妖ばなしにひかりを灯す   作:名栗谷なぎさ

1 / 2
第1話 後神・上

 

 風呂で髪を洗っているとき、背後に誰かの気配を感じたことはないだろうか。

 

 目を閉じている。耳のそばではシャワーが鳴っている。泡を流し終わるまで、あと少し。

 その、あと少しが妙に長い。

 脱衣所には誰もいなかった。浴室の扉も閉めた。家族が入ってきたなら、さすがに分かる。

 分かるはずなのに、うなじにかかる息だけが、シャワーよりも冷たい。

 

 そんなとき、振り向くなら右からがいいらしい。

 右から振り向けば、何も見えない。

 左から振り向くと、目が合う。

 

 誰と、とは聞かないでほしい。私も、その話を考えた人に聞きたい。

 どうして左右で違うのか。正面の鏡を見た場合はどうなるのか。そもそも誰が、両方を試して確かめたのか。

 怖い話には、訊いてはいけないことが多い。

 けれど、ひとつだけはっきりしていることがある。

 こういう話は、聞いた直後より、実際に髪を洗うときの方がずっと嫌だ。

 

「……っていうやつ。知ってる?」

 

 三枝由奈は、そこでようやく口を閉じた。

 放課後の教室には、私たちしか残っていない。窓の向こうから、運動部の掛け声が聞こえてくる。由奈の机に向かい合わせた椅子に、私は鞄を置いた。

 

「聞いたことある。お風呂に入る前に思い出すと、ちょっと損した気分になるやつ」

「そう、それ」

「ちなみに私、流す前に目を開けちゃう方。見えないの嫌だから」

「痛くない?」

「痛い。毎回、後悔してる」

 

 由奈が少し笑った。

 唇だけだった。目の下には薄く隈ができていて、机の上で組んだ指は、さっきから同じところを擦っている。

 昼休みに声をかけられたときより、顔色が悪い。

 

「ひかりって、こういう話、平気?」

「聞くのは好きだよ」

「じゃあさ。変なこと言っても、笑わない?」

「内容によるかな」

「そこは笑わないって言ってよ」

「だって、絶対笑わないって約束したあとに、すごく面白いこと言われたら困るし」

 

 今度は少しだけ、目元も緩んだ。

 私は椅子を引いて腰を下ろす。

 

「でも、由奈が困ってる話なら、ちゃんと聞く」

「……うん」

 

 彼女の指が止まった。

 窓は閉まっている。それなのに、左の耳の下で、ひと束だけ髪が揺れた。

 

「いるんだよね」

 

 由奈は、自分の膝を見ていた。

 

「お風呂に」

「誰かが?」

「分かんない。見たわけじゃないんだけど。最初は、気のせいだと思ってたの。あんな動画見たから、気になってるだけだって」

「動画で知ったんだ」

「うん。伊織から送られてきて」

 

 机の上のスマートフォンを、彼女は私の方へ滑らせた。

 画面に触れる指先が、爪まで白い。

 

「これ」

 

 映っていたのは、古い絵を背景にした短い動画だった。

 薄暗い浴室の写真へ切り替わり、機械の声が、さっき聞いた話を読み上げる。画面の下では、字幕が一語ずつ赤くなった。

 

『絶対に、左から振り向かないでください』

 

 その言葉に合わせて、シャワーの音が急に大きくなる。

 私は音量を下げた。由奈の肩が、目に見えて強張ったからだ。

 

「ごめん。音、嫌だった?」

「……大丈夫」

「小さくしておこう。二人だし、聞こえるから」

 

 コメント欄を開くと、今夜風呂に入れなくなったという書き込みが並んでいた。笑っている顔の絵文字。友達の名前。怖がりすぎだという返信。

 その間に、ときどき、絵文字のない短い文章があった。

 

 右から見たのに。

 昨日もいた。

 これ、どうやったら止まりますか。

 

 私は投稿者の名前を確認して、画面を戻した。

 

「このアカウント、知ってる?」

「うちの学校の人らしいよ。二組の信楽くんって噂」

「へえ。そうなんだ」

「みんな見てる。最近、こういうの上げてるみたい」

 

 みんな。

 どこまでを含んだ言葉なのか分からないけれど、由奈には大事なことなのだろう。

 自分だけがおかしくなったわけではない。その証拠が、ほしいのかもしれない。

 

「最初に気配がしたのは、いつ?」

「月曜日。動画を見た日の夜」

「それから、毎日?」

「うん」

 

 答えるたび、彼女の声が小さくなる。

 

「ちゃんと右から振り向いたんだよ。書いてあるとおりに。何もいなかった。だから安心して、また髪を流して」

「うん」

「そしたら、また」

 

 左の肩が、すっと上がった。

 寒いときに首を竦めるような動きだった。

 

「最初より、近かった」

 

 私は黙って続きを待った。

 由奈は自分の腕を抱き、肘のあたりを強く押さえた。

 

「昨日はね、頭を洗うの、やめようと思ったの。身体だけ洗って、すぐ出ればいいやって。でも、そう思ったら」

「思ったら?」

「髪が、引っ張られた」

 

 彼女の視線が、私の顔に上がった。

 反応を確かめている。

 笑わない。驚きすぎない。続きを話す前に、説明をつけてしまわない。

 私は小さく頷いた。

 

「どのあたり?」

「ここ」

 

 左の耳の後ろを示そうとして、その手が途中で止まる。

 触りたくないらしかった。

 

「引っかかっただけかもしれないよ。蛇口とか、そういうのに。でも、立ち上がろうとしたら、後ろに。こう……」

 

 彼女は顎を上げかけて、すぐにやめた。

 机の縁に置いた指が震えていた。

 

「痛かった?」

「うん」

「跡、残ってる?」

「分かんない。見てない」

 

 見えない場所だ。

 鏡を二枚使えば確かめられる。でも、そのために後頭部を映したくはないだろう。

 そこに何かが写っていたら、もう見なかったことにはできない。

 

「そっか」

 

 私はスマートフォンを彼女の手元へ返した。

 

「話してくれてありがとう」

「……信じるの?」

「痛かったんでしょ。それは、あったことだよね」

 

 由奈が、少し変な顔をした。

 泣きそうな顔にも見えたけれど、私はそこには触れなかった。

 

「友達に言ったらさ、動画の見すぎって」

「動画は見すぎかもしれない」

「え」

「だって、何回も確かめたんじゃない? 右でよかったよねって」

 

 彼女は黙って、頷いた。

 

「夜中にも。コメント、増えてないかなって。ほかに同じ人いないかなって」

「うん」

「いると、ちょっと安心するの。でも読んでると、もっと怖いこと書いてあって」

 

 私は机の上の画面を見た。

 動画は止まっている。止まっているのに、由奈の目はときどき、そこへ戻る。

 

 怖いから確かめる。

 確かめると、次に気にしなければいけないことが増える。

 それでは、寝る暇もなくなる。

 

「今日はもう、それ、見なくていいよ」

「でも」

「必要なところは私が見ておく。由奈は、いったん休憩」

「ひかりまで眠れなくなったら?」

「明日の授業、一緒に眠そうにしてようか」

「それ、先生に怒られるやつじゃん」

「じゃあ、由奈だけでも寝てきて。二人で怒られるよりいいでしょ」

 

 彼女が、息を漏らして笑った。

 その息が白かった。もう四月なのに。

 

 私は、膝の上で指を開いた。

 机の上のプリントの角が、かすかに浮く。

 由奈は気づかなかった。自分の肩を擦って、窓の方を見ている。

 

「……寒くない?」

「少しね」

 

 窓際のカーテンは動いていなかった。

 廊下側の扉も閉じている。

 彼女の左側だけ、空気が冷えていた。

 

「由奈」

「うん?」

「さっき、お風呂にいるって言ったよね」

「……うん」

「お風呂だけ?」

 

 返事がなかった。

 彼女の指が、スマートフォンの角を掴む。

 

 私は声の調子を変えずに続けた。

 

「ここまで来る間は、どうだった?」

 

 由奈の唇が動いた。

 一度、閉じる。

 やがて、ごく小さな声が出た。

 

「……階段」

 

 運動部の掛け声が、遠くで揃った。

 

「後ろから、髪が服に擦れる音がして。誰か来たのかなって、端に寄ったの。でも、誰も追い越していかなくて」

「それで?」

「止まったら、音も止まった」

 

 目が、私に縋る。

 

「教室に入ってからは?」

「分かんない」

 

 分からない、ともう一度、彼女は言った。

 左肩に触れようとした手が、また途中で止まる。

 私は身を乗り出して、その手を取った。

 

「大丈夫。こっち見てて」

 

 冷たい。

 指先だけではない。手首まで、水に浸けていたように冷えている。

 

「ひかり。後ろ、見てもらってもいい?」

 

 私は、彼女の左肩へ目を向けた。

 

 制服の布が、五か所、窪んでいた。

 細い指で、上から掴んだように。

 窪みのひとつが、ゆっくり動く。

 

「……何か、ついてる?」

 

 肩の向こうに、髪が垂れていた。

 由奈のものではない。

 黒く、長く、机の高さよりも下まで続いている。その奥で、白いものが少しずつ持ち上がった。

 

 顔だった。

 

 鼻が触れそうな距離から、由奈の横顔を覗き込んでいる。

 唇の端が耳の下へ伸びた不気味な顔。

 その口が、彼女が息を吸うたび、嬉しそうに開いていた。

 

 私は握った手に、ほんの少し力を込めた。

 

「由奈。今は、振り向かなくていいよ」

「……なんで?」

 

 白い顔が止まった。

 目だけが、こちらを向く。

 

 私は由奈に笑いかけた。

 

「私と話してる途中でしょ」

 

 机の上のプリントが、一枚、床へ落ちた。

 その下を這うように、黒い髪が揺れる。

 

 例の白い顔の口が閉じた。

 私を見て、ゆっくり、もう一度開く。

 

「おまえは」

 

 由奈の声ではなかった。

 

「どっちから、見た」

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。