学マス~チートPと一緒に初星学園を無双する話~ 作:みちみちお
昼休みのチャイムが初星学園の敷地内に高らかに響き渡ると、校舎内の静寂は一瞬にして活気あふれる喧騒へと塗り替えられた。
アイドル科本棟の一階にある「初星食堂」は、午前中の過酷なレッスンや講義を終えた生徒たちで埋め尽くされている。ショーケースの前には色とりどりの定食や名物の初星カレーを求める長い列ができ、テーブル席のあちこちから笑い声や活動についての熱い議論が飛び交っていた。
その食堂の中央から少し離れた窓際の四人掛けテーブルに、天宮優は一人で腰を下ろしていた。
目の前に置かれているのは、栄養バランスの整った日替わりの「初星定食」。
二十歳の青年らしい落ち着きを漂わせた彼は、背筋をすっきりと伸ばし、静かに箸を取る。その所作は、驚くほど洗練され、無駄がなかった。
大手商社を率いる父・昭の厳格ながらも気品ある教育と、スウェーデン出身の母・アイシャの愛情深い家庭環境で育まれた育ちの良さが、何気ない日常の動作の一つひとつに滲み出ている。
箸の上げ下ろし、器を持つ指先の滑らかさ、背筋を一切曲げずに食事を口へと運ぶ姿――目にかからない長さに切り揃えられた白銀の髪と、透き通るサファイアの碧眼も相まって、大衆食堂の片隅でありながら、そこだけまるで格式高い高級サロンのような静謐な空気が漂っていた。
そんな優の周囲に、ふと異様な気配が漂い始めた。
コツ、コツ、と硬いローファーの足音が、食堂の喧騒を掻き分けるようにして真っ直ぐに優のテーブルへと向かってくる。
周囲の生徒たちの話し声が、波が引くように一段低くなった。
優がふと視線を上げると、そこにはトレイを両手で抱えた一人の少女が仁王立ちしていた。
腰まで届く、緩やかに波打つ漆黒の長髪。切れ長の大きな黒い瞳。
――月村手毬だった。
手毬は周囲の視線など意に介さない様子で、しかしその頬を微かに強張らせながら、優の正面の椅子をスッと引いた。
そして、ガタッと少し勢いよく音を立てて、優の真正面の席に腰を下ろしたのである。
「――っ!?」
食堂のあちこちから、息を呑む気配が伝わってきた。
離れた席でうどんをすすっていたプロデューサー科の佐藤健太が、目を丸くして箸を止める。その隣にいた真面目な中野仁も、驚きのあまり、かけていた眼鏡を指で押し上げて凝視していた。
「おい、見ろよ……あれ、月村手毬だろ?」
「なんであいつが天宮の前に座ってんだ?」
「嘘だろ……あの孤高で誰とも馴れ合わない『ナンバーワン』が、自分からプロデューサー科の男の席に行くだなんて……!」
遠くのカウンター近くでは、手毬と学生寮で同室の花海咲季が「あら……?」と赤髪を揺らしながら興味深そうに目を細め、藤田ことねが「ええっ!? 手毬が男子の席に乱入してるんだけど!?」と小銭入れを握りしめたまま、ぽかんと口を開けていた。
だが、正面に座られた当の優は、少しも動じることなく柔らかく目を細めた。
「こんにちは、月村さん。なぜここに?」
「……別に。席が空いてたから座っただけよ。他意はないわ」
ぷいと横を向きながら、手毬はトレイに乗った和風パスタのフォークを握った。
昨日、中庭で優が伝説の覆面歌手「天月」であることを知り、その神がかった才能と、優が語った「誰かの輝く一助になりたい」「泥臭くても手を離さない」という熱く誠実な想いに魂を撃ち抜かれたばかりの彼女である。
平静を装おうとしてはいるものの、耳の付け根がうっすらと桜色に染まっているのを隠しきれていなかった。
手毬はパスタを口に運ぼうとしながら、ちらりと上目遣いで優の様子を観察し始めた。
(……なんなのよ、この人……)
手毬の胸中に、思わぬ動揺が走る。
目の前の青年は、食事の仕草一つをとっても絵画のように美しい。スープをすする音も立てず、魚の骨を外す手つきも流れるようで、一切の粗野さや下品さがない。
二十歳という実年齢以上の優雅さと気品が、全身から溢れ出ていた。
それに対して、自分はといえば、早く食べようとしてフォークにパスタを巻きつけすぎてソースを飛ばしそうになったり、行儀悪く足を組み替えそうになったりしている。
(うっ……なんか、私すごく子どもっぽく見えてない……!?)
手毬は内心で激しく呻き声を上げ、フォークをぎゅっと握りしめて動きを止めてしまった。
かつて中等部でトップを走り、「ナンバーワン」と称えられた自負がある手毬だったが、この天宮優という男の前に座っていると、自分がひどく未熟で、背伸びばかりしているちっぽけな少女のように思えて仕方がなかった。
「月村さん?」
優が箸を置き、サファイアのような碧眼を手毬に向けた。その瞳には侮蔑や嘲笑の色など微塵もなく、ただ純粋な気遣いと慈しみが宿っている。
「食事が進んでいないようですが、体調でも悪いんですか? 昨日の発声で喉を痛めたりは……」
「そんなヤワじゃないわよ! 喉なんて絶好調だし!」
手毬は図星を突かれた子猫のように毛を逆立て、慌ててパスタを口に放り込んだ。
もぐもぐと頬を膨らませて食べるその姿は、周囲が恐れる「孤高の元エリート」という肩書きとは程遠く、どこか幼く愛らしい。
「ふふ、なら良かったです。しっかり栄養を摂ってくださいね。歌うためには体が資本ですから」
優が優しく微笑みかけると、手毬はカッと顔を赤らめ、「わ、わかってるわよ、それくらい……っ!」とそっぽを向いてしまった。
その様子を遠巻きに眺めていたプロデューサー科の生徒たちは、呆気にとられて囁き合っていた。
「おいおい……なんだよあの空気」
「あの気難しい月村手毬が、天宮の前だと完全に毒気を抜かれてるぞ……」
優の醸し出す圧倒的な包容力と、それに翻弄される手毬。
異様な光景でありながら、どこか微笑ましいその空気が、食堂内に静かに広がっていた。
――だが、手毬の行動は食堂だけに留まらなかった。
午後の授業の合間、十分間の休み時間のことである。
優が次の講義の資料を受け取るため、アイドル科本棟の廊下を歩いていた時だった。
カツ、カツ、と優の靴音に重なるように、少し後ろからパタ、パタ、と小柄な足音がついてくる。
優が足を止めると、後ろの足音もピタッと止まる。
振り返ると、廊下の角や太い柱の陰から、黒髪の少女がひょっこりと顔を出していた。
手毬だった。
優と目が合うと、彼女はビクッと肩を跳ねさせ、慌てて視線を明後日の方向へと逸らし、まるで「私はただそこに立っているだけです」と言わんばかりのわざとらしい無表情を作る。
(……ついてきているね)
優は内心で小さく苦笑した。
昨日の放課後に「天月」の正体を明かしてからというもの、手毬の視線をずっと背中に感じていた。
優が資料室へ向かえば資料室の前の廊下に現れ、購買部へ飲み物を買いに行けば、ジュースの陳列棚の隙間からじっとこちらを見つめている。
優の後ろを付かず離れずの距離で歩く手毬の姿は、学園内のいたるところで目撃されていた。
「なあ、佐藤……あれ、どう思う?」
渡り廊下のベンチで缶コーヒーを飲んでいた中野仁が、眉を八の字にして呟いた。
佐藤健太が苦笑いを浮かべながら頭を掻く。
「どう思うって……どう見ても、親鳥の後ろを必死についていく雛鳥だろ。カルガモの親子かよ」
「普段の月村さんからは想像もつかないな。あんなにプライドが高くて人を寄せ付けなかった彼女が、天宮さんの背中ばかり追いかけているなんて……」
通りがかるアイドル科の生徒たちも、クスリと笑みを漏らしながらその光景を眺めていた。
手毬本人は誰にも気づかれていないつもりで、真剣かつ必死な形相で優の動向を追い続けているのだが、周囲から見れば、その健気で不器用なストーキングは完全にバレバレだった。
優は手毬を邪険に追い払うようなことは決してしなかった。
曲がったことや不誠実を嫌う優だが、手毬のその行動の根底にあるものが、冷やかしや悪意ではなく、自らの音楽に対する痛切なまでの渇望と憧れであることを、誰よりも深く理解していたからだ。
だからこそ、優は手毬の気配を感じながらも、普段通りの穏やかな足取りで学園内を歩き、彼女が心の整理をつけるのを静かに待っていた。
そして、放課後。
夕刻のチャイムが鳴り響き、校舎から生徒たちの声が次第に薄れ始めた頃、優はいつものように、アイドル科本棟と特別棟の間にある中庭へと足を運んでいた。
西日に照らされた中庭のベンチに一人腰を下ろし、優は軽く目を閉じる。
春の夕暮れの風が吹き抜け、銀色の前髪を優しく揺らしていく。肌を撫でる大気の冷たさと、微かに残る草木の青い匂い。その静けさに身を委ね、優は深く息を吸い込んだ。
パタパタパタッ――!
静寂を破り、芝生を蹴る切迫した足音が中庭に響き渡った。
優がゆっくりと目を開けると、そこには息を切らした手毬が立っていた。
制服のスカートを揺らし、胸元を上下させながら、手毬は優の正面数メートルの位置で立ち止まった。その漆黒の瞳は、これまでにないほど強烈な光を宿し、真っ直ぐに優を射抜いている。
優は困ったように、けれどどこまでも温かい苦笑を浮かべて手毬を見上げた。
「……月村さん。今日は一日、ずっと僕の後ろにいましたね。どうかしたんですか?」
優の柔らかい問いかけ。
その声を聞いた瞬間、手毬の肩が大きく跳ね上がった。
一日中、優の背中を追いかけ続け、その立ち居振る舞いを見つめ、昨日の音楽の衝撃と優の言葉を頭の中で何百回も反芻してきた手毬。
彼女の胸の中では、プライドと恐れ、そしてそれを遥かに凌駕する激情が激しく渦巻いていた。
――あの人は、本物だ。
並み居るプロデューサー科の生徒たちとは次元が違う。世界を震撼させた覆面歌手「天月」としての圧倒的な才能を持ちながら、自らの栄光に固執せず、泥臭く誰かを支えるためにここに立っている人。
私の歌の痛みを一瞬で見抜き、喉を解放してくれた人。
「諦めればそこでお終いだ。泥臭くてもいい。それで前に進めるなら僕は惨めでも歩み続ける」と、真実の覚悟を語ってくれた人。
(この人を逃したら……私は絶対に、一生後悔する……!)
手毬はぎゅっと両手を握りしめた。爪が手のひらに食い込むほど強く。
これまでの中等部での失敗、崩壊してしまったユニット、自分に向けられた無数の冷酷な視線。
「性格に難がある」「傲慢だ」「トラブルメーカーだ」と罵られ、もう誰も信じられなくなっていた。
だからこそ、傷つかないように皮肉で武装し、他者を拒絶してきた。
だが、目の前のこの青年だけは、そんな自分の殻をいとも容易く打ち砕いてみせたのだ。
手毬は一歩、前へと踏み出した。
そして、さらに一歩。
夕日を背にした手毬の顔は、耳まで真っ赤に染め上がっていた。
普段の意地っ張りな皮肉屋の仮面は、もはや跡形もなく剥がれ落ちていた。そこにあるのは、自らの全存在を懸けて一つの奇跡に手を伸ばそうとする、不器用で、ひたむきな一人の少女の素顔だった。
手毬は大きく息を吸い込み、震える唇を開いた。
「……私の……」
声が小さく震える。
手毬は自らの弱さを振り払うように、瞳をぎゅっと見開いて優の碧眼を凝視した。
「私の、プロデューサーになってほしいの……っ!」
中庭の夕暮れを引き裂くように、手毬の叫びが響き渡った。
「……月村さん」
優が目を見張る。
手毬は止まらなかった。
一度決壊した感情の奔流は、もう誰にも止められなかった。
顔を火が出るほど真っ赤に染め、瞳に涙の膜を浮かべながら、手毬は必死に言葉を紡ぎ続けた。
「私……知ってるわ。自分が面倒な性格だってことくらい! 意地っ張りで、皮肉屋で、素直になれなくて、中等部の時だって仲間とうまくやれなくて全部壊しちゃった……! 初星に入ってからも、みんな私のことを腫れ物みたいに扱って、誰も本気で向き合おうとなんてしてくれなかった!」
言葉が途切れそうになるのを、手毬は胸を抑えて押し通す。
「でも……! あなたは違った! 私の喉の癖を見抜いて、あんなすごい曲を作って……それなのに、私を馬鹿にしないで、私の歌に魂があるって言ってくれた!」
手毬は優の目の前、手を伸ばせば触れられる距離まで詰め寄った。
その小さな両手は、懇願するようにぎゅっと握りしめられている。
「私、もう一度歌いたいの……っ! 過去の残響なんかじゃなくて本物の歌を歌って、私を切り捨てた奴らを見返してやりたい!
そして……嫌いな自分と決別して、私自身を好きになりたいの……! そのためには、あなたが必要なの! あなたの曲じゃなきゃ嫌なの! あなたの隣じゃなきゃ……私は進めないのよ……っ!!」
普段の生意気で尊大な態度からは想像もつかない、あまりにも剥き出しで、あまりにも素直な魂の叫び。
少女のすべてを曝け出したその告白は、夕暮れの中庭の空気を熱く震わせていた。
手毬は息を荒らげ、真っ赤になった顔をこれ以上ないほど俯かせた。
告げてしまった。
プライドも、見栄も、虚勢も、すべてをかなぐり捨てて、二十歳の青年プロデューサーの前に自らのすべてを投げ出してしまったのだ。
拒絶されたらどうしよう。
「君のような面倒なアイドルは御免だ」と笑われたらどうしよう。
恐怖と恥ずかしさで、手毬の華奢な肩が小刻みに震えていた。
優は、ベンチからゆっくりと立ち上がった。
夕陽が彼の銀髪を琥珀色に染め、サファイアの碧眼に柔らかな光を宿している。
優は手毬の前に歩み寄り、震える少女の頭上に、そっと自らの大きな手を伸ばした。