妖ばなしにひかりを灯す 作:名栗谷
「火産霊様、こんばんは。ちょっとこの子、お借りしてもよろしいですか?」
「本人に聞いてあげてください」
先生に言われ、相模様が私を見る。
閉じた扇子の先が、こちらへ向いた。
「ひかり。多摩川の件で、話があるの」
畳みかけていた布を、膝の上で止めた。
「ニュースになってる事件ですか」
「ええ」
川沿いの規制線と、橋の上から撮られた捜索の映像が浮かんだ。
三週間で十二人。別々の日に姿を消した人たちが、同じ川から見つかっている。
ニュースを見るたびに、また増えたのかと思っていた。
「そちら、相模様が調べていらっしゃるんですか」
「こちらでも話を集めていたところ。あなたには現地を見てもらいたいの」
「私が、ですか」
相模様は頷いて、私の隣に腰を下ろした。
グレーのタイトスカートの裾を整え、革のバッグを膝へ置く。白いブラウスの袖口で、金色の時計が光った。
仕事帰りのお姉さんにしか見えない。手にした扇子さえなければ、なおさらだ。
こちらは制服のままだった。
刀を拭くためにまくっていた袖を戻し、スカートの上の布を畳む。
手入れが済んだら、由奈のお見舞いにでも寄ろうと思っていた。お風呂には入れたと言っていたけれど、顔を見れば、もう少し安心できる気がしたから。
まだ約束はしていない。
しておけばよかった、と思いかけてやめた。
「何を見ればいいんでしょう」
できるだけ、いつも通りの声で尋ねた。
相模様が扇子をバッグの上へ置く。
「人の目では分からないものが、川辺に残っていないか。失踪に関わっている妖がいないか、確かめてほしい」
「妖がいるのは、分かってるんですか?」
「まだ。今のところ、これだと言えるものは見つかっていないわ」
私は、横に置いた童子切を見た。
由奈の肩には、はっきりと指が掛かっていた。顔も見えたし、話もできた。
今度は、何かがいるかどうかから調べるらしい。
「警察も、ずっと捜してますよね」
「ええ。けれど、こちらでしか見つけられないものがあるかもしれない。次に誰かがいなくなるまで、待ってはいられないでしょう」
「それは……そうですね」
言われれば、その通りだった。
ただ、ニュースに出ていた広い川と、自分一人を並べると、どうにも釣り合わない。
「多摩川って、結構長いですよね」
「全部歩けとは言わないわ。見てもらいたい場所は絞ってある」
少しだけ、肩の力が抜けた。
「火産霊様。こちらで、もう少しお時間をいただいても?」
「どうぞ。お茶を淹れますよ」
先生が立つと、相模様は軽く頭を下げた。
その間に、私は手入れの道具を袋へ収める。
相模伯耆。神奈川の大山を拠点とする、関東統括の大天狗。
後見人の火産霊先生が暮らしの面倒を見てくださるのに対し、相模様は私の上司だった。
どちらにも世話になっているけれど、相模様が訪ねてくると、たいてい何かすることが増える。
「大山にも、この事件のお願いが来るんですか」
湯呑みを受け取る相模様に聞いた。
「来るわよ。息子を帰してください、夫を見つけてくださいって。このところ、ほかのお社でも増えているそうよ」
「まだ、見つかってない人の……」
「ええ。捜索に加わった帰りに、お参りする人もいる。せめて無事なのか教えてほしい、とね」
私は畳んだ布の端を押さえた。
画面には、見つかった人の数が出る。
その数字に入っていない人にも、待っている家族がいる。
「そういうお願いなら、できるだけ叶えてあげたいですけど」
「けど?」
「見てきます、とは言えても、見つけてきますとは、ちょっと」
相模様は湯呑みを置いた。
「まだ何も分かっていないものね。まずは調べて。その先は、報告を聞いて決めるわ」
最初から全部任されるわけではないらしい。
頷くと、先生が私の湯呑みにもお茶を足してくれた。
「頼られるのも、大変ですね」
私が言うと、相模様は小さく笑った。
「頼られなくなる方が困るわ。お祈りだけ頂戴して、あとは知らない顔というわけにもいかないでしょう」
「神は人の敬ひによりて威を増し、人は神の徳によりて運を添ふ、ですね」
先生が湯を注ぎ終えた。
相模様が頷く。
「こちらも、御利益をお返ししないと」
「先生、今のは?」
「御成敗式目の第一条です。冒頭の言葉ですよ」
「歴史の、あれですか」
神様が人に敬われて力を増し、人は神様に助けてもらう。
それは知っているけれど、昔の法律にも書いてあるとは知らなかった。
授業では年号を覚えて、それで済ませてしまっていた。
「昔から忙しかったんですね、神様も」
「そうでしょうねえ」
先生はおかしそうに笑った。
「願いを叶えるより、罰を当てる方をお好みになるお方もいますけどね」
相模様の扇子が開いた。
私は危うく頷きそうになった。
「ひかり。今、何か言いかけた?」
「いえ。何も」
人ならざるものは、願われることでも、畏れられることでも存在を強くする。
助けてくれると信じられるか、怒らせたら恐ろしいと信じられるか。そのどちらを選ぶかで、天狗の性格もずいぶん違う。
京都の愛宕太郎坊様などは――やめておこう。考えたことまで顔に出そうだ。
八天狗の筆頭に、平の木の葉天狗が意見などない。
大天狗、鴉天狗、木の葉天狗。この順番は、よほどのことがあってもひっくり返らない。
相模様には、会社の役員、部長や課長、平社員だと思えばいいと言われている。
各地の担当は支社のようなもので、そこで働く私たちは、信仰を集める営業部員らしい。
もっとも、会社の「社」ではなく、神社の「社」だけれど。
高校生の私には、会社のことはよく分からない。
気がつけば配属されていて、上司に呼ばれると仕事が来る。そのあたりは、たぶん似ているのだろう。
「ここを見てちょうだい」
相模様が、スマートフォンを私へ向けた。
地図の川沿いに、いくつか印がついている。
「見つかった場所ですか?」
「それもあるけれど、今見せているのは、いなくなる前に姿を見られた場所。まずは、この近くから」
指で示された印を拡大した。
川の反対側にも、別の印がある。
「こちらは、相模様の管轄ですよね」
「ええ。神奈川側も調べて構わないわ」
「ありがとうございます。それなら、途中で向こうへ行っても大丈夫ですね」
東京は私の担当だが、太郎坊様の直轄地でもある。
その東京を直接監督する相模様から、川の両側を調べる許可が出た。これで、縄張りのことで叱られる心配はない。
天狗同士の争いは原則禁止。よその担当への無断干渉も御法度。うっかり境を越えて、仕事を増やしたくはなかった。
「前に東京を担当していた方も、こういうことをしてたんですか」
相模様の指が、画面の上で止まった。
「こういうこと?」
「事件を調べたり、人を捜したり。私より、慣れてたんでしょうね」
どうすればよかったのか、前の人のやり方が分かれば少しは助かる。
それくらいのつもりで聞いた。
相模様は湯呑みを持ち上げた。
「ひかりは、できることからやればいいのよ」
「はい。でも、前の方は――」
「困ったら私に連絡して。比べなくていいわ」
優しい声だった。
そのまま、画面が川辺の写真へ変わる。
前の人の話は、それで終わってしまった。
私は一度だけ先生を見た。先生はお茶を飲んでいた。
聞き方が悪かったのだろうか。
「ここ、岸まで下りられるのよ」
相模様の声に、写真へ目を戻す。
草の生えた斜面と、その先の水面。これといっておかしなところは見つからない。
「何もいなかったら、どうしましょう」
「それも報告して。あなたが見て何もなかった場所と、まだ誰も見ていない場所では違うもの」
「……なるほど」
それなら、無駄足になっても怒られずには済みそうだった。
写真から、地図へ戻す。虎ノ門からは少し遠い。
けれど、場所が決まって、見て帰ってくればいいと言われると、先ほどよりは引き受けやすくなっていた。
「分かりました。では、こちらを見てきますね」
「お願い。資料は送るわ」
返事をしてから、由奈とのやり取りを開いた。
お風呂に入れた、というメッセージの下に、短く返す。
『よかった。今日はゆっくり休んでね。また明日』
会いに行くと約束していなくてよかった。
そう思い直して、スマートフォンを鞄へしまった。
横に置いた童子切を、両手で持ち上げる。
鞘に収まった重みを確かめてから力を緩めると、刀の輪郭が薄れ、手の中から消えた。
手入れの道具を片づけ、制服の袖口を留め直す。
「先生、お茶、ごちそうさまでした」
「気をつけて、ひかりさん」
「頼んだわよ、ひかり」
相模様にも頭を下げ、鞄を肩へ掛けた。
石段を下りると、車の音が近くなる。ガラス張りのビルに、制服姿の自分が映った。
刀も翼も見えない。少し帰りの遅い、普通の女子高生だった。
日比谷線の駅へ向かいながら、届いた資料を開く。
画面いっぱいに表示された川の写真を閉じ、先に乗り換えを調べた。
多摩川まで、どう行けばいいのか。
今すぐ分かりそうなことから、片づけることにした。