妖ばなしにひかりを灯す 作:名栗谷
「出ることはありんせん。わっちを見ておくんなんし」
相模様からの着信が、手の中で震えていた。出なくてはいけないのに、岸を掴む白い指から目を離せない。
「……誰?」
何度も話した相手のような気がした。こんな聞き方をすれば、寂しがらせてしまう。それなのに、名前も顔も浮かばなかった。
「こちらへ」
指が曲がる。関節が一つ多い。
おかしいと分かっているのに、私は水面を覗き込んだ。着信が切れ、画面が暗くなる。
「顔を、見せて」
水の奥から白い丸みが浮いた。肩だと思ったものが折れ曲がり、その先から足の指が出てくる。
顔のあるはずの場所に、膝があった。
後ずさろうとして、左足が動かないことに気づいた。
袴の裾から白い指が覗いている。いつの間にか、別の腕が草の上を這い、足首を掴んでいた。
「怖がることはありんせん」
優しい声と同時に、指が締まった。
足が滑り、かかとが岸から外れる。私はスマートフォンを背後の草へ放り、左手に童子切を呼び出した。
鞘を押さえ、抜きざまに手首を断つ。
引く力が消えた隙に、岸へ踏み戻った。切れた手は、まだ足首にしがみついている。
「ひかり」
足元から声がした。
刃先で指を断ち、振り落とす。土へ落ちた手が、もう一度私の名を呼んだ。
「ひかり」
水の中からも、同じ声が返る。
胃の奥が冷えた。どちらにも、口など見えない。
横から腕が伸びてきた。
刀で外へ逸らしたが、指が翼の羽を掴む。閉じた指ごと斬り、続いて足元へ来た腕を切り返した。鳶色の羽が、白い手と一緒に落ちる。
水際で、妖が身を起こした。
長い腕と脚を幾重にも畳み、その隙間から泥のついた髪が垂れている。手足のどれが地面を支えているのか、頭はどこにあるのかも分からなかった。
「ひかり。痛うありんす」
刃が止まりかけた。
その一瞬に袴を掴まれ、前へ引かれる。私は布ごと腕を斬った。緋色が裂け、すねに熱い痛みが走る。
飛ばなくては。
翼で風を打つと、両足が泥から離れた。だが、広げた翼へ白い腕が跳ね上がる。
斬れたのは手の先だけだった。残った腕に翼を叩かれ、私は岸へ落ちた。
両足で斜面を踏み、転ぶのをこらえる。前は川、後ろは草の根が絡む急斜面だ。ここでは翼を広げきれない。
刀を構え直し、岸に沿って右へ移った。
妖が追ってくる。身体は水際に残したまま、腕だけが目の前まで届いた。
右から来る手をかわして肘を斬り、刀を返して下から伸びる指を払う。退くたびに靴が滑った。まず、踏み込める足場が欲しかった。
「どうして、忘れたのでありんすか」
左手が強張った。
そんなことを言われる覚えはない。それなのに、謝りたくなる。
刀を掴もうとした指を斬り払う。次の爪が面を擦り、嘴の端を欠いた。
私は息を呑んだ。声を聞くたびに、手が遅れる。
斬り上げた腕の奥で、白い身体が開いた。
折り重なった手足の間に、小さな頭があった。目も鼻もなく、口だけが顎から胸まで裂けている。
「こちらへ」
顔は下を向いているのに、声は耳元で聞こえた。
切っ先を向けると、長い腕が頭の前へ戻る。刀が手首に食い込んだが、脇から別の手が迫り、押し切れなかった。
身を引いた足が、硬いものを踏んだ。排水口の脇に続く、コンクリートの縁だった。
私はそこへ両足を移した。薄く泥をかぶっているが、土の斜面よりは踏ん張れる。
足元に、切り落とした手が転がっていた。指先から黒く潰れ、もう動かない。
同じ腕が生え直しているわけではなかった。妖は畳んだ身体を開くたびに、別の腕を出している。そのときだけ、頭の前に隙間ができる。
もう少し、こちらへ引き出せれば。
私は刀を低く構え、傷めた左足を半歩前へ出した。
「もう一度、呼んで」
声が震えた。隠す必要はなかった。
懐かしい顔など、どこにもない。それでも、聞きたい気持ちまで消えたわけではなかった。
「ひかり」
白い手が伸びる。
まだ動かない。手首が岸を越え、肘が伸びきるまで待った。指は足首のすぐ前で閉じ、届かなかったぶん、妖が身を乗り出した。
畳まれた腕が開く。
左足を引き、斜めに斬り上げた。伸びきった腕を断ち、そのまま刃を返す。頭を覆おうとするもう一本を、上から斬り落とした。
白い頭が水へ逃げる。
私はコンクリートを蹴り、一歩踏み込んだ。
「ひかり」
最後まで、同じ声だった。
頭の下に伸びる細い胴へ、童子切を振り下ろす。
硬いものに刃が食い込んだ。両手を締め、止めずに振り抜くと、白い身体が二つに分かれた。
顔のある方が岸へ落ち、残った腕が水を叩いた。
初めて、大きな水音がした。
私は切っ先を向けたまま、動けなかった。
土の上で、裂けた口が開く。
「ひ」
音が途切れた。
口の奥へ顔そのものが落ち込み、白い皮が濡れた薄紙のように潰れた。水面の腕も黒くほどけて沈んでいく。
溜まっていた枯れ葉が、川の流れへ引かれていった。
もう、何も動かなかった。
橋の上を車が走った。その音で、ようやく刀を下げられた。
乾いた場所まで下がって膝をつくと、足首と翼が脈打つように痛んだ。
刀を鞘へ戻そうとして、縁に切っ先を当ててしまった。息を吐き、震える手でやり直す。
草の中のスマートフォンには、不在着信が並んでいた。
折り返すと、すぐに相模様が出た。
「ひかり。今、どこ」
「岸です。水には、入ってません」
「何があったの」
「足を掴まれて……斬りました。腕も、本体も。今は、形がなくなってます」
「確認はこちらでさせる。怪我は?」
「歩けます」
「どこを怪我したの」
足首とすね、それから翼と答えた。
相模様は飛ばないようにと言い、迎えを向かわせるから、道まで戻るよう指示した。聞き慣れた声に、一つずつ返事をしていると、少し息が整った。
「声を聞いたのね。河童が言っていたような」
「……はい」
「誰の声?」
私は川を見た。
「分かりません。でも、知ってる人でした」
相模様が黙った。
少しして、帰ってきなさい、とだけ言った。
電話を切り、刀を消して立ち上がった。左足を庇いながら、示された道へ向かう。
数歩進んで、足が止まった。
声を出していたものは、私が斬った。あれが懐かしい誰かではなかったことも、分かっている。
それでも、もう一度だけ名前を呼んでくれないだろうか。
耳を澄ませている自分に気づき、私は急いで川から離れた。