妖ばなしにひかりを灯す 作:名栗谷
上から見れば、何か分かると思った。
今のところ分かったのは、多摩川が広いということだけだった。
橋の灯りが、水面で細く揺れている。
その光を避け、私は川沿いの闇を飛んでいた。鳶色の翼へ風を受けると、身体が少し持ち上がる。白い袖が膨らみ、緋の袴の裾が脚を叩いた。
電車を乗り継ぎ、川辺へ出て、人目のないところで姿を変えた。今はもう、虎ノ門学園の制服ではない。
嘴のある面の内側で、息を吐く。
相模様に指定された場所は、さっき一度通り過ぎた。
戻って、今度は少し低く飛ぶ。草が倒れているところも、岸が暗く窪んでいるところもある。けれど、人が歩けば草は倒れるし、窪みには影ができる。
全部を怪しんでいたら、夜が明けてしまいそう。
笑い声が流されてきた。
岸の方へ顔を向ける。
橋から少し離れた河川敷に、人が集まっていた。四人。その足元に、もう一人いる。
一人が脚を振った。
地面に丸まっていた人の身体が、横へずれた。
私は翼を傾けた。
「立てよ。聞いてんのか」
風に混じって声が届く。
水際に下りる道を確かめたところで、川の中に、別の動きが見えた。
黒い水面が割れ、小さな頭が出て、きらりと、かすかに光を反射する。
岸へ両手を掛けた影が、音も立てずに這い上がった。
人ではない。
濡れた背が灯りを返した。
私が高度を落とすより先に、その影は草の間を駆け抜けた。
「何だ、おま――」
一番川に近かった男が、横へ吹き飛んだ。
隣の男が振り返る。その腕を影が掴み、別の男へ投げつける。二人がもつれ、残った一人は逃げようとして足を払われた。
地面に落ちる音が、続けてした。
私は二度、大きく羽ばたいた。
草が伏せ、土埃が舞う。
「そこまで」
影が、倒れた男へ伸ばしていた手を止めた。
私はその前へ降りる。
小さい。
子供ほどの背丈なのに、顔には深い皺が刻まれていた。薄い頭髪、突き出た口、ずり落ちかけた眼鏡。
そして、全身が緑色だった。
喉の奥が、きゅっと縮んだ。
塗った色ではない。全身の濡れた皮膚が呼吸に合わせて動き、水掻きのある指が土を掻いている。
人間に似た顔なのに、人間ではない。そのことが、近くで見るほど怖かった。
由奈の肩にいた、あの白い顔も気持ち悪かった。今、目の前にいるものは、あれとはまた違う生々しさがある。
できれば、近寄りたくない。
「……何してるの」
「見て分からんか」
「分からない」
自分の声が、思いのほか普通で驚いた。
逃げたいと思っているのに、相手の手が届く距離を測って、ちゃんと話しかけている。脚も竦まない。
私は、昔からこんな性格だっただろうか。
怖がっている自分と、平気な顔で応対する自分が、どうもうまくつながらない。
目の前の妖が首をひねった拍子に、背負い物のような甲羅が見えた。
頭の上には浅い皿。そこに残った水が、街灯を反射している。
河童だ。
眼鏡をかけた、全裸の中年の河童。
殴られていた青年も、地面に倒れたまま動かない。
顔を確かめようとすると、河童が言った。
「全員、気絶しとる。そっちの一人は、おいらが来る前からだ」
そう言って、倒した男へまた手を伸ばす。
「まだ何かする気?」
「これからだ。こいつらはおいらの獲物だぞ。横取りはさせん」
私は一歩、河童と男の間へ入った。
小さな目が面から翼へ動き、白い袖で止まった。緋の袴へ視線を下ろして、眉を寄せる。
「木の葉天狗か? にしても、なんだその格好は。人間の娘の真似事か」
天狗の翼に、巫女装束。やはり、見慣れた組み合わせではないらしい。
私はその問いには答えず、倒れた男の前に立った。
「横取りじゃないよ。でも、手を出すのをやめて」
「なら、なおさら引っ込んでろ」
水掻きのある手が伸びてくる。
私は左手に童子切を呼び出した。
鞘ごと立てた刀で腕を外へ払い、そのまま両手で握って胴へ打ち込む。
鈍い手応えがした。
河童は背中から転がり、甲羅を下にして止まった。
「ぐえ、てめ……」
なお起き上がろうとする前へ、抜いた刃を向ける。
河童の口が開いた。
眼鏡の奥の目が、刀身を追って動かなくなる。
「ま、待ってくれ!」
さっきまでより、高い声だった。
「おい。それ、妖斬りの刀か……?」
河童がぶるりと震えた。
次の瞬間、股の間から尿らしき液体が漏れ、足元の土を濡らした。
失禁ってやつだ。
私は刃を向けたまま、一歩下がった。
もう何歩も、下がりたくなった。
「……ちょっと」
「木の葉天狗の分際で、なんでそんな刀振り回してんだよ! そいつが斬るのは鬼だろ!? おいらみたいな愛らしい河童に向けんな!」
大声を出す元気はあるらしい。
刀の向きを少し変えると、河童は「ひえっ」という情けない声とともに、両手で頭の皿を覆った。
鬼、妖狐、天狗、河童。
四大妖怪に数えられていても、強さまで同じではない。最強の鬼に対して、河童は一番下。木の葉天狗ならどうにかなると思ったのかも。
それにしても、これは困る。
「斬らないから。立って」
「さ、先にしまえ!」
「もう、あの人たちに手を出さない?」
河童は何度も頷いた。
私は刃を鞘へ収めた。ただし、手からは離さない。
倒れた男たちの間を回った。
殴られていた青年を含め、五人とも息はしていた。ただ、呼びかけても返事はない。
動かさず、その場から警察へ電話をかける。近くの橋と河川敷の位置、複数人が倒れていることを伝え、救急車も必要そうだと話した。
説明している間、河童は刀から目を離さなかった。
「あなたは、こっち」
電話を終え、河童を少し離れた草地へ歩かせる。
警察の来る道と倒れた男たちを避け、私たち二人だけを囲うように人払いの結界を張った。
これで人が来ても、こちらへは足を向けない。
「さて」
河童は眼鏡を押し上げた。
何事もなかったような顔をしている。
私は、さっきまで河童が寝転がっていた場所を見ないようにした。
「おいらは、かわわらべ、さらたろうだ。河童と書いて、かわわらべ。皿に太郎で皿太郎。覚えとけ」
河童皿太郎。
ずいぶん丁寧に教えてくれたが、何とも適当な名前だなと思った。私も、人のことは言えないけど。
「おまえは?」
「この川のことで、聞きたいことがあるの」
名乗るつもりはなかった。
対する河童は、不満そうに鼻を鳴らした。
そのまま、もう一度鼻をひくつかせる。今度は確かめるように、こちらへ首を伸ばした。
「おまえ、本当に天狗か? いろんな匂いが混じってるが」
私は鞘を持ち直した。
「何の匂い?」
「天狗だけじゃない。人間のようでもあるし、もっと――」
「それ、今の話に関係ある?」
河童の視線が鞘へ落ちた。
伸ばしていた首が引っ込む。
私も、自分が何なのか説明するために来たわけではない。
「あの人たちに、何をするつもりだったの」
「尻子玉を取る」
即答だった。
「助けたんじゃないんだ」
「一人を袋叩きにするような連中だぞ。少しくらい構わんだろう」
「少しって、どのくらい?」
「一人につき一つ。全員分だ」
「殴られてた人のも?」
「五人いるんだから、五つだろう」
数を教えてほしかったわけではない。
尻子玉を抜かれれば死ぬ。運良く死ななくても、正気を失うそうだ。
身体が生きていても、それまでの暮らしも人との関係も失ってしまう。社会的には死ぬ、ということなのだろう。
どちらにしても、少しでは済まない。
「誰の分も駄目。あの人たちが何をしてても、それで殺していいことにはならない」
「殺すとは限らんだろう」
「正気がなくなればいい、って話でもないよ」
河童は口を尖らせた。
「最近、この川で人が亡くなってるの。知ってる?」
「知っとる」
「あなたが引きずり込んだ?」
「違う!」
河童が背を伸ばした。
「おいらは川に引きずり込まん。溺れさせてもいない」
「今、襲ってたのに?」
「陸でやっただろうが」
「場所の問題?」
「主様との約束だ。人を川へ引きずり込んで殺すな、川を汚すなと。おいらは守っとる」
主様。
私は川の方へ目を向けた。
橋の灯りが、さっきと同じように揺れていた。
「この川の主?」
「ほかにどこの主がおる」
「じゃあ、その主様は、何が起きてるか知ってるの?」
河童の口が閉じた。
眼鏡のつるに触り、甲羅を揺すって座り直す。
「聞くばかりだな」
「調べに来たんだもの」
「ただで教える義理はないぞ」
さっきまで両手で頭を守っていた相手とは思えない。
刀を見せれば話すかもしれないが、もう一度あれを失禁されるのは嫌だった。
それに、何が欲しいか先に言ってくれるなら、その方がいい。
人ならざるものとの間に、借りを残してはいけない。先生にも相模様にも、そう教えられていた。
お礼はいつか、何かで。人間同士ならそれで済むことも、相手が妖では、後から何を要求されるか分からない。
だから、何をしてもらい、何を渡せば貸し借りがなくなるのか、先に決めておく。
「何を渡せば話してくれる?」
「服」
私は河童を見た。
見て、すぐに顔へ視線を戻した。
「着る気はあるんだ」
「合うものがないんだ。丈が合えば背中が入らん。背中が入れば裾を踏む。水にも入る。すぐ破れるものは駄目だ」
甲羅を叩いて、注文を並べる。
背丈だけなら、子供用だろう。でも、甲羅ごと包む服など売っているだろうか。
「何か、いいのあるかな」
「背中も、頭も隠せるやつだぞ。甲羅と皿が見えてたら、人間に紛れられん」
「人間に紛れて、どうするの?」
「エロ本を買いに行く」
私は黙った。
「この前、河原に落ちとってな。拾って読んだら、続きが気になった」
なんだ、こいつ。
主様との約束だの何だの言っていた口で、実に堂々と言う。
そもそも、令和の時代にエロ本なんて、あるんだろうか。見たことない。
「……本は、自分で買ってね」
「分かっとる。だから服が要るんだ」
「頭は帽子でもいい? 服だけじゃ、全部は隠れないかもしれない」
「隠れればいい」
「今は、どっちも持ってないよ」
「なら、用意してから出直せ」
私は少し考えたが、条件に合う服は思い浮かばなかった。
相模様なら、何かご存じかもしれない。仕事で必要なものなのだから、相談してもいいはずだ。
「相模様に相談してみるね」
河童の指が止まった。
「相模?」
「相模伯耆様。相模大山の大天狗」
背筋が伸びた。
今度はゆっくりと。
「……おまえ、あのお方に言われて来たのか」
「うん。だから、服を買っていいかも聞いてみる」
「そうか。なら、服は後でいい」
「そう?」
「後でいいから、座れ。話くらい聞いていけ」
急に親切になった。
「じゃあ、甲羅の入る服を一着と、皿を隠せる帽子を一つ。今日、川のことを教えてもらうお礼は、それでいい?」
「ああ。それでいい」
そこは、きちんと確かめた。
座れと言われた場所は湿っていたので、私は立ったまま聞くことにした。
「主様は、古い蛇神だ」
河童が川へ顎を向けた。
「川石みたいな鱗でな。胴が動くと、向こう岸まで水が盛り上がった。昔は、主様に叱られると思えば、大抵の奴は大人しくした」
「あなたも?」
「おいらは聞き分けがいい」
刀を向けられるまでのことは、忘れたらしい。
「昔は、ってことは。今は違うの?」
河童は甲羅の縁を掻いた。
「川が変わったからな」
遠くでサイレンが聞こえた。
橋の方に赤い光が現れる。私は男たちのいる場所を確かめ、こちらへ戻った。
「昔は、ここも水の通り道だった」
河童が、私の立つ地面を指した。
「水が増えれば溢れる。土を運ぶ。水が引けば草が生えて、虫も魚も集まる。人間の畑にも、いい土が入った」
「でも、家も流されるでしょう」
「流されたさ。だから恐れた。でも、恵みもあったから、礼もした。あの上に、主様の祠があったんだ」
川から土手へ、短い指が動く。
今は道と街灯しか見えなかった。
「工事のときにどかした。それっきりだ。岸を固めて、水を閉じ込めて。人間は、もう安心だと言った」
河童の声から、さっきまでの威勢が消えていた。
「水が来なくなったと喜んで、水が運んでいたものまで来なくなったことは、気にもしなかった」
私は川を見た。
あの水が家の中へ入ってくるのは、やはり困ると思う。
けれど、土手の向こうで暮らす私と、川の中で暮らす河童では、見えているものが違うのだろう。
「工事をしない方がよかったの?」
「おいらに聞くな。したのは人間だ」
河童は膝を抱えた。
「ただ、安心を買った分だけ、豊かさを手放したこともあるだろう。それを全部、よくなったと言われてもな」
私は返事を探したが、うまく見つからなかった。
学校で習った治水の話と、裸の河童の話を、すぐには並べられない。
「主様も、祈る人が減ったのね」
「堤防が守ってくれるんだそうだ。主様に何を頼む」
河童の眼鏡に、向こう岸の灯りが映った。
「昔みたいには動けん。それでも川を見ておられる。おいらたちも、約束は守っとる」
「人を襲ってはいるけど」
「……川には引き込んどらん」
そこだけは譲らないらしい。
「けれど、よそから来る奴は別だ。主様に世話になったこともない。昔の川も知らん。弱っていると見れば、好きにする」
「そういう妖が、今いるの?」
「いる。川底の流れが鈍くなったところに、妙なものが溜まる。魚も寄らん。古くからいる連中は避ける。その空いたところへ、新しいのが入る」
私はスマートフォンを取り出した。
地図を開いて河童へ見せる。
「どのあたり?」
濡れた指が伸びてきたので、端末を引いた。
「言って。私が動かすから」
河童は不満そうな顔をしたが、橋の位置を確かめ、少し上流を示した。
「ここから、水の出る口が見えるだろう。その下だ」
「何を見たの?」
「見とらん。声を聞いた」
私は地図に印をつけた。
「水の中から、助けてくれとな。おいらが通り過ぎようとしたら、今度は名を呼びおった」
「知ってる相手?」
「声は、おふくろだった」
河童の顔を見た。
「お母さん?」
「河童が全員、泥から生えると思っとるのか」
「そういう意味じゃなくて」
河童は川へ目を戻した。
「もうおらん。とっくの昔に」
私は画面へ置いていた指を止めた。
「だから、近づかなかったの?」
「おふくろが、水の中で助けを求めるか。おいらより泳ぎが達者だったぞ」
河童は鼻を鳴らした。
けれど、さっき示した場所を、もう見ようとはしなかった。
遠くで人の声がした。
河川敷に下りてきた人たちが、倒れた男の周りに集まっている。救急隊の姿を確かめてから、私はスマートフォンに短く書き足した。
死んだ母親の声。水の中から呼ぶ。
河童がそう言った、ということも添える。
「それが、人を引きずり込んでると思う?」
「知らん。引きずり込むところを見たわけじゃない」
そこは、はっきりしていた。
私にも、河童の話が全部本当かどうかは分からない。
それでも、相模様に報告することはできた。
「主様に会うには、どうしたらいい?」
「今夜は無理だ。お目通りが叶うかは、おいらが聞いておく」
「それも、服と帽子のお礼に含めていい?」
「……分かった。忘れるなよ」
私は頷いた。
「それから、あの五人の尻子玉は諦めて。あとで追いかけるのもなし」
「なら、きゅうりを持ってこい」
「服と帽子は?」
「それは色々教えてやった分だ。あの五人の尻子玉を見逃してやる分は、別だろう」
河童は眼鏡を押し上げた。
こういうところだけ、妙にきっちりしている。
「何本?」
「百本」
「……百本?」
「五人分を諦めるんだぞ」
きゅうり百本。袋に入れて持つには、ずいぶん重い。
けれど、その百本と引き換えになるのは、五人分の命だった。
この河童にとっては、取り替えてもいいものなのだ。
食べ物の値段を相談するような口調に、さっき緑色の姿を見たときとは違う寒気がした。
「一度、百本持ってくれば、あの五人にはもう手を出さない。後から足りないって言わない?」
「言わん。百本でいい」
「じゃあ、服一着と帽子一つ、きゅうり百本。それを渡したら、今回の貸し借りはなし。あの五人は、今から見逃してね」
「しなびたのは駄目だぞ」
「約束は?」
「分かった。あの五人分は見逃してやる」
やっと頷いた河童を、私はもう一度見た。
服と帽子と、きゅうり百本。調査に来たはずが、買い物まで増えてしまった。
それでも、いつか分からない日に恩を返せと言われるよりはいい。
この川を調べるなら、また話を聞きに来ることもあるだろう。付き合いが続く相手なら、なおさら、前の借りは前の借りで返しておく。
私は刀を消し、人払いの結界を解く前に河童を水際まで見送った。
小さな甲羅が沈んでいく。
消えかけた頭が、もう一度浮いた。
「頭の分も忘れるなよ」
「覚えてる」
今度こそ、水面が閉じた。
人払いの結界を解き、橋の灯りから離れて翼を広げる。
来たときより少しだけ、川の暗いところが気になった。
でも、今夜は声のする場所まで一人で確かめに行かない。
調べたことを持ち帰る。
ついでに、河童の服と帽子ときゅうりを誰が買うのかも聞く。
私は川に背を向け、街の灯りへ飛んだ。