学マス~チートPと一緒に初星学園を無双する話~ 作:みちみちお
グランドステージの熱狂を背にして、花海咲季は特別棟地下の第1控室へと戻ってきた。
重厚な防音扉を押し開けた瞬間、室内の冷涼な空気が、火照りきった身体を心地よく撫でる。黒と深紅を基調としたステージ衣装は全身から噴き出した汗で肌に張り付き、ポニーテールに束ねた赤髪の毛先からは、大粒の雫が床へと滴り落ちていた。
激しい呼吸で肩を大きく上下させながら、咲季は荒々しくタオルを首に掛けた。
その深紅の瞳には、一切の衰えを知らない爛々とした勝気な光が宿っている。
完璧だった。
テンポ142の過酷なビートの上で、寸分のブレもない体幹を保ち、激しいステップを踏みながら直線的で力強いハイトーンをホール全体へ叩き込んできたのだ。観客席を埋め尽くした赤のペンライトと地鳴りのような歓声が、その手応えを何よりも雄弁に物語っていた。
控室の中央、上等な革張りソファに深く腰掛けていた青年が、手元のタブレットから視線を上げた。
短く刈り込んだ金髪に、冷徹な黒い瞳。プロデューサー科三年生にして学内最強の作詞作曲家――高瀬正人である。
高瀬は手元の画面に記録された音響データとピッチの軌跡をスクロールさせ、微かに口元を緩めた。
「……戻ったか、咲季。まずまずだな」
高瀬の口から出たのは、彼にしては極めて珍しい、明確な満足の色を含んだ言葉だった。
普段であれば「コンマ数秒のズレがある」「サビのタメが甘い」と罵声を浴びせかける男が、一切のダメ出しを口にしなかったのだ。それほどまでに、先ほどの咲季のパフォーマンスは非の打ちどころがない完成度に達していた。
咲季はタオルで額の汗を乱暴に拭い、不敵に口元を吊り上げてみせた。
「ふん、当然よ。誰に向かって言ってるのよ、高瀬P。新入生首席の私が、あなたの曲を完璧以上に乗りこなしてやったのよ。五月のフレッシュ公演に続いて、この六月の実力発表ライブの頂点も、私がぶっちぎりで獲るに決まってるじゃない!」
咲季はバッグから特製のシェイカーを取り出し、緑色に怪しく光る自作の『スーパースタミナドリンク(SSD)』を一気に喉へと流し込んだ。
喉を鳴らして飲み干し、「ぷはっ!」と息を吐き出すと、更衣スペースのカーテンの奥へと入っていった。
素早く汗を拭き取り、通気性の良い黒のレッスンウェアへと着替える。
カーテンを開けて戻ってきた咲季は、壁に掛けられた大型モニターの前へと歩み寄った。
モニターには、咲季が去った後の薄暗いグランドステージが映し出されている。プログラムは第十五番目。
次に舞台へ上がる生徒の名を確認した咲季は、ふんと小さく鼻を鳴らした。
「次は……秦谷美鈴、ね」
ソファに座り直した高瀬が、冷ややかな視線を画面へと向けながら、嘲笑混じりに鼻で笑った。
「秦谷か。……あいつが今さらステージに出てきて、一体何ができるっていうんだ」
高瀬は脚を組み、傲慢に顎をしゃくった。
プロデューサー科のエリートとして、中等部時代から名を馳せていたアイドルたちのデータはすべて頭に入っている。
「中等部時代の『Syng UP!!』……確かにあのユニットの看板は凄まじかったが、あれは月村手毬の圧倒的な歌唱力と、賀陽燐羽の牽引力があってこそ成り立っていたものだ。秦谷美鈴など、その二人の後ろでただ調和を取るためだけに置かれていた、ただの飾り――便利な引き立て役に過ぎん」
「美鈴はね、昔からマイペースすぎるのよ」
咲季もまた、腕を組んでモニターを睨みながら同調した。
「寮でもいつもお茶ばかり飲んで日向ぼっこしてて、放っておいたら何もしないサボり魔みたいなところがあるわ。五月のフレッシュ公演をパスしたのだって、どうせ準備が面倒だったからに決まってるわよ」
「全くだな」
高瀬は冷淡に吐き捨てた。
「アイドルにとって、ハングリー精神の欠如は致命的な欠陥だ。他人に譲り、波風を立てないことばかり考えているようなマイペースな女をソロで育てるなど、プロデューサーからすればリスクが大きすぎる。コストと時間の無駄遣い以外の何物でもない」
高瀬の口元に、冷酷な嘲笑が浮かぶ。
「天宮優とかいうあの新入生……二十歳で入学してきた世間知らずが、銀髪碧眼の顔の良さだけでチヤホヤされ、調子に乗って月村と秦谷の二人を囲い込んだまではいいが、案の定、持て余したんだろうよ。偏屈な月村の機嫌を取るのに手一杯で、秦谷のプロデュースなどまともに手が回らなかったに違いない。五月の公演に出てこられなかったのが、その何よりの証拠だ。ろくに仕上げられもしないまま、学期の締め切りに追われて形だけ舞台に立たせるのが関の山だろう」
高瀬の分析に、咲季も心の中で頷いていた。
天宮優という青年の上品で穏やかな佇まいは覚えている。けれど、高瀬のように怒号を飛ばし、ミリ単位でアイドルを追い詰めるような苛烈さを持たない甘口のプロデューサーに、あのマイペースな美鈴を化けさせられるはずがない。
ましてや、先ほど自分が作り出したあの灼熱の熱気。会場全体が激しいビートに酔いしれている今、生ぬるい歌しか歌えない美鈴が出てくれば、観客の熱は一瞬にして冷え込み、無様な結果に終わるはずだった。
その時――。
モニターの中で、場内アナウンスが響いた。
『エントリーナンバー十五番――秦谷美鈴!』
暗転したグランドステージの中央へ、一人の少女が静かに歩み出てきた。
足元から立ち上る青白いフットライトが、彼女の姿を仄かに浮かび上がらせる。
「なんて衣装を着てるのよ!」
そこに映し出されていたのは、学園指定の標準的なステージ衣装ではなかった。
紫苑の花を思わせる淡いパープルと、夕暮れの茜色を薄く溶かし込んだような、息を呑むほどに優美なグラデーション。幾重にも重なる最高級のチュールレースが、淡雪のように幻想的なドレープを描いている。
洗練されたオートクチュールのドレスを纏い、胸の前で静かに手を重ねて目を閉じる秦谷美鈴。
その立ち姿には、かつての引き立て役のお淑やかさとは決定的に異なる、神聖なまでの絶対の気品が漂っていた。
「なんだ……あの衣装は……?」
高瀬が眉を寄せ、怪訝そうに呟いた。
学園の新入生が用意できるレベルの代物ではない。だが、衣装などただの飾りに過ぎない――高瀬がそう吐き捨てようとした、まさにその瞬間だった。
――ポーン……。
控室のモニタースピーカーから、たった一打のピアノの音が鳴り響いた。
ガタッ!!
「――っ!?」
高瀬正人が、弾かれたようにソファから腰を浮かせた!
その表情は、先ほどまでの冷徹な余裕を完全に失い、驚愕に歪んでいた。
プロデューサーとして、そして数々のチャート曲を手掛けてきた一流の作詞作曲家としての高瀬の耳が、そのたった一音の異常性を瞬時に見抜いたのだ。
「な……なんだ、この音は……っ!?」
高瀬の喉から、掠れた声が漏れ出た。
あり得ない。
初星学園の特別棟に備え付けられた音響システムや、生徒たちが使う最新のソフトウェア音源などではない。
ハンマーが最高峰のグランドピアノの弦を叩いた瞬間の、木とフェルトの微細な摩擦音。空間の隅々にまで滑らかに染み渡っていく、寸分の濁りもない完璧なリバーブの減衰。
空気の振動そのものが、数千万円クラスのヴィンテージ機材と、狂気的なまでの音響設計によって極限まで研ぎ澄まされている。
たった一打の鍵盤の音だけで、モニター越しに伝わってくるホールの空気が一瞬にして凍りつき、八百人の観客の呼吸が完全に止まったのが分かった。
「どこのスタジオだ……!? どこのヴィンテージコンソールを通してマスタリングしたんだ、このトラックは……!?」
高瀬が額に脂汗を浮かべ、モニターへ詰め寄るように身を乗り出す。
だが、戦慄はそれだけでは終わらなかった。
ステージ中央で、美鈴がゆっくりと瞼を開いた。
その切れ長の黒い瞳が妖艶に光り、唇が開かれる。
そして――静寂を切り裂いて、美鈴の歌声が放たれた。
「――――っっ!!」
控室の中で、花海咲季の呼吸が完全に止まった。
言葉が出なかった。
声を出そうとしても、喉が硬直し、指先が冷たく痺れて動かない。
(な……なに、これ……っ!?)
スピーカーから溢れ出してくるその歌声は、咲季の知る秦谷美鈴のそれとは、完全に別次元の代物だった。
ウィスパーボイスのように繊細で、吐息がそのまま音になったかのような柔らかさでありながら、音の芯が恐ろしいほど太く、空間のすべてを滑らかに塗り替えていく。
クリアすぎる。
倍音の伸びが、声の艶が、空気の揺らぎの一つひとつが、まるで生き物のように鼓膜を包み込んでくる。
「ば、馬鹿な……っ!!」
隣で、高瀬が信じられないものを見るように頭を抱え、絶叫した。
その瞳は、プロとしての矜持を粉々に叩き割られた屈辱と恐怖に血走っている。
「ありえない……! こんな歌……トッププロのアーティストと比較しても、何一つ変わらないレベルだぞ……っ!!」
高瀬の震える指先が、モニターの画面を指差した。
「ピッチの狂いが皆無なだけじゃない……! 声帯の鳴らし方、共鳴腔の使い分け、ウィスパーからチェストへのシームレスな移行……どれをとっても完璧だ! 一音ごとに聴き手の心臓を直接握り潰すような、この恐ろしい包容力は何なんだ!? あの秦谷が……こんな化け物じみた歌を歌えるわけがないだろうがっ!!」
高瀬の怒号が、控室に響き渡る。
だが、咲季の耳には、高瀬の声すら届いていなかった。
モニターの中で、美鈴は優雅にドレスの裾を揺らしながら歌い続けていた。
ピアノロックのエモーショナルな疾走感に乗せて、切なく、胸を締め付ける旋律が紡ぎ出されていく。
サビのロングトーンが放たれた瞬間、咲季の全身を猛烈な鳥肌が駆け抜けた。
(なんで……!?)
咲季の奥歯が、ガチガチと音を立てて震え始めた。
爪が、手のひらに深く食い込む。
(なんで、こんな女が……こんな歌を歌えるのよ……っ!?)
悔しさと困惑が、黒い濁流となって咲季の胸を掻き乱す。
自分は、元アスリートとしての誇りを胸に、誰よりも厳しいトレーニングを己に課してきたはずだった。高瀬正人の理不尽な罵倒としごきにも耐え、喉を痛めつけ、筋肉を極限まで酷使して、新入生首席の座を掴み取ったのだ。先ほどの自分のステージだって、すべての力を出し切り、文句のない完成度だったはずなのだ。
それなのに――。
画面の中で歌う美鈴は、汗を飛び散らせて力むこともなく、苦悶の表情を浮かべることもない。
優美に、マイペースに微笑みながら、ただそこに立って声を解き放っているだけで、会場中のすべての観客を、審査員を、そして自分自身をも、逃げ場のない愛の底なし沼へと引きずり込んでいる。
声のクリアさが、まるで違う。
声の伸びが、まるで違う。
直線的な力でねじ伏せようとする自分の歌とは、次元の異なる「深さ」がそこにはあった。
耳を塞ぎたくなるほどに美しい。
認めたくないのに、身体の全細胞が、その歌の圧倒的な至高性を理解してしまっていた。
(あんな……あんなサボり魔みたいな女が……どうして……っ!?)
咲季の脳裏に、あの青年の姿が浮かび上がった。
天宮優――。
白銀の髪とサファイアの碧眼を持つ、あのプロデューサー。
高瀬が「ろくに育てられない」と見下していたあの男が、水面下で、一体どれほどの奇跡をこの少女に授けたというのか。
あの神のようなピアノの音も、この息を呑むような衣装も、そして美鈴の内に眠っていた怪物の本能を覚醒させたのも、すべてはあの男の仕業だというのか。
最後のアウトロが静かに消え去り、美鈴が優雅に一礼してステージ袖へと去っていく。
数秒の静寂の後、モニターから割れんばかりの地鳴りのような拍手とスタンディングオベーションが爆発した。
控室の中は、冷たい静寂に支配されていた。
高瀬正人はソファの前で立ち尽くしたまま、青ざめた顔で唇を噛み締め、小刻みに拳を震わせていた。
自らが作り上げた最高傑作であるはずの咲季のステージが、たった一曲の『シオン』によって、完全に呑み込まれ、上書きされてしまったという現実を、エリートとしての彼のプライドは受け止めきれずにいた。
そして、花海咲季もまた、モニターの前に立ち尽くしたまま、動くことができなかった。
胸の奥で、激しい敗北の予感と、底知れない屈辱が炎となって渦を巻いている。
(秦谷美鈴……)
咲季は震える両手を強く握りしめ、自らの胸元を強く叩いた。
信じられなかった。
信じたくなかった。
だが、その戦慄の直後、咲季の脳裏にさらなる悪夢のような予感が過った。
秦谷美鈴が、ここまでの怪物に化けていたのだとすれば――。
あの青山の地下で、同じ男の手によって育て上げられた、もう一人の少女。
自らの同室のルームメイトであり、かつて中等部で頂点に君臨していたあの偏屈な歌姫――月村手毬は、一体どれほどの化け物となってステージへ現れるというのか。
紅蓮のプライドを引き裂かれた控室の暗がりの中で、新入生首席・花海咲季は、自らの足元が崩れ去るような底知れぬ恐怖に、ただ一人震えていた。