「ピ――ン、ポ――ン」
開けちゃだめだ、と思った。
理由はわからない。「警察を呼ぶ」という先刻のチャットを本気にしていたのかもしれないし、インターフォンの音量がとにかく大きかったので肝をつぶしていたのかもしれない。だいいちここはわたしの住居ではないのだから、開けたとして応対のしようもなかった。結局わたしはその場にへたり込んだまま、インターフォンがもう数回、十数回と鳴らされるあいだ、一歩たりとも動けないでいた。
帰ってくれ。
誰だか知らないが、頼むからいまは帰ってくれ。
最後のインターフォンが鳴ってからしばらくの沈黙が、こうした願望の成就だとほっとしかけたわたしは、なんとも甘かったと言わざるを得ない。
放心したままのわたしの耳に入ってきたのは、だん、だん、だん、と一定のリズムでなにかを叩く音だった。
はじめは、扉をノックされているのかと思った。インターフォンを押しても誰も出てこないので、ノックに切り替えたのだろうかと。しかしそれにしては妙だった。第一にその音は、とても近くから聞こえていた。玄関よりずっと近いところから。この部屋のどこかから──なんだったらわたしのすぐ右側から。そこには、バルコニーに出るためのテラス窓しかないのに。
第二にその音は、ノックと呼ぶにはあまりにけたたましかった。生きた鹿を棍棒で叩きのめし、絶命させようとしているかのような破壊的な音。ノックとは似ても似つかなかったけれど、ではなんの音なのかと問われると、よくわからなかった。
わかるはずもなかった。
だん、だん、だん。
だん、だん、だん。
だん、だん、ばりん、がしゃん。がっしゃん、がしゃああぁぁぁん。
あわれな窓ガラスが四散して、床に散らばる。わたしは悲鳴ひとつ上げられず、呆然とその光景を見ていた。
ぼんやりとした視界のなかに、手が見えた。たったいま生まれたばかりの穴の向こうからにゅっと差し込まれた、手。霊体めいて青白いその手は、まるで意地悪な姑が埃の有無を確かめているみたいにサッシを縦になぞり、やがて錠にぶつかると、躊躇なくくるりと回してみせた。
開錠。
その違法性に目をつむりさえすれば、鮮やかと讃えてもいいくらい手際のよい開錠動作だった。間髪入れず、からからから、とテラス窓が開けられる。靴を履いたままの足が部屋のフローリングに踏み込み、一歩、二歩とゆっくり歩み始めた。金属製のハンマーが、蛍光灯の光を反射しながらゆらゆら揺れていた。
「…………!!!!!」
本能的に逃げようとしたわたしは、しかし力の抜けた身体ではまともに立ち上がることすらできず、足をもつれさせてすっ転んだ。致し方なく、その場で頭を押さえてうずくまる。殺される、と思った。ガラスを割って部屋に踏み込んだ人間が、どうしてわたしに危害を加えないことがあるだろう。そのハンマーでわたしを殴りつけ、ぼこぼこにして殺すに違いなかった。
ほとんど土下座の姿勢で顔を床にくっつけていたわたしは、すべての情報を聴覚に頼るしかなかったが、それでも侵入者の動きは如実に伝わってきた。床一面に散らばったガラスの破片を踏む音が、その位置を正確に伝えてくれたからだ。明らかに、近づいてきていた。もう一度起き上がって逃走するべきなのかもしれなかったが、身体が石の呪いにかかったように動かない。
侵入者は、わたしのすぐそばまで歩み寄り、そこで立ち止まった。
殴られる。殺される。死ぬ。最悪の、しかしいかにもあり得そうな未来を思い浮かべるばかりのわたしの耳に飛び込んだのは、きわめて意外なもの――侵入者の、声だった。
「……
声は、なんともかわいらしく、女性にしても高音で、ひたすらに可憐だった。風鈴が、鳴る音そのままに喋っているかのようだ。玻璃で繊細に作られた、うつくしい風鈴の声。
つん、と肩を指でつつかれる感覚があって、やがておもむろに、あたたかな体温と体重がわたしの背中いっぱいに広がった。さらさらした髪の毛がこぼれてわたしの頬をかすり、シャンプーの清潔な香りが鼻に届く。まるで、抱きしめられている格好だった。いや、抱きしめられているのか。いったい、どうして。
「……生きてた。ほんとに、よかった」
侵入者の声が、耳に注がれる。
開いたテラス窓から秋の夕方の風がびゅうと吹き込んで、わたしたち二人を通り抜けていった。寒さのためか、それ以外の理由によってか、わたしを抱く腕にわずかに力が入った。
「配信、こわかった。愛が、ほんとに死んじゃったのかもって、思った」
右の肩甲骨のあたり、彼女の顔が触れていると思しき箇所がだんだんと湿っていくのがわかる。
泣いているのだ。
「お願い。もう、死ぬとか、殺されるとか、言わないで。配信でも、配信外でも、言わないで。愛が死んだら」
ここまでを一息で言って、すこし呼吸を整えてから、声の主は喉からビー玉を吐き出すような調子で続けた。
「わたしも、生きていけない……」
わたしの心臓が、どくんどくんと早鐘を打っていた。混乱した頭が、なにかがおかしいと訴えている。窓ガラスを割って侵入してきた女性が、わたしを抱きしめて泣いている。すでに十分すぎるほどおかしい、けれど、それだけではない。
この人はわたしを
無理からぬことだった。ここは、愛の住居なのだから。ここにいるのは愛であるはずで、わたしではないのだから。
となれば、わたしのすべきことは明白だった。わたしは明かさなくてはならない。わたしが愛ではないことを。わたしが愛とどのような関係を持つ何者なのかを。
「…………」
「……ごめんね、愛」
わたしを抱きしめていた腕が、するすると解かれていく。音で、彼女が立ち上がったのがわかった。
「…………」
「ガラスは、弁償するから。ともあれ、カモーメとしての初配信おつかれさまでした。なにか食べる?」
「…………」
「冷蔵庫にあるもので、さっと作るね。こないだのお肉、まだ行けるかな」
「…………」
言えない。
言ったら、向き合わなくてはいけない。わたしも、この人も。愛がここにいない事実に。
正直なところ、わたしはなにひとつ事情を知らない。どうして愛がここにいないのか、それが一時的な留守なのかそれともその身になにかがあったのか、知る由もない。わたしの胸のなかにあるのは、うっすらとした嫌な予感だけだった。知りたくない。知ろうとしたくない。知ろうとすれば、なにか不吉なことが起こる気がしてならない。
わたしが微動だにしないのをどう解釈したのか、彼女はふたたびしゃがみ込み、わたしの頭に手で触れた。わたしのぱさついた髪を、その毛根から毛先まで、彼女の手がゆっくり撫でていく。同じ手がさっき窓ガラスを割ったとは思えない、相手を心から思っていることが伝わってくるような、やさしい撫で方。25歳の成人女性ことわたしは初対面の、いや、対面さえまだ済ませていない誰かに、よしよしされていた。こんなふうに甘やかされるのはいつぶりだろう。撫でられたところが、手が離れたあともじんじんと痺れるようだ。
すこしだけ、状況を忘れて撫でられていたわたしに、彼女がささやいた。
「愛。ありがとう――生きててくれて、ありがとう」
それは反射的な行動だった。わたしは、わたしの髪を撫でるその手を、ほとんど叩くようにしてひっ掴んでいた。
「……愛?」
「……ごめんなさい」
強張る彼女の腕を、ゆっくりと横に退ける。そして、わたしは顔を上げた。
愛の身に起こったことを知ろうとしないのは、わたしの自由だ。怖いからと言って真実に向き合わないのも好きにすればいい。
しかし、愛のことをこんなふうに思い、撫でてくれる相手に、わたしの逃避を押し付けることがあっていいはずがなかった。泣いて思いを告げたこの人に嘘をついて騙し続け、愛の生存をぬか喜びさせることなど、どうあっても許されるわけがなかった。
しばらく闇のなかにあった視界が、だんだんと光に慣れていって、気づいたときにはすでに彼女と目が合っていた。
同世代ほどだろうか。声の印象とはわずかに違う、しゅっとした輪郭が目を引いた。とても長いまつ毛と左の目じりのちいさな黒子が、驚きに見開かれた両目をかたどっている。理知的な顔立ちも品のよいメイクもふんわりしたワンピースも、彼女をすばらしくしっかりした大人らしく見せていたが、つややかな黒髪の側頭部に見える編み込みだけが声と同じように幼げで可愛らしかった。
一方のわたしは、はっきり真逆としか言いようがなかった。家を出るときにひっつかんだ部屋着のようなセーターは毛玉だらけで、袖口から糸が飛び出ている。血色の悪い顔はまったくのノーメイクで、とても誰かに自信を持ってお見せできる容貌ではない。
けれど、それでもわたしはこの顔をはっきりと彼女に見せる必要があった。愛ではないのに愛の部屋にいるわたしはただの不審者なのだから、この顔によって身分を証明しなければならなかった。
この人が愛の知人だというのなら、きっとこの顔に見覚えがあるはずだ。なにを隠そうわたしの顔は、
「……わ、わたし、愛じゃない、です」
なにがなんだかわからないのだろう。表情を凍り付かせたままの彼女に向けて、わたしはふたたび、口を開いた。つい先ほど8万人の前で大絶叫したのがまるで嘘のような、かき消えそうな声だった。
「わ、わたし、姉です。あ、愛の、双子の姉の、ご、