学マス~チートPと一緒に初星学園を無双する話~ 作:みちみちお
六月の「実力発表ライブ・学期成績判定」を目前に控えた初夏の午後、青山の閑静な住宅街に佇む白亜の大豪邸は、外の柔らかな日差しとは完全に切り離された、厳かな静寂に包まれていた。
地下要塞スタジオへと続く厚さ数十センチの特注二重防音扉の向こう側――そこには、数日間に及ぶ徹底的な事前レッスンを終え、いよいよ運命のレコーディング本番を迎えた三人の姿があった。
コントロールルームの照明はわずかに落とされ、Neveの巨大アナログミキシングコンソールや、整然と並ぶ伝説的なアウトボード群のVUメーターが、生き物のように淡い光の針を揺らしている。
ガラスで仕切られた広大なレコーディングブースの中央。そこに据えられた一本のマイクロフォンの前に、月村手毬は一人、凛として立っていた。
半世紀以上前の奇跡的なコンディションを保つ、一本一千万円は下らないヴィンテージのNeumann U47。
以前その前に立った時には「触れるだけで壊してしまいそう」と怯えていた手毬だったが、今の彼女の佇まいには、恐れも躊躇いも一片たりとも存在しなかった。
黒のシンプルなレッスンウェアを身にまとい、腰まで届く漆黒のウェーブヘアを背中へと流している。
手毬はヘッドホンを両耳にしっかりと当て、目を閉じて深く息を吸い込んだ。
背中側の肋骨が大きく開き、肺の最深部まで澄んだ空気が満ちていく。
自らの心臓の鼓動を整えるように、ゆっくりと、長く息を吐き出す。
カチリ、と静かなスイッチ音がヘッドホンから鳴り響いた。
コンソール卓のトークバックマイクを通じて、天宮優の穏やかで透き通るような声が、手毬の耳元へと届く。
『手毬さん、調子はどうですか?』
防音ガラスの向こう側で、椅子に腰掛けた優がサファイアのような碧眼を優しく細めて手毬を見つめていた。
目にかからない長さに切り揃えられた白銀の髪が、間接照明を浴びて淡く輝いている。二十歳という実年齢以上の落ち着きと、音楽のすべてを掌握する絶対的な信頼感が、その佇まいから溢れ出ていた。
そして優のすぐ隣には、秦谷美鈴がお淑やかに座り、祈るように両手を胸の前で重ねて手毬を見守っている。
手毬は目を開け、ガラス越しの優を真っ直ぐに見据えた。
「……バッチリよ、優さん。声も、身体も、完全に温まってる。いつでもいけるわ」
『いい返事ですね。……それじゃあ、魔法の時間を始めましょうか』
優が柔らかく微笑み、コンソールのマスターフェーダーに指先を滑らせた。
その言葉とともに、スタジオ全体の空気がふわりと変化したのを、手毬は皮膚感覚で感じ取った。
ただの録音作業ではない。天宮優という稀代の天才プロデューサーが、一人の歌姫の魂をこの世で最も美しい奇跡へと仕立て上げるための、特別な儀式が幕を開けたのだ。
優の的確なディレクションが、トークバックを通じて手毬の意識へと直接染み渡っていく。
『手毬さん。ピッチの狂いやリズムのズレを気にして、声を小さくまとめる必要は一切ありません。君の歌う『Luna Say Maybe』は、完璧な機械の演奏じゃない。不器用で、言葉足らずで、不安を抱えながらも、それでも前へ進む君自身の命の叫びです。……君が震える背中を僕に預けてくれるなら、僕がコンソールの上で、そのすべてを世界で一番美しい音楽へと完璧に受け止めます。だから、君の胸の中にあるドロドロとした悔しさも、ライバルへの闘志も、僕に届けたい想いも、何もかもを曝け出して叫んでください』
優の言葉は、手毬の心の奥底に張り巡らされていた最後の躊躇いを、跡形もなく溶かし去っていった。
手毬の黒い瞳に、滾るような情熱の炎が宿る。
「……ええ、任せなさい。私の全部……優さんに受け止めてもらうんだから!」
優がコンソールの再生ボタンを押し込んだ。
ヘッドホンの奥で、澄み渡るピアノの硬質な単音が、静寂を切り裂いて手毬の鼓膜を打った。
世界最高峰の音響空間の中で、手毬はマイクへと一歩近づき、唇を開いた。
囁くような、けれど強烈な存在感を放つ吐息混じりの第一声。
その瞬間、ドォォォンッ!! と重低音のビートが爆発し、オルタナティブ・ロックの強烈なディストーションギターと、疾走するドラム、そして壮大なシンフォニック・ストリングスが一斉に解き放たれた。
手毬の全身の血が沸騰した。
前奏の疾走感に背中を押されながら、手毬は自らの喉を、身体を、魂のすべてを音の海へと投げ出した。
自分は本当に大丈夫なのかと自問自答し、きっとうまくやれるはずだと強がりながら、息継ぎすら忘れてがむしゃらに走り続けてきた日々。終わりが来ても寂しくなんてないと虚勢を張り、本当の痛みを心の奥底に押し込めてきた孤独。自分自身のことすら愛せない不器用な自分が、大切な誰かとの約束を守り抜けるのだろうかと震える葛藤――そのすべてを、手毬は剥き出しの歌声に乗せて解き放った。
手毬の歌声が、Neumann U47のダイアフラムを激しく震わせる。
それは、かつて彼女が歌っていたような、型にハマった冷たい優等生の歌声ではなかった。
音程を外すことへの恐怖を完全にかなぐり捨てた、剥き出しの感情の奔流。
掠れ、息を呑み、言葉の一つひとつに胸の痛みを乗せながらも、圧倒的な推進力をもってメロディを駆け上がっていく。
コントロールルームのコンソール前で、優の指先が神がかり的なスピードで舞っていた。
『音楽に愛されし者』としてのチート能力が、手毬の放つ膨大な音のエネルギーをリアルタイムで解析し、極限の「神調整」を施していく。
手毬が感情を爆発させて声門を強く鳴らしても、ヴィンテージの真空管回路がその過剰なピークを太く温かみのあるアナログの粘りへと変換し、耳障りな角を滑らかに削ぎ落とす。
彼女の息の流速、共鳴腔の開き具合に合わせて、リアルタイムでモニター音のイコライジングとリバーブの深さが最適化されていく。
(――っ!? 声が……どこまでも飛んでいく……っ!)
歌いながら、手毬は自らの内に湧き上がる強烈な衝撃に震えていた。
苦しくない。
痛くない。
あんなにも自分を苦しめていた喉の抵抗感が、完全に消え去っていた。
自分が感情を込めて声を解き放てば解き放つほど、ヘッドホンから返ってくる音は、自分自身の魂を丸ごと肯定してくれるような、信じられないほどの極上の艶と輝きを帯びて耳朶を打つ。
サビの爆発。
手毬の喉から解き放たれたハイトーンのロングトーンは、ブースの防音ガラスを共鳴させ、スタジオ全体を満たした。
胸の奥から、熱い塊が込み上げてくる。
(楽しい……っ! 歌うことが……こんなにも楽しいなんて……っ!!)
手毬の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
けれど、その唇には、これまでの人生で一度も見せたことのないような、眩い満面の笑みが浮かんでいた。
中等部時代、完璧でいなければ見捨てられると怯え、仲間とぶつかり、孤独の中で喉を締め付けていたあの日々。
歌うことは、手毬にとって自らの存在価値を証明するための過酷な苦行であり、戦いだった。
だが今は違う。
自分を信じ、弱さも泥臭さもすべて受け止めてくれるプロデューサーがいて、隣で本気でぶつかり合える最高のライバルがいる。
自分のすべてを曝け出して、世界へ向けて声を届けることが、これほどまでに心地よく、幸福なことだったなんて知らなかった。
コントロールルームのソファでその姿を見つめていた秦谷美鈴は、両手で口元を覆い、目頭を熱く濡らしていた。
胸が熱くて、締め付けられるようだった。
(まりちゃん……っ)
美鈴の脳裏に、中等部時代の記憶が蘇る。
あの頃の手毬は、いつだって眉間に深い皺を寄せ、張り詰めた糸のような険しい顔をして歌っていた。
誰にも弱みを見せまいと虚勢を張り、喉を痛めつけ、苦しそうに自らを追い詰めていた親友の姿。
その手毬が――今、目の前のブースの中で、汗と涙で顔を濡らしながら、まるで大空へ解き放たれた小鳥のように、伸び伸びと、笑顔で歌っているのだ。
(あんなに険しい顔をして歌っていたまりちゃんが……あんなにも楽しそうに、幸せそうに歌っているなんて……)
美鈴の頬を、静かな涙が伝い落ちた。
ライバルとして絶対に負けたくないという闘志は確かに胸にある。けれどそれ以上に、幼馴染として、誰よりも手毬の苦しみを知っていたからこそ、彼女のこの眩しすぎる覚醒が、嬉しくてたまらなかったのだ。
そして、コンソール卓の前に座る天宮優もまた、手毬の歌声を全身に浴びながら、胸の奥底から込み上げる震えるような快感を噛み締めていた。
(……素晴らしい。本当に、気持ちがいい歌だ……)
優のサファイアの碧眼が、熱い光を宿して潤んでいた。
『音楽に愛されし者』としての研ぎ澄まされた聴覚が、手毬の声の細部を捉えている。
狂いのない正確さではない。わずかに揺れるピッチ、掠れるブレス、感情の昂りに合わせて跳ね上がるダイナミクス。そのすべてが、月村手毬という表現者の命の拍動そのものとして、完璧なグルーヴを紡ぎ出していた。
(今、この瞬間の手毬さんにしか出せない……正真正銘、最高の歌だ)
曲はCメロを越え、ラストのクライマックスへと突入していく。
手毬はマイクスタンドを両手で強く握りしめ、ガラス越しの優を真っ直ぐに見据えて、魂のすべてを叫び上げた。
最後のアウトロの轟音が、余韻を伴ってゆっくりとフェードアウトしていく。
そして、スタジオに完全な静寂が戻った。
ブースの中で、手毬はマイクを握りしめたまま、肩を激しく上下させて立ち尽くしていた。
全身から汗が噴き出し、胸元が激しく波打っている。
だが、その表情には、すべてを出し切った者だけが持つ、晴れやかな光が満ちていた。
トークバックのスイッチが入り、優の拍手とともに、心からの称賛の声が届いた。
『――お疲れ様でした、手毬さん。完璧です。奇跡のようなテイクが録れましたよ』
その声を聞いた瞬間、手毬の膝からふっと力が抜け、その場にへたり込みそうになった。
マイクスタンドにしがみつきながら、手毬は涙を拭って小さく笑った。
「……やり切ったわよ、優さん……っ」
ブースの重い防音扉が開き、手毬がコントロールルームへと戻ってきた。
美鈴がすぐに駆け寄り、冷たい水とタオルを手渡す。
「まりちゃん、本当に……本当に素晴らしかったですよ……!」
「美鈴……。ふん、あんたに褒められる筋合いはないわよ。でも……ありがとう」
素直になれない憎まれ口を叩きながらも、手毬は美鈴の差し出したタオルで顔を覆い、小さく息を整えた。
「さて……二人は少しソファで休んでいてくださいね」
優が椅子を引いて立ち上がり、コンソールのセッティングを整え始めた。
「今録音した最高のボーカルトラックを、僕が責任を持って、極限の音像へと仕上げますから」
ここからが、天宮優の真骨頂だった。
かつて伝説の覆面歌手「天月」として世を震撼させたチート能力――ミックスとマスタリングの「神調整」の時間が始まったのだ。
優の指先が、目にも留まらぬ速さでコンソールのフェーダー、特注のアナログイコライザー、ヴィンテージのコンプレッサーを操作していく。
手毬が放った感情の爆発を損なうことなく、周波数の濁りをミリ単位で排除し、ボーカルがオケの真ん中で圧倒的な存在感を放つよう音像を定位させる。
リバーブの減衰時間を曲のテンポとブレスの間隔に完全に同期させ、マスタリングコンプレッサーで全体の音圧を極限まで引き上げながらも、ダイナミクスの呼吸を決して殺さない。
一時間後。
優は最後のフェーダーから手を離し、小さく息を吐いた。
「……完成しました。聴いてみてください」
優がメインモニタースピーカーのボリュームノブを回し、再生ボタンを押した。
――その瞬間。
スタジオの特注大型スピーカーから、奇跡のような音が解き放たれた。
静寂を劈くピアノの一打。
息を呑むような手毬の囁き。
そして、押し寄せる怒涛のシンフォニック・ロックの音の壁。
その圧倒的なサウンドの中心で――月村手毬の歌声が、まるで生きた神話のように、艶やかで、力強く、どこまでも澄み渡る輝きを放って鳴り響いていた。
手毬の動きが、完全に凍りついた。
「……え……?」
手毬はソファから立ち上がり、スピーカーの前へとふらふらと歩み寄った。
信じられないものを見るように、両手で自らの口を塞ぐ。
「これ……本当に……私の、声なの……?」
掠れた声が、手毬の唇から零れ落ちた。
今まで聴いてきた、どんな自分の歌ともまるで違っていた。
中等部時代の録音とも、初星学園のレッスン室で録ったテイクとも、次元が違いすぎた。
そこにあったのは、完璧なピッチに怯える冷たいロボットの歌声ではない。
自分の傷も、焦燥も、弱さも、そして誰かを信じて前に進もうとする熱い命の叫びも、そのすべてが眩いばかりの光となって結晶化した、正真正銘の「月村手毬の魂」そのものだった。
サビの絶唱がスピーカーから響き渡った瞬間――。
「――っ、う……っ、ああああっ……!!」
手毬の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
もう、止めることができなかった。
手毬はその場にしゃがみ込み、両手で顔を覆って、子供のように声を上げて泣き崩れた。
「うわあああんっ……! ぐすっ、うっ……! 優さん……っ、優さん……っ!!」
悔しさの涙ではない。
孤独の涙でもない。
自らの歌が、自らの声が、こんなにも美しく、こんなにも誰かの胸を打つ本物の音楽になれたことに対する、魂の底からの震えと歓喜の涙だった。
自分を救ってくれた。
この銀髪碧眼のプロデューサーは、本当に自分を見捨てず、泥臭い歩みの果てに、最高の光を与えてくれたのだ。
優はしゃがみ込む手毬の前へと歩み寄り、そっと膝をついて、彼女の頭を優しく撫でた。
「手毬さん。これが、君の本当の力ですよ。君が自分の殻を破り、すべてを曝け出して歌ってくれたからこそ、この音が生まれたんです。……本当に、素晴らしい歌でした」
「ううっ……ひっく……ば、馬鹿ぁ……っ! 私、こんなに泣くつもり……なかったのにぃ……っ!」
手毬は泣きじゃくりながら、優のシャツの袖に顔を埋めた。
その隣で、美鈴もまた涙を拭いながら、優しく手毬の背中を撫でていた。
地下要塞スタジオに響き渡る、至高の旋律と、少女の嬉し涙。
月村手毬という歌姫は、天宮優の導きのもとで完全に覚醒し、自らの未来を切り拓く絶対の翼を手に入れたのだ。
そして――次なる運命のレコーディング、秦谷美鈴の『シオン』の刻が、静かに近づいていた。