妖ばなしにひかりを灯す   作:名栗谷

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第6話 河辺に住まうもの・参

 

 きゅうりは、箱で待っていた。

 

 放課後、先生のお社へ寄ると、社殿の脇に二箱積んであった。隣には小さな紙袋と、荷物を載せる折り畳みのカート。

 私の通学鞄まで載せたら、旅行にでも行くような量になる。

 

「相模様から、届いていますよ」

 

 先生が紙袋を差し出してくれた。

 お礼を言い、中を覗く。

 紺色の布が入っていた。

 

 昨夜のうちに、相模様には電話で報告を済ませていた。

 河童のこと。弱った主のこと。亡くなった母親の声が、水の中から聞こえたという話。

 最後に服ときゅうりの相談をすると、相模様は少し黙ってから、手配しておくと言ってくださった。

 だから、この中には甲羅の入る服がある。

 

 あるはずだった。

 

「……先生」

 

 私は袋から取り出したものを、両手で広げた。

 紺色のスクール水着だった。

 

「これ、私のじゃないですよね?」

 

 先生が目を丸くする。

 

「違いますよ。相模様が通販サイトで買われた、新品です」

「ですよね」

 

 胸元に付いた紙のタグを確かめる。透明な袋も、切り離されていない値札もある。

 私の家から持ってきたものではない。

 よかった。

 

 よかった、のだろうか。

 

 相模大山の大天狗が、通販サイトで女児用のスクール水着を探している。

 サイズを比べ、色を選び、買い物かごへ入れている。

 そこまで考えて、さっきとは別の意味で心配になった。

 

「相模様、本当にこれを?」

「よく伸びますし、水にも強いそうです。背中の大きく開いていないものを選んだと」

 

 確かに、条件には合っている。

 袋の底には、お揃いの水泳帽まで入っていた。

 

「そのまま、お渡しすればいいんですよね」

「ひかりさんが着る必要はありませんよ」

「分かってます」

 

 先生は、どうしてそこで笑うのだろう。

 私は水着を畳み、なるべく早く袋へ戻した。

 

「それより、主様にも何か持っていった方がいいですか。お話を聞くなら、ご挨拶の品とか」

「その件は、相模様から連絡がありました。神奈川側の部下の方が伺うそうです。お供えも、そちらで用意すると」

「あ、そうなんですね」

 

 少しほっとした。

 箱二つに加えて、神様のお土産まで持つのかと思っていた。

 

「河童には、取り次いでもらうようお願いしてあるんですけど」

「相模様にお伝えしましたか?」

「はい」

「それなら、先方にも話は届いているでしょう。ひかりさんからも、今日、誰が伺うのか伝えてあげてください」

 

 先生と一緒に、箱をカートへ載せた。

 持ち上げたときだけ、きゅうりが百本あることを腕が理解した。

 

「これ、本当に百本入ってます?」

「相模様が、数は確認したそうですよ」

 

 水着を選び、きゅうりを数える大天狗。

 私のためにしてくださったことなので、何も言えない。

 箱を紐で固定していると、スマートフォンが震えた。

 

 相模様からだった。

 主への聞き取りは、もう済んだらしい。

 

『主も、河童が示した場所の異変には気づいているそうよ。ただ、何がいるかまでは分からない。今日は岸から確かめて。水へ入らず、異変があれば連絡を』

 

 地図に付けた印を開く。

 昨夜は河童の話だけだった場所に、主の証言が重なった。

 

「今日は、主様のところではなくて、こちらを見てきます」

 

 先生へ画面を見せると、静かに頷いてくれた。

 

「気をつけて。荷物も、人も」

「人も?」

「ひかりさんも、ですよ」

 

 私は少し笑って、はいと答えた。

 

     *

 

「数が足りん」

「食べたからでしょう」

 

 河童は、口を動かしたまま私を見た。

 右手には半分になったきゅうり。左手にも一本。足元には、開いた箱が二つある。

 

「食べながら数えないで。一度で済ませて」

 

 電車の乗り換えでカートを引き回し、ようやく川へ着いた頃には、日が低くなっていた。

 人のいる遊歩道から離れ、人払いの結界を張って荷物を下ろす。河童は川から顔を出し、私より先に箱の中を覗いた。

 昨夜と変わらず、裸だった。

 

「服も持ってきたよ」

 

 紙袋を差し出す。

 河童は指を舐めようとしたので、私は袋を少し遠ざけた。

 

「先に、手を拭いて」

 

 太腿で拭いた。

 見なかったことにした。

 

 紺色の布を引っ張り出した河童は、広げたり裏返したりして眺めた。

 

「ずいぶん小さいな」

「伸びるって。相模様が選んでくださったの」

「ほう」

 

 布の扱いが、少し丁寧になった。

 私は背を向ける。

 

「着てみて。終わったら言って」

 

 背後で、布の擦れる音がした。

 途中で引っかかったらしい呻き声がしたが、手伝うとは言わなかった。

 

「おい、頭のもよこせ」

 

 振り向かずに水泳帽を渡す。

 しばらくして、よし、と声がした。

 

 振り返った。

 

 緑色の中年が、スクール水着を着ていた。

 小柄な身体に、紺色の布がよく伸びている。背中の甲羅も包まれ、頭の皿は水泳帽に隠れた。

 眼鏡だけは、そのままだった。

 

「どうだ」

 

 私は答えを探した。

 河童が、得意そうに横を向く。

 

「背中も入ったぞ」

「……入ったね」

「これなら、店にも行けるな」

 

 甲羅も皿も見えない。

 約束した条件は、確かに満たしていた。

 ただ、昨夜とは違う種類の、見てはいけないものになった気がする。

 

「外へ行くときは、その格好で大声を出したり、人を追いかけたりしないでね」

「本を買うだけだ。騒ぐか」

 

 そういう問題だけではない気もした。

 けれど、河童は満足している。私は服の感想をそれ以上聞かないことにした。

 

「服一着と帽子一つ。それから、きゅうり百本。受け取ったね」

「ああ」

「昨日の五人には、もう手を出さない」

「分かっとる。あいつらの尻子玉は見逃してやる」

 

 箱を引き寄せ、河童はまた一本取った。

 ひとまず、こちらの支払いは済んだ。

 

「主様の件も、聞いてくれた?」

「相模大山から来ると仰ってたぞ。おまえじゃなかったのか」

「相模様の部下の方が行ってくださったの。もう、お話を聞けたって」

「なら、取り次ぎの分も済みだな」

「うん。ありがとう」

 

 私が頷くと、河童は水泳帽の縁を直した。

 

「主様は、何と?」

「あなたが声を聞いたところ、主様もおかしいと思ってるって。今日は、そこを見てくる」

 

 きゅうりを噛む音が止まった。

 

「今からか」

「岸からだけ。場所、もう少し詳しく教えて。橋の先の、水が出るところだよね」

 

 昨夜の地図を開く。

 河童は覗き込んでから、実際の川へ目を向けた。

 

「それだと、一つ手前だ。穴が二つ並んでいる方じゃない。もっと先に、半分草で隠れたのがある」

「道から見える?」

「見える。そこまでは、一緒に行ってやる」

 

 私は河童を見た。

 河童も私を見た。

 

「追加のきゅうり?」

「情報の場所を間違えられたら、おいらが嘘を教えたことになるだろうが」

「じゃあ、さっきの分で」

「しつこいな。分かっとる」

 

 服を着た途端、少し働く気になったのかもしれない。

 河童はきゅうりの箱を、川岸の草の奥へ引きずっていった。

 私は空になったカートを畳み、通学鞄と一緒に岸の茂みへ置く。

 

 制服の胸元に手を当て、抑えていた力を緩めた。

 袖が白く変わり、緋の袴が脚を覆う。翼を背へ畳み、面が顔を隠すと、河童が小さく鼻を鳴らした。

 

「やっぱり、妙な格好だ」

 

 その格好で言われたくはなかった。

 

 荷物の周囲だけに人払いの結界を残し、私たちは水際を歩き出した。

 河童は遊歩道へ上がらず、草と水の間の細い場所を進む。私は数歩後ろをついていく。

 水泳帽が、草の上を揺れていた。

 

「その声、言葉までは覚えてる?」

「助けてくれ。それから、おいらの名だ」

「何度も?」

「覚えとらん」

 

 昨夜より返事が短かった。

 私も質問をやめ、足元へ目を落とす。

 

 靴の底が湿った土を踏んだ。

 草の隙間に、泥をかぶったペットボトルが挟まっている。折れた枝。片方だけの手袋。

 川辺には、何でも流れてくる。

 そう思おうとしたとき、河童が止まった。

 

「あれだ」

 

 少し先で、岸がコンクリートに変わっていた。

 草に覆われた排水口がある。口の下は浅くえぐれ、その奥だけ、水が黒く溜まって見えた。

 川の流れはすぐ外を通っているのに、そこに浮いた葉は動かない。

 

「昨日は、どこにいたの?」

「あの石の向こうを泳いでいた」

 

 河童が指したのは、私たちの足元から数歩ほど先だった。

 

「今日は、聞こえないね」

 

 答えがなかった。

 河童を見ると、排水口ではなく、私の方を見ていた。

 

「……今、何か言ったか」

「聞こえないね、って」

「その前だ」

 

 私は首を振った。

 河童が、残っていたきゅうりを握り直す。

 

「おいらは、ここまでだ。場所は教えたぞ」

「うん。戻ってていいよ」

 

 引き止める理由はなかった。

 河童は一度だけ水面を見て、来た道を引き返した。

 もう、帽子の具合を気にすることもなかった。

 

 私は岸の乾いたところへ足を置き直した。

 川には入らない。声がしても、近づかない。

 そう確認して、スマートフォンを取り出す。

 

 排水口の写真を一枚。

 地図に現在地を記録する。

 相模様へのメッセージに、到着しました、と打って送った。

 

「ひかり」

 

 指が止まった。

 

 小さな声だった。

 水の流れる音に紛れて、聞き逃してもおかしくないくらいの。

 それなのに、はっきり聞こえた。

 

 顔を上げた。

 排水口は暗い。草も、コンクリートも動かない。

 

 河童には、名乗っていない。

 

 そのことを考えるより先に、胸の奥が痛くなった。

 知っている。

 この声を、私は知っている。

 

 誰だっただろう。

 

「ひかり。こっちへ来ておくんなんし」

 

 今度は少し、近かった。

 ずっと聞きたかった声のような気がした。

 なのに顔が浮かばない。名前も出てこない。

 どうして思い出せないのか、それが急に、たまらなく悲しかった。

 

 唇が動きかけた。

 返事をするな、と頭のどこかで思った。

 

 黒い水面に、白いものが浮かんでいた。

 指だった。

 岸の縁へ一本、また一本と掛かり、ゆっくり曲がる。

 

 私は、その手より奥を見ようとしていた。

 声の主の顔を、確かめたかった。

 

 握ったままのスマートフォンが震えた。

 画面には、相模様からの着信。

 

 水の中の声が、優しく言った。

 

「出ることはありんせん。わっちを見ておくんなんし」

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