学マス~チートPと一緒に初星学園を無双する話~ 作:みちみちお
初星学園の中庭は、午後の穏やかな陽光と、吹き抜ける春風に舞い散る桜の花びらで淡い桃色に染まっていた。
アイドル科本棟と特別棟を繋ぐこの憩いの空間は、授業やレッスンの合間に生徒たちが談笑し、息を抜くための場所として親しまれている。
木々の合間から差し込む木漏れ日がベンチを温かく照らし、遠くからはレッスン室から漏れ聞こえるかすかな発声練習の声や、笑い声が風に乗って運ばれていた。
その中庭の片隅、一本の若木の木陰にある木製ベンチに、天宮優は一人腰掛けていた。
二十歳という年齢に相応しい洗練された落ち着きと、銀髪碧眼の際立つ容姿。
目にかからない長さに切り揃えられた白銀の髪が風に揺れ、透き通ったサファイアのような瞳は、手元にあるポータブルオーディオプレーヤーに向けられている。
耳には、青山の自宅地下にあるスタジオから持ち出した、プロ仕様のカスタムIEM(インイヤーモニター)が装着されていた。
優が聴いていたのは、前世の記憶に残る名曲に自ら新たなアレンジを施し、青山の地下要塞スタジオでレコーディングとミキシング、マスタリングまでを一人で完結させた音源だった。
女神から授けられたチート能力『音楽に愛されし者』。
前世の膨大な楽曲ストックを自在に呼び起こし、神がかり的な精度で調声し、ミックスの空気感や音像の定位をミリ単位で完璧に制御するその力は、優にとって呼吸をするのと同じくらい自然なものとなっていた。
「……うん。サビ前のストリングスのリバーブの減衰、もう少しハイを削って奥行きを持たせてもいいかな」
優は小さく独り言を呟きながら、音の波形と周波数の重なりを脳内で精緻に分解していた。
そこへ、静かに近づいてくる足音があった。
パタ、パタ、とわずかに躊躇うような、それでいて芯の通った足音。
優が視線を上げると、そこには腰まで伸びた黒髪を春風に揺らした一人の少女が立っていた。
――月村手毬だった。
昨日の夕暮れ、個人練習室で自らの歌の欠点と骨格の秘密を一瞬で見抜かれ、驚異的な声の解放を経験させられた少女。
手毬はどこか気まずそうに視線を泳がせながらも、ツンとした険のある表情を崩さずに優の前に立ち止まった。
「……隣、空いてる?」
「ええ、どうぞ。月村さん」
優が柔らかく微笑んでベンチの端へ少し寄ると、手毬は制服のスカートを整えながら、優との間に少しだけ距離を空けて腰を下ろした。
隣から漂ってくる、石鹸のような微かな香り。
手毬は正面の噴水を睨みつけるように見つめながら、腕を組んで足を組み替えた。
昨日の出来事が頭から離れず、居ても立ってもいられずに優の姿を探して中庭まで来てしまった――そんな内心の葛藤が、強張った横顔から痛いほど伝わってくる。
優はそれをからかうこともなく、静かに耳のイヤホンを片方外した。
沈黙を破ったのは、手毬の少し尖った声だった。
「……なんの曲、聴いてるの?」
ぶっきらぼうな問いかけ。
だが、その黒い瞳には隠しきれない好奇心と、探るような色が宿っていた。
優は手元のプレーヤーの画面を伏せることもせず、穏やかな声色で答えた。
「僕が作った曲ですよ」
「……え?」
手毬は小さく目を丸くし、組んでいた腕を解いて優の顔を凝視した。
「作ったって……あなたが? 作曲もするってこと?」
「ええ。作詞も、作曲も、編曲も、歌のミックスやマスタリングまで一通り自分でやりますよ」
優が事もなげに言うと、手毬は信じられないといった面持ちで息を呑んだ。
初星学園において、曲を作れるプロデューサーの存在自体は決して珍しいわけではない。
手毬の脳裏に、プロデューサー科の三年生である高瀬正人の姿が思い浮かんだ。
金髪を短く刈り込み、傲慢な態度で学内を闊歩する男。
チャートでトップ十入りを果たすほどの腕利きの作詞作曲家であり、手毬自身や花海咲季の楽曲を手がけている実績はあるものの、売れなければアイドルを道具のように切り捨てる冷徹な男だった。
(……プロデューサー科の高瀬も曲を作る。だけど……)
目の前にいる天宮優という男から放たれる気配は、高瀬の持つギラギラとした自己顕示欲や功名心とはまるで正反対だった。
どこまでも静かで、深く、澄み渡っている。
手毬は唇を一度キュッと結ぶと、決意したように優の碧眼を見つめ返した。
「……聴かせて」
「僕の曲をですか?」
「そうよ。昨日、あんな偉そうに私の歌を批評したんだから、あなたがどんな音楽を作る人間なのか知る権利くらいあるでしょ。……別に、下手くそだったら笑ってあげるだけだけど」
相変わらず素直になれない皮肉屋の口調。
しかし、その指先がわずかに震えているのを優は見逃さなかった。
彼女は本気で、優の創り出す音を渇望しているのだ。
「ふふ、お手柔らかにお願いしますね」
優は苦笑しながら、自らの耳からもう片方のイヤホンを外し、手毬へと差し出した。
受け取った手毬の細い指先が、優の指にわずかに触れる。
手毬はビクッと肩を揺らしたが、すぐに誤魔化すようにイヤホンを両耳へと装着した。
耳にぴったりと吸い付くようなカスタムシェルのフィット感と、ケーブルの重厚さに、手毬は目を見張る。
機材の一つひとつにまで異常なこだわりが注がれていることが、触れただけで理解できた。
優がプレーヤーの操作ボタンを押し、曲の頭から再生をスタートさせた。
――その瞬間。
静寂を切り裂いて、一打のピアノの音が手毬の鼓膜を打った。
「――っ!?」
手毬の背筋を、強烈な悪寒にも似た衝撃が駆け抜けた。
ただの一音。それだけだった。
中央の鍵盤で叩かれた、コードの基音となるピアノの一打。
だが、その音の純度、空気の透明感、そして残響の広がりが、常軌を逸していた。
余計な濁りやノイズが分子レベルで排除されたかのような、極限まで磨き抜かれたアタック音。
まるで手毬自身の目の前に世界最高峰のグランドピアノが忽然と現れ、その巨大な響板が空気を震わせたかのような、圧倒的な立体感と臨場感。
学園の最新鋭スタジオで聴く音とも、市販のメジャーレーベルがリリースするハイレゾ音源とも、明らかに格が違っていた。
(な、何……この音……!? こんなにクリアなピアノの音、聴いたことがない……っ!)
驚愕に震える手毬の耳に、重厚なベースと繊細なアコースティックギターのアルペジオが絡み合っていく。
一音一音の輪郭が驚くほどくっきりと際立ちながらも、決して互いを邪魔することなく、一つの壮大な音響空間を構築していく完璧なミキシング。
音の定位、奥行き、左右の広がり、低域の引き締まり――すべてが神業の領域だった。
そして、短いイントロを抜けた瞬間。
――その「歌声」が、解き放たれた。
透明感に満ち、哀愁を帯び、聴く者の魂の最深部を素手で鷲掴みにするような、圧倒的なボーカル。
囁くようなウィスパーボイスから、一瞬にして天を突き破るような力強いハイトーンへと駆け上がるダイナミクス。
声帯の細やかな震え、息を吸い込む微かなブレスの音さえもが、聴く者を惹きつけて離さない甘美な毒のように鼓膜を支配していく。
手毬の呼吸が止まった。
全身の毛穴が開き、心臓が肋骨を突き破らんばかりに跳ね上がった。
知っている。
このメロディを、この歌い方を、この胸を締め付ける唯一無二の歌声を、手毬は絶対に忘れるはずがなかった。
かつて、中等部時代にアイドルとしての理想に苦しみ、夜な夜な一人で枕を濡らしていたあの頃、擦り切れるほど繰り返し聴き続けた、あの声――。
(嘘……でしょ……?)
手毬はガタガタと震える手でイヤホンを押さえながら、横に座る青年へと首を向けた。
数年前、高校二年生の時に突如としてネット上に現れ、ダウンロード販売のみで世に放たれたわずか三曲の楽曲。
顔も本名も一切明かさず、メディアへの露出も皆無でありながら、その規格外の音楽性と心を鷲掴みにする歌声だけで日本中を熱狂させ、リリースした全曲がダブルミリオンを軽々と突破した伝説の覆面歌手。
そして、社会現象を巻き起こしながらも、わずか一年で忽然と姿を消した、あの――。
(天月……っ!)
手毬の黒い瞳が、限界まで見開かれていた。
目の前で木漏れ日を浴びながら、穏やかな表情で中庭の景色を眺めている銀髪の青年。
その横顔と、イヤホンから流れ込んでくる神話的な歌声の主が、手毬の脳内で完全に、寸分の狂いもなく一致した。
曲はサビへと突入していた。
感情を極限まで爆発させたボーカルが、幾重にも重なるストリングスとともに手毬の魂を揺さぶる。
涙が、不意に手毬の目尻から一筋零れ落ちた。
悔しさでも、悲しみでもない。
あまりにも完璧で、あまりにも美しく、そして切実な音楽に触れてしまったことに対する、魂の震えだった。
やがて、最後の一音が澄み渡るリバーブの彼方へと溶け去り、完全な静寂が訪れた。
曲が終わっても、手毬は動くことができなかった。
ただ茫然と、息を荒らげながらイヤホンを耳につけたまま座っていた。
優はそんな手毬を急かすこともなく、ポケットから清潔なハンカチを取り出すと、そっと彼女の膝元に置いた。
「……どうでしたか、月村さん」
優の穏やかな声が、現実へと手毬を引き戻した。
手毬は震える指先でイヤホンを外し、優へと手渡した。
その手は、小刻みに震えていた。
彼女は息を呑み、震える唇を開いて、掠れた声で目の前の青年を見つめた。
「……あなた、なの?」
「え?」
「誤魔化さないで……っ! この声、この歌い方……私、絶対に忘れるわけない……っ! あなたがあの……あの、覆面歌手の『天月』なの……!?」
手毬の叫びにも似た問いかけ。
それは、初星学園の誰一人として知るはずのない、音楽業界における最大のミステリーの核心だった。
優は一瞬だけ驚いたようにサファイアの瞳を瞬かせたが、すぐに誤魔化すような態度は取らなかった。
真面目で嘘が嫌いな彼は、真剣に自分と向き合おうとする手毬に対して、欺瞞を弄するような真似はしたくなかったのだ。
優はふっと、どこか困ったように、けれど柔らかく笑った。
「……参ったな。バレないように気を付けていたつもりだったんですが、すぐにバレてしまいましたね」
「――っ!」
手毬は息を詰まらせた。
肯定だった。
目の前の、二十歳で初星学園プロデューサー科に入学してきたこの青年こそが、あのメガヒットを叩き出し、音楽界を震撼させた伝説の怪物「天月」その人だったのだ。
「ど、どうして……っ!?」
手毬は混乱と興奮のあまり、ベンチから身を乗り出すようにして優に詰め寄った。
「どうしてあなたがここにいるのよ!? あの天月なら、今だって表舞台に立てばトップスターでいられるはずでしょ!? 印税だって、名声だって、何もかも手に入っていたはずじゃない! なのに、なんで歌うのをやめたの!? なんで、プロデューサーなんかやってるのよ……っ!?」
手毬の問いは、至極当然のものだった。
自分自身がどれほど血を吐くような努力をしても届かない、遥か高みの才能を持つ男が、なぜその場所を捨てて裏方に甘んじているのか。
歌に狂わされ、歌にすべてを捧げてきた手毬だからこそ、それが許せなかったのだ。
優は手毬の激しい視線を、真っ直ぐに受け止めた。
その碧眼には、驕りも、後悔も、一片の濁りも存在しなかった。
「……天月としての活動は、もう過去のことですよ」
優は静かに、けれど胸の奥底から絞り出すような温かい熱量をもって語り始めた。
「高校生の時、僕は自分の音楽がどこまで通用するのかを試したくて、曲を出しました。たくさんの人が聴いてくれて、評価してくれたことは本当に光栄でした。
……でもね、月村さん。僕自身がスポットライトを浴びて歌うことよりも、僕の胸を遥かに強く打つものがあったんです」
優は中庭の木々を見上げ、遠くの校舎を指差した。
「それは、誰かが人生のすべてを懸けて、泥臭く、必死に歌おうとしている姿です。自分の弱さに打ちひしがれながらも、それでも前を向いて、誰かのために声を届けようとするアイドルの輝きです。
……僕は気づいたんです。僕が本当にやりたいのは、自分一人で拍手を浴びることじゃない。自らの持てるすべての技術と音を使って、誰かの輝く一助になることなんだと」
「誰かの……一助……?」
手毬が呆然と呟く。
「ええ。それが、僕にとっての『プロデューサー』という道だったんです。世の中には、素晴らしい才能を持ちながらも、正しい導きに出会えずに潰れていく人たちがたくさんいる。心ない言葉に傷つき、孤独の中で声を失っていく人たちがいる。
……僕はね、月村さん。誰か一人でもいい。本気で上を目指す誰かをトップアイドルに、そして本物の歌手の道へと導いてやりたいんです。その子が世界中の人々に愛され、自分自身を誇れるようになるまで、僕の持てるすべてを捧げて支え続けたい」
優の言葉は、まるで祈りのように中庭の空気を震わせた。
そして、彼は視線を戻し、手毬の黒い瞳を真っ直ぐに見つめた。
「諦めればそこでお終いだ。泥臭くてもいい。それで前に進めるなら僕は惨めでも歩み続ける。
……僕は、本気で前へ進もうとする人の手を、絶対に離しませんよ」
ドクン、と手毬の胸が跳ねた。
その瞳だった。
優のサファイアの瞳には、手毬を道具として利用しようとする打算も、彼女の棘のある態度を拒絶する嫌悪も、過去の栄光を哀れむ蔑みも、何一つとして存在しなかった。
そこにあったのは、ただひたすらに手毬という一人の少女の可能性を信じ、慈しみ、その魂を丸ごと包み込もうとする、圧倒的なまでの誠実さと優しさだった。
(この人なら……)
手毬の胸の奥底に、熱い塊が込み上げてきた。
中等部時代、ナンバーワンと呼ばれながらもユニットを崩壊させ、仲間を傷つけ、世間から叩かれ、孤独の淵に立たされたあの日々。
「扱いづらい」「性格が悪い」「ストイックすぎてついていけない」と誰もが自分から離れていき、初星学園に入学してからも、プロデューサーたちからは腫れ物のように扱われてきた。
誰も、本当の自分を見てはくれなかった。
完璧を装わなければ見捨てられる。弱音を吐けば切り捨てられる。
そう信じ込んで、頑なに心を閉ざし、一人で喉を痛めつけるように歌い続けてきたのだ。
けれど、目の前の青年は違った。
自らが崇拝するほどの音楽の頂点に立ちながら、優は手毬の不器用さも、痛々しい意地っ張りも、喉の使い方の未熟さも、そのすべてを受け止めた上で「君の歌には魂がある」と言ってくれた。
そして今、「泥臭くても歩み続ける」「絶対に手を離さない」と告げてくれたのだ。
(この人なら……私を見捨てない)
手毬の固く凍りついていた心の氷壁が、音を立てて崩れ去っていくのを感じていた。
この人の作る曲を歌いたい。
この人の隣で、この人の導きのもとで、もう一度ステージに立ちたい。
そして、自分を切り捨てていった世界を見返し、自分自身を好きになりたい。
手毬は膝の上に置かれたハンカチをぎゅっと握りしめた。
その頬は、夕暮れのような熱を帯びて赤く染まっていた。
「……ば、馬鹿じゃないの……」
蚊の鳴くような、掠れた声が手毬の唇から漏れる。
「そんな綺麗事ばっかり言って……。損するだけなのに……」
強がりを口にしながらも、手毬の瞳からは先ほどまでの冷徹な光が完全に消え失せていた。
優はその言葉を責めることなく、ただ柔らかく目を細めて、春風に揺れる木々を見つめていた。
二人の間に流れる空気は、先ほどまでのぎこちなさを脱ぎ捨て、どこまでも穏やかで、温かいものへと変わっていた。
伝説の覆面歌手「天月」の秘密を共有した少女と青年。
ナンバーワンの残響に囚われていた歌姫の運命が、青山の要塞に住まう規格外のプロデューサーの手によって、いま決定的な一歩を踏み出そうとしていた。