学マス~チートPと一緒に初星学園を無双する話~ 作:みちみちお
深夜の静寂が、青山の白亜の大豪邸を深く、重く覆い尽くしていた。
二階にある若草色とアイボリーの柔らかなファブリックで統一された美鈴の私室。窓辺に置かれたアロマディフューザーからは、鎮静効果を持つラベンダーとサンダルウッドの微かな芳香が、白い霧となって緩やかに立ち上っている。
秦谷美鈴は、部屋の照明を最小限のスタンドライト一つだけに絞り、ゆったりとしたシルクのパジャマ姿でベッドの縁に腰掛けていた。
膝の上で重ねられた両手は、かすかに指先を強張らせている。
耳を澄ませば、微かに――本当に微かにだが、館の基礎を伝って、地下から極めて低い振動のようなものが皮膚を掠めていくのが分かった。
(……まりちゃんですね)
美鈴は薄く息を吐いた。
隣の部屋の手毬が、深夜二時を回った頃に音もなく部屋を抜け出し、地下の要塞スタジオへと降りていった気配に、美鈴は最初から気づいていたのだ。
ストイックで、不器用で、負けず嫌いな親友。昼間に優から「かつてのグループの枠組みを捨てろ」と突きつけられ、プライドを逆撫でされた手毬が、一人で声の限界に挑み、血を吐くような思いでもがき苦しんでいるであろうことは、容易に想像がついた。
いつもなら、すぐに立ち上がって階下へと向かったはずだった。
温かいハーブティーを淹れ、喉を労わる蜂蜜スプーンを用意し、「まりちゃん、夜更かしはお肌にも喉にも毒ですよ」と優しく微笑みながら、あの意地っ張りな少女を抱きしめてベッドへと連れ戻していただろう。
それが、秦谷美鈴の役割だったからだ。
幼い頃からずっと、手毬の保護者であり、お世話係であり、絶対的な味方であり続けることこそが、美鈴自身の生きる意味そのものだったはずなのだ。
だが今夜、美鈴の足は一歩も動かなかった。
手毬を迎えに行く資格など、今の自分には一片も残されていない――そう、冷徹な理性が告げていたからだ。
美鈴は静かに瞳を閉じ、額に手を当てた。
昼間、地下スタジオの静寂の中で、天宮優から突きつけられたあの言葉が、鋭利なガラスの破片のように心臓の奥深くに突き刺さって抜けなかった。
――『美鈴さんはもっと深刻です。君はソロパートを歌っている時でさえ、無意識に手毬さんを引き立てるためのサブとしての立ち位置から抜け出せていない』
――『手毬さんの感情が突出した時にそれを包み込むクッション、手毬さんの鋭さを中和するバッファー……君の表現の基点は、常に手毬さんという他者にあるんです』
――『自分一人でステージの真ん中に立ち、観客の視線を根こそぎ奪い去ってやるという、強烈なエゴが抜け落ちている。トップアイドルへのハングリーさに欠けているんです』
優のサファイアの碧眼が脳裏に蘇る。
侮蔑でも、冷酷な切り捨てでもない。真実を寸分の狂いもなく見透かす、あの神のような耳と瞳で、美鈴が十五年間の人生で築き上げてきた心の防壁の最も脆い急所を、正確に穿たれたのだ。
「……ハングリーさ、に……欠けている、ですか……」
美鈴の唇から、自嘲を孕んだ微かな呟きが零れ落ちた。
痛かった。
痛快なほどに図星すぎて、反論の言葉など一つも浮かんではこなかった。
持ち前の表現力、シルクのように滑らかで艶やかな声質、誰をもふわりと包み込むような温かな響き――優のレッスンを受けてからというもの、美鈴の歌唱技術は劇的な進化を遂げていた。
学園の講師陣からも「素晴らしい包容力だ」と賞賛され、自分自身でも手応えを感じていたはずだった。
だが、その表現力のすべては、どこまでいっても「誰かのための歌」でしかなかったのだ。
美鈴は立ち上がり、静かな足取りで部屋の全身鏡の前へと歩み寄った。
スタンドライトの仄かな光に照らし出された、自らの姿。
黒髪のセミロング、陶器のような白い肌、切れ長の穏やかな瞳。どこから見てもお淑やかで、控えめで、争いごとを好まない良家の大和撫子。
だが、その鏡の中の少女の瞳の奥を覗き込んだ時、美鈴はゾッとするほどの「空虚」を感じずにはいられなかった。
記憶が、過去へと遡っていく。
中等部時代――「Syng UP!!」として活動していたあの日々。
ユニットの中には、二つの強烈な太陽が存在していた。
一人は、誰よりも歌を愛し、完璧を追い求め、飢えた獣のように頂点を目指して突っ走る月村手毬。
もう一人は、圧倒的なリーダーシップと強固な意志で、時に厳しく、時に情熱的にユニットを牽引する賀陽燐羽。
二人は常に衝突していた。
手毬の不器用なストイックさと、燐羽の妥協を許さないプロ意識は、火花を散らしてユニットを前へ進める原動力であると同時に、いつ爆発してもおかしくない爆弾でもあった。
その二人の間で、美鈴はずっと「緩衝材」だった。
手毬が悔しさに涙を流せば背中を撫でて慰め、燐羽が怒りを爆発させればお茶を淹れてその熱を冷ました。
ステージの上でも同じだった。
手毬が感情のままに声を張り上げ、ピッチやリズムのバランスを崩しかければ、美鈴が即座に一段音量を落とし、柔らかい倍音でその隙間を埋めて全体の調和を取り戻した。
燐羽が力強いパフォーマンスで客席を煽れば、美鈴は控えめな笑顔で観客の緊張を解きほぐした。
「美鈴がいてくれるから、Syng UP!!は成り立っている」
中等部の指導者たちも、ファンたちも、そう言って美鈴を褒めてくれた。
手毬も、燐羽も、美鈴のその優しさに感謝してくれていた。
美鈴自身も、それを誇りに思っていたのだ。
自分は二人を支える縁の下の力持ちであり、二人を輝かせるための最高の引き立て役なのだと。
――だが、それは本当に「優しさ」だったのだろうか?
美鈴はぎゅっと自らの腕を抱きしめ、爪を立てた。
冷たい悪寒が、背筋を這い上がってくる。
(違います……)
胸の奥底から、ドロリとした醜い本音が這い出してくるのを、美鈴は押し殺すことができなかった。
(私は……逃げていただけ)
そうだ。あれは優しさなどではなかった。
「秦谷美鈴の甘え」そのものだったのだ。
トップを目指し、一番の座を争うということは、己の全存在を賭けて観客の審判に晒されるということだ。
自分の歌を、自分の表現を、剥き出しの心臓のまま世界へ差し出し、「私を見ろ」「私を選べ」と叫ぶことだ。
そこには、激しい競争がある。敗北の恐怖がある。嘲笑され、否定され、誰からも選ばれないかもしれないという、底知れない絶望のリスクが常に口を開けて待っている。
手毬は、その恐怖の中に真っ向から飛び込んでいった。
不器用で、傷だらけになりながらも、逃げずに一番を獲ろうと足掻き続けた。
燐羽もまた、リーダーとしての重責を背負い、退路を断って矢面に立ち続けた。
だが、自分はどうだったか?
「私はお世話役だから」「私は二人の引き立て役だから」という美しく便利な大義名分を盾にして、自分は最初から安全地帯に引きこもっていたのではないか?
手毬を優先し、燐羽を立てることで、「一番になれなくても仕方がない」「私はサポートに徹しているのだから」という免罪符を自らに与えていたのではないか?
傷つきたくない。否定されたくない。誰かと本気で競い合って負けるのが怖い。
だからこそ、マイペースでお淑やかな仮面を被り、甲斐甲斐しく他人の世話を焼くことで、自らの「欲求」と「エゴ」から目を背け続けてきたのだ。
(なんて……情けないのでしょうか……)
美鈴の視界が、屈辱と恥ずかしさで歪んだ。
手毬が解散の際、ネットで大炎上して誹謗中傷に晒されていた時でさえ、美鈴は「手毬を心配する心優しい親友」という安全なポジションに留まり続けていた。
手毬の痛みを真の意味で半分背負う覚悟もなく、ただ遠くから心配そうに見守るだけで、自分自身の足で泥の中に飛び込もうとはしなかったのだ。
そして、初星学園に入学し、天宮優という奇跡のようなプロデューサーと出会った後も――。
自分は何をしていただろうか?
手毬と優の間に割り込み、「まりちゃんのお世話をします」「優さんの胃袋を掴みます」と、家庭的なアピールばかりを繰り返していた。
もちろん、優に惹かれる気持ちに嘘はなかった。
優の隣にいたい、優に愛されたいという想いは本物だった。
けれど、それさえも……「アイドルとしての本気の戦い」から逃げるための隠れ蓑にしていた部分が、心のどこかにあったのではないか?
歌で優をねじ伏せるのではなく、料理やお世話という別の土俵で優の歓心を買おうとしていた。
手毬が歌の技術で優に認められようと必死にもがいている横で、自分は「妻役」を気取ることで、表現者としての真っ向勝負を無意識に避けていたのだ。
「……自分を、優先する……」
美鈴は掠れた声で呟き、自らの胸元をぎゅっと掻きむしった。
「自分を優先するだなんて……どうしたらよろしいのでしょう……?」
わからない。
生まれてから十五年間、誰かの顔色を窺い、誰かの歩調に合わせ、誰かの調和を乱さないことだけを最優先にして生きてきたのだ。
「私が主役だ」「私だけを見なさい」と観客に叫ぶ方法など、一度たりとも教わったことがなかった。
一歩前に出ようとすれば、足が竦む。
大声を張り上げようとすれば、喉が拒絶する。
他者を蹴落としてでも自分が頂点に君臨するという、あのドロドロとした「飢え」――ハングリーさの火種が、自分の中のどこを探しても見当たらないのだ。
(意識を……完璧に変えなければいけませんね……)
美鈴の黒い瞳に、冷たい覚悟の光が灯った。
生半可な努力では通用しない。
発声法を少し変えるとか、視線の配り方を工夫するとか、そんな小手先の技術で解決できる問題ではないのだ。
これまでの十五年間で培ってきた「秦谷美鈴」という人間の精神構造そのものを、一度完全に粉砕しなければならない。
誰かに譲る優しさ、波風を立てないマイペースさ、誰かの引き立て役に甘んじる弱さ――そのすべてを木っ端微塵に叩き壊し、ゼロから獰猛で強欲な「新しい自分」へと生まれ変わらなければ、六月のソロステージなど立てるはずがないのだ。
そこまで考え至った瞬間――。
美鈴の脳裏に、あの二十歳の青年の穏やかな笑顔が浮かび上がった。
目にかからない白銀の髪、サファイアのように澄み切った碧眼。
青山の豪邸で、美味しいご飯を食べるたびに「毎日が本当に楽しいよ」と無邪気に微笑んでいた、あの愛おしいプロデューサー。
(……優さんは、すべて分かっていらっしゃったのですね)
ストン、と腑に落ちた。
優は、最初からすべてを知っていたのだ。
美鈴がお淑やかな微笑みの裏にどんな甘えを隠しているのかも。手毬の世話を焼くことで、どんな恐怖から逃げようとしているのかも。
美鈴が抱える根深い病理の正体を、優は出会ったその日から、あるいはあの面談の瞬間から、寸分の狂いもなく見抜いていたのだ。
だからこそ、あえて五月のフレッシュ公演を見送らせた。
中途半端なサポート役のまま舞台に立たせ、中途半端な成功を与えてしまえば、美鈴が生涯「引き立て役の殻」を破れなくなってしまうことを知っていたから。
だからこそ、あんなにも残酷で、容赦のない課題を突きつけたのだ。
「かつての枠組みを忘れろ」「完全に個としての自分を確立しろ」と。
美鈴の逃げ場を四方八方から完全に塞ぎ、自らの醜い甘えと真正面から対峙せざるを得ない断崖絶壁へと、優は美鈴を追い詰めたのだ。
「……ふふっ」
深夜の静寂の中、美鈴の唇から、小さく澄んだ笑い声が漏れた。
自嘲混じりの、けれどどこまでも熱く、抗いようのない悦びを含んだ笑いだった。
「ふふふ……あはは……」
美鈴は両手で顔を覆い、肩を微かに揺らした。
涙が、指の隙間から一筋、熱く零れ落ちる。
「……なんて、ひどい人なのでしょうか……優さんは……」
なんて残酷で、なんて冷徹で――そして、なんて深く、優しい人なのだろう。
並の人間であれば、美鈴の耳障りの良い従順さと家庭的な魅力に満足し、「そのままでいいよ」「手毬を支えてあげてね」と甘やかして終わっていただろう。
だが、天宮優は違った。
美鈴の甘えを一切許さず、美鈴自身すら気づいていなかった(あるいは見ないふりをしていた)醜い逃避を暴き出し、魂の殻を叩き割ることを求めてきたのだ。
秦谷美鈴という一人の少女が、誰の影でもない、世界で一番美しく輝く本物のトップアイドルになれると、誰よりも信じてくれているからこそ。
「諦めればそこでお終いだ。泥臭くてもいい。それで前に進めるなら僕は惨めでも歩み続ける」
優のあの信条が、美鈴の胸の奥で熱く、激しく共鳴していた。
(惨めでも、いいのですね……優さん)
美鈴は顔を覆っていた手を下ろし、鏡の中の自分を真っ直ぐに見据えた。
涙で濡れた瞳には、先ほどまでの空虚な迷いは消え去っていた。
あるのは、自らの過去と甘えを完全に粉砕し、泥に塗れてでも新しい自分を掴み取ろうとする、痛切なまでの決意だった。
壊してしまいましょう。
まりちゃんの引き立て役だった、あの都合のいい秦谷美鈴なんて、今ここで跡形もなく消し去ってみせます。
他人に譲るだけの優しさなど、もう必要ありません。
これからの私は、私のために歌います。
六月の実力発表ライブのステージで、まりちゃんすらも踏み台にして、客席のすべての視線を根こそぎ奪い去って差し上げます。
そして何より――。
(優さんのサファイアの瞳を……私一人だけで、いっぱいに満たしてみせます……)
美鈴の胸の奥底で、これまで眠り続けていた獰猛なエゴの火種が、静かに、けれど確実に青白い炎を上げて着火した。
だが――。
決意を固めたとしても、その道がどれほど険しいかを、美鈴の身体は残酷なまでに理解していた。
ベッドの上で膝を抱え込むと、胸の奥がきしむように痛む。
どうやって歌えばいいのか、どうやって自らの包容力を「支配のための武器」へと変えればいいのか、具体的な答えはまだどこにも見当たらない。
手毬が地下で一人もがき苦しんでいるように、美鈴もまた、自らの魂の暗闇の中で、出口の見えない孤独な戦いを強いられていた。
時計の針が、午前三時を回る。
青山の豪邸は、夜明け前の最も深い闇の中に沈んでいた。
地下で己の限界にぶつかり涙を流す月村手毬と、二階の自室で自らの甘えを粉砕しようともがく秦谷美鈴。
二人の歌姫が直面した魂の試練は、六月の決戦を前にして、最高潮の張り詰めた緊張へと達しようとしていた。