去っていく背中。
見つめることしかできなかったのはいつだろうか。
はっきりと覚えてる。
そよに……いや、あいつに声を掛けられなかったあの日。
CRYCHICのことで相談があると言われたとき、俺は最後まで味方で居ることは叶わなかった。あいつ自身、望んでいたんだろう。信じていたかったのだろう。俺ならば、味方になってくれると。確かに、今まで通りの自分ならば、そよに手助けをしていたはず。
なのに、俺は自分の感情を優先して選択を選ぶことはしなかった。
無論、祥子や睦。あの二人に迷惑を掛けたくはないという感情もあるが、それ以上に俺は……やはり、俺は確信をもって言える。
「……!?」
何かが半開きのまま、止まる。
足先には、何か厚みのようなものを感じてしまう。
それが扉であり、敷マットだと気づくまでには時間は掛からず、そよの手を離さまいとしっかりと握っている自分を強く実感するのもそう遅くはなかった。
「そよ、俺はお前と話がしたいんだ」
わざわざ関係者側の方まで行った。
そよの友人だと言えば、通して貰えるなどと考えてはいなかったが。
案外、許可を得て通れてしまった。努力を無駄にしたくはない。此処まで苦労が水の泡となり、蒸発させるわけにはいかない。自分自身のためにも、燈のためにも……。
「さっき……聞いたでしょ」
今にも消え入りそうなほどの小さく儚い声。
手をしっかりと握っているのに、すっぽりと抜け落ちてしまいそうだ。
最早、此処にいるのはそよではなくただ感情の持った人間だということを直視させられる。
だが、それがなんだという。
「話にはまだ続きがある」
「先のライブを見て、何も感じなかったのか?そよだって、何かしらを感じていたんじゃないのか?もし、お前があんなにもCRYCHICの春日影が好きだという暗い感情があり、CRYCHICを取り戻したいならあの場から逃げ去ることだってできたはずだ」
「何故、しなかった?いつだってそよは前のバンドの話をしているとき、辛そうで話したくもなさそうだった。いい思い出だと語っているが、その思い出だと語っている自分を見て気づかないのか?もうCRYCHICは……」
「存在していないと自分で安に認めているんじゃないのか?」
徐々に世界が曇って行く……。
天気が曇ってわけではない。自分自身がした発言の重さを自分で重々承知しているつもりだ。こんなことを言ってしまえば、そよを傷つけることになる。腹の中に槍を一突きして、突き抜くのと何が違う?と問われれば、何も違わない。
違わなくても、俺は伝える必要があった。
他者から見たそよのことを。
「暗いって……なに?CRYCHICが重荷になってるって……言いたいの?」
「燈ちゃんや有紀君みたいに自分を誤魔化して生きるなんて私にはできない。器用な生き方なんてできない、迷子でも歩き出していいなんて口が裂けても私は言えない。知ってるでしょ?有紀君は」
吐き捨てるような言動……。
そよの視線は俺の方へと向くことはなく、下ばかりを見つめていた。
「知っているとも、俺は何も燈みたいに言い放てばいいと言ってるんじゃない。長崎そよとして、そして……」
リコンという話を周りからされたときと同じだ。
そよはあの日以来からずっと自分を包んでいる。包まなければならなかったからだ。
だからこそ、俺は……。
「一ノ瀬そよとしての自分をもう許してやったらどうなんだ?」
口を開くまでに勇気などいらなかった。
覚悟も必要ではなかった。ライブを見せられて、向き合う覚悟を見せられて俺はもう自分がどうするべきなのかを知っていた。但し、そよが受け入れることができるかどうかは別だということは……。
知っていた。
俺の手からは当にそよの身体の一部すらなくなっていた。
扉が閉まって行く。まるで、俺とそよの距離感を表すようなもののように錯覚してしまう。見えていたはずのそよの背中はもう存在などしていなかった。
「分かっていたつもりだ」
こうなることぐらい……。
最後に向けていた視線は、紛れもなく。
『有紀君のように変われない』
冷たくも、酷く焦がれてしまう。
他人を羨ましいとすら感じてしまっていそうな瞳の揺れがあった。
俺はもうこれ以上、そよを追いたいという自信がなくなっていた。
ああ、こういうことなのだろう。
燈に強くはなれないと、吐瀉物を吐き出すように自分の自己紹介カードを晒すようなことをしたのは……。燈ならば、俺は……。
話していいのかも知れんと思ったからに違いない。
だから、俺はあの日話してしまったのだろう。
そして、数日が経ってしまう。
時の流れというものは残酷であり、非情であるということを知っているつもりだった。
ほとぼりが冷めれば、戻る。一時的な感情などと言うつもりはなかった。そよからの連絡がライブの日以来、途切れしまったのだから。
家に行けば、会いに行ける。
信じていたはずだったが、あいつは返事もしなかった。強硬突破で、誰かが開けたときに一緒に入るというかなりストーカー染みた行為。自分でそう言い切れるほどのことまでしたが、あいつは声すら、玄関に立っている感じもしない。
『学校、来てない』
睦からの連絡を確認してから。
『悪い』
とだけ伝えると、既読がついている。
情報が更新されることなどなかった。
存在しているのは自分が現実逃避していることだけだ。
そよのように、指先を重ね合わせて指先から音を立ててみせる。
「これでは何も変わらないな、葬式のようなものだ」
自分の行動を否定する。
まるで、亡くなった人間のことが忘れられず、その動作を思い出そうとして感情を取り戻そうとしているみたいだ。かなり、後ろ向きなことをしてしまっている。帰ろう、これ以上この喫茶店に留まっていても、存在するのは俺という人間もまた……。
自分の苗字が『
鉄のように重くなっていた木製の椅子から立ち上がろうとする。
「有紀……君?」
声がする。
数日ぶりに聴いた声だ。
「燈か、また夜更かしをしているのか?」
「う、うん……。ば、バンド……ご、ごめん」
頭を深く下げて来る燈。
「燈が謝ることはないだろう、燈はやれることをやり切った。寧ろ、その栄誉を称えるべきだ」
「う、うん。あ、ありがとう有紀君」
隣に燈が座ってくる。
微妙に少し席を開けて、座り直してしまう。
離れた身体が物語ってしまう。何が栄誉だ。どの口が言っている。
さっきまで、夜風が流れるのと共に、俺は一瞬だけ視線を人だかりの方へと向けていたのは誰だ?。映画館に向かう、楽しそうな友人同士のような奴らが視界に入ってしまって、微妙に心が曇っていたのも誰だ?他ならぬ俺自身ではないか。
こうして、そよの真似事を辞めたのだってそうではないのか?と自分に現実を突き付けられてしまう。
「有紀君、も、もしかしてだけど……そよちゃんの真似して……た?」
「……!」
唐突に図星を突かれてしまい、身体が微妙に動いてしまう。
まるで、奇襲を受けて腹に一撃を入れられた気分だった。
「悪い、そよと喧嘩したのだろう」
燈は何も言わずに黙っている。
表情を見れば、明らかだった。燈の視線は下ばかりを向いていた。
「燈、一つ聞いてもいいか?」
「え?あ、有紀君が?」
「祥子が観客席に居たのは知っていたからなのだろうが、あの意思表明。どうして、迷子という言葉を使ったんだ?俺は知りたいんだ」
燈が自分の腹辺りで指先を重ね合わせている。
自分の身体を温めるようにして……。
「みんなバラバラに……なった。CRYCHIC、楽しかった。ああいうものが一生続いて行けば、よかった。でも、続かなかった」
小さく、「すまない」と言ってしまう。
だが、燈はそれが聞こえていたのか首を横に振っている。
聴こえていた……のか。燈の目の良さに俺は息を吐くすらことできない。
「意志表明、祥ちゃんに向けたもの。だけど、あれは……私に向けたものでも……あるから。CRYCHICもう一度やりたいと言われたら、私は分からない。立希ちゃんに言われた、愛音ちゃんと祥ちゃんどっちを取るの?って聞かれて……私は答えることができなかった」
「無理もない話だろう、お前はやれることをやったのだから」
「ううん、違……うの。できること、それでもできることやりたいって信じてみたかった。信じることは曖昧……なのかも。それでも、信じてみたい。想いが伝わるなら、だから……有紀君のことも……」
「信じてみたい。それが……」
「信じることだと思うから」