しょうもない知識を吹き込んでくるお嬢様と逃げられない運転手 作:じょじょえん
「お帰りなさい、お嬢様」
「ええ。車を出して頂戴」
お嬢様を後部座席に迎え入れて、送迎車を出発させる。
流石は高級車、クッション性が高く防音性もばっちり。静かに加速する車が公道を走る。
が、すぐに車の群れに引っかかってしまう。カーナビの情報も駆使して最短コースを検索するが、どうにもこうにも上手くいかなさそうだ。
幸い、旦那様達も昨今の交通事情の悪化にはご理解を頂いており、お咎めを受ける事はそうそうないが……やはり職務として歯がゆくはある。
ハンドルから手を放して窓から周囲を見ると、すぐ横を緑色の電動キックボードが走り抜けていった。
なんとまあ怖いもの知らず。渋滞の中を好き勝手に走るのもそうだが、目に見えて高級車のギリギリを通るとは。ぶつけたらどうするつもりだったのか。
呆れながら走り去っていく背中を見送っていると、後部座席で静かに目を閉ざしていたお嬢様が口を開いた。
「ねえ、山本」
「なんでしょう」
どうやら今日もお話タイムが始まったようだ。私はひそかな緊張を胸に表情筋に力を込めた。
「日本にいるミジンコは、たった四種類の雌だけって知ってる?」
「……どういう事でしょう? ミジンコといえば、その辺りの水たまりにでもいる有り触れた生き物だと思いますが」
「もっと正確に言うと、いろんな種類が居るなかで和名:ミジンコと呼ばれる生き物は、日本においては四種類の遺伝子しか持ち合わせてないの」
お嬢様が補足説明を付け加えてくれるが、ますますよくわからなくなった。
どういう事だ?
「ふふ、どういう事かな、って顔をしてるわね、山本」
「っ、失礼しました……」
「ああ。もう。すぐ取り繕うんだから……」
あっけにとられて表情筋が緩んでいたらしい、いけないいけない。
「何も知らない山本に教えてあげるわ。ミジンコはね、単為生殖ができるの。無精卵からでも赤ちゃんが生まれてくるのよ。そうやって増えた子供は、母親と同じ遺伝子を持っている、いわばクローン個体なの」
「ああなるほど、そうやって増えたから遺伝子が四種類……最初のミジンコは四匹しかいなかったという事ですか? あれ、でも雄は要るんですよね?」
雌、という区分があるなら雄もいるはずだ。でなければお嬢様もそんな言い回しはしないはず。
ゆっくりすすむ前の車についていきつつ、頭の中で首を捻る。
一方お嬢様は実に楽しそうだ。私が無知を晒しているのが面白くてしょうがないらしい。
「本当に何も知らないのね、山本。日本のミジンコはね、日本生まれみたいな顔しているけど外来種なの。大昔、海外から渡ってきたと考えられるわ。一体どうやって入り込んだのかしらね? 卵か何かが、鳥か何かに付着してたのかしら? きっとたくさん入ってきて、それが生き残ったのが四種類という事なのでしょうね。4は縁起が悪い言葉というけど、ミジンコ達にとっては幸運の数字ね」
「へえ……そうなんですか。そこから日本全国に広がっていったと。なんだか途方もない話ですねえ……」
ミジンコの小さな体からすれば、日本全土なんて地球一周みたいなものだろう。中には海を越える必要もあっただろうし、命というのはまこと不可思議である。
「そうね。壮大な話よね。だけども問題があってね……遺伝子の変化がないという事は、環境にも適応できないという事でもあるの。これまでは何事もなかったけど、これからもそうであるとは限らない。それで、有志によって雄のミジンコを取り寄せて、日本のミジンコと交配させよう、というイベントが過去にあったの」
「へえ。そんな試みが」
「ちなみに行われたのは12月24日だそうよ。まさに性のクリスマスね」
「やめてください低俗な」
隙あらば耳に変なワード捻じ込んでこないでほしい。そもそもお嬢様の耳にそんな情報流し込んだの誰だ。
困惑する私に、お嬢様は口元に手を当てて楽しそうに笑うも、一転してふっと寂しそうに目を細めた。
「……だけどね、それは上手くいかなかったの」
「え?」
「日本のミジンコ達は、あまりにも長い間単為生殖を続けたせいで、交尾、という概念が遺伝子レベルで欠落していたの。結局彼女達は雄のミジンコと交尾する事はなかったわ」
思わぬ結末に、私は目をぱちくりさせる。
野生動物が交配を忘れる? そんな事があり得るのか。
では、そうなると日本のミジンコというのは、つまり……。
「交配による遺伝子のアップデートを忘れた生き物は、やがて滅び去る宿命……。日本のミジンコは生物学的にはもう滅びていて、今はその余生を送っているだけにすぎないの……。虚しいわね……」
「お嬢様……」
「ちなみに比較で持ち込まれた米国産の雌ミジンコは、引き合わせるとすぐに交尾を始めたそうよ。そりゃあもうズッコンバッコン。産めよ増やせよって」
「お嬢様……!」
だからその下品な言葉どこで覚えてくるんですか!!
「でもおかしな話よね。子供を産めない雄ペンギンのホモカップルは子育てに励んでいて、子供を埋めるミジンコのシングルマザーは破滅に向かってるなんて。うふふ、面白いと思わない?」
「その発言は今のご時世色々とヤバイですお嬢様。勘弁してくださいお嬢様」
何破滅願望にでも目覚めたのですかこのお嬢様?! 聞いているのが私だけだからいいものを!
もうちょっとお立場をお考えになってください!!
「大丈夫よ、私がこんな事を話すのは山本だけだから」
「お嬢様……」
え、お嬢様、そんなに私の事を? ただの運転手に過ぎない、私を……?
「だって運転手一人如きどうとでもなるもの」
「…………ハイ、ソウデスネ……」
一瞬でも期待した私が愚かであった。
しかしまあそうだよね。その通りです。大企業の御令嬢にして名家のお嬢様である玲香様に至っては、私如き木っ端の命運ごとき掌の10円玉の如き。
大事に財布に入れるもよし、泉に投げ入れるもよし、投げつけて遊ぶもよし。
これからも立場を弁えて生きていきますのでどうぞよろしくお願いします……。
ちょっとほろ苦い気持ちに浸りながら、私は徐々に流れ始めた車の列に、運転に集中する事にした。