妖ばなしにひかりを灯す   作:名栗谷

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第8話 河辺に住まうもの・伍

 

「出ることはありんせん。わっちを見ておくんなんし」

 

 相模様からの着信が、手の中で震えていた。出なくてはいけないのに、岸を掴む白い指から目を離せない。

 

「……誰?」

 

 何度も話した相手のような気がした。こんな聞き方をすれば、寂しがらせてしまう。それなのに、名前も顔も浮かばなかった。

 

「こちらへ」

 

 指が曲がる。関節が一つ多い。

 おかしいと分かっているのに、私は水面を覗き込んだ。着信が切れ、画面が暗くなる。

 

「顔を、見せて」

 

 水の奥から白い丸みが浮いた。肩だと思ったものが折れ曲がり、その先から足の指が出てくる。

 顔のあるはずの場所に、膝があった。

 

 後ずさろうとして、左足が動かないことに気づいた。

 袴の裾から白い指が覗いている。いつの間にか、別の腕が草の上を這い、足首を掴んでいた。

 

「怖がることはありんせん」

 

 優しい声と同時に、指が締まった。

 足が滑り、かかとが岸から外れる。私はスマートフォンを背後の草へ放り、左手に童子切を呼び出した。

 

 鞘を押さえ、抜きざまに手首を断つ。

 引く力が消えた隙に、岸へ踏み戻った。切れた手は、まだ足首にしがみついている。

 

「ひかり」

 

 足元から声がした。

 刃先で指を断ち、振り落とす。土へ落ちた手が、もう一度私の名を呼んだ。

 

「ひかり」

 

 水の中からも、同じ声が返る。

 胃の奥が冷えた。どちらにも、口など見えない。

 

 横から腕が伸びてきた。

 刀で外へ逸らしたが、指が翼の羽を掴む。閉じた指ごと斬り、続いて足元へ来た腕を切り返した。鳶色の羽が、白い手と一緒に落ちる。

 

 水際で、妖が身を起こした。

 長い腕と脚を幾重にも畳み、その隙間から泥のついた髪が垂れている。手足のどれが地面を支えているのか、頭はどこにあるのかも分からなかった。

 

「ひかり。痛うありんす」

 

 刃が止まりかけた。

 その一瞬に袴を掴まれ、前へ引かれる。私は布ごと腕を斬った。緋色が裂け、すねに熱い痛みが走る。

 

 飛ばなくては。

 

 翼で風を打つと、両足が泥から離れた。だが、広げた翼へ白い腕が跳ね上がる。

 斬れたのは手の先だけだった。残った腕に翼を叩かれ、私は岸へ落ちた。

 

 両足で斜面を踏み、転ぶのをこらえる。前は川、後ろは草の根が絡む急斜面だ。ここでは翼を広げきれない。

 刀を構え直し、岸に沿って右へ移った。

 

 妖が追ってくる。身体は水際に残したまま、腕だけが目の前まで届いた。

 右から来る手をかわして肘を斬り、刀を返して下から伸びる指を払う。退くたびに靴が滑った。まず、踏み込める足場が欲しかった。

 

「どうして、忘れたのでありんすか」

 

 左手が強張った。

 そんなことを言われる覚えはない。それなのに、謝りたくなる。

 

 刀を掴もうとした指を斬り払う。次の爪が面を擦り、嘴の端を欠いた。

 私は息を呑んだ。声を聞くたびに、手が遅れる。

 

 斬り上げた腕の奥で、白い身体が開いた。

 折り重なった手足の間に、小さな頭があった。目も鼻もなく、口だけが顎から胸まで裂けている。

 

「こちらへ」

 

 顔は下を向いているのに、声は耳元で聞こえた。

 切っ先を向けると、長い腕が頭の前へ戻る。刀が手首に食い込んだが、脇から別の手が迫り、押し切れなかった。

 

 身を引いた足が、硬いものを踏んだ。排水口の脇に続く、コンクリートの縁だった。

 私はそこへ両足を移した。薄く泥をかぶっているが、土の斜面よりは踏ん張れる。

 

 足元に、切り落とした手が転がっていた。指先から黒く潰れ、もう動かない。

 同じ腕が生え直しているわけではなかった。妖は畳んだ身体を開くたびに、別の腕を出している。そのときだけ、頭の前に隙間ができる。

 

 もう少し、こちらへ引き出せれば。

 

 私は刀を低く構え、傷めた左足を半歩前へ出した。

 

「もう一度、呼んで」

 

 声が震えた。隠す必要はなかった。

 懐かしい顔など、どこにもない。それでも、聞きたい気持ちまで消えたわけではなかった。

 

「ひかり」

 

 白い手が伸びる。

 まだ動かない。手首が岸を越え、肘が伸びきるまで待った。指は足首のすぐ前で閉じ、届かなかったぶん、妖が身を乗り出した。

 

 畳まれた腕が開く。

 

 左足を引き、斜めに斬り上げた。伸びきった腕を断ち、そのまま刃を返す。頭を覆おうとするもう一本を、上から斬り落とした。

 白い頭が水へ逃げる。

 私はコンクリートを蹴り、一歩踏み込んだ。

 

「ひかり」

 

 最後まで、同じ声だった。

 

 頭の下に伸びる細い胴へ、童子切を振り下ろす。

 硬いものに刃が食い込んだ。両手を締め、止めずに振り抜くと、白い身体が二つに分かれた。

 

 顔のある方が岸へ落ち、残った腕が水を叩いた。

 初めて、大きな水音がした。

 

 私は切っ先を向けたまま、動けなかった。

 土の上で、裂けた口が開く。

 

「ひ」

 

 音が途切れた。

 口の奥へ顔そのものが落ち込み、白い皮が濡れた薄紙のように潰れた。水面の腕も黒くほどけて沈んでいく。

 溜まっていた枯れ葉が、川の流れへ引かれていった。

 

 もう、何も動かなかった。

 

 橋の上を車が走った。その音で、ようやく刀を下げられた。

 乾いた場所まで下がって膝をつくと、足首と翼が脈打つように痛んだ。

 刀を鞘へ戻そうとして、縁に切っ先を当ててしまった。息を吐き、震える手でやり直す。

 

 草の中のスマートフォンには、不在着信が並んでいた。

 折り返すと、すぐに相模様が出た。

 

「ひかり。今、どこ」

「岸です。水には、入ってません」

「何があったの」

「足を掴まれて……斬りました。腕も、本体も。今は、形がなくなってます」

「確認はこちらでさせる。怪我は?」

「歩けます」

「どこを怪我したの」

 

 足首とすね、それから翼と答えた。

 相模様は飛ばないようにと言い、迎えを向かわせるから、道まで戻るよう指示した。聞き慣れた声に、一つずつ返事をしていると、少し息が整った。

 

「声を聞いたのね。河童が言っていたような」

「……はい」

「誰の声?」

 

 私は川を見た。

 

「分かりません。でも、知ってる人でした」

 

 相模様が黙った。

 少しして、帰ってきなさい、とだけ言った。

 

 電話を切り、刀を消して立ち上がった。左足を庇いながら、示された道へ向かう。

 数歩進んで、足が止まった。

 

 声を出していたものは、私が斬った。あれが懐かしい誰かではなかったことも、分かっている。

 それでも、もう一度だけ名前を呼んでくれないだろうか。

 

 耳を澄ませている自分に気づき、私は急いで川から離れた。

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