「わ、わたし、姉です。あ、愛の、双子の姉の、ご、
わたしの名乗りを聞いてしばらく、おそらくはたっぷり10秒ほど、彼女は片膝をついたまま沈黙していた。予想外の事態に言葉を失ったのかもしれない。それは、そうだろう。この人の認識のなかで、ついさっきまでここにいるのは愛だったのだ。それが、外見が同じだけの別人としてものを言い始めたのだから、その驚愕と戸惑いは想像するに余りあるところがあった。
それで、わたしも名乗ったはいいもののその次になにを言えばいいのかわからず彼女をじっと見つめ返していたので、10秒間のあいだわたしたちは無言で見つめ合う奇妙な二人だった。
「……ひどい」
沈黙は、彼女のこのような呟きによって破られた。低く、唸るような呟き。おもむろに両手で顔を覆って、すぅー、はぁー、と深呼吸をしている。正しい状況を、つまり目の前にいるのは愛ではないこと、愛の安否はいまだ不明であることを、反芻してすこしずつ受け入れようとしているように見えた。
胸がちくちくと痛んだ。ここにいるのがわたしではなく、愛だったなら。そうすれば、すべてが丸く収まったはずだった。この人はこんな思いをせずに済んだはずだった。そんなことを考えても詮無いのはわかっていたけれど、こういうときにネガティブな思考を止めるすべをわたしという人間は持たなかった。
幾度か呼吸を繰り返して、最後に大きくふぅー……と息を吐くと、彼女は顔を覆っていた手を下ろして、そのままきれいな所作で深々とわたしに頭を下げた。
「たいへん、失礼いたしました」
わたしは心底驚いた。ゆっくり顔を上げた彼女が、打って変わって完璧に近い笑顔を浮かべていたからだ。花の咲くような、にこっ、という音がこぼれ聞こえてきそうな笑顔。口角の上がった唇の端に、くるんと角度のついた黒髪が触れている。ガラスをハンマーで破壊したことも、わたしを抱きしめて泣いたことも、いましがたの呪詛のような呟きも、まるでなかったかのようだった。
「愛の、お姉さまとおっしゃいましたか。わたし、
けれどすぐに気づいた。目が、笑っていない。極めてにこやかな表情の、朗らかな口調のなかにあって、目だけはぱちぱちと爆ぜるような警戒心をその奥に燃やしていた。
「先ほどの配信の最後は、あなたが?」
窓ガラスを割ったハンマーはいまも、菜々香と名乗った彼女の手の届くところにあった。回答を間違えればなにが起こるか、想像したくもない。必死に絞り出したわたしの声は、ぶるぶると震えていた。
「……は、はい。あの、も、ご、ごめんなさい。まさかあんなことに、なるとは、その、思わず」
目が、すっと細められる。
「愛は、どこに?」
「わ、わたしも、わかりません」
「なにを、どこまでご存じなのでしょう?」
「ほんとうに、えっと、なにも知らなくて」
「ならあなたは、どうしてここに?」
「あの、その、それは、その……」
「…………」
菜々香はけっして笑顔を崩すことはなかったが、それがかえって恐ろしくて、わたしは俯いた。我ながら、なんとお話にならない受け答えだろう。なにが起こっているのかおそらくは彼女以上に知らず、ゆえに価値のある情報はなにひとつ差し出せず、そもそも緊張のあまりまともな発話ができていない。わたしが彼女なら、そろそろハンマーを握り始めてもおかしくない頃合いだった。床に散らばったガラスが蛍光灯の光を反射してきらきら輝くのを、わたしはなにも言えないまま見ていた。
俯くわたしの
強制的に引き上げられた視界の至近距離に、菜々香の顔があった。人当たりよく整った笑顔のままで、わたしをまじまじと見つめている。彼女の手で無理やり上を向かされているのだ、と頭が追いつくまでにはいくばくかの時間を要した。
「とっても、不思議です」
こんなにも近いのに、まったく目が合わない。わたしの目ではなく、顔を見ているのだ。輪郭。鼻、耳、口のかたち。その全体的な位置どり。あるいは感情にともなうそれらの動作のしかた。そのすべてを彼女は、細かい文字を読み解くようにじっくりと観察していた。
「わたしは愛と高校生のときからお友達で、もう10年のお付き合いになります。あの子のご実家にも何度もお邪魔しています。ご両親にも大変お世話になりました。なのに双子のお姉さまがいるなんて、聞いたこともなかった」
「ほんとう、なんです。姉なんです」
「それを、証明できますか?」
「そ、れは……」
できない。
いまこの場に、わたしが愛の姉であることを示す物的証拠はなにひとつ存在しなかった。愛と連絡を取った履歴もない。身分証を見せたところで苗字が違う。出るところに出て戸籍やらなんやらを確認すれば済むのかもしれないが、そんな悠長なことを言っていられる状況ではなかった。
「先ほど、ここにきた経緯を濁しましたね。なぜ? 不正な手段で、この部屋に上がり込んだからではないのですか」
「ち、ちが、違います。ここへ行けと連絡してきた人に、誰にも言うなと口止めをされて」
「それは、どなたで?」
「……わかりません」
「愛ではないんですね?」
「ここが愛の部屋だとは、最初は、知りませんでした。げ、玄関の郵便物の宛名を見て、その、気づきました」
「つまり。誰かわからない人の誘いに乗って、あなたが上がり込んだ場所がたまたま、双子の妹の部屋だったと?」
まったくもってその通りだった。わたしは誰かわからない人間の誘いに乗って、ここに来た。そうしたらここが、たまたま愛の部屋だった。あらためてこうして他者の口から客観的に述べられてみれば、それを事実だと知っている自分でさえ、荒唐無稽な言い訳としか思えない。
黙り込み、視線を下に向けるわたしの顎を、菜々香はいま一度ぐいっと引き上げた。これは詰みというやつだろうか、と他人事のようにぼんやり考える自分がいた。ここまでのわたしの証言を総合して、わたしを怪しまないという選択肢があり得るだろうか。警察を呼ばれ、もしかしたら状況証拠が不利に働いて、逮捕されるのだろうか。それもまた荒唐無稽な想像に違いなかったが、そうならないと断言する勇気はわたしにはなく、彼女が次に口を開いたときわたしは怯えのあまり目を瞑った。
しかしながら、彼女の次の質問は、わたしにとってまったく想定外のものだった。
「――『
人名とも思えないその名は、いかにも奇異に響いた。穴箍しゅき。あなたが、しゅき。冗談のような響きと裏腹に、菜々香はこのとき初めて、その可憐な笑みを捨て、真剣な面持ちでわたしの顔を覗き込んでいた。
いったいそれほどのなにが、この名前にあると言うのだろう。いずれにしてもわたしとしては、正直に答えるよりほかなかった。
「……? 知りま、せん」
「誓いますか?」
「ち、誓います。聞いたことも、ありません!」
そのときだった。
そんなはずは、ないのだけれど、それはまるでわたしの誓いの言葉に反応したかのようだった。
菜々香の背後で、人影が動くのが見えた。
人影? それにしては、ずいぶんとちいさい。
それは、あの子だった。わたしが誤って動かした、おおよそ白髪の、金色の瞳を瞬かせたうつくしい少女。彼女が向こうから、わたしを見ていた。ふたたび。彼女はぴくりとも動いていなかったが、それがデフォルトの表情設定ということなのか、すこしだけ口角が上がっている。
パソコンだ。菜々香の背後で少女を表示しているのは、あの配信を行っていたパソコンだった。その画面が、誰も触っていないのにひとりでに切り替わっている。どうして?
そしてわたしは、いま見えている画面構成に見覚えがあった。なにかの操作盤のようなインターフェース。「配信タイトル」とか「配信の説明」とかの入力欄が並んでいるなんらかのページ。その左上でちかちかしている、見間違いではなく確かにちかちかしている、「ライブ配信中」という真っ赤な表示。
わたしの視線に気づいて、菜々香が向こうへ振り返る。少女が、菜々香を見た。その目が動いたり、顔の向きを変えたりしたわけではない。けれどわたしは確かに、少女が菜々香を見たと思った。
菜々香の顔から、すっと表情が消えた。
「……カモーメ?」
カモーメ。それが少女の名らしい。確かに、視聴者からはそう呼ばれていたような気がする。
画面のなかでは、静止画さながらに動かないカモーメと、怒涛の勢いで動く文字たちが、奇妙な対照を見せていた。
:やばいやばいやばい
:配信再開!?!??!?
:おそろしく速い配信再開
:かもーめktあ?
:俺じゃなきゃ見逃しちゃうね
:きたきたきたきた
動く文字のすぐ下には、大きく強調されたフォントで、こうあった。
【お詫び】すべてお話しします【百合カモメ】
2,122人が視聴中…
ふたたび動く文字に目を戻す。
:あの感じで切っといて即再開は強心臓すぎる
:もりあがってまいりましたw
:カモーメまだー?
:要は全部バズ狙いの釣りだったって話だろ
:すでにネットニュースなってて草
:じゃないとこの速さになるはずないもんな
:死んだのかだけしりたい
:ストーカー氏、留置所から枠立ててそう
:いつ始まるんこれ
:逃げたか?
どうしてそうなったのか、誰の手でそうなったのか、状況のすべてがきわめて謎めいていたけれど、いまなにが起こっているのかという一事においては、事態はあまりにも明白だった。わたしがついさっき切ったはずのそれ。つまり、配信。それが、ふたたび。いま。
うふふっ。
そのような笑い声が聞こえた気がした。うつくしい、けれどどこか世離れした印象を与える少女の、獣のような金色の瞳が爛々と輝いている。わたしと菜々香を、射すくめるような視線。画面の中のこの少女。
――カモーメの配信が、どうしてか、ふたたび始まっていた。