクス。
並みの人間であれば、その迫力と音圧にただただ圧倒され、天才の絶唱だと賞賛しただろう。
だが、優の耳は、そして彼の内に宿る絶対的な音響解析の力は、その完璧に見える歌声の奥底に潜む「致命的な軋み」を瞬時に捉えていた。
(……ピッチは正確だ。リズムの捉え方も天性のものがある。だけど……)
優は眉をひそめた。
(喉を締めすぎている。下腹部の支えが上半身の力みによって阻害され、声帯の閉鎖が必要以上に強すぎるんだ。これでは、どんなに強靭な声帯でも数曲歌っただけで疲弊してしまう。それに、本来の彼女の骨格が持つべき、一番豊かで美しい倍音の響きが、自らかけたリミッターによって殺されている……!)
優は吸い寄せられるように、音の発生源である個人練習室のドアへと近づいた。
防音ドアの細長いガラス窓から中を覗き込む。
そこにいたのは、一人の少女だった。
腰まで届く、ゆるやかにウェーブした漆黒の長髪。
汗で額に張り付いた髪を乱暴に払うこともせず、譜面台の前に立ち尽くしてマイクを握りしめている。
黒く澄んだ瞳には、焦燥と、怒りと、そして自らに対する底知れない苛立ちが宿っていた。
――月村手毬。
十五歳の少女とは思えないほどの気迫を放ちながら、彼女は同じフレーズを何度も、何度も歌い直していた。
「――っ、違う……! なんで、届かないのよ……っ!」
ガリッと、手毬が爪を噛む音が聞こえるかのようだった。
息を荒らげ、荒々しく水分を補給した彼女は、再び再生機のリモコンを押し、前奏を鳴らす。
そして、最高音へと向かう跳躍のフレーズに差し掛かった瞬間――。
優は迷うことなく、練習室の防音ドアをノックし、静かに押し開けた。
「――っ!?」
歌声が唐突に途切れた。
手毬が弾かれたように振り返る。その黒い瞳には、神聖な領域を土足で踏み荒らされたことに対する剥き出しの敵意が満ちていた。
「……誰? 入室のノックもなしに入ってくるなんて、非常識じゃない」
氷のように冷たい声。
だが、激しい歌唱の直後であるため、その肩は小さく上下していた。
「失礼しました。ノックはしたのですが、音楽の音でかき消されてしまったようです」
優は穏やかに微笑み、深く頭を下げた。
「僕はプロデューサー科一年の、天宮優といいます。君の歌声があまりに素晴らしくて、思わず引き寄せられてしまいました」
「プロデューサー科……?」
手毬は侮蔑するように眉を寄せ、優の全身を一瞥した。
銀髪碧眼の容姿に一瞬だけ微かな驚きを見せたものの、すぐに冷淡な皮肉屋の仮面を被り直す。
「冷やかしなら、他を当たってくれない? 見世物じゃないんだけど」
「冷やかしではありません。純粋に、君の歌に心を動かされたんです」
「……ふん。口の上手いこと。どうせあなたも、中等部で『ナンバーワン』だった元エリートの残骸でも見物に来たんでしょう?」
手毬は吐き捨てるように言い、マイクをスタンドに戻した。
「それとも、落ちぶれた私を憐れんで、安っぽいプロデュースごっこでも持ちかける気? 悪いけど、私に半端な妥協をするプロデューサーなんて必要ないの。
夢? いいえ、私が目指しているのは必ず達成する目標だけ。中途半端な覚悟で近づかないで」
「別に、どうでもいいけど」
そう言って背を向け、片付けを始めようとする手毬。
その頑なで棘のある態度は、他者を遠ざけるための防壁であり、同時に自らの弱さを隠すための鎧であることは明白だった。
優は怒ることも、気分を害することもなく、ただ静かにその背中に向けて言葉を紡いだ。
「――月村さん。君の今の高音域、換声点(パッサッジョ)を通過する瞬間、下顎に力が入りすぎて舌根が沈み込んでいますね」
ピクッと、手毬の背中が跳ね上がった。
優は一歩、練習室の中へと歩みを進めた。
その声はどこまでも柔らかく、しかし絶対的な確信を帯びていた。
「君の骨格は非常に恵まれている。華奢に見えて胸郭の容積がしっかりと確保されており、首から鎖骨にかけてのライン、そして頭蓋の形状から見ても、本来なら広大で透明感のある共鳴空間を作れるはずの器だ。
それなのに君は今、胸式呼吸に頼りすぎて肋骨の下部が十分に開いていない。だからブレスの吸気量が安定せず、肺の圧力を保つために無意識に声門を過剰に締め付けて、力ずくでピッチを合わせにいっている」
手毬がゆっくりと振り返った。
その表情からは先ほどの冷徹な皮肉が消え失せ、信じられないものを見るような驚愕の色が広がっていた。
「……な、何を言って……」
「さっきの曲のサビの跳躍、F#5の音ですね。本来の君の声帯の長さと厚みなら、そこはベルティングで無理に張り上げる音域じゃない。
喉頭の位置をわずかに下げ、軟口蓋をあと数ミリ引き上げて鼻腔の後方に響きを逃がせば、ミックスボイスへの移行はもっと滑らかになるはずです。
そうすれば、今のように首の筋肉を浮き立たせて喉を痛めることもなく、聴く者の胸を貫くような、どこまでも澄んだロングトーンが出せる」
優はピアノの前に歩み寄ると、鍵盤に指を置いた。
ポーン、と澄んだ和音が鳴る。
「君は自分を責めているんでしょう? 完璧に歌えない自分を、声が思い通りに伸びない自分を許せないでいる。
だけど月村さん、それは君の実力不足じゃない。君が自分の身体の構造と、本当の共鳴の使い方を正しく理解していないだけだ」
手毬の息が止まっていた。
言葉が出ない。頭を鈍器で殴られたような衝撃が、少女の全身を貫いていた。
これまで、初星学園の教師たちからも、中等部時代の指導者たちからも、手毬の歌は「完成度が高い」「感情の爆発力がある」と評価される一方で、「もっと力を抜け」「感情をコントロールしろ」という抽象的な精神論ばかりをぶつけられてきた。
だが、目の前の銀髪の青年は違った。
聴いただけで。
たった数分、扉の外から漏れ聞こえる歌を聴いただけの男が、手毬自身すら言語化できずに苦しんでいた「喉の違和感」と「高音での詰まり」の正体を、骨格や筋肉の動きのレベルで寸分の狂いもなく看破してみせたのだ。
「あ、あなた……何者なの……?」
手毬の声が微かに震えていた。
「ただの、プロデューサー科の新入生ですよ」
優は悪戯っぽく微笑み、鍵盤から手を離した。
「でも、音楽のことなら、誰よりも深く理解している自負はあります。……月村さん、嘘だと思うなら、一度だけ僕の言う通りに声を出してみてくれませんか?」
「……っ」
手毬のプライドが、素直に頷くことを拒もうとする。
だが、それ以上に彼女の内に眠る「もっと上手く歌いたい」「本物の歌を歌いたい」という渇望が、青年の提案を退けることを許さなかった。
手毬は悔しそうに唇を噛み締めながら、小さく頷いた。
「……言っておくけど、変な真似したら絶対に許さないから」
「ええ、約束します」
優は手毬の正面、適切な距離を取って立った。
「まず、両肩の力を完全に抜いてください。息を吐ききって、お腹ではなく背中側の腰骨のあたりを膨らませるイメージで深く吸い込みます。そう、肋骨の背面を開くんです」
手毬が指示通りに息を吸い込む。
優の透き通るような碧眼が、手毬の呼吸の動きをミリ単位で追っていく。
「いい呼吸です。次に、顎を少しだけ引いて、後頭部を上に引っ張られるような感覚を持ってください。喉仏を無理に下げようとせず、あくびをする直前の喉の開きを保ったまま……さっきのサビの出だしの音を、ハミングで鳴らしてみてください」
手毬は喉を意識し、息を送り込んだ。
「――ん、んん……」
「そう、響きが眉間の奥に集まりましたね。そこから口を縦に開けて、母音の『ア』に移行します。声帯を力で閉じるのではなく、集まった空気のスピードで自然に振動させるイメージで。……はい」
優がピアノで単音を弾いた。
手毬は言われた感覚を必死に手繰り寄せながら、息を解き放った。
「――ああああああっ――……!」
練習室の空気が、一瞬で一変した。
耳を劈くような力任せの鋭さではない。
ベルのように澄み渡り、天井を突き破って青空へと抜けていくような、圧倒的な透明感と艶やかさを帯びた倍音が、部屋全体を満たした。
喉への抵抗感は一切ない。
まるで自分の中に眠っていた広大なホールが突然扉を開いたかのように、声がどこまでも自然に、そして力強く響き渡ったのだ。
「……え……?」
声を止めた手毬が、自らの喉に手を当てて立ち尽くした。
痛くない。
詰まらない。
あんなにも自分を苦しめていた高音が、まるで羽が生えたかのように軽やかに宙を舞ったのだ。
「素晴らしい歌声です、月村さん」
優が心からの敬意と温かさを込めて拍手を送った。
「君の歌には魂がある。聴く者の心を揺さぶる強烈な感情が宿っている。ただ少し、その魂を乗せるための技術の歯車が噛み合っていなかっただけだ。
正しい体の使い方を覚えれば、君の歌声は初星学園の枠なんて軽々と飛び越えて、世界中の人々の心を震わせるものになりますよ」
手毬の瞳が、大きく見開かれた。
驚愕、混乱、そして胸の奥底から突き上げてくる激しい感情の奔流。
(この人……本物だ)
傲慢なプロデューサー志望者が並べるような、薄っぺらい褒め言葉ではない。
優の言葉には、音楽への底知れない深い造詣と、手毬というアイドルの可能性に対する純粋無垢な信頼が満ち満ちていた。
「べ、別に嬉しくなんかないし……っ!」
手毬は真っ赤になった顔を背け、ぎゅっと拳を握りしめた。
「たまたま、言われた通りにやったら出ただけよ! あなたがすごいわけじゃないんだから!」
強がり、憎まれ口を叩く手毬。
しかしその声は微かに上擦っており、黒い瞳は激しく揺れ動いていた。
かつて「ナンバーワン」と呼ばれ、挫折し、誰も信じられなくなっていた少女の孤独な世界に、目の前の青年はあまりにも鮮烈な光を投げかけてしまったのだ。
「ふふ、それでも構いませんよ」
優は手毬の意地っ張りな態度をすべて包み込むように、柔らかく笑った。
「僕はただ、君の歌がもっと聴きたかっただけですから。……遅くまでお邪魔してしまってすみませんでした。それでは、失礼しますね」
優は丁寧に一礼すると、それ以上自分を売り込むこともなく、静かに練習室のドアを開けて出て行こうとした。
「あ……っ!」
思わず手毬の口から声が漏れた。
引き止めようとして、しかしプライドがそれを押し留める。
優は振り返ることなく、穏やかな足取りで夕暮れの廊下を去っていった。
静まり返った個人練習室の中に、手毬は一人残された。
自らの胸に手を当てると、心臓が早鐘のように激しく脈打っているのが分かった。
耳の奥には、先ほど自らの喉から解き放たれた、信じられないほど美しい自らの歌声の残響が、いつまでも、いつまでも鳴り響いていた。
「天宮……優……」
少女の唇から、その名が零れ落ちる。
初星学園に現れた異端の青年プロデューサーの存在が、月村手毬という歌姫の凍てついた心を、激しく揺さぶり始めていた。