学マス~チートPと一緒に初星学園を無双する話~ 作:みちみちお
六月下旬の夕暮れ、初星学園の敷地は、燃えるような茜色と淡い紫紺のグラデーションに染め抜かれていた。
アイドル科本棟の三階、渡り廊下の最奥に位置する「プロデュースオフィス 304号室」の窓からは、初夏の温かな夜風が微かに吹き込み、薄手のブラインドをカタカタと揺らしている。
学園の敷地全体には、明日開幕する一学期最大の決戦――「実力発表ライブ・学期成績判定」を控えた、異様なまでの静寂と張り詰めた緊張感が漂っていた。
四月の新入生歓迎ライブ、五月のフレッシュアイドル公演を経て、新入生たちがこれまでに培ってきたすべての成果をぶつけ合い、学期成績の判定を受ける運命の日。
あえて五月の定期公演を見送り、青山の地下要塞スタジオで徹底的に己の殻を壊し続けてきた月村手毬と秦谷美鈴にとって、明日は満を持してその進化のすべてを世に知らしめる、最初の公式戦であった。
オフィスの中央、三人掛けソファの真ん中に、天宮優は腰を下ろしていた。
仕立てのよいスーツの上着を脱ぎ、ワイシャツの腕を軽くまくった二十歳の青年プロデューサーは、ローテーブルの上に広げられた明日の進行表やタイムスケジュール、そしてライバルたちの分析資料に視線を走らせていた。
目にかからない長さに切り揃えられた白銀の髪が、夕陽の残光を浴びて琥珀色に透けている。サファイアのような碧眼は、プロデューサーとしての鋭い知性と、決戦前夜特有の静かな昂りを宿していた。
その時、オフィスのドアが勢いよく開いた。
「優さん! お待たせ!」
息を弾ませながら飛び込んできたのは、月村手毬だった。
放課後の自主ウォーミングアップを終えたばかりなのか、腰まで届く漆黒のウェーブヘアが微かに揺れ、切れ長の黒い瞳がギラギラとした闘志に輝いている。
そして、そのすぐ後ろから、悠然とした足取りで秦谷美鈴が部屋へと入ってきた。
「まりちゃん、そんなにバタバタと走ってははしたないですよ。優さん、ただいま戻りました」
セミロングの黒髪を上品に耳にかけ、お淑やかな微笑みをたたえた美鈴の手には、購買部で調達してきた冷たい緑茶とスポーツドリンクのボトルが下げられていた。
二人が部屋に入ってきた瞬間、ローテーブルを挟んだソファの周囲の空気が、一瞬にしてピンと張り詰めた。
優が座る三人掛けソファ――その左右には、ちょうど一人分ずつのスペースが綺麗に空いている。
正面には一人掛けの革張りチェアが二脚あるにもかかわらず、二人の視線は最初から優の両隣しか捉えていなかった。
「……っ!」
「あら……」
二人の視線が交錯した刹那、無言の火花が散った。
タタッ、と手毬が素早く床を蹴り、優の右隣へと滑り込む!
「私の場所よ! 一番乗りなんだから!」
手毬は制服のスカートを整える間もなくソファに深く腰を下ろし、優の右腕に肩が触れそうなほどの至近距離を死守した。
だが、美鈴も一歩も引かなかった。
美鈴はおっとりとした動作でありながら、一切の無駄のない滑らかなステップで優の左側へと回り込み、涼しい顔で優の左隣へと腰を下ろしたのである。
「ふふ、まりちゃん、慌てなくても席は逃げませんよ。優さん、お茶をお持ちいたしました。どうぞ召し上がってください」
「ちょ、ちょっと美鈴! なんであんたが当然のように座ってんのよ! 向かいの椅子に行きなさいよ!」
手毬が優の胸元越しに身を乗り出し、美鈴をキッと睨みつける。
「あら、まりちゃんこそ、どうしてそんなに優さんにぴったりくっついているのですか? 優さんが明日の資料を広げづらそうにしていらっしゃいますよ」
美鈴は優雅に首を傾げ、ペットボトルを優の前に置きながら、自らも優の左腕へとすっと距離を詰めてみせる。
「私にも等しく、明日の最終ミーティングを特等席で受ける権利がございますもの。まりちゃんだけに優さんの隣を独占させるわけにはまいりません」
「ぐっ……! なによその屁理屈! 明日のライブで一番を取るのは私なんだから、私が優さんの隣にいるべきなの!」
「まあ、大口を叩きますね。明日のステージで優さんの心を奪い去るのは、私の『シオン』ですのに」
至近距離でバチバチと火花を散らす二人。
手毬の熱烈な威嚇と、美鈴の柳のように受け流す鉄壁の防壁。
相変わらずの「陣取り合戦」と牽制劇に、真ん中に挟まれた優は両腕を小さく浮かせ、額に冷や汗を浮かべながら苦笑いを漏らすしかなかった。
「あはは……二人とも、相変わらず元気ですね。決戦前夜だというのに、緊張で青ざめるどころか、それだけエネルギーが余っているなら安心しましたよ」
優がサファイアの碧眼を細めて温かく微笑むと、手毬はカッと顔を赤らめて「べ、別に元気なわけじゃないわよ、気合いが入ってるだけだし!」とそっぽを向き、美鈴は「優さんのためでしたら、いつだって全力ですよ」とお淑やかに目を細めた。
優はコホンと小さく咳払いをし、表情を引き締めた。
「さて……じゃれ合いはこれくらいにして、明日の『実力発表ライブ』の最終ミーティングを始めましょうか」
優の声色が変わった瞬間、手毬と美鈴の瞳からも先ほどの子供っぽい意地っ張りな色が消え去った。
二人は背筋を正し、真剣な眼差しで優の手元の資料へと意識を集中させた。
「まず、明日のライブ全体の進行とルールについて再確認しておきます」
優はタブレットの画面を操作し、ステージの構成図とタイムスケジュールを表示させた。
「会場は、アイドル科特別棟の奥にある第4スタジオ――『グランドステージ』です。収容人数は約八百名、照明や音響設備もプロ仕様の大型多目的ホールですね。今回の実力発表ライブは、一学期の成績判定を兼ねた完全なソロ実力審査です。審査員は、根緒亜紗里先生をはじめとする学園審査員が五十パーセント、音楽業界関係者やレコード会社から招かれた外部審査員が三十パーセント、そして客席の生徒たちによる観客投票が二十パーセントの比率で総合得点が算出されます」
優の指先が、評価項目の欄をなぞる。
「評価項目は、歌唱とダンスの『パフォーマンス完成度』、これまでの活動からの『成長度』、観客を惹きつける『訴求力』、面談で指摘された『課題の克服度』、そして日頃の『活動姿勢』です。……二人にとっては、まさにこれまで青山の地下要塞で積み重ねてきたすべてをぶつけるための、完璧な舞台ですよ」
「出番の順序はどうなっているの、優さん?」
手毬が身を乗り出して尋ねた。
「プログラムの中盤以降ですね。前半は五月のフレッシュ公演で経験を積んだ一般の生徒たちが続き、後半のクライマックス――注目株が集まる激戦区に、美鈴さんと手毬さんの出番が組まれています。美鈴さんが十五番目、そして手毬さんが十八番目――新入生のトリ前という極めて重要なポジションです」
「私が十五番目で、まりちゃんが十八番目……」
美鈴が静かに反芻した。
「ええ。美鈴さんの『シオン』で会場全体を逃げ場のない愛と切なさで包み込み、客席の空気を完全に支配する。そしてその熱気が最高潮に達したところで、手毬さんの『Luna Say Maybe』がシンフォニック・ロックの圧倒的な音圧でホール全体を吹き飛ばす。……学園中の度肝を抜くには、これ以上ない完璧な流れですよ」
優の淀みない青写真に、二人の胸が高鳴る。
だが、優はそこで一度言葉を切り、資料の次のページをめくった。
そのサファイアの碧眼に、冷徹な観察眼が宿る。
「……さて。ここからは、明日のステージで二人の前に立ちはだかる、主なライバルたちの動向について話しておきます」
手毬と美鈴の表情が、一段と引き締まった。
優はタブレットに、数名の生徒の顔写真と詳細なデータを表示させた。
「まず、絶対に警戒しなければならない筆頭は――プロデューサー科三年生の高瀬正人さんが手掛ける、新入生首席・花海咲季さんです」
その名が出た瞬間、手毬の黒い瞳が鋭く細められた。
花海咲季――現在、初星学園の学生寮で手毬と同室で暮らしている、あの赤髪のルームメイト。
「咲季さんは、五月のフレッシュアイドル公演において、すでに圧巻のステージを披露してぶっちぎりの一位を獲得しています。元アスリートとしての圧倒的な身体能力と体幹の強さ、そして何より『負けるのが大嫌い』という凄まじい勝負強さ。高瀬さんの怒号が飛び交う過酷なレッスンにも一切怯むことなく食らいつき、ダンスの運動量を極限まで維持しながらブレない直線的な歌声を叩きつけてくる。……明日の実力発表ライブでも、間違いなく優勝候補の大本命として君臨していますよ」
「咲季……」
手毬が奥歯を噛み締めた。
青山の屋敷に泊まり込む前、寮の部屋で夜遅くまで汗だくになって戻ってきては「負けない」と深紅の瞳をギラつかせていた咲季の姿や、学園で顔を合わせるたびに見せつけてくる気迫が脳裏に浮かぶ。
「知ってるわよ、あいつの凄さなんて。同室だった時も、学園で顔を合わせる時も、嫌ってほど見せつけられてるわ。……でもね、優さん。魂の奥底から叫ぶ歌の深さなら、私の『Luna Say Maybe』が絶対に負けるはずがない!」
手毬の剥き出しの闘志に、優は頼もしそうに頷いた。
「その意気です、手毬さん。……そしてライバルは咲季さんだけではありません。中野仁さんが担当する紫雲清夏さん。普段はおちゃらけた態度を見せていますが、世界レベルのバレエ経験に裏打ちされたステップとリズム感は本物です。五月の公演ではまだ本気を出していませんでしたが、中野さんの熱心な導きによってスイッチが入れば、ダンスの表現力で会場の空気を一変させる力を持っています」
優はさらにペンを走らせる。
「さらに、鈴原良治さんがプロデュースする藤田ことねさん。自己評価は低く基礎点では劣るものの、『お金を稼ぐアイドルになりたい』という泥臭い執念と、観客を味方につける天性の愛嬌、そして鈴原さんの的確なブランディングによって、観客投票で爆発的な数字を叩き出す危険性があります。他にも、佐藤健太さんの熱血指導で急成長している生粋のお嬢様・倉本千奈さんや、独特の感性を持つ天才肌の篠澤広さん、そしてまだ専属プロデューサーはついていないものの、咲季さんの妹であり底知れない身体能力を秘めた花海佑芽さん……同期の新入生たちは、誰もが一筋縄ではいかない強敵揃いです」
並み居るライバルたちの名と、その実力。
五月の公演で実績を作ってきた彼女たちが、明日の舞台に向けて牙を研いでいる。
だが、その過酷な現実を突きつけられても、手毬と美鈴の表情に微塵の恐怖も浮かんでいなかった。
美鈴はお淑やかに微笑みながら、胸の前で手を組んだ。
「素晴らしいライバルたちですね。……ですが、優さん。咲季さんや清夏さんたちがどれほど眩しい輝きを放とうとも、私の心は少しも揺らぎませんよ。私が見つめているのは……他の誰でもなく、隣にいるまりちゃん。そして、誰よりも近い特等席から私たちを見守ってくださる、優さんだけですもの」
美鈴の黒い瞳が、妖艶なまでの静かな光を宿して手毬を見据えた。
「まりちゃん。明日は、お互いに手加減なしですよ」
「当たり前でしょ!」
手毬が即座に受けて立つ。
「美鈴、あんたがどれだけ綺麗な曲を歌おうと、優さんの一番を取るのも、明日のステージで一番の拍手を浴びるのも、この私なんだから!」
「ふふ、言いましたね。私の『シオン』に心を奪われて、舞台袖で泣かないように気をつけてくださいな」
「泣くわけないでしょ! 泣くのはあんたの方よ!」
バチバチと視線を絡ませ合い、不敵に笑い合う二人。
かつてのように、相手を傷つけることを恐れて言いたいことを飲み込んでいた「気を遣う幼馴染」の姿は、そこには影も形もなかった。
互いの才能を誰よりも高く評価し、魂の深さまで知り尽くしているからこそ、全身全霊で叩き潰し合わなければ失礼だと理解している、本物の「ライバル」の姿がそこにあった。
優はそんな二人の横顔を、サファイアの碧眼を細めて眩しそうに見つめた。
胸の奥から、熱いものが込み上げてくるのを禁じ得なかった。
出会ったばかりの頃の二人を思い出す。
月村手毬は、中等部の挫折に囚われ、完璧主義の檻の中で孤独に喉を締め付けながら泣いていた。
秦谷美鈴は、手毬の引き立て役という安全地帯に逃げ込み、自らの強欲なエゴから目を背けて諦めの笑みを浮かべていた。
その二人が、青山の豪邸で温かなご飯を分け合い、疑似家族のような日常を過ごし、地下要塞の防音室で互いの弱さを曝け出し合いながら、ここまで歩んできたのだ。
プロデューサーとして、これほど誇らしい瞬間があるだろうか。
優は立ち上がり、二人の正面へと歩み出た。
その長身から放たれる気迫に、手毬と美鈴が息を呑み、優を見上げる。
優は二人の瞳を、真っ直ぐに、深い慈愛と絶対の信頼を込めて見つめた。
「手毬さん、美鈴さん」
優の声は、夜の帳が下りたオフィスの中に、凛と染み渡るように響いた。
「諦めればそこでお終いだ。泥臭くてもいい。それで前に進めるなら僕は惨めでも歩み続ける」
優は自らの胸元に手を当て、二人に告げた。
「僕の信条は、すでに二人の胸の中にも根付いています。明日のステージ、観客の中には、過去の解散劇を引き合いに出して冷笑する者もいるかもしれない。五月の公演から逃げた臆病者だと囁く者もいるかもしれない。……ですが、そんな雑音はすべて、二人の歌声の一撃で吹き飛ばしてやればいいんです」
優の碧眼に、かつて伝説の覆面歌手「天月」として頂点に君臨した男の、絶対の自信が宿る。
「二人には、僕が持てるすべてを注ぎ込んで作った、世界最高の武器があります。手毬さんには『Luna Say Maybe』が、美鈴さんには『シオン』がある。……明日は、誰のためでもない、自分自身の存在を世界へ証明する日です」
優は両手を差し伸べ、手毬と美鈴の肩にそっと手を置いた。
「恐れることは何もありません。思い切り、己の欲望のままにステージの上で暴れてきなさい。……僕が、一番の特等席で、二人の最高の輝きを最後まで見届けていますから」
「優さん……っ!」
手毬の黒い瞳が、熱い光で潤んだ。
美鈴もまた、胸元をぎゅっと押さえ、蕩けるような深い微笑みを返した。
オフィスの中に流れていたのは、もはや言葉を介する必要すらない、プロデューサーと担当アイドルの間の「絶対の信頼」だった。
命を預け合い、夢を共有し、共に泥に塗れながら前へ進む覚悟を決めた者たちだけに許された、神聖な絆。
「さあ、明日は朝が早いです。今日は一度青山の家に戻って、美味しいご飯をしっかり食べてから、早めに休む準備をしましょうか」
優が柔らかく微笑みかけると、手毬はパッと顔を輝かせた。
「そうね! 今夜は美鈴に、特大のスタミナハンバーグを作らせるわ! 炭水化物も山盛り食べて、明日のエネルギーにするんだから!」
「まあ、まりちゃんったら。前夜に食べすぎて胃もたれを起こしては困りますよ。……太りますからね」
「太らないわよぉぉぉっ!!」
いつもの賑やかな笑い声が、夜のオフィスに木霊した。
ブラインドの向こう側、東京の夜空には、明日を待つ星々が静かに瞬いていた。
陣取り合戦の牽制を繰り広げながらも、心は固く一つに結ばれた三人。
異端の青年プロデューサーと二人の覚醒した歌姫が織りなす伝説の幕開け――六月の「実力発表ライブ」の朝が、いま静かにすぐそこまで迫っていた。