学マス~チートPと一緒に初星学園を無双する話~ 作:みちみちお
秦谷美鈴による『シオン』が巻き起こした奇跡のような静寂と熱狂の嵐は、ホールの空気を根底から塗り替えていた。
十六番目、十七番目の生徒たちがステージに上がり、必死のパフォーマンスを披露する間も、客席や審査員席には美鈴が残した圧倒的な余韻が微かに漂い続けていた。
そして――ついにプログラムは第十八番目、新入生部門のトリ前を迎える。
アイドル科特別棟、グランドステージへと続く薄暗い舞台袖。
モニターから流れる前の演者の曲がフェードアウトしていく中、月村手毬はステージへと続く階段の前に立ち、漆黒のベルベットとシルバーの特注ドレスの裾をキュッと整えていた。
背中まで流れる黒髪のウェーブが、舞台袖の空調の風にさらさらと揺れている。
その隣には、先ほど自らのすべてを出し切って殻を破った秦谷美鈴が、若草色のハンカチで汗を拭いながら立っていた。
「……まりちゃん」
美鈴がお淑やかに、けれど熱い視線を手毬へと向ける。
「私の『シオン』で、会場の空気は十分に温めておきましたよ。……あとは、まりちゃんがすべてをかっさらっていくだけですね」
「ふん、言われなくてもそうするわよ」
手毬は鼻を鳴らし、不敵に口元を吊り上げてみせた。
だが、その指先は微かに強張っていた。
恐怖からではない。これから世界へ解き放とうとする自らの魂の熱量に、身体そのものが武者震いを起こしているのだ。
手毬はくるりと振り返り、真正面に立つ天宮優を見据えた。
目にかからない長さに切り揃えられた白銀の髪、サファイアのように澄み渡った碧眼。
二十歳という年齢以上の落ち着きと、神聖なまでの誠実さを湛えた青年プロデューサーが、穏やかな眼差しで手毬を見守っていた。
手毬は胸元に手を当て、優の碧眼を射抜くように真っ直ぐに見つめ直した。
「……優さん」
凛とした、少しも揺らぎのない声。
「見ていなさい。……最高のステージにしてやるわ」
それは、かつて完璧主義の檻に閉じこもり、弱音を吐くまいと虚勢を張っていた少女の言葉ではなかった。
自らの弱さも、泥臭さも、みっともない挫折もすべて抱きしめ、それでも前へ進む覚悟を決めた、一人の表現者としての誓いだった。
優はその手毬の眼差しを受け止め、サファイアの碧眼を細めて、ふっと柔らかく、そして獰猛な笑みを零した。
プロデューサーとしての、そしてかつて音楽界の頂点に君臨した「天月」としての血が、優の胸の奥で熱く滾っていた。
「ええ、期待していますよ、手毬さん」
優は一歩近づき、手毬の肩にポンと手を置いた。
その声音には、普段の穏やかさとは一線を画す、絶対の覇気が宿っていた。
「君の次に出る、新入生の大トリの子が――震え上がるような歌を楽しみにしていますよ。……遠慮なんていらない。この会場のすべてを、君の歌で食い尽くしてしまいなさい」
「――っ!」
大トリが震え上がるような歌。
すべてを食ってしまえ。
並のプロデューサーであれば絶対に口にしないであろう、あまりにも過激で、あまりにも絶対的な信頼に満ちた檄。
その言葉が、手毬の心臓に直接火をつけた。
手毬の顔に、今日一番の、太陽のように眩く獰猛な満面の笑みが咲き誇った。
「……任せなさい! 全部、私のものにしてやるんだから!!」
手毬は力強く頷くと、振り返りもせずにステージへと続く階段を駆け上がっていった。
『エントリーナンバー十八番――月村手毬!』
場内アナウンスが高らかに響き渡ると同時に、八百人を収容するグランドステージの照明が一斉に暗転した。
客席からは、ざわめきが波のように広がっていく。
「月村手毬……! あの、中等部でナンバーワンだったSyng UP!!のメインボーカルだった子か?」
「でもあの子、ユニットを空中分解させて解散させたんだろ? 性格に難があるって噂だし……」
「五月のフレッシュ公演もサボって出てこなかったし、今さらソロで何ができるんだ?」
中等部時代の華々しい実績と、それ以上に尾を引く解散の悪名。
五月の公演を見送ったことに対する冷ややかな視線と好奇の目が、暗闇の客席から無数に注がれていた。
だが、ステージの中央に立った手毬の耳には、そんな雑音は一粒たりとも届いていなかった。
足元から、青白いフットライトが淡く立ち上る。
月光を思わせる冷たいシルバーと漆黒のドレスを纏った手毬は、ステージの中心、足元のバミリの上に両足でしっかりと大地を踏みしめて立った。
胸元を彩る星々のビジューが、微かな光を反射して青白く瞬いている。
手毬は目を閉じた。
両腕を体の横に自然に下ろし、深く、静かに息を吸い込む。
背中側の肋骨が大きく開き、肺の底まで冷たい大気が満ちていく。
頭の中は、どこまでも透き通っていた。
中庭で泣きじゃくった日のこと。
青山の豪邸の温かな食卓と、美鈴の料理。
地下要塞スタジオの防音室で、優が「自分自身の欲求に素直になれ!」と魂を揺さぶってくれたあの瞬間。
(怖くない……もう、何一つ怖くないわ)
手毬は瞼を閉じたまま、胸の中で静かに唱えた。
狂いのない正確さなんて、いらない。
誰かに気に入られるための優等生の歌なんて、ゴミ箱に捨ててきた。
今、この場所に立っているのは――月村手毬、たった一人だ。
そして――。
静寂の闇を切り裂くように、硬質で透明なピアノの一音が、空間に突き刺さった。
ポーン――……。
その一打が放たれた瞬間、客席のざわめきがピタリと止まった。
続いて、左耳から右耳へと駆け抜けるような、切実で儚い吐息混じりの第一声がスピーカーから空間全体へと滑り落ちる。
次の瞬間――ドォォォォォンッ!!!!
地鳴りのような爆発音とともに、世界が一変した。
唸りを上げるオルタナティブ・ロックの歪んだディストーションギター、床を激しく揺さぶる重厚なベースライン、疾走する高速のドラムビート。
そしてそれらを天の高みから包み込むように、壮大で劇的なシンフォニック・ストリングスと華やかなブラスセクションが、怒濤の音圧となって客席へと雪崩れ込んできたのだ。
「な……っ!?」
「なんだこの音は……!?」
客席のあちこちから、悲鳴にも似た驚愕の声が上がった。
審査員席に座る音楽業界のプロたちも、一斉に目を見張り、背筋を伸ばした。
音が、違いすぎる。
初星学園の備え付けの音源や、生徒たちが自作した打ち込みトラックとは、音響の解像度、奥行き、音圧のすべてにおいて、次元そのものが隔絶していた。
個人資産四十億円を誇る天宮優が、青山の地下要塞スタジオに揃えられた数千万円単位のヴィンテージ機材と、前世の知性、そしてチート能力『音楽に愛されし者』を極限まで注ぎ込んでマスタリングした、正真正銘の「天月」の神サウンド。
その圧倒的な音の壁の前に、八百人の観客は一瞬にして圧倒され、息を呑んだ。
そして、その轟音の嵐の真ん中で――月村手毬が、カッと黒い瞳を見開いた。
頭上から、強烈なピンスポットライトが手毬の全身を白銀に撃ち抜く。
手毬はマイクスタンドを両手で掴み、喉の奥底から、全身の細胞を震わせて声を解き放った!
ドォン、と客席の全員の胸板を、直接ハンマーで殴りつけたかのような衝撃が走った。
「っ……!!」
客席の最前列で見ていた生徒たちが、思わず息を呑んで身を引いた。
違う。
中学時代の月村手毬の歌とは、まるで違っていた。
かつて中等部で「ナンバーワン」と称されていた頃の手毬の歌は、確かに美しかった。音程の狂いはなく、リズムは完璧で、冷徹なまでの正確さを誇っていた。
だが、今、このステージの上で響いている歌声は――そんな冷たい優等生の枠組みを、木っ端微塵に踏み砕いていた。
剥き出しのパッション。
喉が裂けんばかりのダイナミクス、息を呑む切実なブレスの摩擦音、感情の昂りに合わせて唸りを上げる鋭いハイトーン。
「私の今の全力を聴け!」と、全身全霊で世界に噛みつくような、圧倒的な熱量と生命力の塊がそこにあった。
舞台袖で見守っていた秦谷美鈴は、胸元を両手で強く押さえ、目を見開いて立ち尽くしていた。
「……まりちゃん……っ」
鳥肌が、腕から首筋へと駆け上がっていくのを止められなかった。
素直に、凄かった。
自分とは対極の、すべてを薙ぎ倒し、焼き尽くすような紅蓮のボーカル。
かつて中学時代、手毬がバランスを崩すのを恐れて後ろから支えていた自分は、もう必要ないのだと痛感させられる。
月村手毬は、たった一人で、大地に爪を立てて世界をねじ伏せる怪物の牙を手に入れたのだ。
そして、その隣に立つ天宮優もまた、サファイアの碧眼を熱く燃え上がらせ、ステージの上で躍動する手毬の姿を焼き付けていた。
(……見事だ、手毬さん)
優の口元に、震えるような笑みが浮かぶ。
青山のスタジオで手毬が流した血の滲むような涙、自らの弱さに怯えながらも「泥臭くても前へ進む」と決意したあの夜の魂が、今、完璧な音楽となって世界へ解き放たれている。
荒削りな絶叫ではない。優が授けた呼吸法と共鳴腔のコントロールを土台にしながら、感情のリミッターだけを極限まで解放した、奇跡の歌唱。
曲はBメロへと突入し、疾走感を一段と増していく。
手毬のステップが、激しく床を捉える。
オートクチュールの黒とシルバーのドレスが、風を孕んで夜空の翼のように翻った。
乱れる息、額を伝う大粒の汗。
けれど、手毬の瞳には、かつてのような悲壮感は微塵もなかった。
歌うことが、苦しくてたまらなかった少女が。
完璧でなければ愛されないと怯えていた少女が。
今、八百人の観客の視線を真正面から浴びながら、信じられないほど眩しい、獰猛な笑顔を浮かべて歌っている。
(楽しい……っ! 楽しい、楽しい、楽しい!!)
手毬の胸の中で、歓喜の火花が爆発していた。
声が、どこまでも伸びていく。
後ろを振り返る必要なんてない。失敗を恐れる必要なんてない。
舞台袖には、自分を信じてくれた優がいる。隣には、高め合える美鈴がいる。
だったら――恐れるものなんて、この世界のどこにもありはしない!
感情の濁流が、一気に堰を切って溢れ出す。
そして、曲はCメロの静寂から、大爆発のサビへと雪崩れ込んだ!
ドォォォォォォンッ!!!!
照明が一斉に白銀の閃光へと切り替わり、グランドステージ全体が光の海へと呑み込まれた。
魂の、咆哮だった。
限界を超えて突き抜ける、圧倒的なハイトーンのロングトーン。
マイクの入力限界ギリギリを攻めるベルティングの響きが、防音壁を激震させ、八百人の観客の頭蓋骨を直接揺さぶった。
客席のボルテージは、すでに沸点を遥かに超えていた。
誰もが息を忘れ、拳を握りしめ、ステージの上で汗と光に塗れて絶唱する一人の少女の姿に、魂を素手で鷲掴みにされていた。
ペンライトの光が、まるで狂乱の波のように激しく揺れ動く。
そして――。
最後のアウトロの激しいドラムとギターが、劇的な余韻を残して静かにフェードアウトしていった。
シン……と、張り詰めた静寂が、再びグランドステージを包み込んだ。
ステージの中央で、手毬はマイクスタンドを両手で握りしめたまま、肩を大きく上下させて立っていた。
全身から汗が噴き出し、胸元が激しく波打っている。
目にかかる漆黒の髪の隙間から覗く黒い瞳には、すべてを出し切った者だけが湛える、澄み切った光が宿っていた。
手毬はマイクから手を離すと、客席に向かって、凛と背筋を伸ばした。
そして、深々と、誇り高く頭を下げた。
顔を上げた手毬は、客席に一切の未練を残さないように、くるりと踵を返した。
ドレスの裾を揺らしながら、足音を響かせてステージ袖へと歩み去っていく。
その瞬間――。
美鈴の時と同じように、会場には数秒間の完全な「無音」が横たわっていた。
あまりの衝撃、あまりの熱量に、観客の脳の理解が追いついていなかったのだ。
一秒。
二秒。
三秒。
そして、手毬がステージ袖の暗がりに足を踏み入れた、その刹那――。
――ドワァァァァァァァァッッ!!!!
地鳴りのような、耳を劈くほどの凄まじい拍手と歓声の嵐が、ホール全体から一斉に炸裂した!
「うおおおおおおおおっっ!!」
「手毬ぃぃぃぃぃぃっっ!!」
「嘘だろ……あんなの、ありかよ!?」
「鳥肌が止まらねぇ……! あれが、あの月村手毬なのか!?」
「覚醒してる……完全に覚醒してるぞ!!」
八百人の観客が一斉に飛び起き、狂ったように拍手を打ち鳴らしていた。
スタンディングオベーションの波が客席全体を覆い尽くし、足を踏み鳴らす音が地響きとなってホールを揺らす。
審査員席の根緒亜紗里は、呆然と開いた口が塞がらないまま、震える手でペンを走らせていた。隣のレコード会社の幹部たちも、興奮のあまり立ち上がり、満面の笑みで拍手を送っている。
中等部のエリートの残骸などという嘲笑は、跡形もなく消え去っていた。
そこにいたのは、誰もが認めざるを得ない、新時代を切り拓く本物の怪物の姿だった。
その嵐のような大熱狂を背に受けながら、手毬は舞台袖へと戻ってきた。
暗がりの中で、肩で息をしながら立ち止まる。
目の前には――天宮優と、秦谷美鈴が待っていた。
優はサファイアの碧眼を極限まで見開き、心からの、惜しみない拍手を両手で打ち鳴らしながら、手毬を迎えた。
その瞳には、一筋の熱い光が滲んでいた。
「手毬さん」
優の声は、震えていた。
「……見事でした。君の証明は、完全に果たされましたよ。世界中の誰よりも……最高にカッコいい歌でした」
その言葉を聞いた瞬間、手毬の唇がわなわなと震えた。
強がりの仮面が、音を立てて崩れ去る。
「……優、さん……っ」
大きな黒い瞳から、大粒の涙がボロボロと零れ落ちた。
手毬はその場に立ち尽くしたまま、顔を両手で覆い、子供のようにしゃくり上げた。
自分の歌が届いた。
自分のすべてを曝け出した絶唱が、あの会場にいる全員の心を奪い去り、そして何よりも――自分が世界で一番認めてほしかったプロデューサーの心を、完全に射抜いたのだ。
「まりちゃん……っ!」
美鈴が駆け寄り、手毬の華奢な身体を強く抱きしめた。
「本当に……本当に凄かったです、まりちゃん! 私、鳥肌が止まりませんでしたよ……っ!」
「美鈴ぃ……っ! うっ、ぐすっ……勝ったわよ……! 私、やり切ったんだからぁ……っ!」
手毬は美鈴の胸に顔を埋め、声を上げて泣きじゃくった。
美鈴もまた、涙を流しながら手毬の背中を優しく撫で続けた。
互いに自らの殻を打ち破り、持てるすべてをぶつけ合った二人の歌姫。
秦谷美鈴の『シオン』による至高の包容と、月村手毬の『Luna Say Maybe』による圧倒的な証明。
初星学園の一学期実力発表ライブの歴史は、天宮優という異端のプロデューサーと二人の少女の手によって、今、完全に塗り替えられようとしていた。