妖ばなしにひかりを灯す 作:名栗谷なぎさ
風呂で髪を洗っているとき、背後に誰かの気配を感じたことはないだろうか。
目を閉じている。耳のそばではシャワーが鳴っている。泡を流し終わるまで、あと少し。
その、あと少しが妙に長い。
脱衣所には誰もいなかった。浴室の扉も閉めた。家族が入ってきたなら、さすがに分かる。
分かるはずなのに、うなじにかかる息だけが、シャワーよりも冷たい。
そんなとき、振り向くなら右からがいいらしい。
右から振り向けば、何も見えない。
左から振り向くと、目が合う。
誰と、とは聞かないでほしい。私も、その話を考えた人に聞きたい。
どうして左右で違うのか。正面の鏡を見た場合はどうなるのか。そもそも誰が、両方を試して確かめたのか。
怖い話には、訊いてはいけないことが多い。
けれど、ひとつだけはっきりしていることがある。
こういう話は、聞いた直後より、実際に髪を洗うときの方がずっと嫌だ。
「……っていうやつ。知ってる?」
三枝由奈は、そこでようやく口を閉じた。
放課後の教室には、私たちしか残っていない。窓の向こうから、運動部の掛け声が聞こえてくる。由奈の机に向かい合わせた椅子に、私は鞄を置いた。
「聞いたことある。お風呂に入る前に思い出すと、ちょっと損した気分になるやつ」
「そう、それ」
「ちなみに私、流す前に目を開けちゃう方。見えないの嫌だから」
「痛くない?」
「痛い。毎回、後悔してる」
由奈が少し笑った。
唇だけだった。目の下には薄く隈ができていて、机の上で組んだ指は、さっきから同じところを擦っている。
昼休みに声をかけられたときより、顔色が悪い。
「ひかりって、こういう話、平気?」
「聞くのは好きだよ」
「じゃあさ。変なこと言っても、笑わない?」
「内容によるかな」
「そこは笑わないって言ってよ」
「だって、絶対笑わないって約束したあとに、すごく面白いこと言われたら困るし」
今度は少しだけ、目元も緩んだ。
私は椅子を引いて腰を下ろす。
「でも、由奈が困ってる話なら、ちゃんと聞く」
「……うん」
彼女の指が止まった。
窓は閉まっている。それなのに、左の耳の下で、ひと束だけ髪が揺れた。
「いるんだよね」
由奈は、自分の膝を見ていた。
「お風呂に」
「誰かが?」
「分かんない。見たわけじゃないんだけど。最初は、気のせいだと思ってたの。あんな動画見たから、気になってるだけだって」
「動画で知ったんだ」
「うん。伊織から送られてきて」
机の上のスマートフォンを、彼女は私の方へ滑らせた。
画面に触れる指先が、爪まで白い。
「これ」
映っていたのは、古い絵を背景にした短い動画だった。
薄暗い浴室の写真へ切り替わり、機械の声が、さっき聞いた話を読み上げる。画面の下では、字幕が一語ずつ赤くなった。
『絶対に、左から振り向かないでください』
その言葉に合わせて、シャワーの音が急に大きくなる。
私は音量を下げた。由奈の肩が、目に見えて強張ったからだ。
「ごめん。音、嫌だった?」
「……大丈夫」
「小さくしておこう。二人だし、聞こえるから」
コメント欄を開くと、今夜風呂に入れなくなったという書き込みが並んでいた。笑っている顔の絵文字。友達の名前。怖がりすぎだという返信。
その間に、ときどき、絵文字のない短い文章があった。
右から見たのに。
昨日もいた。
これ、どうやったら止まりますか。
私は投稿者の名前を確認して、画面を戻した。
「このアカウント、知ってる?」
「うちの学校の人らしいよ。二組の信楽くんって噂」
「へえ。そうなんだ」
「みんな見てる。最近、こういうの上げてるみたい」
みんな。
どこまでを含んだ言葉なのか分からないけれど、由奈には大事なことなのだろう。
自分だけがおかしくなったわけではない。その証拠が、ほしいのかもしれない。
「最初に気配がしたのは、いつ?」
「月曜日。動画を見た日の夜」
「それから、毎日?」
「うん」
答えるたび、彼女の声が小さくなる。
「ちゃんと右から振り向いたんだよ。書いてあるとおりに。何もいなかった。だから安心して、また髪を流して」
「うん」
「そしたら、また」
左の肩が、すっと上がった。
寒いときに首を竦めるような動きだった。
「最初より、近かった」
私は黙って続きを待った。
由奈は自分の腕を抱き、肘のあたりを強く押さえた。
「昨日はね、頭を洗うの、やめようと思ったの。身体だけ洗って、すぐ出ればいいやって。でも、そう思ったら」
「思ったら?」
「髪が、引っ張られた」
彼女の視線が、私の顔に上がった。
反応を確かめている。
笑わない。驚きすぎない。続きを話す前に、説明をつけてしまわない。
私は小さく頷いた。
「どのあたり?」
「ここ」
左の耳の後ろを示そうとして、その手が途中で止まる。
触りたくないらしかった。
「引っかかっただけかもしれないよ。蛇口とか、そういうのに。でも、立ち上がろうとしたら、後ろに。こう……」
彼女は顎を上げかけて、すぐにやめた。
机の縁に置いた指が震えていた。
「痛かった?」
「うん」
「跡、残ってる?」
「分かんない。見てない」
見えない場所だ。
鏡を二枚使えば確かめられる。でも、そのために後頭部を映したくはないだろう。
そこに何かが写っていたら、もう見なかったことにはできない。
「そっか」
私はスマートフォンを彼女の手元へ返した。
「話してくれてありがとう」
「……信じるの?」
「痛かったんでしょ。それは、あったことだよね」
由奈が、少し変な顔をした。
泣きそうな顔にも見えたけれど、私はそこには触れなかった。
「友達に言ったらさ、動画の見すぎって」
「動画は見すぎかもしれない」
「え」
「だって、何回も確かめたんじゃない? 右でよかったよねって」
彼女は黙って、頷いた。
「夜中にも。コメント、増えてないかなって。ほかに同じ人いないかなって」
「うん」
「いると、ちょっと安心するの。でも読んでると、もっと怖いこと書いてあって」
私は机の上の画面を見た。
動画は止まっている。止まっているのに、由奈の目はときどき、そこへ戻る。
怖いから確かめる。
確かめると、次に気にしなければいけないことが増える。
それでは、寝る暇もなくなる。
「今日はもう、それ、見なくていいよ」
「でも」
「必要なところは私が見ておく。由奈は、いったん休憩」
「ひかりまで眠れなくなったら?」
「明日の授業、一緒に眠そうにしてようか」
「それ、先生に怒られるやつじゃん」
「じゃあ、由奈だけでも寝てきて。二人で怒られるよりいいでしょ」
彼女が、息を漏らして笑った。
その息が白かった。もう四月なのに。
私は、膝の上で指を開いた。
机の上のプリントの角が、かすかに浮く。
由奈は気づかなかった。自分の肩を擦って、窓の方を見ている。
「……寒くない?」
「少しね」
窓際のカーテンは動いていなかった。
廊下側の扉も閉じている。
彼女の左側だけ、空気が冷えていた。
「由奈」
「うん?」
「さっき、お風呂にいるって言ったよね」
「……うん」
「お風呂だけ?」
返事がなかった。
彼女の指が、スマートフォンの角を掴む。
私は声の調子を変えずに続けた。
「ここまで来る間は、どうだった?」
由奈の唇が動いた。
一度、閉じる。
やがて、ごく小さな声が出た。
「……階段」
運動部の掛け声が、遠くで揃った。
「後ろから、髪が服に擦れる音がして。誰か来たのかなって、端に寄ったの。でも、誰も追い越していかなくて」
「それで?」
「止まったら、音も止まった」
目が、私に縋る。
「教室に入ってからは?」
「分かんない」
分からない、ともう一度、彼女は言った。
左肩に触れようとした手が、また途中で止まる。
私は身を乗り出して、その手を取った。
「大丈夫。こっち見てて」
冷たい。
指先だけではない。手首まで、水に浸けていたように冷えている。
「ひかり。後ろ、見てもらってもいい?」
私は、彼女の左肩へ目を向けた。
制服の布が、五か所、窪んでいた。
細い指で、上から掴んだように。
窪みのひとつが、ゆっくり動く。
「……何か、ついてる?」
肩の向こうに、髪が垂れていた。
由奈のものではない。
黒く、長く、机の高さよりも下まで続いている。その奥で、白いものが少しずつ持ち上がった。
顔だった。
鼻が触れそうな距離から、由奈の横顔を覗き込んでいる。
唇の端が耳の下へ伸びた不気味な顔。
その口が、彼女が息を吸うたび、嬉しそうに開いていた。
私は握った手に、ほんの少し力を込めた。
「由奈。今は、振り向かなくていいよ」
「……なんで?」
白い顔が止まった。
目だけが、こちらを向く。
私は由奈に笑いかけた。
「私と話してる途中でしょ」
机の上のプリントが、一枚、床へ落ちた。
その下を這うように、黒い髪が揺れる。
例の白い顔の口が閉じた。
私を見て、ゆっくり、もう一度開く。
「おまえは」
由奈の声ではなかった。
「どっちから、見た」