しょうもない知識を吹き込んでくるお嬢様と逃げられない運転手 作:じょじょえん
「お帰りなさい、お嬢様」
「ええ。車を出して頂戴」
短いやり取りの後に、自動で開いたドアから高級車に乗り込んでくるのは一人のつつましやかなお嬢様。高名な女学院の制服に身を包んだ彼女は、それに見合った名家のお嬢様である。
四菱玲香。
大和撫子を体現したような慎ましやかな振舞い、つんと澄ました冷たさえ感じる表情。首元で短めに切りそろえた艶やかな黒髪の彼女が後部座席にちんまりと収まると、まるでよくできた人形のようにすら見える。
そんな彼女をバックミラー越しに見ている私は、雇われのしがない運転手である。そんな自分が、文字通りの高嶺の花と狭い空間で二人きり、というのはどうにも場違いな気がしてならない。
だが最近、役得であるはずのこの時間がいささか妙な事になってきている。
「出して」
「はい」
ゆっくりと車を出して、道路に出る。
時刻は夕刻。いくらお金持ちの御用車輛とはいえ公道においては外と同じ。それはつまり同じように信号待ちもすれば渋滞にも巻き込まれるという事である。
勿論、それを避けるのも技術の一つ。が、それにしたって限界があった。特に最近はやたらめったら非現実的な道路交通法の改正が行われたせいで交通事情の悪化が加速している。
本日も努力の甲斐なく、前後を無数の車に挟まれて大渋滞と相成ってしまった。
「申し訳ありません、お嬢様。予定より遅れそうです」
「構いませんわ。こちらも承知しています。貴方はよくやっていますわ、山本」
「ありがとうございます」
毎度のやりとりの後に、気まずい沈黙が訪れる。
私はぺたぺたと、白手袋に包んだ手で革のハンドルを握り直した。
……そろそろかな。
「ねえ、山本」
「なんでしょう」
来た。
私はどんな話がきても大丈夫なように、顔が鉄面皮になるように意識して表情筋に力を入れた。
「ペンギンは男同士で子育てをするって、知ってる?」
「……それは知りませんでしたね。詳しくお聞かせしていただいても?」
「ふふ、いいわよ。無知な山本に私が教えてあげる」
これまたお決まりのやりとりに、お嬢様が華のように笑う。
冷たく澄ましていた表情が柔らかく解ける様は見ほれるほど美しいのだが……。会話の内容とのギャップでくらくらしてくる。
「ペンギンは集団で子育てをするんだけど、やっぱりね、雌とくっつけなかったあぶれ者の雄は出るの。そんな雄同士がくっついて、まるで夫婦のように暮らしたりするの」
「動物の世界でも同性婚が流行りになる時代ですか。しかしそれでは子供は出来ないのでは? 男同士でしょう?」
「ええ、そうよ。でもね、世の中幸せなカップルだけでないのはご存知の通り。餌を取りにいった親が捕食者に殺されたり、あるいは親が子育てを放棄したり。そういった理由で孤児になる雛がどうしても出るわ。そういった子供を、ホモカップルが拾って育てたりするのよ」
言っちゃったよ。ホモカップルって言っちゃったよ。
箱入娘が集まるお嬢様の耳にそんな言葉を注ぎ込んだのは一体どこのどいつだ。私は頭痛を覚えた。
「……でも、男ではお乳も出ないのでは? そんなので子育てできるのですか?」
「本当に物を知らないのね、山本。ペンギンは哺乳類じゃないから、お乳で子育てはしないのよ。親は捕まえてきたお魚を胃の中に蓄えて、消化液で半分溶けたようになったそれを雛に与えるの。オエー、って。きっと鳥は酸っぱい物が好きなのね」
私と一緒ね、と朗らかに笑うお嬢様はとても美人で、私はどうにか会話の内容を頭から追い出してそれに魅入れないかと苦悩した。
無理だった。
「……なるほど。男同士でくっつくなんて非生産的かと思いましたが、思いのほか効率的なのですね」
「案外、当人達は雄雌なんて意識していないのかもね。野生動物なんて本能でくっつくもの、たまたま魅力的に見えた相手が雄だったというだけなのかも。あ、ちなみにね、鳥の交尾って相手に突っ込むんじゃなくて擦り付けるだけなの。案外、本人達は普通のつもりで●●●●●●に励んでいるのかもしれないわね」
「お嬢様。お嬢様……!」
「あらやだ。私ったらはしたないわ。ふふふ」
頬を朱に染めて華やかに笑うお嬢様。会話の内容がピーっな上にピーでなければ見ほれる程に美しいのだが、美しいのだが……!
私は鉄面皮を維持しながら内心で溜息をついた。
ここ最近、こんな感じでお嬢様は二人きりの車内で反応に困る、それも普通に生きる上では全く役に立たない知識を披露してくる。
一体、どこのどいつが純粋無垢なお嬢様にこんなネタを注ぎ込んだのか、あの女学院の中にそんな奴が潜んでいるのか。
懸念は山ほどあるが、特に旦那様に知れたら事だ。
流石に車の中にまで監視の目は及んでいないが、それは逆に言えば全てが私にかかっているという事でもある。お嬢様を裏切るつもりはないが、月に一度の面談で無駄にプレッシャーが増えるのは勘弁してほしい。
そんな私の懊悩など露知らず。お嬢様は後部座席で笑っている。それはもう、朝露に綻ぶ蕾のように柔らかな笑みだった。
「ふふ、それにしても面白いわね。人間達がLGBTだのウォークだの大騒ぎしてる中で、動物達はその何歩も先を言っているのよね。少子化問題なんてのもどこいく風。馬鹿らしいとは思わない?」
「お嬢様。私の立場ではお答えしかねます……」
「あらごめんなさい。ふふふふ……」
まあ。
お嬢様が楽しそうだから、いいか。
と、そこで前の車が進み始める。私は慎重に車間距離を維持しながらアクセルを踏み込んだ。