後宮の司書になったので、死ぬ気で政争から遠ざかりつつ本の虫になるTS転生者 作:暁刀魚
それを改善しつつ本編に関わらない人物の人生を描く番外編です。
一話で最後まで終わらせるため結構長いです。
文字の読み書きも、炊事も、化粧も。
あらゆる事を要領よくこなし、よくできた子だと誰もが褒める。
しかしそれは梨里にとって、自分はこれといって誰かより秀でた物を持たない”平凡な子”だと言われているようなものだった。
少なくとも梨里に、天才的な素質を持つ自覚はない。
確かに人よりは少しだけ色々なことに対して要領がいいのだろう。
けれど、自分よりずっと優れた人間は山程いて、自分は絶対に一番にはなれないのだ。
それでもいいのかもしれない。
自分のような女が誰よりも優れた存在になる必要はないだろう。
今でこそ女帝と呼ばれる傑物がこの国の頂点に立ってはいるけれど、それはあくまでその女傑がとんでもない人なだけ。
別に、女が天下を取れる時代がやってきたわけではない。
このまま平凡に生きていけば誰かが旦那を紹介してくれて、その旦那との間に子どもが恵まれて、そして最後には平凡に死んでいくのだろう。
少なくとも、それができるだけの教養も容姿も家庭環境も、梨里には備わっていたのだ。
それでも梨里は、何者にもなれない自分を脱却したくて後宮に仕官したのである。
結果として、梨里はその選択に後悔してはいないけれど、満足もしていなかった。
何もなかったのだ。
もともと後ろ盾があって後宮に入ったわけではない梨里が、どこかの妃の女官になることもなかったし、さりとて女官として存在感を発揮するわけでもない。
後宮に入る前と変わらぬ、ごくごく当たり前の日常が過ぎていった。
自分はその中のひとりの女性でしかなく、後宮は決して劇的な物語の舞台ではなかったのだ。
確かに、物語に出てきそうな人物はいる。
昭華という男装の麗人は、その美貌から多くの女官を狂わせていた。
男顔負けの壮麗な顔立ちと、どこか強い意思を感じさせる切れ長の目。
ああいう男──昭華は女だが──に好かれたい。
そんな欲求を、梨里だって少なからず抱いていた。
しかし、そもそも梨里は彼女にお近づきに成る機会すらない。
宮廷の方には、出世頭と謳われる二人の美丈夫がいるらしい。
羽林軍と呼ばれる、王宮を守護する精英で若くして頭角を表しており女官達からの人気は高いそうだ。
しかし後宮で働く梨里に宮廷まで足を運ぶ理由はほとんどない。
ここで梨里は自分の失敗を悟った。
梨里は読み書きと計算ができたのだ。
宮廷の方で働くこともできたはずである。
しかし、安易に後宮を職場としたことで宮廷に足を運ぶ理由を失い、この出世頭と出会う機会も失われた。
要するに、要領はいいがめぐり合わせがわるいのだ、梨里は。
どこまで行っても、平凡の星の下に生きている。
それが梨里。
自分を変える運命の出会いに恵まれることはない。
そもそも、自分は他の女官と違ってそういう美丈夫にあまり興味はないのだ。
私って、少し異端。
そんなことを常々思いながら、実際は平凡極まりない生き方を梨里はしてきた。
──後宮の書庫で、運命の出会いを果たすまでは。
それは、偶然だった。
たまたま本を書庫に返すよう頼まれて、やってきただけ。
元々後宮でも書庫は特殊な場所であるという認識だけはあったけど、梨里は足を運ぶ気にはなれなかったのだ。
だから梨里は、その時まで本当に平凡な梨里のままだった。
一人の少女が、椅子に腰掛けて机に向かい、頬をついてうたた寝をしていると気付くその時までは。
──美しい少女だった。
不健康にすら思える細い手足と、長い紫の髪。
小柄な背丈と、そして何より特徴的なのはその顔立ちだ。
人形のよう、と表現することは簡単である。
しかしそれ以上に、あまりにも繊細で覗き込むと惹き込まれてしまいそうな危うさがあった。
こんなにも美しい少女が世界にはいるのか。
本気で梨里はそう考えてしまったほどである。
その時は、声をかけることなくそっと用事を済ませてその場を後にした。
ひっそりと眠る少女が、あまりにも神聖に見えて、声をかけ難かったのだ。
残念ながら梨里は、少女がただ単にサボって寝ているだけだとは、気づかなかったようである。
「えっとその子はね……幽蘭っていうんだ」
「……幽蘭」
後日、知り合いの春杏に彼女が何者なのかを梨里は訊ねた。
春杏はその人懐っこさから親しいものが多く、梨里もまたその一人。
さらには明眼人という失せ物探しの達人とコネクションを持っており、多くの女官は春杏のことを知っているし、逆も然り。
彼女なら、あの図書の君のことも知っていると思ったら、案の定。
「後宮書庫の司籍をしてるんだ。いっつも書庫で本を読んでる本の虫!」
「なるほど、それで……」
「でもでも、そんな梨里が思うほど幽蘭ってすごい人じゃないよ? あえっと、すごいことにはすごいんだけど……神聖視するほどじゃないっていうか……」
「で、でも春杏! あの人は本当に美しかったのよ!」
さすがは春杏、後宮内の事情に詳しい。
しかしどういうわけか、春杏の歯切れは恐ろしく悪かった。
梨里は知る由もないが、春杏の心境は複雑だ。
春杏は幽蘭に特別な感情を抱いており、
自分だけが幽蘭を知っていてほしいと思っている。
しかし幽蘭の良さに気づくものが現れるのも嬉しく感じてしまう自分がいることもまた事実。
ただそれ以上に、友人(春杏認識)の梨里が明らかやばい宗教にハマってるみたいなことになっている状況をやばいと思っていた。
なんだかんだ春杏は良い子なのである。
今はまだ。
「た、たしかに顔はいいけどさ、だからって幽蘭ぜんぜん手入れしてくれないんだよ? 面倒だからって。だからぜんぜん、顔がよくたってすごくないからさ!」
「て、手入れ一切なしであの美しさ……!?」
「ああー……!」
幽蘭のことを貶したいわけではないが、だからといって梨里の言葉を全肯定はしたくない。
そんな複雑な感情はしかし、梨里には全く通じていないのであった。
「ああ……実際にお近づきになってみたいわ……」
「それはうーん、あんまり幽蘭そういうの好きじゃなさそうだけど、書庫にいれば基本的にはいるから、ちょっと挨拶してみるのもありかも……?」
「挨拶!? そんな恐れ多い!」
「うああー……」
実際に話して仲良くなれば、すごい人なのは確かだが、普通の人だと梨里もわかってくれるだろう……と春杏は考えている。
しかし実際に話をするのも難しそうだと、梨里の様子から感じるのだった。
■
それからというもの、梨里は足繁く書庫に通った。
とは言え、あまり押しかけるのも春杏の様子からしてよくなさそうだ。
なので頻度は少ないものの、定期的に通うたび──
「ん、いらっしゃい。本日はどのようなご用件ですか?」
こ、声までいい──!
となったり。
「ですから春杏、この字はこうやって書くといいのですよ」
「あうう、難しいよお」
春杏に字を教える横顔凛々しすぎ──!
となったり。
「ふむ、であればこの菓子は吾から紅玉妃に届けておこう」
「お願いします」
あの昭華様とも親密──!?
となったりした。
「はあ……はぁ……胸が苦しい……幽蘭様のことを知るたびに……もっと好きになってしまっているの……」
「どんどんズブズブ沼にハマってるよぉ……! あと字を教えてもらってるところ見てたなら言ってほしかったよ……! 普通に恥ずかしいもん!」
かくして、自分のことは全力で棚にあげて梨里のことを心配する春杏をよそに、梨里はどんどん幽蘭へのめり込んで行くのだった。
とはいえ、それが悪いことかといえばそうとも言えない。
むしろ梨里にとって、幽蘭を知ってからの人生はまさに薔薇色だった。
何しろ、こう思ったからだ。
「――幽蘭様にふさわしい自分にならなきゃ」
無論、幽蘭が自分に振り向いてくれるとは思っていない。
しかし、幽蘭を慕う自分がダメダメでは、自分自身が幽蘭に顔向けできないのだ。
だからこれまで以上に、梨里は仕事を熱心にこなした。
率先して仕事を請け負い、困っている人がいたら助け、新しい仕事もどんどん覚えていく。
毎日朝早くから起きて、夜は遅くまで書庫から借りてきた本を読んで勉強。
親しい者は「あまり無理をするものじゃない」と言ってくれたけれど、梨里は全く無理をしているつもりはない。
どころか、今の梨里は非常に充実している。
特に勉強のための本を借りに書庫へ行く度、幽蘭に会えるのだからその度に梨里の意識はテンションマックスリラックスだった。
他にも、幽蘭が料理を嗜むと知って、自分も料理に挑戦してみたりした。
最近は厨仙流という流派が多くの料理を開発しており、更には調味料の種類も色々あってよく分からない。
なんか変な味になってしまった料理は、泣きながら何とか食べきった。
厨仙流の調味料を使わなければ問題ないのだ。
すくなくとも、梨里が後宮に入って料理をしなくなるまでは普通にやれていた。
厨仙流許すまじ……
さらには、ここ最近宮中ではやっている小説が全て貸出中で書庫にないと知ったら、梨里はそれを写本することにした。
春杏曰く、読み書きを教えることは司籍の仕事の一つ。
ならば写本でより多くの人に本を届けることで読み書き習得を促すことは、きっと幽蘭の助けになるはずだ。
そして、阿華妃という貴妃様の薦めで、宮廷の方でも梨里は雑用をこなすようになった。
なんでも阿華様は幽蘭にお菓子を作ってもらっているそうで、幽蘭のために自分を磨いているという梨里のことを聞きつけて話を持っていったのだとか。
――流石は幽蘭様、貴妃様からも目をかけられているなんて凄い。
あらためて身が引き締まる思いである。
阿華様が言うには、現在この国の政を取り仕切っている女帝は、有能な人材に目がないらしい。
宮中に優秀な人物がいると知ったらすぐにそれを最適な配置につけるのだとか。
阿華様はその皇太后様と面識があり、仕事を紹介してくれるとのこと。
そうして、宮中で色々な仕事をするうちに、梨里はさらなる飛躍を遂げていく。
毎日が充実していた。
あまりにも怒涛としか言いようのない毎日だった。
朝は四時に起きて、夜は零時に寝る。
時間はいくらあっても足りなくて、もっと睡眠時間は減らしたい。
しかしどうしても体が言うことを効かなくて、四時間も寝てしまう自分が恥ずかしかった。
そうこうしているうちに、梨里の中で変化が起き始める。
どういうわけか、少しずつ体が重くなり始めたのだ。
何をするにも倦怠感がつきまとうようになり、本当ならもっと効率的にできているだろうことを、気力が原因でできなくなる。
こんなことではダメだとわかっているのに、どうしても体が動かないのだ。
そしてそれは焦りを生む。
もっと、もっと幽蘭様にふさわしい自分へ!
思いはどんどん空回りしていく。
そんな時だった、陰で自分のことを話す女官の言葉を聞いたのは。
「――あの梨里って女官、最近調子のってるんじゃないかしら」
「仕事ができるんだかなんだかしらないけど、威張り散らし過ぎなのよ」
「態度ににじみ出てるわよね、自分はあたし達と違う……みたいな。あはは、バカじゃないの?」
それ自体は、なんてことない陰口でしかなかった。
梨里はあまりそういうことは好まないけれど、女子ならば誰でもそういう話はするものだ。
だから、別にどうってことないと梨里は思った。
――思いたかったのだ。
気がつけば、眼の前が真っ暗になっていた。
大抵の陰口は、梨里に全く響かない。
しかしどういうわけか、一つだけ。
「自分とあたし達は違う」、その言葉だけが――いやに梨里の脳裏にこびりついていた。
――気がつけば、そこは書庫だった。
雨が降っているのか、ぽつぽつと天井を雨音が叩いている。
それ以外は静謐が空間を支配しており、騒がしいはずの雨音すら、静けさを感じさせる要因になっているように思えた。
梨里は、長椅子に寝っ転がっている。
布をかけられており、誰かが自分をそこに寝かせてくれたことは間違いない。
時刻は何時頃なのだろう、梨里のいる場所からでは、外の様子をうかがい知ることはできなかった。
だが、それ以上に――
「――起きましたか」
椅子に腰掛けて、ゆっくりと本を読みながらこちらに視線を向けた幽蘭に気づき、梨里の心臓は停止した。
「ひきゅっ」
「ひきゅ……?」
理由のわからない言葉をこぼして、再び倒れる梨里に幽蘭は小首をかしげる。
可愛すぎだろ神か? 神だわ、神仙だわ。
「今から八時間ほど前に、書庫の入口で倒れていたのでここまで連れてきたのですよ。とても重かったです」
「そそそそそれは、あああああありがとうございま…………八時間!?」
「うわっ。あまり驚かせないでください。……ええ、八時間です。おかげで今日の私は一度も長椅子に座れませんでしたね」
「ごごご、ごめんなさいいいいいい」
梨里は即座に飛び上がって、非礼を詫びた。
なんてことをしてるんだ自分は。
いくら倒れそうだからって、よりにもよって書庫までやってくる必要はないだろうに。
幽蘭様のお手を煩わせてしまうだなんて、あまりにも無礼がすぎる。
死にたい、死ぬしかない、そうだ、死のう。
堂々巡りが脳内で始まった。
「――少し様子を見させていただきましたが、働きすぎですね、貴方」
「ひきゅっ」
「だからひきゅ、とは何なのでしょう。とにかく……全然眠れていないのではないですか? 普段の睡眠は何時間ほどです?」
「え、ええと……四時間、でございますです」
よく分からない敬語で梨里が返答すると、「やはり」と幽蘭は頷いた。
「そりゃあそんな生活をしていれば、最終的には倒れます。世の中にはそういう生活を十年続けた結果、働きすぎで亡くなった皇帝もいるのですよ?」
「そ、そうなのですか……」
ええ……
いやまぁ、皇帝の仕事というのはそれだけ激務なのだろう。
とにかく、それと同じくらい無茶をしていたのなら、梨里が疲れるのも無理はない。
「そういえば、コレは阿華様からの差し入れです。なんでも、阿華様からお仕事を斡旋してもらっていたそうですね? それで働き過ぎて倒れたと知った阿華様が、これを」
「これは……お茶ですか?」
「滋養強壮に良いと聞きます。それを飲んで体を休めることをおすすめしますよ」
――二人は、そのお茶が皇族しか飲めない超が3つくらいつく高級品のお茶であることを知る由もなく、美味しくいただいた。
なお阿華は過労をねぎらって諌めるつもりは一切なく、これで体力をつけてもっと働けと言うつもりで渡している。
本人や周囲がそういう生活をしているからだ。
中世の宮廷はナチュラルブラック企業だった。
「……あの、えっと」
「…………それで、どうして貴方はそんなになるまで頑張ってしまったのですか? 無茶はよくないですよ」
「うう……」
梨里が何かを言いたげだと察した幽蘭が話題転換をすることに、梨里は申し訳なくなりながら、訥々と話し始める。
「……好きな人がいるんです」
「おや、それはおめでとうございます?」
「いえ……叶わぬ想いなので。ただ……そんな一方通行の想いでも、私はその人を好きでいることを恥じなくてすむ自分になりたいのです」
「なるほど」
ああ、言ってしまった。
どうしてか心が気弱になってしまって、口に出さずにはいられなかったのだ。
「貴方は……なりたい自分に具体的な想定がなかったのですね」
「それは……」
「目標が定まっていないまま努力を続けたから、その努力の際限がなくなってしまったのだと思います」
それは本当にそのとおりだった。
梨里の根底にあるものは「何者かになりたい」という情動。
じゃあ、何者ってなんだ?
幽蘭の存在は、結局のところ原動力でしかない。
答えがわからないまま突っ走り続けて、その先に一体何が待っているというのだろう。
「私は、何になりたかったのでしょう……」
「難しい質問ですね、私は貴方のことを何も知りませんから」
「……はい」
ああ、死にたい。
どうして私は憧れの存在である幽蘭様に、このような質問ばかりしてしまうのか。
幽蘭には、人にこういう話を話させてしまいたくなる”何か”があるのかもしれない。
だって抗えないのだ。
ゆっくり、諭すように語りかけてくるその声音が、梨里にそうさせてしまう。
「ですが……貴方が今、一番なりたいと思うものを目指すのが善いかと思いますよ」
「一番……目指したいもの」
「一つずつ、貴方の中から可能性を否定していきましょう」
一つずつ否定していく。
梨里はその言葉に、これまでの事を思い出した。
女帝のような、この国の頂点に立ちたいわけではない。
幽蘭様を、自分のものにしたいわけでもない。
宮廷で一人の官吏として働きたいわけでもない。
後宮で妃に仕えたいわけでもない。
これまでの仕事も、具体的に何かの目的があったわけではない。
ただがむしゃらにやっていただけ。
そうして否定していくと、最後に残ったのは――今、
「私、は……」
「答えが出たみたいですね?」
そうして、幽蘭がそっと背中を押してくれる。
それはまるで、そう、まるで――
「はい、私――――
赤ん坊をあやす、母親のようだった。
「……はい?」
ここで目を覚まして、それから諭し続けてくれた幽蘭は、まるで母親のようだった。
母性に溢れ、こちらを心配して慈しんでくれたのだ。
だから気付いた。
梨里は、おぎゃりたかったのだ――――
「ありがとうございます、幽蘭様! 私、気づきました!」
「ええと」
「赤ん坊の仕事は、よく寝てよく食べてよく育つこと! 睡眠時間を確保しつつ、品行方正にすくすく育ちます!」
「よくわからないですが……よかったですね?」
幽蘭は「マジで何だコイツ」という視線を向けながらも、過労で倒れないように気をつけるならいいか……と納得した。
そして梨里は幽蘭に迷惑をかけることを、一番の恥と考えている。
故に、赤ん坊になる時に幽蘭の手は借りない。
イマジナリ幽蘭にあやしてもらえばいいのだ。
――かくして、それ以降。
時折宮中で夜な夜などう考えても赤ん坊ではない女性の声で、赤ちゃん言葉を発する怪異が発生したと後宮で噂になる。
幽蘭は嫌な予感がしたので全力で春杏からもたらされたその情報を、全力で聞かなかったことにするのだった。
お読みいただきありがとうございます。
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