自分の感情が偶に分からなくなるときがある。
そんなとき、いつだって一人で孤独を乗り切ろうとしたかった。
紅茶を飲めば、気持ちがリラックスできる。他愛もない話のなかで、自分でも実践できそうなことを試してみたかった。偶に紅茶を飲んでいても、全然疲れが取れなくて余計……疲れることもある。
どうしようもないほどのことがあれば、ストレスを抱え込まないために。
自分のことを知ろうとしたこともあった。自己啓発なんて重苦しいことはしてない。重苦しいものを抱えてるんじゃないって自分に言いたかったのかもしれない。
そう、どうしても私は……。
この指先を重ねて音を立てるということを辞めることができない。
本当は気づいてる。
有紀君に甘えてるだけのことも、縋りついてることも。
みんなが前に進もうと必死に頑張ってるのに、私だけずっと底なしの沼に入り込んでいる。気づいていても、どうにかできるわけじゃない。
自分が弱いと知ってるから。
醜い自分を、子供の頃の自分を、いい子であり続けなくちゃならない。
自分にとってのCRYCHICは存在そのもので、有紀君が「味方」で居てくれたからこそ、私は此処まで来れた。なかったら、きっと私は……。
惨めでしかない。
「もう朝なんだ……」
テーブルに置かれたスマホに映しこまれる光。
『そよ、話がある。ライブが終わった後──』
有紀君からの連絡。
私はそれを最後まで見ることはしなかった。
「……」
カーテンを開ければ、陽だまりが家の中に入る。
私を照らしてくれることはない。当然だと思う、私は陽だまりの中にはいないから。
一昨日だって、有紀君に「またね」なんて言ってしまった。出かけてしまった。
バンドの練習に遅れてまで二人で一緒にいた。
『そよ、なにしてたわけ?遅いんだけど』
『有紀君と買い物してただけだけど?一々立希ちゃんに報告義務必要なの?』
『有紀?ああ、あいつ?』
目を細めて、立希ちゃんはドラムスティックを緩く握っている。
有紀君のことを苦手というか、なんかこう隠してる感じが嫌ってCRYCHICだった頃に言っていたのを覚えてる。だから、微妙に間が空いていたと思う。
『報告義務とかじゃなくて、時間ぐらい守って欲しいってことなんだけど。明後日、ライブって本気で分かってる?野良猫は練習に来ないし、本当にこんなでライブやるつもり?愛音はギター全然だし』
やる気がない、来ない。実力がない。
遅刻はしてくる。正論を並べられて、特に反論することはしなかった。
ベースの弦を調整して他のことに意識を向けてた。
悪くないなんて感じてないわけじゃない。どちらかと言えば、このバンドに興味がないってだけ。私が取り戻したいのはCRYCHIC。有紀君には悪いけれど、そこは絶対変わらない。
『え、えっと立希ちゃん、そ、その……』
『燈は、その……そのままでいいから』
一昨日はあんな風に言えてた立希ちゃん。
燈ちゃんもどうすればいいのか言葉にすることができないまま、口を閉じてしまう。
空気だけが重くなっていく……。
そして、次の日。立希ちゃんはもう限界だった。
私達がやれることがあるなら、手伝うと言っても立希ちゃんは受け取らず、スタジオから抜け出していた。燈ちゃんや愛音ちゃんは追いかけてた。私は立希ちゃんのことを追いかけなかった。寧ろ、何処か立希ちゃんのことが羨ましかった。
ベースから音が流れる。
低めの音……。手元を見れば、私は弦から指先を離してた。
余計、思わされた。
逃げることができる。
本当に羨ましかった。私は逃げることもできず、息が苦しくなるのをジッと見つめることしかできない。行動できても、実るとは限らないと知ってしまってる。
ライブ当日の日……。
みんながみんな覚悟を決めてた。
私はこれからも、バンドをしたいという気持ちはあった。
「バンド、ライブたのしみ」
ステージの裏側。
当たり前のことだけど、照明が暗い。まるで私の心を表してるみたいだった。
楽奈ちゃんの声なんて微塵も頭に入ってなかった。
「野良猫、言っておくけどバンドだから。勝手にソロ入れたりしないで」
「考えとく」
愛音ちゃんや燈ちゃんに連れ戻されて、戻って来た立希ちゃん。
眉間を抑えながらも、なるようにしかならない。もう後は本番やれることをやるだけと言いたそうだった。
「みんな、準備は大丈夫?」
立希ちゃんが返事をすれば、まず一人へと進んでいく。
それに続くようにして、楽奈ちゃんが足早に。愛音ちゃんは勢いよく走り出してる。
スタッフさんに返事を忘れず……。
そして、燈ちゃんもノートを抱えながらも、ステージの方に行った。
『最後まで味方でいるって言ってくれたくせに……』
ステージの方へと向かおうとしたとき、自分の声が反響してきた。
あのとき、有紀君に喫茶店で直接投げた言葉。
自分の存在すら揺らいでしまう。中途半端だって知ってる。
あの頃の自分を取り戻したい、バンドを取り戻したい。
祥ちゃんも、睦ちゃんもいるバンドを戻したい。
どうしようもないほどの未練が残ってる。なのに、私はこうして違うバンドで違うステージに立とうとしてる。
愛音ちゃんの中で何かスイッチが入ったみたいに。
不協和音が消えてなくなる。一曲目、一曲目も中盤に向かおうとしたとき。
燈ちゃんは……歌えていた。
さっきまで不安定な歌声が、ちゃんと力強い歌声になってる。
歌詞スタンドが目に入って、すぐ視線を逸らす。危ない、もう少しでノートが目に入りそうだった。
「来てくれて嬉しい……」
一曲目が終わったとき、呟いた声がする。
「あのとき上手く歌えなくて、みんなバラバラになった」
「辛くて、苦しくて目の前が見えなかった。呼吸することすら難しくて怖かった」
「もうバンドすらしたくなかった」
聞き覚えのないギターの音が耳を通過していく……。
「でも……」
誰が弾いてるのか分からない。
残酷に聴こえてた、何故か判断できなかった。
寒気がしてくる。
「まだ名前もないバンドだけど、迷子のままでも進みたい。自分の足すらちゃんとおぼつかないけど、頑張れって言ってくれた気がして、私は……」
「私は必死に歌うことしかできない……!」
「だって、それが私の心の叫びだから!!」
聞き覚えのある……前奏が耳に入ってくる。
肩に何かが張り付いた。多分、ベースのストラップ……。
ダメ、ダメ。
この曲を弾いちゃダメ。自分が拒んでる。
なのに、なのに……。
なんで、有紀君は泣いてくれてるの?
観客席にずっといてくれたのは知ってた。あの日、春日影を悪くないと言ってくれた。
なによりも、どうしてみんなそんなにも前を向こうと出来るの……?
できない、私はできない。
逃げればいい、ベースなんて捨ててライブなんて捨てて。
CRYCHICがどうしても好きなら、今のバンドなんて否定すればいい。
自分の頭が理解してるのに、手を放してくれない。
燈ちゃんの歌声が響いてるからじゃない。立希ちゃんまで肯定してるからじゃない。
祥ちゃんが観客席から離れて行く……。
追いかけた方がいい、絶対に。なのに、それでも動くことができなかった。
どうしてなんて私自身が一番知ってる。
二曲目が終わる。
もうそこにはかつての春日影なんて存在していない。
塗り替えられたものしか残ってない。違うバンドの形の……。
それを認めることができなかった、祥ちゃんが泣いてたからもあるけど違う。
自分が一番、不協和音だと知ってる。
自分が一番、中途半端だということを知ってる。
自分が一番、迷子だということを知っている。
なのに、私はどうすることもできない。
冷え切ったこの空間の中で私は口を開いて、自分で自分を呪うことしかできない。
心の叫び、燈ちゃん。
私はね、燈ちゃんみたいにはなれない。
叫べば、叫ぶほど自分が弱いと知りたくなかったことを知ることになる。
今だって、私は……。
「なんで春日影やったの!!?」
自分の弱さに触れてしまってる。
言わなくてもいいのに、笑い合えばいい。よかったね。
そうやって、過去の傷を縫えばいい。
「やらないって言ったじゃない!?」
「そんなこと言ってないけど」
淡々とした口調の立希ちゃんの声が余計、私を壊していく。
「祥ちゃん、泣いてた」
「あいつが泣いてたからなに?関係ないでしょ」
腕を組んだまま立希ちゃんのことが視界に入ってしまう。
現実だけが動いてしまう。あのときと一緒、CRYCHICが解散したときもそう。
お母さんたちがリコンしたときも……。
「どうして、どうしてそんなこと言うの……酷い!!」
違う、本当は……違う。
祥ちゃんが泣いてたから、傷つけたとかそれだけじゃない。
もう手に入らない。
もう戻らない……。
過去は……。
私は
受け入れることができないからこそ……。
逃避を選んだ。
目の前の情報量だけが変化していく……。
「待て、そよ」
「話がある。俺はそよと……いや、お前と話がしたい」
瞼が腫れてる。
目が赤い。さっきまで泣いてた証。
なによりも、お前……。
偶に、偶にそんな呼び方をされることを有紀君からある。
訂正されてまで言われたのが初めてだからこそ、私は自分の頭で理解してしまう。
「お前は……本当に今のバンドが嫌いなのか?」
「本当は、悪くない。心の何処かでは思ってるんじゃないのか?思ってるからこそ、俺に打ち明けて毎日新しいバンドのことを話していたんじゃないのか?」
やめて、やめてそんな話をしないで。
どうしてこういうときばかりそういう話をするの。
私の居場所を奪わないで。
みんなみたいに俯いてでも、歩み出すなんて私には無理だから。
だから、その手を離して強く握り締めないで。優しくその手に触れられる度に、信じてみたくなってしまうから。
私のことはもう放っておいて欲しい。
「待て、聞いているのかそよ!」
有紀君の手の実感が無くなってしまう。
温かさすら消えていて残っていたのは……。
肌を突き刺すような寒さだけだった。