妖ばなしにひかりを灯す 作:名栗谷なぎさ
「おまえは」
由奈の声ではなかった。
「どっちから、見た」
彼女の左肩の向こうで、白い顔が私を見ていた。
長い髪が机の下まで垂れている。私は握っていた由奈の手を離さず、その顔を見返した。
「正面から」
私は答えた。
由奈の肩に掛かった指が止まる。白い顔の目だけが、こちらを向いていた。
「……ひかり。誰と話してるの?」
由奈が振り向きかけたので、握っていた手を少し引いた。
「私を見てて。そう、そのまま」
「何かいるんでしょ?」
「大丈夫。だから、ちょっと寝てて。すぐに、終わらせるから」
由奈の額に、空いている手を添える。
指先から、ごく細く力を流した。
彼女が何か言おうとして、唇を開く。それより先に瞼が落ちた。傾いた身体を受け止め、机に置いた私の鞄を枕にして、そっと横を向かせる。
寝息を確かめてから、手を離した。
「寝かせたのか」
肩越しの口が、ぐにゃりと歪む。
「起きるぞ。夢でも、後ろは気になる」
「起こさないで。この子、寝不足なんだから」
私は立ち上がった。
由奈の背中から、黒い髪が幾筋も垂れている。そのうちの一本だけが、制服を透かして身体の内側へ続いていた。
ここで引けば、この子まで傷つける。
切るなら、つながっている場所を表へ出させなければならない。
私は両手を空けたまま、床を爪先で軽く叩いた。
私の足元から広がった気配が、四方の壁を這い上がった。窓も扉も動かない。ただ、廊下を歩く足音が教室の前で緩み、そのまま階段へ遠ざかっていく。
忘れ物を取りに来た人も、今は別の用事を思い出す。
人払いは、これでいい。
次に、すっと息を吐き、胸の奥で抑えていたものを緩めた。
力が背筋を駆け上がる。それに重ねるように別の力を通すと、肌の上を風が走った。
制服の袖がほどけ、白い袖が手首を覆う。膝のあたりで布が翻り、緋の袴が脚へ落ちた。
背中に、折り畳んだ翼の重み。
鳶色の羽が一枚、机の縁を擦る。
顔を覆った面の内側で息を吐く。猛禽の嘴を模したその先端が、窓に細い影を落としていた。
由奈は眠っている。
その寝顔を一度だけ確認し、私は妖へ向き直った。
「話をしようよ」
白い顔が、私の足元から面へと視線を這わせた。
袖を、翼を、もう一度、面を見た。
「おまえ、人じゃないな?」
私は答えなかった。
「妖? 神? いや、霊か?」
問いを重ねるたび、声の調子が変わる。
確かめるように鼻を鳴らし、由奈の肩を掴み直した。逃げもしない代わりに、近づいてもこない。
「どれなら話を聞いてくれるの?」
「何者だ、おまえは」
「今、この子のことで怒ってる人」
私は由奈へ目を落とした。
額に掛かった髪を払う。妖の指が、私の手を避けて少し退いた。
「由奈から離れてほしいの」
「この娘が呼んだ」
「あなたなんて呼んでないよ。怖がっただけ」
「同じことだ」
妖は由奈の頬へ指を伸ばした。
私はその手首へ視線を移した。
指が止まった。向こうも、私の出方をうかがっている。
「毎晩、わしを思う。湯を浴びながら、目を閉じながら。今もいるか。どこにいるか。昨日より近いか」
「それで、わざわざ近づいてあげたんだ」
「近づけば、また思う」
白い口が笑う。
こちらの嫌味は通じていない。
「昔は日が落ちるまで待ったものだ。今は明るいうちから、皆、後ろを気にしておる」
妖の視線が、机の上のスマートフォンへ動いた。
「見えぬところで何を言われた。誰が笑った。誰に見られた。あの小さな板を覗いては、確かめる。確かめても足りぬ」
由奈の画面には、まだ動画が表示されている。
見えないところに誰かがいる。そう思うための話を、私たちは自分の手で、毎日持ち歩いている。
そこへ左右どちらから振り向けという手順までつけば、試す人も出るだろう。
何も見えなかった人ほど、その次に気配がしたときには怖くなる。
「良かったね。便利な世の中の恩恵にあずかれて」
「まことにな」
妖は嬉しそうに答えた。
この子が三晩眠れなかったことも、きっとその便利さに含まれている。
「でも、由奈はもうおしまい。別に行って」
「要求するなら対価を払え。それがこちらの世界の習わしだろう?」
「対価?」
「おまえが代わりになれといっている」
やれやれだ。
私は渋々頷いた。
「いいよ。私について」
言い淀むと面倒になる。
白い顔をまっすぐ見て、もう一度言う。
「この子から離れるなら、私の後ろをあげる」
妖の鼻が動いた。
細い首が、由奈の肩越しに伸びてくる。
私は動かずに待った。
「……おまえ」
湿った声が低くなる。
「極上だな」
ずいぶんな褒められ方だった。
嬉しくはない。
「娘の姿で、何を飼っている?」
「それ、今の話に必要?」
「名は?」
「教えない」
妖が喉を鳴らした。
「ひかり」
私は返事をしなかった。
「この娘が呼んでおった。ひかり。ひかり。助けてほしいと、おまえを見て」
「聞こえてたなら、訊かなくてもいいのに。性格悪いね」
「その先だ。ひかりの前につく名は、何だ?」
私は黙って、続きを待った。
妖の目が細まった。
「ただの人ではない。ただの妖でもない。おまえの中には――」
「はやく由奈から離れて」
同じ調子で、言い直した。
答える必要はない。知っていることも、知らないことも。
妖はしばらく私を嗅いでいた。
やがて、肩を掴んでいた指が一本ずつ開く。
黒い髪の束が、由奈の背中から持ち上がった。
「背を向けろ」
妖が言った。
「手は下げておけ。こちらを見るな」
「注文、多くない? もてないでしょ」
私は笑い、それでも言われたとおりにした。
由奈の椅子の横へ移り、窓に向かって立った。妖に背中を向け、翼を畳み、両手を身体の脇へ下ろす。
窓の向こうは校舎の陰になっていた。薄暗いガラスに、自分の白い袖と、その後ろの由奈の姿が重なる。面の内側から、そちらへ目だけを向けた。
すぐには何も触れてこなかった。
机の下で髪の擦れる音がする。右へ回り、左へ戻る。窓に映った白い顔が、私の手元を覗いていた。
私は指を開いてみせた。
何も持っていない。
今は、まだ。
「やっぱり、やめる? 怖くなった?」
訊くと、髪の音が止まった。
「戯言を。この娘に戻ってもよいのか」
「そんな、後ろ髪を引かれるようなこと言わないで」
私は軽く笑った。
「ちゃんと代わってあげるから。こっちに来て」
由奈を残したまま逃げる気はない。
そこだけは嘘でなくて、向こうにも分かるのだろう。
窓に映る口が開いた。私の背中と由奈の寝顔を見比べて、今度はゆっくり近づいてくる。
肩へ、何かが触れた。
視線を落とすと、黒い筋が白衣の上を這っていた。髪ではない。小さな指が何百本もつながり、互いの手首を握っている。
見ていることを悟られる前に、目を窓へ戻した。
冷たい。
襟の内側を探り、うなじへ回ろうとする。
気持ちは悪いけれど、まだ動かない。
「恐れぬのか」
妖が囁いた。
「後ろが気にならぬのか、ひかり」
「気になるよ」
私の背後では、由奈が眠っている。
首の角度は苦しくないか。髪を引かれていないか。椅子から落ちないか。
気にすることは、いくらでもあった。
「だから、早くして」
窓に映った白い顔が、由奈の肩から離れて浮き上がる。
けれど、二人の間にはまだ黒い筋が残っていた。細かなところまでは見えない。私は肩を這う指の動きに意識を向けた。
まだ切れない。もう少し。
背後で由奈が小さく呻いた。肩へ手を伸ばしたくなるのを堪えた。
今動けば、またあの子の中へ逃げ込まれる。
耳の後ろへ、冷たい息がかかった。
「よい匂いだ」
肩の上の指が、いっせいに襟を掴んだ。
ガラスの中で、白い顔が私の背に重なる。由奈との間を渡る黒い筋が、制服から離れて張った。
そこだった。
腰の左側で、指を閉じる。
掌へ流した力が、鞘の形を取った。同時に右手の中へ柄が生まれる。刀身が重さを取り戻すのを待たず、私は右足を引いて身体を開いた。
振り返った視界に、由奈の背中と、そこから離れた黒い筋を捉える。
左手で鞘を引く。右手で抜く。
現れた刃は、もう走っていた。
童子切安綱。
形を解いて潜ませていた、妖斬りの名刀。
背後の気配が跳ねた。
けれど、由奈へ戻るには遅い。
振り向きざまの一閃が、白衣へ伸びる束の下を抜け、二人をつないだ一本だけを断った。
手応えは、濡れた糸を切るより軽かった。
悲鳴が上がる。
由奈へ戻ろうとした黒髪を、刀の腹で払った。絡みついていた影が床から剥がれ、白い顔ごと教室の後ろへ転がっていく。
左手に残る鞘を腰へ収め、由奈の肩を支えた。右手の切っ先は、白い顔へ向けておく。
「動かないで」
机の脚に絡んだ妖が、口を開く。
「おまえ、ついてよいと」
「言ったっけ?」
刃を下げずに答えた。
妖の目が、私の面と切っ先を行き来する。
「半端ものとはいえ、その神力……おまえ、神でもあるのだろう」
私は黙っていた。
白い顔が、縋るように持ち上がる。
「神に二言があってよいのか。己の言葉を違えて、恥じぬのか」
なるほど。だから、信じたのか。
私は少し首を傾けた。
「私、半端ものだから。いいんだよ」
妖の口が開いたまま止まった。
都合のいいときだけ神様にされても困る。さっきまで、私が何なのかも分からなかったくせに。
由奈の呼吸が深くなる。
左肩に残っていた最後の窪みが、ゆっくり戻った。
私はそこへ手を当てる。温かい。もう、何もつながっていない。
妖の髪が、床を探った。一本が椅子の脚を伝い、由奈の上履きへ伸びる。
その進路へ、刃先を置いた。
触れてもいないのに、毛先が焦げるように丸まった。白い顔が、今度こそ刀の長さだけ後ろへ下がる。
「まだ、足りぬ」
「由奈はあなたのおやつじゃないよ」
眠っている間まで怖がらせるつもりだった相手に、遠慮をする理由はない。
私は鞄から滑りかけた由奈の手を机へ戻した。指先の震えも止まっていた。
足元で、切れた黒い糸が縮れて消えた。
「この子の分は、おしまい」
童子切の切っ先を、白い顔の眉間へ合わせる。
「次は、あなたが帰る番ね」