学マス~チートPと一緒に初星学園を無双する話~ 作:みちみちお
防音室の対話を終えた直後の地下要塞スタジオには、張り詰めた静寂と、静かに沸騰し始めた強烈な熱気が充満していた。
青山の広大な敷地の最深部、外界のあらゆる音や振動を完全に遮断したその空間で、天宮優はコンソール卓のマスター電源を投入した。
カチリ、と静かなスイッチ音が響くと同時に、Neveのアナログミキシングコンソールに組み込まれた数十個のVUメーターが一斉に美しく跳ね上がり、ラックマウントされた真空管アウトボード群が淡い琥珀色の光を灯す。
「さあ、二人とも。頭で理解しただけでは意味がありません。その理解を、身体の隅々の神経に、声帯の細胞一つひとつにまで叩き込みますよ」
優は背筋を正し、サファイアのような碧眼を二人へと向けた。
目にかからない長さに切り揃えられた白銀の髪が、微細な空調の風にさらりと揺れる。その佇まいには、先ほど防音室で二人を揺さぶった情熱の残り香と、プロデューサーとしての冷徹で神聖な集中が同居していた。
「まずは、手毬さんからいきます。ブースへ入ってください」
「――はいっ!」
手毬は迷いのない足取りでガラス張りのレコーディングブースへと飛び込んだ。
腰まで届く漆黒のウェーブヘアを揺らし、一本一千万円は下らないヴィンテージのNeumann U47の前に立つ。
ヘッドホンを両耳に装着した手毬の黒い瞳には、昨夜の迷いや絶望の影は微塵も残っていなかった。あるのは、自らを縛り付けていた檻を破壊しようとする、剥き出しの闘志だけだった。
コントロールルームのガラス越しに、手毬を見つめる優。
その隣の革張りソファには、秦谷美鈴が静かに腰掛けていた。美鈴は膝の上で両手を揃え、ブースの中に立つ手毬の姿を、息を凝らして見つめている。
優はトークバックのスイッチを押し込み、マイクへ向かって声を吹き込んだ。
『手毬さん、聴こえますか』
「ええ、バッチリよ! 早くオケを流しなさい、優さん! 私の全部をぶつけてやるんだから!」
手毬がマイクスタンドに手をかけ、前のめりに叫ぶ。
だが、優はその気迫に流されることなく、あえて低く、冷徹なまでの厳しさを含んだ声をヘッドホンへと届けた。
『焦らないでください。……手毬さん、君は先ほど、美鈴さんに甘えていた自分に気づいたはずだ。では、もう一度問います。君にとって、そこに座っている秦谷美鈴という存在は、一体何なんですか?』
「え……?」
手毬の動きが止まった。
優の碧眼が、ガラス越しに手毬の心臓を刺し貫くように細められる。
『君にとって秦谷美鈴は、ただの自分の甘えを受け止めてくれる、都合のいい幼馴染なんですか?』
「――っ!?」
手毬の肩が、激しく跳ね上がった。
トークバックから流れる優の声は、手毬のプライドの最も柔らかい部分を、容赦なく抉り出していた。
『後ろを振り返ればいつでもそこにいて、自分がどれだけバランスを崩しても優しく受け止めてくれるクッション。自分の機嫌を取ってくれて、美味しいご飯を作ってくれて、失敗した時には慰めてくれる都合のいい逃げ場所――君にとっての美鈴さんは、そんな生ぬるい存在なんですか!?』
「ち、違う……!」
手毬がマイクに向かって叫んだ。
「違うわよ! 美鈴はそんな……っ!」
『違うだろう!!』
優の怒号にも似た強烈な檄が、ヘッドホンを突き破らんばかりに手毬の鼓膜を打った。
普段の穏やかで優しい天宮優からは想像もつかない、魂を揺さぶるプロデューサーの咆哮。
『彼女は、中等部で君と共に頂点を目指し、同じ痛みを分け合い、そして今、同じ事務所でトップアイドルを目指して命を削っている表現者だ! 君がその甘ったれた関係に胡坐をかいている間にも、彼女は自らの弱さと向き合い、君を追い落としてでも一番になる覚悟を固めているんだぞ! 彼女は君の保護者じゃない! 君の持てるすべてを懸けてぶつかり、叩き潰さなければならない、世界で一番手強いライバルのはずだ!!』
「――ライ、バル……っ!」
手毬の視線が、ガラスの向こう、優の隣に座る美鈴へと突き刺さった。
美鈴もまた、大きく目を見開き、ブースの中の手毬を真っ直ぐに見つめ返していた。
そこには、いつものおっとりとしたお世話係の眼差しはなかった。一人の誇り高きアイドルとしての、鋭く研ぎ澄まされた光が、美鈴の黒い瞳の奥で青白く揺らめいていた。
ドクンッ、と手毬の全身の血が逆流した。
そうだ。
自分は何をしていたのだ?
美鈴の優しさに寄りかかり、「一番は私だ」と口先だけで威張り散らし、その実、美鈴という絶対の味方がいるという安心感に逃げ込んでいただけではないか。
美鈴は、そんな手毬の甘えを許すほど安っぽい相手ではない。自分と同じだけの才能と、自分以上の包容力を持つ、恐るべき歌い手なのだ。
(負けたくない……っ!)
手毬の胸の奥底で、かつてないほど純度の高い、獰猛な炎が燃え盛った。
美鈴に気を遣うな。美鈴に甘えるな。
この歌で、目の前の秦谷美鈴を完全に圧倒し、ひれ伏させてやるのだ!
『音程を気にするな! フォームの崩れを恐れるな! 君の全存在を懸けて、隣のライバルをねじ伏せる歌を叩きつけろ、手毬さん!!』
優がコンソールの再生ボタンを力強く叩きつけた。
激しいディストーションギターと、地鳴りのようなドラムビートがヘッドホンを支配する。
手毬は息を深く吸い込んだ。
背中側の肋骨が開き、肺の底まで冷たい空気が満ちる。
音程を合わせようという計算は、脳内から完全に消え去っていた。
ただ、美鈴に負けたくない。優の一番になりたい。世界中の誰よりも高く跳んでみせる――その純粋な渇望だけを喉の奥に凝縮させ、手毬は咆哮した!
「――立ち止まる暇なんてない! 燃え尽きるまで、叫び続けろぉぉぉっ!!」
スタジオの防音ガラスが激しく震えた。
解き放たれたのは、これまでの手毬の歌声を根底から覆す、圧倒的な熱量を帯びた絶唱だった。
ピッチの正しさに縛られない、剥き出しのパッション。
だが、昨夜のようにただ声を張り上げて自滅する荒削りな絶叫ではない。
優の指先が、神がかり的なスピードでミキシングコンソールの上を舞っていた。
『音楽に愛されし者』としてのチート能力が、手毬の感情の爆発をリアルタイムで解析し、Neumann U47の入力信号を至高の真空管回路を通して極限の音楽性へと調声(ミックス)していく。
(……あ……っ!?)
歌いながら、手毬自身の全身を、鳥肌が立つような戦慄が駆け抜けていた。
変わっている。
自分の歌が、信じられないスピードで変わっていくのを、皮膚感覚で実感していた。
喉の締め付けが、完全に消え去っている。
失敗を恐れる臆病さを捨て、美鈴というライバルを倒すことだけに意識を集中させた瞬間、声帯のリミッターが跡形もなく吹き飛んでいたのだ。
声が太い。倍音がどこまでも伸びていく。
頭蓋の奥で共鳴した音のエネルギーが、天井を突き破り、無限の夜空へと解き放たれていくような全能感。
「――私の道は、私が決める! 誰も邪魔させない、私の歌を聴けぇぇぇぇっ!!」
最高音へと駆け上がるラストのロングトーン。
それは、型にはまった優等生の殻を粉々に砕き、ソロアイドル・月村手毬という唯一無二の怪物が産声を上げた瞬間だった。
伴奏が静かに終わりを告げ、ブース内に手毬の激しい呼吸音だけが響く。
手毬はマイクの前で肩を上下させながら、自らの両手を見つめた。
指先が、心地よい痺れを帯びて震えている。
(できた……。私、殻を破れた……っ!)
トークバックから、優の低く、けれど心からの熱を帯びた声が響いた。
『……見事です、手毬さん。君の本当の魂の歌が、今、ここに鳴り響きましたよ』
手毬は顔を上げ、ガラス越しに美鈴を見据えた。
肩で息をしながら、手毬は不敵に、獰猛に口元を吊り上げてみせた。
「……どうよ、美鈴。私の歌は」
その挑発的な視線を受け止めた美鈴は、息を呑み、そして静かに立ち上がった。
「素晴らしいです、まりちゃん」
美鈴の口元に、花が綻ぶような、けれどどこまでも冷徹で妖艶な笑みが浮かんでいた。
「鳥肌が立ちました。……けれど、私に勝てると思ったら、大間違いですよ」
ブースのドアが開き、手毬と美鈴がすれ違う。
言葉は交わさない。
だが、肩が触れ合った瞬間、二人の間を火花のような緊張感が駆け抜けた。
「気を遣い合う幼馴染」の仮面は、完全に剥ぎ取られていた。そこにいたのは、互いの喉笛に食らいつく覚悟を決めた、対等な「ライバル」同士だった。
美鈴はブースに入り、Telefunken ELA M 251の前に凛と立った。
ヘッドホンを装着し、髪を耳にかける。
コントロールルームに戻った優は、コンソールのセッティングを瞬時に美鈴専用のプロファイルへと切り替えた。
そして、トークバックのスイッチを押し、ブース内の美鈴を真っ直ぐに見据えた。
『美鈴さん』
「はい、優さん」
『手毬さんの覚醒を目の当たりにして、どう感じましたか』
「……凄まじい熱量でしたね。あの子のあの歌声を前にしては、並のアイドルなら委縮して逃げ出してしまうでしょうね」
『ええ。ですが、君は逃げない。逃げてはならないんです』
優の声が、再び鋭く研ぎ澄まされた。
『美鈴さん。君の心の中に巣食っていた甘えは、手毬さんを優先することによる自己防衛でした。他人に譲ることで、負ける恐怖から逃げていた。……ですが、今の彼女を見ましたね? 手毬さんはもう、君の保護を必要としていない。君の支えがなくても、一人で立ち上がり、世界を薙ぎ払う牙を手に入れたんだ』
美鈴の黒い瞳が、微かに揺れる。
優は間髪を入れずに、美鈴の魂へ向けて決定的な檄を叩き込んだ。
『もっと我がままになっていい!!』
優の激しい言葉が、ブース内の空気を切り裂いた。
『他人の顔色を窺うな! 手毬さんに遠慮するな! 観客の機嫌を取るな! 君が本当に求めているものは、誰かの引き立て役なんかじゃないはずだ! 世界中の視線を自分一人で奪い去り、僕の瞳も、観客の心も、すべてを自分の愛で満たしたいんだろう!? だったら、その泥臭い独占欲を、剥き出しの我欲を、全部このマイクに叩きつけろ! 秦谷美鈴という、一人の人間の本気を見せてみろ!!』
「――っ……!!」
美鈴の胸の奥底で、何かが音を立てて粉々に砕け散った。
我がままになっていい。
秦谷美鈴を見せろ。
十五年間、ずっと押し殺してきた言葉だった。
良家の娘として、手毬のお世話係として、「いい子」であり続けなければ愛されないと信じ込んできた美鈴の心の枷が、優の魂の叫びによって跡形もなく消滅したのだ。
(そう……私は、欲張りなのです……っ)
美鈴の唇から、熱いため息が漏れ出た。
まりちゃんに一番の座を譲る気なんて、最初から一ミリもありませんでした。
優さんの隣も、ステージの中央も、世界中の愛も、すべて私一人のものにしたいのです。
その強欲さこそが、秦谷美鈴という女の、本当の魂の形だったのだ。
「……優さん。私のすべてで……あなたを、平伏させて差し上げますね」
美鈴の黒い瞳に、妖艶で獰猛な絶対の光が宿った。
優がコンソールを操作し、重厚で切ないストリングスとピアノのトラックを再生した。
美鈴は静かに目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
誰かのための呼吸ではない。自らのエゴを解き放つための、深く、静かな吸気。
そして、唇が開かれた。
「――瞳を閉じて、私の声だけを聴きなさい……あなたの孤独を、すべて奪い去ってあげるから――……」
その瞬間、地下スタジオの空気が、甘美な毒で満たされたかのように劇変した。
シルクのように滑らかで、蜜のように甘く、そして逃げ場のないほど重厚な包容力。
優のリアルタイムな神調整によって、Telefunken ELA M 251が捉えた美鈴の声は、極上の艶と立体感を伴ってコントロールルームへと降り注いだ。
ウィスパーボイスから力強いチェストボイスへの移行は完璧にシームレスであり、一音一音に宿る感情の重みが、聴く者の胸を強く締め付ける。
コントロールルームのソファで聴いていた手毬が、息を呑んで立ち上がった。
(な……何、この歌……っ!?)
手毬の全身に、鳥肌が立った。
いつもの美鈴の、控えめで優しい歌声ではない。
聴く者すべての心を絡め取り、自らの腕の中に閉じ込めて離さないような、圧倒的な「支配」のボーカル。
力でねじ伏せる手毬の歌とは対極にある、愛という名の底なし沼へ引きずり込むような、恐るべきソロパフォーマンスだった。
「――迷わないで、怯えないで……私の愛の中で、溺れなさい――……っ!!」
美鈴が目を開け、ガラス越しの優を真っ直ぐに見つめながら歌い上げたクライマックス。
その表情には、誰の引き立て役でもない、世界の中心に君臨する至高の主役の輝きが宿っていた。
最後の余韻が消え去り、スタジオに完全な静寂が戻った。
美鈴はヘッドホンを外し、胸元を押さえながら、紅潮した顔で小さく息を吐いた。
「……ふふっ。これが……本当の、私……」
美鈴がブースから出てくると、そこには手毬が待ち構えていた。
二人の視線が、至近距離で真正面から激突する。
「……やるじゃない、美鈴。あんな恐ろしい声出せるなんて、本当に反則よ」
手毬が悔しそうに、けれど誇らしげに唇を噛んだ。
美鈴もお淑やかに微笑みながら、一歩も引かずに手毬を見据えた。
「まりちゃんこそ。あの魂を削るような絶唱、本当に痺れましたよ。……でも、六月の実力発表ライブで勝つのは、私です。優さんの隣も、トップの座も、まりちゃんには絶対に譲りませんからね」
「望むところよ! 私だって、あんたなんかに負ける気は一ミリもないんだから!!」
バチバチと火花を散らしながら、二人は同時に不敵な笑みを浮かべた。
そこには、過去の傷に怯える姿も、互いに気を遣い合う甘えも、何一つとして存在しなかった。
互いの実力を認め合い、だからこそ絶対に負けたくないともがき合う、本物の「ライバル」としての覚醒。
二人の少女は、ついに自らを縛り付けていた古い殻を完全に打ち破り、真のソロアイドルとしての第一歩を踏み出したのだ。
コンソールの前に立つ優は、そんな二人を見つめながら、サファイアの碧眼を細めて深く微笑んだ。
その胸中には、プロデューサーとしての震えるような手応えがあった。
「諦めればそこでお終いだ。泥臭くてもいい。それで前に進めるなら僕は惨めでも歩み続ける」
優の信条は、いま確かに二人の少女の魂へと受け継がれていた。
青山の地下要塞スタジオに響き渡った二つの覚醒の歌声。
二人の個性が極限まで研ぎ澄まされた今、次なる舞台――六月の「実力発表ライブ」へ向けた準備は、いよいよ最終段階へと突入しようとしていた。