わたしが右に動けば、画面のなかの少女も右に動いた。左に動けば、少女も左に動いた。口を開けると、少女もわずかに口を開ける。そのまま口をぱくぱくしてみたら、少女も同じく口をぱくぱくした。鏡のよう、と言えば鏡のようだけれど、あっけにとられているわたしの内心に反して、少女は悠然と微笑んでいた。
少女の髪は白く、しかし毛先に進むにつれて筆先に色が乗るように青みがかっていた。時折ぱちぱちと瞬きする両目は現実にはありえないほど大きく、夕日を浴びた水面のような金色にきらきら輝いていた。水兵を思わせるセーラー襟が、身体が傾くのにあわせてすこし揺れた。
奇妙だ。わたしは画面のなかの少女と目が合っている。その金色の瞳で彼女は、わたしをじっと見つめている。それがわたしの実感だった。あるいは見つめているだけではなくて、視線でなにかを訴えかけている。そのいじらしい瞳で、少女はわたしになにかを伝えようとしている。そんな気さえしていた。
「…………」
どのくらいそうしていたのだろう。ふと、画面の右下で動くなにかが目についた。やたらと素早く動くせいで虫かと思って身構えたけれど、どうやらそれは高速でスクロールされていく文字列らしかった。
あまりに速く上へ流れていくので、とてもすべては追いきれない。画面に顔を近づけ、目を凝らしてようやく読み取ったところによれば、流れているのはこのような文言だった。
:ヤバい
:動いた?
:おおおおおおおお ガチで動いてる
:4時間にしてついに動いたか
続いて、次のような文字が流れていった。
:なんか挙動おかしくね?
:動かしてるのがカモーメ本人じゃない説
:え これもうカモーメ死んでるくない?
:だとしたらこいつが殺した犯人で草
:イェーイ 犯人ちゃん見てるー?
なに? これは、なに?
動く、文字? ゲームの画面かなにか?
わたしの視線は説明を求めて、画面上をさまよう。このときになってようやくわたしは、少女を取り囲む見慣れないソフトウェアの数々――たとえばなにかの操作盤のようなインターフェースや、たとえば「配信タイトル」とか「配信の説明」とかの入力欄が並んでいるなんらかのページや、たとえばその左上でちかちかしている「ライブ配信中」という真っ赤な表示――の存在に気づいた。
配信中。
配信中ということは、配信の中にあるということだ、この画面が。
この画面が? 配信されている?
インターネットで、全世界に?
:初配信でこの大事故っぷり、前代未聞だろ
:この人は前世の事故も大概ですから…
:だからもうそいつは死んでて、ストーカーが動かしてるって話なのでは
:だろうな このままだと殺されるって本人が言ってたわけで
嫌な汗が、じんわりと湧き出る感触があった。
想像するに、どうやらこういうことらしい。この部屋の主は、配信状態のままパソコンを放置し、この部屋から消えた。それから4時間ほど、配信者不在の配信はずっと継続していた。そこにたまたま、わたしが入ってきた。そしてパソコンの前に立ったわたしの動きを、画面内の少女がトレースすることで、
ほんとうに配信中なのだとしたら、少々恐ろしいことになる。理由は「配信中」アイコンのすぐ下に表示されている同接数にあった。同接数、すなわち同時接続人数。いまこのとき何人がこの配信を視聴しているかを示す値だ。
わたしは配信業に通じているほうではないので、同接数何人から人気配信者と呼べるのか、平均値がどのくらいなのかよくわかっていない。たぶん5人や10人だと比較的少なくて1,000人だと多い、常識的に考えればそんなところなのだろうか。
そのくらいの解像度しか持たないわたしに、これが具体的にどの程度の値なのか判断するすべはなかったけれど、それでも、おかしい、絶対に異常だ、大変なことになっている、それだけは察しがついた。
78,752。
79,428。
80,219。
瞬きをひとつするたびに、いっそおもしろいように数値が増えていく。同接数8万人。この奇妙な配信を、いったいなにがどうなっているのか、8万人を超える人間が視聴している。巨大なスタジアムをびっしり埋めるほどの人数が、この画面を取り囲んで、
ギュヒュッ、と聞いたことのない音が喉から出た。
:!?
:しゃべったあああああwwwww
:いやこれはびびって声出たんだと思った
:犯人、配信してることに気づいたくさくない?
:これ今のうちに警察に通報しとくべきでは
目ざとく聞きつけた視聴者が、ほぼ正解に等しい推理を語っている。高速で流れていくこの文字列はつまり、いままさに書き込まれているチャットということなのか。なるほどそれは、ものすごい速度になるはずだ。なにしろ8万人が同時に喋っているわけだから。ほとんど無音であるはずの暗い室内でわたしは、8万人分のチャットの音圧を一身に浴びていた。氷のような冷や汗が、額やほほや鼻や、わき腹や背中を伝った。
配信を停止しなければ。
わたしの血走った視線はふたたび、画面上を徘徊する。さいわい、目当てのボタンはすぐに見つかった。まさかこんな事態を想定してではないだろうが、「ライブ配信を終了」と書かれたボタンは赤色で大きく、よく目立つところに配置されていた。震える手でマウスを掴むと、手にちゃんと同期してカーソルが震えている。
すぐさま配信終了ボタンをクリック――しようとしたわたしの脳裏を、先ほどのチャットが緊急車両のサイレンのように横切った。
:これ今のうちに警察に通報しとくべきでは
このまま、配信終了したら、警察を、呼ばれる?
なぜそんなことになるのかさっぱりわからないが、わからないゆえにわたしは、その可能性を否定できなかった。どうすればいいだろう。警察を呼ばれるような事態ではないと、事件性のある配信ではないと理解させなくてはならないだろうか。そうすれば、そういう企画かなにかだと納得してもらえるだろうか。このまま無言で配信を切るのは、むしろ事態を深刻にしてしまう悪手なのだろうか。
冷静さを欠いたわたしの脳は、最後に
「あ、」
このあとに続く、自分の声とは思えない声のことを、わたしは生涯忘れないだろう。
職場を自主退職して3か月。休職期間も含めれば半年。ほとんど誰とも会わず話さずの衰弱しきった喉はしかし、不測の事態がもたらした動揺によって馬鹿みたいに開いていた。
そしてわたしは、ずいぶんと頭の悪い理屈だが、8万人に届けるためには最大限声を張らなくてはいけないと本気で考えていた。まずはこれが、わたしの声量が異常に大きくなった理由だった。
:あって言った
:あ?
:あ
:あw
:あ!
:あ
:あ
「あ、あ、」
ありがとうございました。
誓って、そう言おうとしていた。きっとラジオやなにやといっしょで、配信とはこのような挨拶で終わるものなのだろうと推測したからだ。
なのにチャット欄を奔流のように流れるたくさんの「あ」を見ていたら、どういうわけか「りがとうございました」が脳から消失した。まっさらな空白を、代わりに「あ」が埋め尽くしていく。あ。あ。あ。あ。あ、あ、あ、あ、
:あ
:あ
:あ
:あ
:あ
:あ
:あ
「あ、あ、あ、」
すなわちそれが、理由だった。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
気づいたら、わたしの指が、配信終了ボタンをクリックしていた。
やがて画面上の「ライブ配信中」表示が消え、ゆっくりと、部屋に静寂が満ちていく。冷蔵庫の稼働するウゥン、という音だけが、遠くで鳴り響いていた。
激辛料理を食べた直後のように、わたしの顔面と身体中を汗がびしょびしょに濡らしていた。
終わった。なにがかは自分でもわからないがなにかが終わった。なにかが決壊し、音を立ててガラガラと崩れ去って、頭上にその残骸が降り注いでいた。手が震えていると思ったら震えているのは全身で、いずれにせよ収まらない。わたしはへとへととその場に座り込んだ。目の前で、パソコンやらモニターやらの電源コードが、ぐるぐるに絡まっている。
「ピ――ン、ポ――ン」
部屋のインターフォンが耳をつんざく大音量で鳴ったのは、まさにそのときだった。