妖ばなしにひかりを灯す 作:名栗谷
きゅうりは、箱で待っていた。
放課後、先生のお社へ寄ると、社殿の脇に二箱積んであった。隣には小さな紙袋と、荷物を載せる折り畳みのカート。
私の通学鞄まで載せたら、旅行にでも行くような量になる。
「相模様から、届いていますよ」
先生が紙袋を差し出してくれた。
お礼を言い、中を覗く。
紺色の布が入っていた。
昨夜のうちに、相模様には電話で報告を済ませていた。
河童のこと。弱った主のこと。亡くなった母親の声が、水の中から聞こえたという話。
最後に服ときゅうりの相談をすると、相模様は少し黙ってから、手配しておくと言ってくださった。
だから、この中には甲羅の入る服がある。
あるはずだった。
「……先生」
私は袋から取り出したものを、両手で広げた。
紺色のスクール水着だった。
「これ、私のじゃないですよね?」
先生が目を丸くする。
「違いますよ。相模様が通販サイトで買われた、新品です」
「ですよね」
胸元に付いた紙のタグを確かめる。透明な袋も、切り離されていない値札もある。
私の家から持ってきたものではない。
よかった。
よかった、のだろうか。
相模大山の大天狗が、通販サイトで女児用のスクール水着を探している。
サイズを比べ、色を選び、買い物かごへ入れている。
そこまで考えて、さっきとは別の意味で心配になった。
「相模様、本当にこれを?」
「よく伸びますし、水にも強いそうです。背中の大きく開いていないものを選んだと」
確かに、条件には合っている。
袋の底には、お揃いの水泳帽まで入っていた。
「そのまま、お渡しすればいいんですよね」
「ひかりさんが着る必要はありませんよ」
「分かってます」
先生は、どうしてそこで笑うのだろう。
私は水着を畳み、なるべく早く袋へ戻した。
「それより、主様にも何か持っていった方がいいですか。お話を聞くなら、ご挨拶の品とか」
「その件は、相模様から連絡がありました。神奈川側の部下の方が伺うそうです。お供えも、そちらで用意すると」
「あ、そうなんですね」
少しほっとした。
箱二つに加えて、神様のお土産まで持つのかと思っていた。
「河童には、取り次いでもらうようお願いしてあるんですけど」
「相模様にお伝えしましたか?」
「はい」
「それなら、先方にも話は届いているでしょう。ひかりさんからも、今日、誰が伺うのか伝えてあげてください」
先生と一緒に、箱をカートへ載せた。
持ち上げたときだけ、きゅうりが百本あることを腕が理解した。
「これ、本当に百本入ってます?」
「相模様が、数は確認したそうですよ」
水着を選び、きゅうりを数える大天狗。
私のためにしてくださったことなので、何も言えない。
箱を紐で固定していると、スマートフォンが震えた。
相模様からだった。
主への聞き取りは、もう済んだらしい。
『主も、河童が示した場所の異変には気づいているそうよ。ただ、何がいるかまでは分からない。今日は岸から確かめて。水へ入らず、異変があれば連絡を』
地図に付けた印を開く。
昨夜は河童の話だけだった場所に、主の証言が重なった。
「今日は、主様のところではなくて、こちらを見てきます」
先生へ画面を見せると、静かに頷いてくれた。
「気をつけて。荷物も、人も」
「人も?」
「ひかりさんも、ですよ」
私は少し笑って、はいと答えた。
*
「数が足りん」
「食べたからでしょう」
河童は、口を動かしたまま私を見た。
右手には半分になったきゅうり。左手にも一本。足元には、開いた箱が二つある。
「食べながら数えないで。一度で済ませて」
電車の乗り換えでカートを引き回し、ようやく川へ着いた頃には、日が低くなっていた。
人のいる遊歩道から離れ、人払いの結界を張って荷物を下ろす。河童は川から顔を出し、私より先に箱の中を覗いた。
昨夜と変わらず、裸だった。
「服も持ってきたよ」
紙袋を差し出す。
河童は指を舐めようとしたので、私は袋を少し遠ざけた。
「先に、手を拭いて」
太腿で拭いた。
見なかったことにした。
紺色の布を引っ張り出した河童は、広げたり裏返したりして眺めた。
「ずいぶん小さいな」
「伸びるって。相模様が選んでくださったの」
「ほう」
布の扱いが、少し丁寧になった。
私は背を向ける。
「着てみて。終わったら言って」
背後で、布の擦れる音がした。
途中で引っかかったらしい呻き声がしたが、手伝うとは言わなかった。
「おい、頭のもよこせ」
振り向かずに水泳帽を渡す。
しばらくして、よし、と声がした。
振り返った。
緑色の中年が、スクール水着を着ていた。
小柄な身体に、紺色の布がよく伸びている。背中の甲羅も包まれ、頭の皿は水泳帽に隠れた。
眼鏡だけは、そのままだった。
「どうだ」
私は答えを探した。
河童が、得意そうに横を向く。
「背中も入ったぞ」
「……入ったね」
「これなら、店にも行けるな」
甲羅も皿も見えない。
約束した条件は、確かに満たしていた。
ただ、昨夜とは違う種類の、見てはいけないものになった気がする。
「外へ行くときは、その格好で大声を出したり、人を追いかけたりしないでね」
「本を買うだけだ。騒ぐか」
そういう問題だけではない気もした。
けれど、河童は満足している。私は服の感想をそれ以上聞かないことにした。
「服一着と帽子一つ。それから、きゅうり百本。受け取ったね」
「ああ」
「昨日の五人には、もう手を出さない」
「分かっとる。あいつらの尻子玉は見逃してやる」
箱を引き寄せ、河童はまた一本取った。
ひとまず、こちらの支払いは済んだ。
「主様の件も、聞いてくれた?」
「相模大山から来ると仰ってたぞ。おまえじゃなかったのか」
「相模様の部下の方が行ってくださったの。もう、お話を聞けたって」
「なら、取り次ぎの分も済みだな」
「うん。ありがとう」
私が頷くと、河童は水泳帽の縁を直した。
「主様は、何と?」
「あなたが声を聞いたところ、主様もおかしいと思ってるって。今日は、そこを見てくる」
きゅうりを噛む音が止まった。
「今からか」
「岸からだけ。場所、もう少し詳しく教えて。橋の先の、水が出るところだよね」
昨夜の地図を開く。
河童は覗き込んでから、実際の川へ目を向けた。
「それだと、一つ手前だ。穴が二つ並んでいる方じゃない。もっと先に、半分草で隠れたのがある」
「道から見える?」
「見える。そこまでは、一緒に行ってやる」
私は河童を見た。
河童も私を見た。
「追加のきゅうり?」
「情報の場所を間違えられたら、おいらが嘘を教えたことになるだろうが」
「じゃあ、さっきの分で」
「しつこいな。分かっとる」
服を着た途端、少し働く気になったのかもしれない。
河童はきゅうりの箱を、川岸の草の奥へ引きずっていった。
私は空になったカートを畳み、通学鞄と一緒に岸の茂みへ置く。
制服の胸元に手を当て、抑えていた力を緩めた。
袖が白く変わり、緋の袴が脚を覆う。翼を背へ畳み、面が顔を隠すと、河童が小さく鼻を鳴らした。
「やっぱり、妙な格好だ」
その格好で言われたくはなかった。
荷物の周囲だけに人払いの結界を残し、私たちは水際を歩き出した。
河童は遊歩道へ上がらず、草と水の間の細い場所を進む。私は数歩後ろをついていく。
水泳帽が、草の上を揺れていた。
「その声、言葉までは覚えてる?」
「助けてくれ。それから、おいらの名だ」
「何度も?」
「覚えとらん」
昨夜より返事が短かった。
私も質問をやめ、足元へ目を落とす。
靴の底が湿った土を踏んだ。
草の隙間に、泥をかぶったペットボトルが挟まっている。折れた枝。片方だけの手袋。
川辺には、何でも流れてくる。
そう思おうとしたとき、河童が止まった。
「あれだ」
少し先で、岸がコンクリートに変わっていた。
草に覆われた排水口がある。口の下は浅くえぐれ、その奥だけ、水が黒く溜まって見えた。
川の流れはすぐ外を通っているのに、そこに浮いた葉は動かない。
「昨日は、どこにいたの?」
「あの石の向こうを泳いでいた」
河童が指したのは、私たちの足元から数歩ほど先だった。
「今日は、聞こえないね」
答えがなかった。
河童を見ると、排水口ではなく、私の方を見ていた。
「……今、何か言ったか」
「聞こえないね、って」
「その前だ」
私は首を振った。
河童が、残っていたきゅうりを握り直す。
「おいらは、ここまでだ。場所は教えたぞ」
「うん。戻ってていいよ」
引き止める理由はなかった。
河童は一度だけ水面を見て、来た道を引き返した。
もう、帽子の具合を気にすることもなかった。
私は岸の乾いたところへ足を置き直した。
川には入らない。声がしても、近づかない。
そう確認して、スマートフォンを取り出す。
排水口の写真を一枚。
地図に現在地を記録する。
相模様へのメッセージに、到着しました、と打って送った。
「ひかり」
指が止まった。
小さな声だった。
水の流れる音に紛れて、聞き逃してもおかしくないくらいの。
それなのに、はっきり聞こえた。
顔を上げた。
排水口は暗い。草も、コンクリートも動かない。
河童には、名乗っていない。
そのことを考えるより先に、胸の奥が痛くなった。
知っている。
この声を、私は知っている。
誰だっただろう。
「ひかり。こっちへ来ておくんなんし」
今度は少し、近かった。
ずっと聞きたかった声のような気がした。
なのに顔が浮かばない。名前も出てこない。
どうして思い出せないのか、それが急に、たまらなく悲しかった。
唇が動きかけた。
返事をするな、と頭のどこかで思った。
黒い水面に、白いものが浮かんでいた。
指だった。
岸の縁へ一本、また一本と掛かり、ゆっくり曲がる。
私は、その手より奥を見ようとしていた。
声の主の顔を、確かめたかった。
握ったままのスマートフォンが震えた。
画面には、相模様からの着信。
水の中の声が、優しく言った。
「出ることはありんせん。わっちを見ておくんなんし」