しょうもない知識を吹き込んでくるお嬢様と逃げられない運転手 作:じょじょえん
「お帰りなさい、お嬢様」
「ええ。車を出して頂戴」
早朝の事。お屋敷の前で待っている私の車に乗り込んでくるお嬢様。深々とお辞儀をする見送りの侍女を残して、玄関を潜る。
いつものやり取り。いつものように、後部座席に座るお嬢様。
だけどその恰好はいつも通りではない。
気のせいか、お嬢様は普段よりちょっとおしゃれをしている。香油を纏わせているのか、いつもより黒髪が深い色を帯びているような気がする。
私は車をゆっくりと加速させながら、ちらりとバックミラー越しに視線を向けてしばし言葉を選んだ。
「今日はいつもよりお洒落ですね。何かのイベントがあるのですか?」
「……ええ。ちょっとした表彰がね。大した事はないのだけれども、私の立場ともなるとどうしても衆目が集まるのよ」
何でもないように言うが、お嬢様のいうちょっとした事、は世間で言う大した事である。
この辺りの価値観のズレというのだろうか。名家に努めているとしばしばそのギャップに眩暈がするのだが、当人達は本当にそう思っているのである。
素の人間スペックが違いすぎるというか。人間でダービーをやっているだけの事はある。
それはともかく、そういう事ならばいつもよりゆっくり丁寧な運転を心がけるべきだろう。勿論、普段から手を抜いている訳ではないが。
「そうでしたか。それは大変ですね……頑張ってください」
「……本当にそう思う?」
「ええ。お嬢様はあまり見知らぬ人に姿をさらす事を好まれないと思いますので。ストレスを御感じになさるのでは?」
車の中ではいつも奇矯な知識の披露だったり人を人とも思わぬ言動を繰り返すお嬢様だが、本質的には人見知りだ。正確には、人間の怖い所をよく知っているというか。無計画に交友関係を広げるような行為は危険だと避けている節がある。そんなお嬢様にとって、一方的に自分について関心を持たれるマスコミなどは苦手だろう。
「……ふふ。運転手如きが私の心情を慮るなど、偉くなったものね。まあ、その配慮は受け取っておくわ」
「ありがとうございます」
口調は相変わらず冷たいが、そこに隠しきれない照れを見て取って私は小さく苦笑した。
お嬢様といえど少年少女。思春期という奴はあるのである。
「まあ、これも人生設計の一環と思えば……。そういえば、人生設計で思い出したのだけど」
憂鬱そうな視線が、一転して悪戯っぽく歪められる。
来たか。
「ゴミムシの仲間が、どういう一生を送るかしってる?」
「ゴミムシ……ですか」
「あら、そもそも知らない?」
「ほんの少しだけ。ミイデラゴミムシという生き物が、化学反応で100度を超える屁を出す、というのを聞いた事があります」
そのあたりはあまりにもインパクトがあるから、子ども図鑑などで見たら三分の一ぐらいの子供は大人になっても覚えているのではないだろうか。かくいう私もその一人だ。
子供のころは100度という数字がかなりの衝撃だった。実際は、小さい虫だしガスの量も微量だから、人間であれば火傷するほどではないそうだけども。
「あら、意外と物知りね。そのゴミムシよ……彼らが何を食べるか知っている?」
「申し訳ありません、そのあたりはとんと。名前通り生ごみを食べるのでは?」
「駄目ね、ダメダメ。勉強不足よ、前言撤回、及第点は上げられないわ」
さいですか。
とはいってもゴミムシの食性が試験に出る業界はないだろうて。
「ゴミムシは徘徊性の肉食甲虫の俗称みたいなものよ。オサムシ、なら聞いた事はないかしら。あるいは、マイマイカブリとか」
「あ、そちらは聞いた事があります。へえ、他の虫を食べるんですか。カマキリみたいなものなんですね」
「成虫は、ね。彼らはね、綿密な人生計画の元に生きている生き物なのよ」
口元に手を当てて、何やらやたらと嬉しそうに語るお嬢様。
それにしても、虫に人生計画と来た。どういう事だろう。
「ふふ。普通の虫はね、成虫よりも幼虫時代の方が長いものなの。当然、幼虫時代の方が弱いから、多くの虫は成虫になれずにどこかで命を落とし、成虫になれるのは一握り。だけどゴミムシ達は考えた。幼虫でいる時間を極限まで短くすれば、もっとたくさんの卵が成虫になれるのではないか、と」
「そんな事が出来るんですか?」
「それが出来るのよ。成虫になるために、必要最低限の必須要素だけを取得して、最短で成虫になる。極端な種になると、数回の食事で蛹までいく事ができるわ。その代わり、羽化した成虫は中身がすっかすかで、成虫になってからたくさん食べて体を作らないといけないんだけど、そこはそれ、硬い殻をもった成虫なら幼虫よりも遥かに生き延びられるという訳」
「それは凄い。効率的ですね」
そんな生き方をする生き物がいるなんて考えた事もなかった。まあ考えたとはいっても野生の、それも虫の話だから、たまたまそういう生き方をするように進化したんだろうけど、お利口さんなもんだな。
それにしてもゴミムシか……。
……ん?
「まってくださいお嬢様」
「何かしら」
「それなら、ゴミムシの成虫っていっぱいいるべきなのでは? でも、私の知る限り、彼らって結構レアな生き物ですけど……」
そうなのである。
オサムシにしろマイマイカブリにしろ、そこらへんの石とか花壇をどけてみて、その下のじめっとしたところを探し回ってもなかなか見つからなかった覚えがある。
本当に幼虫時代をショートカットして成虫になれる個体が多いなら、もっと見かけるべきなのでは?
「ふふふ、良い所に気が付いたわね。勿論、美味い話には落とし穴があるのよ」
「やっぱり……」
「彼らはね。種によって、幼虫時代に食べる者が厳密に決められているの。ううん、それだけじゃない。卵を産む環境の湿度や温度、植生、そういったものがそれぞれ違っていて、少しでもずれていたら卵を産まない。そして幼虫が食べるものも、ある種はオケラの卵、ある種はカエルの体液と、方向性はちがえど有り触れたものではない事が多いの。結果、生まれる卵も少なければ成虫になれる個体も少ないし、そもそも住む環境が人間の活動でものすごい勢いで減ってるわ」
な、なるほど。
最短最速のショートカットを行う為には、ほんの僅かなハンドルの乱れも許されない。効率化を極めた生態は、冗長性が皆無という事なのか……。
「それは……本末転倒では??」
「そうね。そうとも言えるわ。今現在、地上で多く繁栄している生き物ほど、食べ物を選ばないし環境を選ばないわ。結局、どれだけ過程で数を減らすとしても、雑に多く子供を産むのが一番なのよ」
そこまで言ってから、ちらり、とお嬢様は流し目を送る。バックミラーを通して彼女を見ていた私は、逆に彼女に見つめられている。
「山本から見れば、私達はゴミムシのように狭く限られた、本末転倒な生き方に見えるのかもね?」
「ははは、ご冗談を……」
「ふふ。そういう事にしておくわね」
うっすら頬に冷や汗が伝うのを感じる。な、なんだ、何か対応を間違えたか?
でも見た感じ、お嬢様は機嫌を損ねたようには見えないし……なんだ?
わ、わからん。年頃の子女の考える事は分からない!
「あ、お嬢様。右手をご覧ください、ご学友の車ですよ。ほら」
「んもう。話を逸らすにしてももう少しうまくやりなさいな。ふふ、まあでも山本の慌てっぷりに免じて、今日はおとなしく乗せられてあげる」
にんまりとした笑みをバックミラーに注ぐと、一転して彼女は氷のような能面のような冷たい表情で、窓ガラスの向こうの車に視線を向けた。
どうやらあちらもこちらに気が付いたようで、黒い窓の向こうで元気よく手を振っているのが見える。それに、からくり人形のような静かな動きで手を小さく振り返すお嬢様。
とりあえず、知識披露にかこつけた謎の圧迫面接からは逃れられたようだと、私は顔に出さないよう内心で溜息をついた。
そろそろ片側4車線の大きな道路に出る。相変わらず、道は混んでいるようだった。