妖ばなしにひかりを灯す   作:名栗谷なぎさ

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第2話 後神・中

 

「おまえは」

 

 由奈の声ではなかった。

 

「どっちから、見た」

 

 彼女の左肩の向こうで、白い顔が私を見ていた。

 長い髪が机の下まで垂れている。私は握っていた由奈の手を離さず、その顔を見返した。

 

「正面から」

 

 私は答えた。

 由奈の肩に掛かった指が止まる。白い顔の目だけが、こちらを向いていた。

 

「……ひかり。誰と話してるの?」

 

 由奈が振り向きかけたので、握っていた手を少し引いた。

 

「私を見てて。そう、そのまま」

「何かいるんでしょ?」

「大丈夫。だから、ちょっと寝てて。すぐに、終わらせるから」

 

 由奈の額に、空いている手を添える。

 指先から、ごく細く力を流した。

 彼女が何か言おうとして、唇を開く。それより先に瞼が落ちた。傾いた身体を受け止め、机に置いた私の鞄を枕にして、そっと横を向かせる。

 寝息を確かめてから、手を離した。

 

「寝かせたのか」

 

 肩越しの口が、ぐにゃりと歪む。

 

「起きるぞ。夢でも、後ろは気になる」

「起こさないで。この子、寝不足なんだから」

 

 私は立ち上がった。

 由奈の背中から、黒い髪が幾筋も垂れている。そのうちの一本だけが、制服を透かして身体の内側へ続いていた。

 ここで引けば、この子まで傷つける。

 切るなら、つながっている場所を表へ出させなければならない。

 

 私は両手を空けたまま、床を爪先で軽く叩いた。

 私の足元から広がった気配が、四方の壁を這い上がった。窓も扉も動かない。ただ、廊下を歩く足音が教室の前で緩み、そのまま階段へ遠ざかっていく。

 忘れ物を取りに来た人も、今は別の用事を思い出す。

 人払いは、これでいい。

 

 次に、すっと息を吐き、胸の奥で抑えていたものを緩めた。

 力が背筋を駆け上がる。それに重ねるように別の力を通すと、肌の上を風が走った。

 制服の袖がほどけ、白い袖が手首を覆う。膝のあたりで布が翻り、緋の袴が脚へ落ちた。

 背中に、折り畳んだ翼の重み。

 鳶色の羽が一枚、机の縁を擦る。

 顔を覆った面の内側で息を吐く。猛禽の嘴を模したその先端が、窓に細い影を落としていた。

 

 由奈は眠っている。

 その寝顔を一度だけ確認し、私は妖へ向き直った。

 

「話をしようよ」

 

 白い顔が、私の足元から面へと視線を這わせた。

 袖を、翼を、もう一度、面を見た。

 

「おまえ、人じゃないな?」

 

 私は答えなかった。

 

「妖? 神? いや、霊か?」

 

 問いを重ねるたび、声の調子が変わる。

 確かめるように鼻を鳴らし、由奈の肩を掴み直した。逃げもしない代わりに、近づいてもこない。

 

「どれなら話を聞いてくれるの?」

「何者だ、おまえは」

「今、この子のことで怒ってる人」

 

 私は由奈へ目を落とした。

 額に掛かった髪を払う。妖の指が、私の手を避けて少し退いた。

 

「由奈から離れてほしいの」

「この娘が呼んだ」

「あなたなんて呼んでないよ。怖がっただけ」

「同じことだ」

 

 妖は由奈の頬へ指を伸ばした。

 私はその手首へ視線を移した。

 指が止まった。向こうも、私の出方をうかがっている。

 

「毎晩、わしを思う。湯を浴びながら、目を閉じながら。今もいるか。どこにいるか。昨日より近いか」

「それで、わざわざ近づいてあげたんだ」

「近づけば、また思う」

 

 白い口が笑う。

 こちらの嫌味は通じていない。

 

「昔は日が落ちるまで待ったものだ。今は明るいうちから、皆、後ろを気にしておる」

 

 妖の視線が、机の上のスマートフォンへ動いた。

 

「見えぬところで何を言われた。誰が笑った。誰に見られた。あの小さな板を覗いては、確かめる。確かめても足りぬ」

 

 由奈の画面には、まだ動画が表示されている。

 見えないところに誰かがいる。そう思うための話を、私たちは自分の手で、毎日持ち歩いている。

 そこへ左右どちらから振り向けという手順までつけば、試す人も出るだろう。

 何も見えなかった人ほど、その次に気配がしたときには怖くなる。

 

「良かったね。便利な世の中の恩恵にあずかれて」

「まことにな」

 

 妖は嬉しそうに答えた。

 この子が三晩眠れなかったことも、きっとその便利さに含まれている。

 

「でも、由奈はもうおしまい。別に行って」

「要求するなら対価を払え。それがこちらの世界の習わしだろう?」

「対価?」

「おまえが代わりになれといっている」

 

 やれやれだ。

 私は渋々頷いた。

 

「いいよ。私について」

 

 言い淀むと面倒になる。

 白い顔をまっすぐ見て、もう一度言う。

 

「この子から離れるなら、私の後ろをあげる」

 

 妖の鼻が動いた。

 細い首が、由奈の肩越しに伸びてくる。

 私は動かずに待った。

 

「……おまえ」

 

 湿った声が低くなる。

 

「極上だな」

 

 ずいぶんな褒められ方だった。

 嬉しくはない。

 

「娘の姿で、何を飼っている?」

「それ、今の話に必要?」

「名は?」

「教えない」

 

 妖が喉を鳴らした。

 

「ひかり」

 

 私は返事をしなかった。

 

「この娘が呼んでおった。ひかり。ひかり。助けてほしいと、おまえを見て」

「聞こえてたなら、訊かなくてもいいのに。性格悪いね」

「その先だ。ひかりの前につく名は、何だ?」

 

 私は黙って、続きを待った。

 妖の目が細まった。

 

「ただの人ではない。ただの妖でもない。おまえの中には――」

「はやく由奈から離れて」

 

 同じ調子で、言い直した。

 答える必要はない。知っていることも、知らないことも。

 

 妖はしばらく私を嗅いでいた。

 やがて、肩を掴んでいた指が一本ずつ開く。

 黒い髪の束が、由奈の背中から持ち上がった。

 

「背を向けろ」

 

 妖が言った。

 

「手は下げておけ。こちらを見るな」

「注文、多くない? もてないでしょ」

 

 私は笑い、それでも言われたとおりにした。

 由奈の椅子の横へ移り、窓に向かって立った。妖に背中を向け、翼を畳み、両手を身体の脇へ下ろす。

 窓の向こうは校舎の陰になっていた。薄暗いガラスに、自分の白い袖と、その後ろの由奈の姿が重なる。面の内側から、そちらへ目だけを向けた。

 すぐには何も触れてこなかった。

 机の下で髪の擦れる音がする。右へ回り、左へ戻る。窓に映った白い顔が、私の手元を覗いていた。

 私は指を開いてみせた。

 何も持っていない。

 

 今は、まだ。

 

「やっぱり、やめる? 怖くなった?」

 

 訊くと、髪の音が止まった。

 

「戯言を。この娘に戻ってもよいのか」

「そんな、後ろ髪を引かれるようなこと言わないで」

 

 私は軽く笑った。

 

「ちゃんと代わってあげるから。こっちに来て」

 

 由奈を残したまま逃げる気はない。

 そこだけは嘘でなくて、向こうにも分かるのだろう。

 窓に映る口が開いた。私の背中と由奈の寝顔を見比べて、今度はゆっくり近づいてくる。

 

 肩へ、何かが触れた。

 視線を落とすと、黒い筋が白衣の上を這っていた。髪ではない。小さな指が何百本もつながり、互いの手首を握っている。

 見ていることを悟られる前に、目を窓へ戻した。

 

 冷たい。

 襟の内側を探り、うなじへ回ろうとする。

 気持ちは悪いけれど、まだ動かない。

 

「恐れぬのか」

 

 妖が囁いた。

 

「後ろが気にならぬのか、ひかり」

「気になるよ」

 

 私の背後では、由奈が眠っている。

 首の角度は苦しくないか。髪を引かれていないか。椅子から落ちないか。

 気にすることは、いくらでもあった。

 

「だから、早くして」

 

 窓に映った白い顔が、由奈の肩から離れて浮き上がる。

 けれど、二人の間にはまだ黒い筋が残っていた。細かなところまでは見えない。私は肩を這う指の動きに意識を向けた。

 まだ切れない。もう少し。

 背後で由奈が小さく呻いた。肩へ手を伸ばしたくなるのを堪えた。

 今動けば、またあの子の中へ逃げ込まれる。

 

 耳の後ろへ、冷たい息がかかった。

 

「よい匂いだ」

 

 肩の上の指が、いっせいに襟を掴んだ。

 ガラスの中で、白い顔が私の背に重なる。由奈との間を渡る黒い筋が、制服から離れて張った。

 

 そこだった。

 

 腰の左側で、指を閉じる。

 掌へ流した力が、鞘の形を取った。同時に右手の中へ柄が生まれる。刀身が重さを取り戻すのを待たず、私は右足を引いて身体を開いた。

 振り返った視界に、由奈の背中と、そこから離れた黒い筋を捉える。

 左手で鞘を引く。右手で抜く。

 現れた刃は、もう走っていた。

 

 童子切安綱。

 形を解いて潜ませていた、妖斬りの名刀。

 

 背後の気配が跳ねた。

 けれど、由奈へ戻るには遅い。

 振り向きざまの一閃が、白衣へ伸びる束の下を抜け、二人をつないだ一本だけを断った。

 

 手応えは、濡れた糸を切るより軽かった。

 

 悲鳴が上がる。

 由奈へ戻ろうとした黒髪を、刀の腹で払った。絡みついていた影が床から剥がれ、白い顔ごと教室の後ろへ転がっていく。

 左手に残る鞘を腰へ収め、由奈の肩を支えた。右手の切っ先は、白い顔へ向けておく。

 

「動かないで」

 

 机の脚に絡んだ妖が、口を開く。

 

「おまえ、ついてよいと」

「言ったっけ?」

 

 刃を下げずに答えた。

 妖の目が、私の面と切っ先を行き来する。

 

「半端ものとはいえ、その神力……おまえ、神でもあるのだろう」

 

 私は黙っていた。

 白い顔が、縋るように持ち上がる。

 

「神に二言があってよいのか。己の言葉を違えて、恥じぬのか」

 

 なるほど。だから、信じたのか。

 私は少し首を傾けた。

 

「私、半端ものだから。いいんだよ」

 

 妖の口が開いたまま止まった。

 都合のいいときだけ神様にされても困る。さっきまで、私が何なのかも分からなかったくせに。

 

 由奈の呼吸が深くなる。

 左肩に残っていた最後の窪みが、ゆっくり戻った。

 私はそこへ手を当てる。温かい。もう、何もつながっていない。

 

 妖の髪が、床を探った。一本が椅子の脚を伝い、由奈の上履きへ伸びる。

 その進路へ、刃先を置いた。

 触れてもいないのに、毛先が焦げるように丸まった。白い顔が、今度こそ刀の長さだけ後ろへ下がる。

 

「まだ、足りぬ」

「由奈はあなたのおやつじゃないよ」

 

 眠っている間まで怖がらせるつもりだった相手に、遠慮をする理由はない。

 私は鞄から滑りかけた由奈の手を机へ戻した。指先の震えも止まっていた。

 

 足元で、切れた黒い糸が縮れて消えた。

 

「この子の分は、おしまい」

 

 童子切の切っ先を、白い顔の眉間へ合わせる。

 

「次は、あなたが帰る番ね」

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