学マス~チートPと一緒に初星学園を無双する話~ 作:みちみちお
月村手毬の魂を揺さぶる『Luna Say Maybe』のレコーディングが終わり、地下要塞スタジオの張り詰めた空気は、温かな感動の余韻に包まれていた。
コントロールルームのソファで、泣きはらした目をハンカチで押さえながらミネラルウォーターを飲む手毬。その横顔には、これまでの頑なな迷いや焦燥は消え去り、自らの限界を打ち破った表現者としての誇らしげな光が宿っていた。
「……さて、手毬さん。喉をしっかり休めていてくださいね」
天宮優はコンソール卓の椅子から立ち上がり、手元に用意していた温かいハーブティーの入ったマグカップを、隣に静かに佇んでいた秦谷美鈴へと差し出した。
「美鈴さん、お待たせしました。準備はいいですか?」
「はい、優さん。ずっと、心待ちにしておりましたよ」
美鈴は両手でマグカップを受け取ると、ふわりと花が綻ぶような、けれどどこか研ぎ澄まされた艶やかな微笑みを浮かべた。
黒髪のセミロングを耳にかけ、若草色のワンピースの裾を優雅に整える。
その所作はお淑やかそのものだったが、切れ長の黒い瞳の奥底には、手毬の熱狂的な覚醒を目の当たりにしたことで静かに着火した、青白く獰猛な炎が揺らめいていた。
美鈴はハーブティーをゆっくりと喉へ通し、温もりを行き渡らせると、カップをサイドテーブルへ置いた。
そして、迷いのない足取りでガラス張りのレコーディングブースへと歩みを進めた。
重厚な防音扉が閉ざされ、ブース内に完全な静寂が訪れる。
ブースの中央に据えられているのは、淡いミントグリーンのボディに金色のメッシュグリルが輝く、伝説のヴィンテージコンデンサーマイク――Telefunken ELA M 251。
手毬が使用したNeumann U47と並び称される、世界最高峰の真空管マイクである。シルクのようにきめ細やかな高音域の抜けと、聴く者をふわりと抱きしめるような甘く芳醇な中音域を捉えることにかけて、このマイクの右に出るものは存在しない。
美鈴はヘッドホンを両耳に装着し、マイクの正面へと凛と立った。
胸元にそっと手を当てる。
心臓が、力強く、けれどどこまでも熱く脈打っていた。
(まりちゃんの引き立て役だった、あの秦谷美鈴は……もう死にました)
美鈴は瞳を閉じ、自らの胸の内にある感情を一つずつ確かめるように息を吸い込んだ。
中等部時代から続けてきた、誰かの顔色を窺い、誰かに譲ることで保ってきた安寧の殻。それを優の言葉によって粉々に砕かれたあの日から、美鈴の心には、新しい命が息づいていた。
誰かの後ろに隠れるのは、もう終わりです。
秦谷美鈴という一人のアイドルとして、世界中の誰よりも美しく、誰よりも眩しく輝いてみせます。
そして――何よりも。
美鈴は瞼を開け、防音ガラスの向こう側を見つめた。
コントロールルームのコンソール卓の前に座る、白銀の髪とサファイアの碧眼を持つ青年――天宮優の姿。
家事が壊滅的で、一人では冷たいご飯ばかり食べていた、危なっかしい人。
それなのに音楽と向き合えば神のように完璧で、自分たちの痛みに泥臭く寄り添い、絶対に手を離さないと誓ってくれた、誠実で愛おしいプロデューサー。
(優さん……。私の歌を、私のすべてを……あなたに捧げます)
胸の奥で渦巻く、甘く、切なく、そして底なしに深い恋心。
その密やかな熱情が、歌うことへのハングリーさと完全に溶け合い、美鈴の全身を熱く満たしていった。
カチリ、とトークバックのスイッチ音がヘッドホンに響いた。
優の、どこまでも穏やかで澄んだ声が耳朶を打つ。
『美鈴さん、聴こえますか』
「はい、優さん。とてもよく聴こえております」
美鈴がお淑やかに微笑むと、ガラス越しの優も柔らかく目を細めた。
だが、優のサファイアの碧眼は、すぐにプロデューサーとしての鋭利な光を宿した。
的確で、核心を射抜くディレクションが始まる。
『美鈴さん。君が歌う『シオン』は、ただ哀しいだけの別れの歌ではありません。大切なものを失う痛みに怯え、引き立て役に回ることで自分を守ろうとしていた過去の自分への決別であり……同時に、誰かを愛し、求めてやまない剥き出しのエゴの歌です。
……他人に遠慮する必要はどこにもありません。手毬さんを気遣う優しさも、僕に対する遠慮も、すべてこのブースの外に脱ぎ捨ててください。
君の持てるすべての愛しさと、独占欲と、我がままな情熱を……そのマイクに、すべて注ぎ込んでください』
優の言葉が、美鈴の魂の最後の鍵を開け放った。
美鈴の唇が、妖艶なまでの笑みを形作る。
「……ええ、優さん。私のすべてで、あなたの心を奪い去って差し上げますね」
優がコンソールの再生ボタンを押し込んだ。
ヘッドホンの奥から、静寂を濡らすように、繊細で切ないピアノの独奏が流れ出した。
一音一音が涙のように零れ落ち、夕暮れの淡い茜色と群青色のグラデーションが、スタジオの空気を満たしていく。
美鈴は静かに目を伏せ、息を吸い込んだ。
深く、静かに、自らの心臓の熱を喉へと手繰り寄せる。
そして――唇が開かれた。
その瞬間、コントロールルームの空気が、息を呑むような甘美な密度で凍りついた。
(――っ!?)
コンソール卓の前に座る優の身体が、微かに強張った。
サファイアの碧眼が、驚愕と戦慄で見開かれる。
声が、あまりにも艶やかだった。
ウィスパーボイスのように繊細で、吐息の混ざり合った柔らかな響きでありながら、音の芯が驚くほど太く、聴く者の耳朶へ滑らかに絡みついてくる。
Telefunken ELA M 251の真空管回路が捉えた美鈴の歌声は、シルクのような微細な倍音を無限に放ち、スタジオ全体の空気を陶酔で支配していくかのようだった。
AメロからBメロへと進むにつれ、タイトなベースとエモーショナルなドラムが重なり、ビートが感情の昂りを煽っていく。
美鈴の歌声は、ピアノロックの疾走感に決して埋もれることなく、むしろその波に乗ってどこまでも高く、深く飛翔していった。
(……凄いな)
優はコンソールのフェーダーに手を添えたまま、内心で激しく唸っていた。
『音楽に愛されし者』としての至高の聴覚が、美鈴の声の劇的な変貌を克明に捉えている。
かつての美鈴の歌にあった、手毬を優先し、一歩引いて調和を取ろうとする「遠慮」の影が、完全に消滅していた。
そこにあるのは、聴く者すべての孤独と痛みを包み込み、自らの腕の中に閉じ込めて離さないという、圧倒的な母性と強欲な独占欲。
そして何より――歌声の端々に宿る、狂おしいほどの熱情。
優への密かな恋心と、「私が一番輝く」という揺るぎない覚悟が、一音一音に濡れたような色気を宿らせていた。
(殻を……完全に破ったな)
優の口元に、震えるような笑みが零れ落ちた。
ただ指導された通りに歌っているのではない。秦谷美鈴という一人の少女が、自らの命の形を、泥臭いエゴを、至高の芸術へと昇華させているのだ。
(……底知れない才能だ。これから先、この子が一体どこまで高く飛んでいくのか……楽しみで仕方がないな)
プロデューサーとしての底知れない歓喜と誇らしさが、優の胸を満たしていった。
一方、コントロールルームのソファでその歌声を聴いていた月村手毬は、息をすることすら忘れて硬直していた。
膝の上で握りしめた拳が、小刻みに震えている。
(なによ……なんなのよ、この歌……っ!)
手毬の全身に、激しい鳥肌が立っていた。
唸らずにはいられなかった。
力でねじ伏せ、魂の叫びを真っ直ぐに突き刺す自分の『Luna Say Maybe』とは、完全に正反対の極北にある表現。
聴く者の心の最も柔らかい部分を優しく撫で、涙を誘い、逃げ場のない愛で包み込んでしまうような、恐るべき支配力。
(……さすがは、私のライバルね)
手毬の唇が、悔しさと、そして抑えきれない興奮で歪んだ。
(こんな味……私には絶対に逆立ちしたって出せないわ。あんな顔をして、あんな声を隠し持っていたなんて……!)
かつての中等部時代、互いに気を遣い合って本気を出せなかった幼馴染が、今、目の前で本物の怪物の姿を現している。
その事実が、手毬の闘争心に火をつけると同時に、ライバルとしての深い敬意を抱かせていた。
曲は、切なさが極限まで張り詰めるサビへと突入した。
美鈴はマイクの前で胸元をぎゅっと掻きむしり、ガラス越しの優のサファイアの瞳を真っ直ぐに見つめながら、魂を絞り出すように歌い上げた。
切なさに胸が張り裂けそうなメロディ。
自分のことは忘れてほしいと儚げに歌い上げながら、その瞳は「決して私を忘れないで、私だけを見つめて」と、狂おしいほどに叫んでいた。
その矛盾に満ちた愛の痛みが、ELA M 251を通して、スタジオの空間を震わせる。
そして曲は展開し、激情のラストサビへ。
無理に前を向けと言わない。傷ついた過去を無理に忘れろとも言わない。
ただ、その愛しさと痛みを抱きしめたまま、いつかまた笑顔で再会する日を願うことで、結果的に前を向かせてくれる奇跡のようなエモーション。
美鈴の瞳から、大粒の涙が零れ落ち、マイクの金色のメッシュグリルを濡らした。
最後のロングトーンが、消え入りそうなピアノの余韻とともに、静寂の彼方へと溶け去っていく。
スタジオに、完全な静寂が戻った。
ブースの中で、美鈴はマイクの前で立ち尽くし、肩を小さく上下させていた。
ヘッドホンを外し、自らの胸元を押さえる。
すべてを出し切った。自分の十五年間の人生のすべてを、優への秘めた想いも、一番になりたいという強欲なエゴも、一滴残らずあの歌の中に注ぎ込んだのだ。
カチリ、とトークバックのスイッチが入り、優の拍手とともに、深く震えるような声が響いた。
『……本当に、素晴らしかったです、美鈴さん。完璧です。……僕自身が、魂を奪われそうになるほどの、至高の名演でしたよ』
優のその言葉を聞いた瞬間、美鈴の張り詰めていた糸がふっと緩み、口元に安堵の笑みが零れた。
「……ありがとうございます、優さん」
ブースの防音扉が開き、美鈴がコントロールルームへと戻ってきた。
手毬がすぐに立ち上がり、ミネラルウォーターのボトルを美鈴の手へと押し付けた。
「ほら、飲みなさいよ美鈴。……凄かったわよ、あんたの歌。悔しいけど、鳥肌が止まらなかったわ」
「ふふ、まりちゃんにそう言っていただけるなんて、光栄ですね」
美鈴は水を一口含み、手毬と視線を交わして微笑み合った。
そこには、互いの本気を認め合った二人にしか分からない、確固たる絆があった。
「さて……手毬さん、美鈴さん。少し待っていてくださいね」
優がコンソールの前に座り直し、真剣な表情でフェーダーを握った。
「今録った最高の歌声を、僕が完璧な一つの世界へと仕上げますから」
ここから、優によるミックスとマスタリングの「神調整」が始まった。
『音楽に愛されし者』としての才能が、美鈴の歌声の微細な空気感を余すところなく引き出していく。
ELA M 251の捉えた艶やかな中高域を損なうことなく、ピアノの打鍵音と美しく調和させ、ストリングスの広がりの中に美鈴の声が凛と浮かび上がるよう、周波数と空間の定位をミリ単位で整えていく。
切なさと温もりが共存する、奇跡のような音像空間が構築されていった。
一時間後。
優が最後のノブから手を離し、椅子の背もたれに深く身を預けた。
「……完成しました。聴いてください、『シオン』です」
優がメインモニタースピーカーの再生ボタンを押した。
――その瞬間。
スピーカーから解き放たれたのは、息を呑むほどに、あまりにも美しい音の世界だった。
透明感あふれるピアノのイントロから、美鈴の吐息混じりの第一声が重なる。
その歌声の艶やかさ、切なさ、そして胸を締め付けるエモーションは、先ほどブースの中で聴いていた生歌の何倍もの解像度と輝きを放ち、聴く者の魂を丸ごと包み込んでいく。
ただ悲しいだけではない。痛みを抱きしめながら、静かに、けれど力強く前へ歩き出すための、圧倒的な光がそこに鳴り響いていた。
曲がクライマックスの大サビを迎え、最後のアウトロが静かに消え去った時――。
「…………っ、う……っ」
美鈴の口から、小さな嗚咽が漏れた。
黒髪の少女は両手で顔を覆い、肩を震わせて泣き崩れたのだ。
「美鈴……?」
手毬が驚いて美鈴を見つめる。
美鈴の指の隙間から、大粒の涙が止めどなく零れ落ちていた。
「……あんなにも……あんなにも美しい曲を……私が、歌えたなんて……っ。私……ずっと、誰かの後ろにいればいいと思って生きてきましたのに……こんなにも、自分自身の歌を愛せる日が来るなんて……っ」
幼い頃から自らを縛り付けていた諦めと甘え。それらをすべて脱ぎ捨て、一人の表現者として生まれ変われたことへの、震えるような感動と歓喜の涙だった。
その美鈴の姿を見て、手毬は呆れたように眉を下げ、けれどどこまでも温かな苦笑いを浮かべた。
「……もう、なによ美鈴。さっき私のこと散々からかってたくせに……あんたも泣いてんじゃん」
手毬はポケットから自分のハンカチを取り出すと、美鈴の濡れた頬へとそっと押し当ててやった。
「ほら、涙拭きなさいよ。台無しになっちゃうでしょ、せっかくの綺麗な顔が」
「ふふ……っ、まりちゃんにハンカチを渡される日が来るなんて……夢のようです……っ」
美鈴は涙を拭いながら、手毬の手をぎゅっと握り返し、くすくすと笑った。
泣き笑いしながら互いを讃え合う、二人の歌姫。
そこには、過去のわだかまりも、甘えも、何一つとして存在しなかった。
互いの才能を認め合い、だからこそ絶対に負けたくないともがき合う、最高で最強のライバルの姿がそこにあった。
優はコンソール卓の前で立ち上がり、そんな二人を愛おしそうに見つめながら、サファイアの碧眼を細めた。
「二人とも、本当にお疲れ様でした。……『Luna Say Maybe』も、『シオン』も、僕がこれまでの人生で作ってきたどんな曲よりも、最高の音楽になりましたよ」
優の温かく、誇らしげな言葉に、手毬と美鈴は涙を拭い、力強く顔を上げた。
「ええ! 六月の実力発表ライブ、学園中の度肝を抜いてやるんだから!」
「はい、優さん。私たちの新しい第一歩を、どうか特等席で見届けてくださいね」
青山の地下要塞スタジオに揃った、二つの至高の武器。
来るべき六月の決戦へ向けて、天宮優と二人の歌姫の準備は、いま完全に整ったのだ。