学マス~チートPと一緒に初星学園を無双する話~ 作:みちみちお
青山の住宅街を包んでいた夜の帳が静かに明け、初夏の柔らかな朝の陽光が白亜の大豪邸を照らし出していた。
しかし、吹き抜けのエントランスホールにも、広大なリビングにも、いつものような手毬の威勢のいい怒鳴り声や、美鈴のお淑やかな笑い声は響いていなかった。
朝食のテーブルに並んだ美鈴特製のトーストやオムレツを口に運びながらも、手毬はどこか視線を宙に彷徨わせ、美鈴もまたカップを持つ指先を微かに強張らせていた。
昨夜、地下の要塞スタジオで独り己の限界にぶつかり、涙を流した手毬。
そして二階の自室で、長年寄りかかり続けてきた己の甘えと直面し、それを粉砕する覚悟を固めようともがいていた美鈴。
二人の少女の胸中を支配する重苦しい葛藤を、食卓の向かいに座る天宮優が気づかないはずがなかった。
朝食を終え、食器の手入れが一通り片付いた頃、優は二人に静かに声をかけた。
「手毬さん、美鈴さん。……少し、地下へ降りてきてくれるかな」
二人は息を呑み、微かに視線を交わし合ってから、小さく頷いた。
階段を下り、厚さ数十センチの特注二重防音扉をくぐり抜ける。
外界のあらゆる振動と音を完全に遮断した地下要塞スタジオの中へ入ると、優はコントロールルームを通り抜け、奥のレコーディングブースの重い防音ドアを開け放った。
「二人とも、中に入って腰を落ち着けてください」
完全に調音された防音室の中、普段はボーカルレコーディングに用いられるその閉鎖空間の中央に、シンプルな折りたたみ椅子が三脚、円を描くように並べられていた。
手毬と美鈴が椅子に腰を下ろすと、優もまた二人の正面に静かに座った。
目にかからない長さに切り揃えられた白銀の髪が、ブース内の淡い照明に照らされている。サファイアのような碧眼は、どこまでも澄み切っており、二人を慈しみながらも、一切の妥協を許さない真剣な光を湛えていた。
密閉された防音室の中に、三人の呼吸音だけが微かに反響する。
優は膝の上に手を置き、サファイアの瞳で二人を真っ直ぐに見据えた。
「昨日の昼、僕が二人に課した課題――『かつてのグループの枠組みを完全に忘れ、完全に個人としての個性を確立しろ』という言葉について、一晩考えてみてどうだったかな?」
優の柔らかく、けれど核心を射抜く問いかけ。
その言葉が落ちた瞬間、手毬の肩がびくりと跳ね上がった。
手毬は膝の上に置いた両拳をぎゅっと握りしめた。爪が手のひらに食い込む。
言えるはずがなかった。
昨夜、深夜二時に一人でこの部屋に忍び込み、マイクの前で歌い、自らの歌が冷たく無機質な型にハマりきっていることに絶望して泣き崩れたなどと、プライドの高い彼女の口から言えるはずがなかった。
だが、優の濁りのない碧眼に見つめられていると、どんな嘘も、どんな虚勢も、一瞬で見透かされてしまうような気がした。
手毬は唇を震わせ、悔しさに顔を歪めながら、絞り出すように言葉を零した。
「……分からなかったわよ」
「手毬さん」
優が静かにその名を呼ぶ。
「分からなかったのよ……っ!」
手毬は弾かれたように顔を上げ、涙の膜が張った黒い瞳で優を睨みつけた。
自暴自棄にも似た感情の奔流が、少女の喉から溢れ出す。
「完璧に歌おうとすればするほど、音程やリズムに縛られて、歌が息苦しくなっていくの……! 優さんに教わった通りのフォームで、狂いなく歌っているはずなのに、スピーカーから聴こえてくる私の声は、ただの死んだ音の羅列だったわ! 感情を乗せようとすれば声が割れて荒削りな絶叫になるし、丁寧に歌おうとすれば型にはまって誰も感動させられない……!」
手毬は胸元を両手で強く掻きむしった。
「ソロとしての私らしさって、何なのよ!? 私から『完璧な技術』と『中等部ナンバーワンの看板』を取り上げたら、私の中には何も残らないじゃない……っ! どうやって歌えばいいのか、どうやって前へ進めばいいのか……私には、全然分からなかったわよ……っ!!」
防音室の壁に、手毬の悲痛な叫びが突き刺さった。
元エリートとしてのプライドを粉々に砕かれ、己の空虚さに打ちのめされた少女の、剥き出しの絶望。
手毬は息を荒らげ、真っ赤になった顔をこれ以上ないほど俯かせた。
優はその告白を、遮ることも、否定することもなく、ただ深い慈愛を込めて静かに受け止めていた。
そして、視線を隣の美鈴へと移した。
「美鈴さんはどうでしたか?」
尋ねられた美鈴は、手毬のように感情を爆発させることはしなかった。
黒髪のセミロングを耳にかけ、膝の上で揃えた指先をじっと見つめている。
だが、その陶器のように白い横顔には、普段のおっとりとしたマイペースな微笑みは微塵もなかった。
美鈴は静かに息を吸い込み、澄んだ黒い瞳を上げて優を見つめ返した。
「……私は、昨晩、自室の鏡の前でずっと考えておりました」
美鈴の声は震えていなかった。だが、その一言ひとことには、自らの内臓を素手で抉り出すような痛烈な痛みが伴っていた。
「優さんのおっしゃる通りでした。私は……ずっと、逃げていただけだったのです。まりちゃんの引き立て役に回り、お世話係を気取ることで、一番になるための過酷な競争から、傷つくリスクから、自分自身を守っていただけだった……。『誰かを支える優しい私』という都合のいい仮面を被って、安全地帯に引きこもっていたのです」
美鈴は自嘲するように薄く唇を歪め、ぎゅっと胸元を押さえた。
「自分を優先するとはどういうことなのか、客席のすべての視線を奪い去るようなエゴをどうやって持てばいいのか……まだ、具体的な答えは出ておりません。けれど、これまでの秦谷美鈴という人間の甘えを完全に粉砕し、ゼロから新しい自分に生まれ変わらなければ、六月のステージに立つ資格すらないということだけは……痛いほど、理解いたしました」
美鈴の言葉を聞き終えた優の胸中に、確かな手応えが走った。
(手毬さんは壁の分厚さに直面して完全に立ち往生している。けれど、美鈴さんは自分自身の病理の正体を正確に見つめ、ある程度、課題の輪郭を形に捉えることができているな……)
二人の状態は、対照的でありながら、まさに優が意図した通りの場所に立っていた。
古い殻が内側から軋みを上げ、今まさに砕け散ろうとしている瞬間。
優はスッと背筋を伸ばした。
そのサファイアの碧眼に、プロデューサーとしての絶対的な威厳と、担当アイドルを頂点へと導くための熱い炎が宿った。
「二人とも、よく自分自身と向き合ってくれましたね」
優の声は、防音室の空気を震わせるほど凛としていた。
「ここからは、オブラートに包むような甘い言葉は一切使いません。プロデューサーとして、二人の弱点を、ストレートに、真っ直ぐに伝えます」
手毬と美鈴の背筋が、本能的な緊張感でピンと張り詰めた。
優はまず、手毬の黒い瞳を真っ向から射抜いた。
「手毬さん。君の最大の弱点は――『失敗を極端に恐れ、完璧でなければ愛されないと思い込んでいる臆病さ』です」
「――っ! お、臆病……っ!?」
手毬が息を呑み、反論しようと肩を揺らす。だが、優の言葉は止まらなかった。
「そうです、臆病です。君は中等部時代にユニットを壊してしまったトラウマから、無意識に自分を縛り付けている。完璧な歌を歌わなければ見捨てられる、一音でも外せば誰も自分を認めてくれない……そう怯えるあまり、君は『楽譜通りに正しく歌うこと』という冷たい檻の中に逃げ込んでいるんです」
優は手毬の胸元を指差した。
「いいですか、手毬さん。観客が聴きたいのは、狂いのない精密機械の周波数じゃない! 汗を流し、泥に塗れ、心臓を破裂させそうになりながらも前に進もうとする、君という人間の命の叫びなんです! 君が失敗を恐れて綺麗にまとめようとするたびに、君の歌から一番大事な魂の温度が消え去っているんだ!」
優の熱烈な言葉が、手毬の胸を激しく打った。
涙が零れそうになるのを、手毬は奥歯を噛み締めて必死に堪える。
そして、優は間髪を入れずに美鈴へと視線を向けた。
「そして美鈴さん。君の最大の弱点は――『他者を優先する優しさを盾にして、自らのエゴから逃げ続けている怠慢』です」
「……っ」
美鈴の喉が、微かに鳴った。
「誰かを支えること、調和を保つことは美徳です。ですが、ソロアイドルとしてステージに立つ以上、その優しさはただの『逃げ』であり、観客に対する冒涜です! 君は手毬さんを引き立て役にすることで、自分が主役として全責任を背負う恐怖から目を背けてきた。『私はサポートだから』と一歩引くことで、負けた時の言い訳をあらかじめ用意していたんだ」
優の碧眼が、美鈴の心の最深部を抉るように見つめた。
「美鈴さん、ステージの上に立ったら、手毬さんのことも、僕のことも、客席の誰のことも気遣う必要なんてありません! 君のその圧倒的な包容力は、誰かに譲るためのクッションじゃない! 客席にいる何千人もの観客を、君一人の愛で窒息させ、平伏させ、すべてを奪い去るための凶器なんです!」
二人の少女は、完全に言葉を失っていた。
オブラートに包まない、剥き出しの真実。
痛くて、苦しくて、耳を塞ぎたくなるような言葉。
だが、その底に流れているのは、天宮優という男の、狂おしいまでの誠実さと、二人に対する無償の愛だった。
優は立ち上がり、二人の真ん中に立った。
そして、サファイアの碧眼に極限の情熱を宿し、魂の底から叫ぶように告げたのだ。
「二人とも――『自分自身の欲求に、素直になれ』!!」
その言葉が、防音室の壁をビリビリと震わせた。
「手毬さん! 君が本当に望んでいるものは何だ!? 誰にも負けたくないんだろう!? 世界で一番の歌姫になって、自分を切り捨てた奴ら全員を見返してやりたいんだろう!? だったら、失敗なんて恐れるな! 声が割れたっていい、ピッチが暴走したっていい! 君のドロドロとした飢えと悔しさを、そのままマイクに叩きつけろ!」
「美鈴さん! 君が本当に望んでいるものは何だ!? 手毬さんのお世話係で一生を終えたいのか!? 違うはずだ! 自分一人の歌で、世界中の視線を独占し、僕の心も観客の魂も、すべてを自分の愛で満たしたいんだろう!? だったら、手毬さんに遠慮するな! 泥臭い強欲さを曝け出して、全部を奪い取りにこい!」
優は両手を差し伸べ、二人の肩に力強く手を置いた。
「君たちがどれだけ泥に塗れようと、どんな醜い欲求を曝け出そうと、僕が絶対に受け止めて、世界で一番美しい音楽に変えてみせる! 僕を信じて、己の欲望のままに吼えろ!!」
ドクンッ、ドクンッ、と二人の胸の中で、心臓が爆発的な熱量を帯びて脈打ち始めた。
手毬の黒い瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
けれど、それは先ほどまでの絶望の涙ではなかった。
自らを縛り付けていた「完璧主義の檻」が、優の熱い叫びによって粉々に砕け散った瞬間の、魂の解放の涙だった。
「……っ、うああああっ……! 優さん……っ!!」
美鈴の黒い瞳にも、熱い光が宿り、陶器のような白い頬を朱色に染め上げていた。
「優しさ」という名の免罪符をかなぐり捨て、自らの内に眠る強欲な獣の咆哮を認めた瞬間の、戦慄的な歓喜。
「ふふ……っ、あは……っ、優さん……っ!!」
迷える二頭の小羊たちの瞳に、かつてないほど獰猛で、美しく、純粋な野生の光が灯っていた。
優はその二人の表情を見届け、ふっと口元に不敵で温かな笑みを浮かべた。
そして、防音ドアを開け放ち、コントロールルームの巨大なミキシングコンソールを指し示したのだ。
「――さあ、行こうか。これから、二人のその頑固な殻を、徹底的に叩き壊すレッスンを始めるよ」
「……望むところよ、優さんっ!」
手毬が涙を乱暴に拭い、炎のような瞳で立ち上がった。
「ええ、私のすべてを奪っていただきますよ、優さん」
美鈴もまた、妖艶なまでの笑みをたたえて歩み出した。
青山の地下要塞スタジオに、真の覚醒を告げる旋律が響き渡ろうとしていた。
プロデューサー・天宮優の手によって導かれた二人の歌姫の魂が、六月の決戦へ向け、いま決定的な脱皮を果たそうとしていた。