学マス~チートPと一緒に初星学園を無双する話~ 作:みちみちお
秦谷美鈴の『シオン』がグランドステージに残した戦慄の爪痕は、第1控室の空気を鉛のように重く淀ませていた。
プログラムは十六番目、十七番目と淡々と進んでいたが、モニターを見つめる高瀬正人と花海咲季の口元から、言葉が零れ落ちることはなかった。
ソファの横に置かれたサイドテーブルには、高瀬が無意識のうちに握り潰した紙コップが、歪な形で転がっている。冷徹を自認する金髪のプロデューサーの額には、じっとりとした冷や汗が滲んでいた。一方の咲季は、タオルを首に巻いたまま、爪が皮膚に食い込むほど強く両拳を握りしめていた。
美鈴の、あの常軌を逸した歌声。
トッププロと寸分違わぬシルクのような艶と、すべてを包み込む圧倒的な表現力。
自分たちが「サボり魔」「ただの引き立て役」と見下していた少女の放った一撃は、二人のエリートとしてのプライドを根底から叩き折るのに、十分すぎる威力を持っていた。
だが――悪夢は、まだ半分すら終わっていなかった。
『――続きまして、エントリーナンバー十八番。月村手毬!』
場内アナウンスが無機質に告げたその名に、咲季の肩がピクリと跳ね上がった。
高瀬の黒い瞳が、獲物を睨みつける蛇のように鋭くモニターへと固定される。
「……来たわね、手毬」
咲季の掠れた声が、防音の利いた控室に低く響いた。
寮の三人部屋で同じ時間を過ごし、昨夜も静かな闘志をぶつけ合ったばかりのルームメイト。
かつて中等部で「ナンバーワン」と呼ばれながらもユニットを崩壊させ、孤独に怯え、喉を締め付けるように歌っていた、あの意地っ張りな少女。
モニターの中で、グランドステージの照明が一斉に暗転した。
暗闇の中、青白いフットライトが静かに灯り、ステージ中央に立つ一人の少女の姿を、ほのかに浮かび上がらせる。
その姿を目にした瞬間、高瀬の眉間が引き攣るように深く歪んだ。
「……チッ、ふざけやがって! なんだ、あの格好は……!!」
高瀬は吐き捨てるように悪態をつき、ソファのアームレストを乱暴に叩いた。
画面に映る月村手毬が身に纏っていたのは、当然のように、初星学園が全生徒に支給している無個性な共通ステージ衣装ではなかった。
漆黒のベルベットと、月光を思わせる冷たいシルバーの特注ファブリック。
胸元から腰にかけて散りばめられた星々のような繊細なビジューが、フットライトを浴びて青白く妖しく瞬いている。激しい動きを妨げないアシンメトリーの特殊シルクスカートが、手毬の研ぎ澄まされた身体のラインを完璧に際立たせていた。
先ほどの美鈴の紫苑色のドレスと同じく、明らかに一流の工房で仕立てられた、完全なるオーダーメイドのオートクチュールだった。
「たかが学期末の学内ライブごときで……なんて衣装を使いやがる、あの新入生は……!!」
高瀬の唇が、悔しさと侮蔑で歪む。
「プロデューサー科の分際で、中等部上がりの元エリートに高級な衣装を買い与えて、機嫌を取ってんのか!? 見かけ倒しの着せ替え人形に何千万円注ぎ込もうが、歌の中身が伴わなけりゃ、ただの道化だろうが!」
激しい罵声を浴びせる高瀬。
だが、その隣で画面を見つめる咲季の深紅の瞳には、怒りとは異なる、どろりとした苦い感情が渦巻いていた。
(……綺麗ね)
咲季は奥歯をギリッと噛み締めた。
認めたくはなかった。けれど、その衣装は手毬の持つ研ぎ澄まされた鋭利な気品と、息を呑むほど見事に調和していた。
学園指定の無難な衣装を着てステージに立った自分と、自分自身のためだけにミリ単位で誂えられた最高峰のオートクチュールを纏う手毬。
その差が、胸の奥を容赦なく抉っていく。
「……あんな衣装でステージに立てば、気持ちの持っていき方だって、だいぶ違うでしょうね」
咲季の口から、嫉妬を滲ませた呟きが無意識に漏れた。
身に纏うもの一つで、表現者の覚悟は変わる。自分のためだけに用意された世界に一着の鎧を与えられた手毬が、どんな精神状態でステージに立っているのか。咲季には、痛いほど想像できてしまった。
モニターの中で、手毬が静かに目を閉じる。
深呼吸を一つ。両手を身体の横に下ろし、完全な静寂が訪れるのを待つ。
その佇まいには、微塵の迷いもなかった。
そして――運命の瞬間が訪れた。
張り詰めた空気の中、たった一打の硬質で透明なピアノの音が、スピーカーから放たれた。
ポーン――……。
手毬の吐息を含んだ第一声が空間をかすめた、まさにその次の瞬間だった。
――ドォォォォォォンッ!!!!
「――っ!?」
高瀬正人の身体が硬直した。
立ち上がろうとしていた足が、床に縫い付けられたように止まる。
地鳴りのような爆音とともに解き放たれたのは、暴力的なまでに研ぎ澄まされたオルタナティブ・ロックの歪んだギター、床を揺るがす地を這うベースライン、そして高速で疾走するドラムビートだった。
だが、それだけでは終わらない。
重低音の壁を突き破るように、壮大で劇的なシンフォニック・ストリングスと華麗なブラスセクションが幾重にも重なり、客席へ、そして控室のモニタースピーカーへと雪崩れ込んできた。
高瀬の顔が、恐怖と戦慄で歪む。
「な……なんだ、これ……!? 始まりから……音が、音が違いすぎる……!!」
喉の奥から、掠れた悲鳴が漏れた。
プロデューサーとして、作詞作曲家として、チャート十位以内に入る楽曲を生み出してきた高瀬。その耳は、流れ込んでくる音響の異常さを否応なく理解してしまっていた。
初星学園のミュージックラボにある最新機材で作られた音ではない。生徒たちがパソコン一台で打ち込んだチープなトラックとは、音の粒子一つひとつの解像度も、ダイナミクスも、空間の奥行きも、まるで比べ物にならなかった。
深く沈み込む低域。滑らかに抜ける中高域。マスターテープを通したかのような、極上のアナログ特有の温かみと粘り。
「どこのスタジオで作った音だ、これ……!? 世界のどこを探せば、こんな音響設計ができる化け物がいるんだよ……っ!?」
「音が……違いすぎる……っ」
咲季もまた、モニターを凝視していた。
音楽理論に詳しくない咲季でさえ、皮膚が粟立つほどの音圧の差を直感していた。
先ほどの美鈴の『シオン』もそうだった。
なぜ、なぜ天宮優が担当する二人だけが、これほどまでに圧倒的で、世界基準すら超越した異次元のサウンドを与えられているのか。
不公平だ。理不尽だ。
そんな黒い感情が、咲季の胸の中で炎となって渦巻いていた。
だが、その時だった。
「…………待て」
高瀬が、ぴたりと動きを止めた。
目を見開き、何かに憑りつかれたようにスピーカーへ耳を近づける。金髪の隙間から覗く黒い瞳が、激しく左右に揺れ動いていた。
疾走するシンフォニック・ロックのトラック。
その中を縫うように配置された、特注のアナログイコライザーによる周波数処理。
ボーカルの息遣いにミリ秒単位で追従する、光学式コンプレッサー特有のポンピング。
そして、美しくもどこか哀愁を帯び、聴く者の魂を素手で鷲掴みにするような、至高のメロディラインとコード進行――。
高瀬の脳裏に、数年前、音楽界を震撼させた伝説の記憶が雷鳴のように蘇った。
自らも擦り切れるほど聴き込み、その才能の前に打ちのめされた、ある覆面歌手の音楽。
「この音作り……このミックスの質感……」
高瀬の唇が、ガチガチと音を立てて震え始める。
「知っている……俺は、この音を知っているぞ……! どこかで、昔……何度も、何度も聴いた……っ!」
「高瀬P……? 一体、何を……?」
咲季が戸惑い、高瀬を振り返った。
その瞬間、高瀬は喉が裂けんばかりの絶叫を張り上げた。
「――『天月』かぁぁぁぁっっ!!!!」
「……え?」
咲季の思考が、一瞬停止した。
「天月だ! 間違いない、このコード感、このアグレッシブでありながら完璧に調和したシンフォニック・ロックの構築美、そしてこの狂気的なアナログマスタリング……! あの伝説の覆面歌手、三曲連続ダブルミリオンを叩き出して姿を消した、『天月』の完全な新曲だぞ、これぇぇぇっ!!」
「あ……天月……っ!?」
咲季の顔から、一気に血の気が引いていった。
天月。
音楽を志す者なら、誰もが知る伝説の怪物。
正体不明のまま突如として現れ、既存のチャートを完全に粉砕し、音楽界の頂点を極めたまま表舞台から忽然と姿を消した、神話のような存在。
高瀬正人がどれほどプロデューサーとして実績を積もうとも、生涯、絶対に手が届かないと崇拝し、同時に激しい劣等感を抱き続けてきた、絶対の天才だった。
「な……なんで……っ!?」
咲季の身体が、激しい戦慄でガタガタと震え始めた。
「なんで、あの天月が……あんな二人の曲を作ってんのよぉぉぉっ!!」
怒りと嫉妬、そして理解不能の狂気が、咲季と高瀬の胸の中で同時に爆発した。
二人は知らない。
目の前にいる新入生プロデューサー・天宮優こそが、その「天月」本人であるという事実を。
だからこそ、二人の脳内では最悪の妄想が駆け巡っていた。
あの銀髪の男が、二十歳という若さを武器に、あるいはそのコネや資金力を駆使して、音楽界の頂点から隠遁した天月を探し出し、莫大な金を積んで書き下ろし曲を手に入れたのではないか――。
そんな、彼らにとって最も受け入れがたい想像だった。
「ふざけるな……! ふざけるなよ、天宮優ぅぅぅっ!!」
高瀬は爪を立てて髪をかきむしり、狂乱したように呻いた。
「俺がどれだけ血の滲む思いで曲を書いてきたと思っている! チャートを這いずり回り、学内最強の座を維持するために、どれだけ命を削ってきたと思っているんだ! それを……あんな新入生が、天月の曲を引っ提げてきやがっただと!? 許せるか……そんな反則、絶対に許せるわけがないだろうがっ!!」
高瀬のプライドは、完全にズタズタに引き裂かれていた。
自分の一世一代の勝負曲が、神の生み出した最高傑作の前に、ただの前座として蹴散らされようとしている。
だが――二人に絶望を突きつけたのは、曲のクオリティだけではなかった。
モニターの中で、手毬がマイクを握りしめ、魂の叫びを解き放っていた。
「――っ……!!」
咲季の息が、喉の奥で詰まった。
上手い。
あまりにも、上手すぎる。
かつて中等部時代の手毬の歌にあった、あの頑なな力みが完全に消え去っていた。
失敗を恐れて喉を締め付け、狂いのないピッチという型の中に自分を閉じ込めていた、あの不器用な癖が綺麗さっぱり削ぎ落とされている。
剥き出しのパッションを乗せながらも、声帯には一切の無理な抵抗がない。息のスピード、共鳴腔の広がり。そして、感情の昂りに合わせてどこまでも突き抜けていくハイトーンのロングトーン。
伸び伸びと、大空を羽ばたくように、手毬はステージの上で笑いながら歌っていた。
(これが、あの……手毬なの……!?)
咲季の視界が、悔しさの涙で歪んだ。
信じられなかった。信じたくなかった。
寮の部屋で、いつもピリピリと刺々しい空気を放ち、孤独に自主練を繰り返していたあの手毬が、どうしてこれほどまでに圧倒的な歌姫へと生まれ変わっているのか。
その瞬間、咲季の脳裏に昨夜の情景が鮮やかに蘇った。
実力発表ライブの前夜。寮の三人部屋に戻ってきた手毬の姿。
『やるべきことを完璧にやってきただけよ』
そう言って、一切の迷いのない澄み切った瞳で自分を見返してきた、あの手毬の横顔。
(あの余裕は……そういうことだったの……っ!?)
咲季の胸に、冷たい氷の刃が深々と突き刺さった。
手毬は、虚勢を張っていたわけではなかったのだ。
天月という至高の武器を与えられ、天宮優の導きによって自らの弱さを克服し、このステージで世界をねじ伏せる確信を持っていた。だからこそ、あれほど静かな佇まいでいられたのだ。
それに比べて、自分はどうだったか。
新入生首席という看板にしがみつき、高瀬の怒号に耐え、泥を啜るようにして完成度を高め、「勝った」と傲慢に笑っていた。
だが、今、手毬が放っている輝きは――そんなアスリート的な努力の次元を、遥か彼方に置き去りにしていた。
ドォォォォォォンッ!!!!
白銀の光に包まれたグランドステージで、手毬のラストサビがホール全体を震わせた。
圧倒的な歌声が最後の一音まで貫き、壮大なアウトロが静かにフェードアウトしていく。
手毬はマイクを下ろすと、観客席に向かって深々と一礼し、ステージ袖へと去っていった。
数秒の静寂の後――。
――ドワァァァァァァァァッッ!!!!
モニターのスピーカーが壊れんばかりの拍手喝采と、地鳴りのようなスタンディングオベーションが爆発した。
客席の八百人が一斉に立ち上がり、審査員たちが狂ったようにペンを走らせる。割れんばかりの歓声が、特別棟の地下を揺るがしていた。
その熱狂を耳にしながら、花海咲季は、その場に膝から崩れ落ちそうになった。
壁に背中を預け、ずるずると滑り落ちるようにして、床へと視線を落とす。
「……負けた……」
咲季の唇から、小さく乾いた声が零れ落ちた。
完敗だった。
言い訳のしようもない、完全なる敗北。
美鈴の『シオン』にも、手毬の『Luna Say Maybe』にも、今の自分のパフォーマンスでは、爪の先ほども届いていなかった。
勝負が好きで、負けるのが大嫌いな少女のプライドが、粉々に砕け散り、灰となって心臓に降り積もっていく。
全身から力が抜け、咲季はただ呆然と冷たい床を見つめることしかできなかった。
そして、その傍らでは――。
高瀬正人の全身から、青黒い嫉妬の劫火が燃え盛っていた。
「天宮優……っ!!」
高瀬は血が滲むほど強く下唇を噛み締め、爪を手のひらに食い込ませていた。
その両目は、激しい怒りと、何かを奪われた者特有の狂おしい嫉妬で血走っている。
「どうやって天月を取り込んだ……!? 一体どんな手を使って、あの怪物を手懐けやがったんだ……っ!!」
許せない。
自分を差し置いて、あんな青二才が音楽の頂点に立つ者の果実を独占している。その現実が耐え難い屈辱となり、高瀬の神経を焼き尽くしていた。
「このまま終わらせると思うなよ……天宮優……!」
高瀬の怨嗟の呟きが、第1控室の暗がりに毒のように重く沈んでいった。
二人のエリートが嫉妬と敗北感の炎に身を焦がす一方、グランドステージの熱狂は冷めることなく続いていた。
運命の一学期実力発表ライブは、天宮優が導く二人の歌姫の完全なる独壇場として、その幕を閉じようとしていた。