しょうもない知識を吹き込んでくるお嬢様と逃げられない運転手 作:じょじょえん
「今日は混んでますね」
いつもの通りの帰り道。渋滞に道をふさがれた私は、ゆっくりと車を進めていた。
後部座席ではお嬢様が無言のまま、窓の外の景色を眺めている。その流麗な、人形のような横顔に内心見ほれながら、私はちらり、とその視線の先を追った。
なるほど。
彼女の視線の先では、無数の赤い影が道路の横の草むらを飛び交っていた。
蜻蛉である。
「赤とんぼですか。風流ですね」
「そうかしら? とんぼはとんぼでしょう」
お嬢様の発言はそっけない。じっと見ていた割に、そんなに興味はないようだ。
つい、と群れの中から一匹がこちらに流れてきて、車のボンネットに留まる。見れば、その蜻蛉は前後に二匹がくっついていた。前の一匹が、尻尾で後ろの一匹を捕まえてくっついている。
「見てくださいよお嬢様、蜻蛉が二匹くっついていますよ。夫婦ですかね」
「少なくともとんぼにその概念はないわ。ちなみにそれは、交尾の前段階であって交尾ではないのよ」
「え、そうなんですか?」
思わず反応してしまってから、私は失言を悟った。
お嬢様が、まるで小さな鼠をいたぶる猫のような、にやりとした笑みを浮かべたからだ。
「ねえ、山本」
「トンボの雄が、自分の子孫を残すためにどんな工夫をしているか、しってる?」
「……えっと、よくしりませんね。今目の前にいる二匹みたいに、雌を捕まえて連れまわすとか」
「ふふ、それも一つの方法ではあるわね。でももっとダイレクトな手段があるのよ」
お嬢様の事だから、たぶんまたロクデモナイ知識である事に違いない。しかし、ちょっと興味をそそられるのも確かだ。
一体どういう方法なんだろう?
ちょっと考えていると、ボンネットにいる赤とんぼが新しい動きを見せた。
後ろの雌が腹を大きく折り曲げて、雄の腹部の付け根に自分の尻尾の先端を押し付ける。
まるでハートのような模様を描くその様に、私はわあ、と声を上げた。
「これは何してるんですか、お嬢様。ハートの文字みたいで可愛らしい」
「交尾しているのよ」
「え?」
「とんぼの雄はね、腹部の先端から放出した精子を、胴体の後ろにある副性器という場所に納めるのよ。あれはそこと雌の性器を繋げているの」
そこで一呼吸置くお嬢様。
なんだかすごく嫌な予感がした。いつもの事だけども。
「つまりファ〇クしているのよ、わかるかしら山本」
「お嬢様」
やめてください年頃の子女が恥ずかしい!!
そういう言葉を覚えたての中学生じゃないんだから!!
「ちなみにさっき言った、とんぼの雄が子孫を残すための工夫もここにあるのよ」
なんだかとてつもなく嫌な予感がするのだが気のせいだろうか?
「雄の副性器にはブラシのような器官があってね、それで雌の性器の中からほかの雄の精子をかきだすのよ」
「お嬢様」
「人間の男といっしょね?」
「お嬢様……お嬢様!!」
流石にそれはあかんて!!
嫁の貰い手が無くなりますよ!!
「何よ、私も貴方も親がファ〇クして生まれてきたのよ、生命の本質をごまかしてどうするのよ」
「勘弁してくださいお嬢様……」
そもそも一体どこでそんな下品な言葉覚えてくるんですか!? そしてその謎の知識の出どころはマジでどこなんです!?
学園!? 学園なんですか!? あの上流階級の子女が通う学校のどこにそんな事教えるスカポンタンが潜んでいるんです!?
旦那様が知ったら卒倒……いや言えませんけどねこんな事!
ただ毎度の面接でちょっと言葉濁すとすごい訝しまれるんで、マジでやめてくれませんか言えない事を私の中に増やしていくの!
「ふふ、山本の百面相は相変わらず面白いわね」
「お嬢様ぁ……」
どうやら確信犯で私をからかっている様子のお嬢様に、こらえきれず情けない声が出てしまう。
そしてこれらの話題の渦中であるとんぼのカップルはというと、しれっとした顔で交尾を終えて二匹仲良く飛び去って行った。
人間の事など気にかけていないように、仲睦まじい事である。本来なら微笑えましい光景だが、先程のお嬢様の発言が頭によぎっているせいで、あんまり素直に見送れない。
きっとあの二匹もすぐに分かれて、別の雄と雌でくっつくんだろうなあ。そして雄は自分の子孫を残すために頑張る訳だ。
世知辛いなあ……。
と、それをきっかけにしたかのように、停滞していた車の流れが動き出す。
ちらり、とは以後に視線を向けるが、幸い、お嬢様もこれ以上話を引きずるつもりはないようだ。物憂げに窓から夕陽を眺めているその顔は、深窓の令嬢そのものである。
黙っていれば本当に美人なんだけどなあ……。
私は微妙な気持ちをなんとか取り繕いつつ、前の車との車間距離に注意しながらアクセルを踏んだのであった。