妖ばなしにひかりを灯す 作:名栗谷なぎさ
神様を見下ろして暮らしている。
態度の話ではない。窓からの景色の話だ。
私の家は、都心の小さな山に隣り合うタワーマンションの一部屋だ。自分の部屋から下を見ると、木々に囲まれた社殿の屋根が見える。
山の頂上より、人の寝室の方が高い。
そんな場所で暮らしているくせに、私はこの小山で、神様の隣で刀を拭いていた。
「ひかりさん。刃を見るときは、よそ見をしない」
「はい、先生」
社殿の脇の濡れ縁に布を敷き、童子切を横たえている。刀身を傾けると、灯りが切っ先へ滑った。
刃こぼれはない。あの黒い髪も残っていなかった。
「お友達は?」
「さっき、お風呂に入れたって連絡が。今日は眠れそうだって」
「それはよかった」
先生が、刀から離れたところへ湯呑みを置く。
白髪を後ろへ撫でつけた、着物姿の穏やかな人。湯呑みを包む手には、薄く皺が寄っていた。
火産霊。ほむすび先生。
日本神話に名を残す火の神で、このお社の主祭神。火災から人々を守る、火伏の神として祀られている。
私には、学校で教わらないことを教えてくれる存在だ。
「刀の形を消せば、汚れも消えると思っていたでしょう?」
「……ちょっとだけ」
「食器棚にしまったお皿は、きれいになりますか?」
「……なりませんね」
「きちんと手入れ、しましょうね」
先生は満足そうに頷いた。
「先生。今日の妖、何だったんでしょう」
私は白い顔と長い髪、由奈の後ろに取り憑いていた姿を話した。
先生は、髪を引かれたというところで目を細める。
「後神でしょうね。後ろの神と書いて、うしろがみ」
「神ってつくんだ」
「昔は、そう呼ばれるだけの働きをしていましたから」
布を動かす手を緩めた。
「あれ、神様だったんですか?」
「旅立つ人の後ろ髪を、そっと引く。忘れ物はないか、別れを告げる相手はいないか。もう一度、振り返らせる神でした」
「忘れ物の神様?」
「荷物だけではありませんよ。喧嘩したまま出てきた人が、戻って一言謝る。それが最後の機会になることもあるでしょう」
「後ろ髪を引かれる、って。そのままですね」
「ええ。それが語源です。残してきたものを思えば、足は鈍る。それでも振り返って、別れを済ませたら、あれは手を離したものです」
「今日のは、全然離す気なかったですよ」
先生は頷いた。
「引き留めるばかりで、送り出さなくなった。だから今は、人を怯えさせるだけの存在。それはもはや神ではなく、ただの妖です」
境内の木々が、小さく鳴った。
参拝する人の姿はもうない。葉の隙間に、ビルの窓明かりが並んでいた。
「どうして、そうなったんですか」
「名も役目も忘れられて、引き留めても気味悪がられるようになった。そこで、怖がる人だけは自分を忘れないと覚えてしまったのでしょう」
「忘れられたら、神様ってみんな、そうなるんですか?」
「いいえ。静かに眠るものも、新しい縁を結ぶものもいる。あれが、自らの意思で選んだやり方です」
布の端を折り返す。
忘れられたくない気持ちは分かる。けれど、そのために由奈が何晩も眠れなくなるのは、違う。
「本人は、今は暮らしやすいって言ってました」
「何が変わったのでしょうね」
「みんな、後ろを気にしてるって。スマホを見ながら」
先生の目が、私の鞄へ動く。中でスマートフォンが一度震えた。
私は取り出さなかった。油のついた指で画面を触りたくない。
それでも、誰からだろうとは思った。
「私たちはお年頃なので、自分がいないところで、何を言われてるか。気になるんですよね」
「井戸端の話が、家の中までついてくるようなものですか」
「家でも、お風呂でも。しかも、そこにいるのが何人なのか分からないんです」
先生が眉を寄せたので、私は続けた。
「一人に送った言葉が、知らない人にまで回ってたり。昔の写真が残ってたり。みんなには見えてるのに、自分だけ知らないかもしれない」
「確かめる方法は?」
「見えるところを、何度も見るくらいです。由奈も、動画のコメントを繰り返し読んでました。同じ目に遭った人がいると安心するけど、もっと怖い話も増えてるって」
「それで、また確かめる」
「はい。見ないと気になるし、見ると余計に気になる」
先生は湯呑みへ視線を落とした。
「では、あれは追いかけるだけでいいのですね。人の方が、振り返る習慣をつけてくれる」
髪を洗って目を閉じた由奈を思った。
画面から離れても、自分の知らないところで話が続いている気がする。そんなときに、背後へ誰かがいるという話を思い出す。
振り向いて誰もいなくても、安心するとは限らない。
見えない場所が、また一つ増えただけだ。
「監視されてるみたい。誰にって言えないけど」
「ひかりさんも、お友達が誰と何をしているのか、投稿を確かめることはありますか?」
「……たぶん。友達が誰と遊んでたかとか、自分には返事してないのに投稿してるとか」
相手にも、こちらの視線は見えない。
誰かが一方的に見張っているだけなら、まだ話は簡単なのかもしれない。
「それなら、あれの居場所は増えるばかりですね」
先生の言葉に、私は頷いた。
「しかも怖いと、人に教えたくなるんです。あの動画も、そうやって広まって」
「人に覚えていてもらうには、都合がいい」
「神様だった頃より、有名になってたりして」
言ってから、刀へ目を戻した。
あの妖は、自分が知られるほど誰かが眠れなくなることを、喜んでいるのだろうか。
白い口が嬉しそうに開いていた。答えは、もう見ていた。
「お友達からは、どうやって離したのですか」
「代わりに私に取り憑いていいよ、って誘いました。こっちへ移ろうとしたところで、由奈とのつながりを切ったんです」
「ひかりさんとしては、ご自身に取り憑かせるつもりは、初めからなかったのでしょう?」
「はい。それで、騙したなって怒られて。神でもあるくせに、約束を破っていいのか、神に二言があってはならないって。自分は、人を送り出す役目を捨てたのに。私には神様らしくしろって言うんですよ」
先生は少し寂しそうに笑った。
「自分は神の役目を捨てても、相手が神なら約束を守ると思っていたのでしょうね」
「都合いいですね」
「ひかりさんは何と答えたの?」
「私は半端ものだから、いいんだよって」
先生の笑みが薄くなった。
「ひかりさん。それは、使い慣れない方がいい言葉です」
「向こうが先に言ったんですよ」
「だからといって、ひかりさんまで引き受けなくていい」
そちらを注意されると思っていなくて、私は口を閉じた。
油を薄く延ばした刃に、自分の顔の一部が映っている。
「でも私、妖なのか神様なのか、説明できないです」
「ひかりさんは天狗でしょう。どちらの力もある。山で人をさらうものもいれば、山を守り、祀られるものもいる。同じ天狗でも、人との関わり方は違います」
先生は湯呑みを両手で包んだ。
「火事を起こす火も、夕飯を作る火も、火です。私のところには、燃えませんように、と願う人が来る。それで私が火でなくなるわけではない」
「同じ力でも、人との関わり方で変わるんですね」
「ええ。力の名前だけでは、その者の働きまでは分かりません」
私は背中を伸ばした。隠した翼の付け根が、少しむず痒い。
「じゃあ、半分ずつだから半端、ってわけでもないんですね」
「ええ。ひかりさんの事情は、また別です」
そこは曖昧にしてくれなかった。
私は刀を鞘に収め、布を畳む。
「……私、いつから天狗でしたっけ」
ふと口にした疑問。
先生の指が、湯呑みの縁で止まった。
「小さい頃から、こうだった気がするんです。でも、つい最近なった気もする」
ランドセルを背負った自分は思い出せる。
雨の日、傘を差すのが下手で靴下を濡らしたことも。
翼があったなら、飛んで帰ればよかったのに。
そう考えると、今度は、羽があることに驚いた感覚が浮かんだ。
「飛び方は分かるんです。風の捉え方とか。なのに、初めて飛んだ日は出てこなくて」
「思い出そうとすると、何か苦しい?」
「苦しくはないです。ただ、誰に教わったんだっけって」
先生を見る。
誰かと座った記憶が、ちらりと浮かんだ。
向かいにいたのは。
「……あれ」
何を思い出しかけたのか、もう分からない。
私は膝の上の鞘に触れた。硬い。隣には先生がいる。今のことなら、ちゃんと分かる。
「後神に、引っ張ってもらえばよかったのかな」
冗談のつもりだった。
先生は笑わなかった。
「今の後神は、思い出す手伝いはしてくれませんよ。思い出せないことを、いつまでも気にさせるだけです」
湯呑みが、そっと近くへ寄せられた。
「思い出せないところを、無理に埋めないで。思い出したことと、そうだったはずだと思ったことが、混ざってしまいますから」
何も忘れていない、とは言ってくれない。
私はお茶を一口飲んだ。
「訳ありですね、私」
「ええ」
「そこは否定してくれないんだ」
今度は先生も微笑んだ。
私は笑い返し、木々の向こうにある自宅を見上げた。
「先生。うちからお社を見下ろしてるの、不敬ですかね」
「それなら、この辺りにはずいぶん不敬な人間が多いですね」
「家賃の高いところほど」
「困りましたねえ」
ちっとも困っていない声だった。
そのとき、黒い羽が一本、鞘へ落ちた。
触れる前に、羽は浮いた。
鳥居の向こうから、木々の隙間から、同じ羽が集まってくる。私の鳶色とは違う、灯りを青く返す鴉の羽。
境内の中央で、漆黒が渦を巻いた。
落ち葉は一枚も動かない。羽だけが人の輪郭をなぞり、その内側から、こつりと踵の音がした。
細いヒール。足首を覗かせるグレーのタイトスカート。白いブラウスの袖口で、金色の時計が光る。
片手に開いた扇子が、最後の羽をすくった。緩く巻いた金髪が肩へ落ち、革のバッグの金具に触れる。
六本木のオフィス街で、仕事帰りに食事へ誘ってきそうなお姉さんが、そこに立っていた。
「ひかりちゃん。やっぱり、ここにいた」
私の後見人にして、八天狗の一角。
境内の空気を変えた大天狗は、ゆるく笑って扇子を揺らした。私に片目をつむってみせてから、先生へ向き直る。
扇子が閉じられ、金色の頭が軽く下がった。
「火産霊様、こんばんは。ちょっとこの子、お借りしてもよろしいですか?」