学マス~チートPと一緒に初星学園を無双する話~ 作:みちみちお
初星学園アイドル科本棟の三階、渡り廊下の奥に位置する「プロデュースオフィス304号室」。
窓の外からは、放課後のグラウンドで自主練習に励む生徒たちの掛け声や、遠くのレッスン室から微かに漏れ聞こえるピアノの音が、風に乗って運ばれていた。
室内に差し込む西日は、真新しい木製のローテーブルや柔らかなファブリックの三人掛けソファを、暖かな琥珀色に染め上げている。壁のホワイトボードには、今週のレッスンスケジュールや初星学園の年間行事予定が整然と書き込まれていた。
正式に月村手毬、そして秦谷美鈴の二人とプロデュース契約を結んでから、数日が経過していた。
この日は、三人にとって専用事務所で迎える本格的な業務初日――担当アイドル二人の今後の育成計画とスケジュールを擦り合わせる、最初の打ち合わせの日だった。
中央の三人掛けソファの真ん中に、天宮優は腰を下ろしていた。
膝の上には初星学園の学内ネットワークに接続されたタブレット端末。ローテーブルの上には、二人の身体データや基礎歌唱・ダンス評価が記されたファイルが広げられている。
二十歳の青年らしい洗練されたスーツ姿で、優は真剣な眼差しで画面の数値を追っていた。
目にかからない長さに切り揃えられた白銀の髪が、微風にさらりと揺れる。サファイアのような碧眼は、音楽プロデューサーとしての鋭い分析の光を宿していた。
「……うん。二学期の評価基準や、六月の『実力発表ライブ』を見据えると、まずは基礎体幹の強化と呼吸法の徹底が必要だな。月村さんは換声点の処理、秦谷さんは中音域での声の立ち上がりをもう少し……」
優が小さく呟きながらペンを走らせていると、カサリと衣擦れの音がすぐ右隣で響いた。
「ねえ、優さん。これ、何?」
ふわりと、シャンプーの甘い香りが優の鼻腔をくすぐった。
顔を横に向けると、そこには優の右腕に触れそうなほどの至近距離で画面を覗き込んでいる月村手毬の姿があった。
腰まで届く、緩やかにウェーブした黒髪が優の肩口に微かに触れている。手毬は制服のスカートを気にすることもなく、ソファの上で少し前のめりになり、大きな黒い瞳をキラキラと輝かせていた。
「これは、月村さんと秦谷さんの今後のボイストレーニングのシミュレーションデータですよ」
優が驚きもせずに柔らかく答えると、手毬はさらに顔を近づけて、画面を細い指先で差した。
「じゃあ、こっちの赤いグラフは何なの? 私のやつ?」
「そうです。これは月村さんの呼気圧の推移ですね。高音へ向かうときに少しだけ息の流速が不安定になる傾向があるから、そこを改善するためのメニューを組んでいるんです」
「ふーん……。よくわからないけど、優さんが私のために作ってくれたのね?」
「ええ、もちろんですよ」
優が穏やかに微笑みかけると、手毬は満足そうに口元を綻ばせ、猫のように目を細めた。
普段は「別に嬉しくなんかないし」と憎まれ口ばかり叩く皮肉屋の手毬だが、この事務所の中、二人きり――あるいは心を許した相手の前では、驚くほど無防備で甘えん坊な一面を覗かせる。
手毬にとって、優の隣は誰にも譲りたくない特等席だった。世界で一番尊敬するプロデューサーの温もりを独占し、少しでも長くその視線を自分だけに向けさせておきたかったのだ。
そんな二人の親密なやり取りが続くオフィス内に、コト、と陶器が触れ合う澄んだ音が静かに響いた。
「まりちゃん。お仕事中の優さんのお邪魔をしては、いけませんよ」
澄んだ、鈴の音のように穏やかな声。
事務所の隅にあるミニ給湯スペースから、秦谷美鈴がトレイを両手で支えながら優雅な足取りで歩み寄ってきた。
セミロングの艶やかな黒髪を揺らし、おっとりとしたマイペースな微笑みをたたえている。トレイの上には、湯気を立てる三つのマグカップと、上品に盛り付けられた焼き菓子の皿が載っていた。
「お茶を淹れましたよ。優さん、少し目を休めてくださいね」
「ありがとうございます、秦谷さん。わざわざ淹れていただいたんですね」
「ふふ、これくらい当然のお役目です。優さんにはリフレッシュしていただけるよう、ベルガモットの香りを利かせたアールグレイにいたしました」
美鈴はトレイをローテーブルの空いたスペースに置き、優の前にマグカップを丁寧に差し出した。
立ち上る柑橘系の清々しい香りに、優は思わず頬を緩める。
手毬はといえば、「邪魔なんかしてないわよ、確認してただけだし」と唇を尖らせてそっぽを向いていた。
さて、お茶を配り終えた美鈴はどこに座るのか――。
ローテーブルを挟んだ正面には、一人掛けのゆったりとした革張りチェアが二脚、綺麗に空いている。
だが、美鈴は迷うことなくそのチェアを素通りした。
そして、何食わぬ顔で三人掛けソファの「優の左隣」へと回り込み、制服のスカートを優雅に押さえながら、スッと腰を下ろしたのである。
「……えっ?」
優は思わず息を呑み、固まった。
右隣には月村手毬。
左隣には秦谷美鈴。
三人掛けソファの中央に座る優を、二人の美少女が寸分の隙間もなく左右から挟み込む形になっていた。
右からは手毬の甘いシャンプーの香りと体温が伝わり、左からは美鈴の清楚な石鹸の香りと柔らかな衣擦れの気配が押し寄せてくる。
優のパーソナルスペースは完全に消失し、両腕を動かすことすら躊躇われるほどの密着状態だった。
「あ、あの……秦谷さん?」
優が戸惑い混じりに左を向くと、美鈴は首をコテンと小さく傾け、悪戯っぽく微笑んだ。
「はい、何でしょう、優さん?」
「正面の椅子が、空いているようですが……」
「あちらの席では遠すぎて、優さんのお手元にある私のスケジュールが見えないのですよ。ここなら、まりちゃんと平等に優さんからのご指導を受けられますでしょう?」
涼しい顔で、至極もっともらしい理屈を並べる美鈴。
だが、その黒い瞳の奥には、「まりちゃんだけに独占はさせません」という、静かで熱い意志が爛々と燃え盛っていた。
当然、その暴挙を手毬が見逃すはずがなかった。
バッ、と弾かれたように手毬が優の胸元越しに身を乗り出し、美鈴を睨みつける。
「ちょ、ちょっと美鈴! なんでそこに座るのよ! 向かいの席が二つとも空いてるじゃない!」
「まりちゃんこそ、どうして優さんにそんなにくっついているのですか? 優さんが作業しづらそうにしていらっしゃいますよ」
美鈴はおっとりとした声音のまま、手毬の追及をさらりと受け流す。
「私は優さんのサポートをするために、すぐお側に控えているだけです。まりちゃんのように甘えて邪魔をしているわけではありませんよ」
「邪魔なんかしてない!」
手毬の顔が一気に赤く染まる。
「私が先に優さんの隣に座ってたの! 私の場所よ! 美鈴は向こうの椅子に行きなさいよ!」
「ふふ、このソファは学園から貸与された共用の備品ですよ。まりちゃん専用ではありません。それに、優さんの担当アイドルはまりちゃんだけではないのですから、私にも同じように優さんの隣に座る権利がありますよ」
「ぐっ……! なによその屁理屈! 優さんは私のプロデューサーなんだからね!」
「私のプロデューサーさんでもありますよ、まりちゃん」
「な、なによぉぉぉ……っ!」
「ふふ、そんなに慌てないでください。血圧が上がりますよ」
優の鼻先数十センチの空間で、二人の視線がバチバチと火花を散らす。
手毬の剥き出しの闘争心と、美鈴の柳のように受け流す鉄壁のガード。
まさに、優の隣のポジションを巡る「静かで熱い牽制戦」そのものだった。
挟まれた優は、身動きが取れないまま両手を浮かせ、額に冷や汗を浮かべていた。
(あ、あの……二人とも……近い、近いです……)
株取引で数十億円を動かす時でさえ心拍数一つ乱さない優であったが、この年頃の少女二人に至近距離で挟まれる状況には、流石に平静を保つのが難しかった。
その時、手毬の視線がふとローテーブルの上の皿へと向けられた。
お茶請けとして美鈴が持ってきた、陶器の小皿。
そこには、香ばしいバターの香りを漂わせる、一口サイズのチョコチップクッキーが数枚並べられていた。
「……っ」
手毬の喉が、小さく鳴った。
午前中の過酷なダンスレッスンを終え、頭を使って優の資料を見ていた手毬の脳が、猛烈に糖分を要求していたのだ。
手毬の黒い瞳がクッキーを捉え、その白い指先が、吸い寄せられるようにローテーブルへと伸びていく。
すっと、クッキーを一枚摘み上げようとしたその瞬間――。
「――まりちゃん」
ピシッ、と氷のような、けれど声音だけは極めて穏やかな声が美鈴の口から放たれた。
美鈴の細い手が、空中で手毬の手首をピタリと制止する。
「な、なにをすんのよ、美鈴……!」
手毬が悔しそうに顔を歪める。
美鈴は優雅に微笑みながら、手毬の目を真っ直ぐに見つめた。
「それは、お仕事を頑張っていらっしゃる優さんのためのものです。まりちゃんのものではありませんよ」
「い、一枚くらいいいじゃない! 減るもんじゃないし!」
「いけません。それに……」
美鈴は手毬の全身を上から下へと冷徹に見定め、決定的な一言を投下した。
「まりちゃん、太りますよ」
「ふ、太らないわよぉぉぉっ!!」
手毬が激昂して叫んだ。
「私を誰だと思ってんのよ! アイドルよ!? 基礎代謝が違うの! 今日のレッスンでこれくらいのカロリー、とっくに消費してるんだから!」
「昨日も売店でメロンパンを買って召し上がっていたでしょう。体型管理を怠ってステージ衣装のファスナーが上がらなくなったら、困るのは優さんなのですよ?」
「うっ……! そ、それは、昨日は朝ごはんを少し残しちゃったからで……っ!」
美鈴の的確すぎる痛撃に、ぐうの音も出ない手毬。
だが、一度火がついた手毬の食欲と意地は、もはや誰にも止められなかった。
手毬は美鈴の制止を力ずくで振り払うと、素早い動きで皿からクッキーを一枚掠め取った!
「だ、大体ね! 美鈴にとやかく言われる筋合いはないの! いただきますっ!」
パクッ、と手毬はクッキーを一気に口の中へ放り込んだ!
「あっ、まりちゃん……!」
美鈴が呆れたように眉を寄せる。
手毬は美鈴の制止を完全に無視し、もぐもぐと両頬をリスのようにパンパンに膨らませてクッキーを咀嚼し始めた。
サクサクとした心地よい咀嚼音とともに、芳醇なバターの風味とチョコレートの甘みが口いっぱいに広がる。手毬の表情が、一瞬でとろけるような至福の笑みへと変わった。
「……んん〜〜っ、美味しい……っ」
幸せそうに目を細め、喉を鳴らして飲み込む手毬。
そして、一枚で満足するはずもなく、手毬の手は再び皿へと伸びた!
「ちょっと、まりちゃん!? 二枚目にいく気ですか!?」
「んぐっ、もぐもぐ……だ、だって美味しいんだもん! 止まらないわよ!」
「ちょっと、まりちゃん! 優さんの分がなくなってしまいますよ。はしたない真似はやめてください!」
「優さんは優しいから、私にくれるもんねーだ!」
皿の上のクッキーを巡り、手毬の手と美鈴の手が激しく交錯する。
止まらない手毬の食欲と、それを必死に阻止しようとする美鈴のお小言。二人のやり取りは、まるで長年連れ添った姉妹のようであり、気心の知れた悪友同士のじゃれ合いそのものだった。
優は、二人の間に挟まれたまま、吹き出すのを堪えきれずに小さく肩を揺らした。
「……ふふっ」
その笑い声に、手毬と美鈴がハッとして動きを止めた。
二人は口にクッキーを咥えたり手を伸ばしたりした格好のまま、同時に優を見上げる。
「ゆ、優さん……?」
「もう、優さん……笑わないでください。私は真剣に注意しているのですよ……」
優はサファイアの碧眼を細め、心からの温かさを込めて二人を見つめていた。
「すみません、二人とも。あまりにも微笑ましくて、つい笑ってしまいました」
優はローテーブルの上のクッキーの皿を手に取り、そっと手毬の前へと押し出してやった。
「月村さん、食べていいですよ。ただし、秦谷さんの言う通り、夕食に響かないようこれくらいにしておきましょうね。……秦谷さんも、手毬さんの体調を心配してくれてありがとうございます。美味しいお茶を淹れてくれて、本当に助かりました」
「優さん……! やっぱり優さんは最高よ!」
手毬はパッと顔を輝かせ、嬉しそうにクッキーを頬張った。
一方の美鈴は、優のフォローに少し照れくさそうに頬を染めながら、小さく溜息をついた。
「もう……優さんは、まりちゃんに甘すぎます。これではあの子の我がままが加速してしまいますよ」
そう言いながらも、美鈴の表情には満足そうな安堵が滲んでいた。
優はマグカップを手に取り、温かな紅茶を一口含んだ。
豊かな香りが口いっぱいに広がり、胸の奥をじんわりと温めていく。
(こういう明るい雰囲気……すごくいいな)
優の胸中に、深い感慨が湧き上がっていた。
中等部時代、「Syng UP!!」の崩壊によって深く傷つき、孤独に苛まれていた二人。
もしあの過去に囚われたままなら、彼女たちがこうして同じ部屋で肩を並べ、笑い合い、お菓子を奪い合うような未来は訪れなかったかもしれない。
けれど今、二人は過去を乗り越え、このプロデュースオフィスで新しい一歩を踏み出している。
遠慮のない軽口、互いを思いやるがゆえの小言、そしてプロデューサーである自分を巡る可愛らしい牽制戦。
そのすべてが、愛おしく、尊いものに感じられた。
「諦めればそこでお終いだ。泥臭くてもいい。それで前に進めるなら僕は惨めでも歩み続ける」
優は自らの信条を、温かな眼差しとともに二人に注いだ。
アイドルとして頂点を目指す道は、これから過酷を極めるだろう。
競い合い、壁にぶつかり、涙を流す日もきっとやってくる。だが、このオフィスに流れる温もりと、互いを信じ合える絆がある限り、彼女たちは何度でも立ち上がり、前へ進むことができるはずだ。
「さて、お茶の時間はこれくらいにして……打ち合わせの続きをしましょうか」
優が背筋を正してタブレットを操作すると、手毬は口の端にクッキーの粉をつけたまま「うん!」と元気に頷いた。
美鈴はハンカチを取り出して、「ほら、まりちゃん、お口を拭きなさい」と甲斐甲斐しく手毬の口元を拭ってやった。
夕暮れの初星学園、プロデュースオフィス304号室。
茜色の光に包まれたその小さな部屋には、確かな信頼と、眩い未来への予感が満ち満ちていた。