後宮の司書になったので、死ぬ気で政争から遠ざかりつつ本の虫になるTS転生者 作:本のむしむし
太宗・李悠安がこの広大なる中原の地を統一し、「
長い間続いてきた王朝は、幾度かの動乱や外患、飢饉などの災害を乗り越えてここまで存続してきた。
幸いにも人心は安定し、今は平穏な時代を人々は謳歌している。
先々代崩御の際に起こった後継者問題は、国を傾きかねないものだったが、崔皇太后の手腕によりそれも何とか乗り越えた。
昭華としてみれば、ここである盟約の”二回目”をここで行使してしまったのは大変惜しい事案ではあるが。
国を救うためであるのだから、致し方あるまい。
「──こやつが、禁書に呑まれた侍従長じゃな、
「はっ、先日後宮の池の中から発見されました」
思考を切り上げて、昭華は部下の宦官と共に眼の前の遺体に視線を向ける。
後宮内の秩序を守る職務を帝より仰せつかった昭華にとって、こういった光景は珍しいものではない。
しかしこの骸に対しては、少しばかりの哀惜を抱かずにはいられなかった。
死んでいるのは、先日幽蘭の元へ持ち込んだ禁書『
禁書に意識を奪われ、あちこちに呪符をばらまき。
事件後は行方をくらませていたが、昨夜後宮の池の中から遺骸が発見された。
「
「うむ、禁書に取り憑かれ、魅入られてしまった亡者達の名じゃ」
一般的に、禁書の存在は秘されている。
禁書を始めとした超常の力は、人々が存在していると信じることでその力を増す傾向にあるのだ。
故に朝廷は表向きそういった存在を否定しているが、人の口に戸が立てられることはない。
何より人々は禁書の存在は知らずとも、呪いや道術の類は信じているのだ。
故に、朝廷は常にこういった禁書への対処に苦労してきた。
「聞く所によれば、例の司籍も禁書使だと伺っておりますが」
「──その事は、妾を含めた極限られた者のみが知っておればよい、絶対に口外するでないぞ」
「はっ」
「それと、あの娘は例外じゃ。奴は禁書を人の身でありながら自在に操っておる」
──そして、幽蘭もまた当然ながら禁書使である。
だが彼女と他の禁書使の違いは一目瞭然。
禁書とは、存在するだけで狂気をもたらす呪物。
並の人間では触れただけで発狂し、あるいはこの侍従長のように禁書の傀儡と成り果てる。
中には血の滲むような努力の果てに、その狂気を精神でねじ伏せる者もいるが、幽蘭はそのような鍛錬の形跡が見受けられない。
どころか、狂気に呑まれる気配すら見せず、異能を完全に我がものとしていた。
禁書の狂気に呑まれずそれを運用するには、人ならざる神性を宿す他ない。
なのに幽蘭は特異な事情を持つ昭華から見ても、普通の人間にしかみえないのである。
──あの娘には、何か大きな秘密がある。
その秘密を、いつか解き明かしたいと昭華は常々思っている。
幽蘭という娘は、底しれない透明な静けさをどこか漂わせている。
本人は昼行灯を気取っているが、あれほどの容貌と読み書き計算も自在な頭脳を持っていれば、宮中で目立たずにはいられない。
常に涼しげで何を考えているか読めない相貌も相まって、実は本当にごく一部の間では人気があったりするのだ。
まあ、その者達も幽蘭の意思を汲んでいるのか、幽蘭を知っているのは自分達だけでいいと考えているのか、むやみやたらと幽蘭のことを吹聴することはないようだが。
そもそも、どれほど人気を集めようと──主上が熱烈に執着している以上、女官が幽蘭を我が物とすることはないのであった。
「それにしても、不憫なことだ。……陣徳、
「はっ」
話を眼の前の侍従長に戻し、昭華は宦官に命じると一つ息を吐く。
あまりにも不憫だ。
この女が禁書に取り憑かれたのは、偶然に過ぎない。
何者かが後宮に禁書を送り込み、それを手にしてしまったのがこの侍従長なのだ。
故に、本人に悪意や非があるわけではない。
たとえ捕らえられたとしても、情状酌量の余地は十分にあった。
こと命が軽いこの時代にあっても、禁書については話は別。
非のない物を処刑することで、それが禁書に”恨み”をもたらし禁書の力を増してしまうやもしれない。
それを避けるため、命まで奪われることはなかったはずだ。
しかしもし、生き残って審問を受ければ、彼女が仕える妃まで咎を受ける。
これを侍従長は避けたかったのだ。
この侍従長と主である妃は、強い信頼関係で結ばれていたという。
侍従長が行方知れずになってから、妃はずっと侍従長のことを心配していた。
今も、部下の報告を聞いて急ぎここへ向かってくるはずだ。
「なぜ、そのような善き関係で結ばれた主従が引き裂かれなければならぬのじゃ」
禁書を使ったのが彼女であることは、状況証拠からほぼ間違いない。
しかし決定的な証拠はなく、彼女が口を閉ざして死ねば犯人の特定は永久に不可能。
故に、この事件は「一人の女官が変死した」として処理されるだろう。
「……ままならぬものだな」
主を守るために自らの命をたった忠義に、昭華は嘆息をこぼす。
これによって、禁書事件の黒幕への手がかりがなくなってしまったことも、また。
大変気が重い。
そうこぼした、その時だった。
「──どう致しましたか、昭華様」
──ふわりと、間の抜けた声が響く。
見れば、隣であの幽蘭が自身と並び侍従長の遺骸を見下ろしている。
「幽蘭、なぜここに」
「偶然通りかかったものでして。……それから、宦官殿からこれを」
言って、幽蘭はその細い手で重そうな
よく持ってこれたな、と思わず昭華は関心してしまった。
おそらく通りがかりに、部下が幽蘭を見つけて渡したのだろう。
幽蘭も関係者であり、この死体を見ても問題ないものの一人だ。
それを幽蘭が引き受けたのは、はっきり言って意外としか言えなかったが。
「宦官殿は人を呼んでくるとの事でした」
「この侍従長の主だな」
「詳しくはお聞きしませんが」
「聞かずとも、大凡は察しているのじゃろう、明眼人殿」
「その呼び名はやめていただきたいのですが……」
などと話をしてから、幽蘭は慈しむような視線を侍従長の骸に向ける。
彼女は、こういう目をすることもできるのだ。
「……彼女にとってはこの方が良かったのかもしれません」
「そうかの? 若くして命を落とすのは、あまりにも不幸であろう。それも、己が手で己の命を奪わなくてはならぬとは」
「この方がどのような方かは存じませんが、誰かのために身を投げたのだろうことは想像できます。だって、こんなにも穏やかな顔をしておりますから」
確かに、言われてみれば侍従長の顔は穏やかなものだ。
彼女は溺れて死んだのである、それはあまりにも苦しい死だっただろう。
「……この方の主は、この方の死を悲しまれる方ですか?」
「ああ、心の底から悲しむじゃろう。今も、急ぎここを目指しておるはずじゃ」
「であれば、それをこの方もわかっていたはずです。何より――この方は見たくなかったのではないでしょうか」
「見たくなかった、とは?」
ぽつりと語りながら、幽蘭は目を伏せる。
一言を吐き出すのに、少しだけ覚悟を要するようだった。
「
先ほども言ったが、侍従長が捕まればその責任を妃も受ける。
しかしこうして自死を選べば、妃は悲しむが証拠不十分で侍従長が犯人となることはない。
妃は、責任を負わなくて済むのだ。
それは侍従長にとっての幸福であり、妃にとっての不幸でもある。
しかし未来では、妃の不幸が妃の幸運になるはずなのだ。
故に昭華は端的に評する。
「……傲慢じゃの。そして、独善じゃ」
「だとしても、人はそれを選んでしまうのでしょう。死によって楽になることは、決して正しいこととは言えません。それでも、この死が彼女にとってはこれが彼女なりの生き方だったのです。なぜなら――」
幽蘭は、まるで慈しむようにその死を抱擁していた。
決して正しいことではない、と口にしながらも、肯定しているのだ。
きっと、それを肯定できるのが、自分だけだとわかっているから。
そして──
「生きるというのはそれだけ難しく、大変なことですから」
その言葉に、昭華は目を見開く。
思い出してしまったからだ。
あるいは、重ねてしまったのか。
人々の安寧を祈り、荒れ果てた動乱の中原にてただ一人平穏を望んで戦った男の事を。
──これが、人が幽蘭を求めてしまう理由か。
死を抱きとめるように受け止める幽蘭のあり方は、ふとした拍子に彼女がどこか遠くへきえてしまいそうな危うさがある。
儚い、と言ってもいいのだろう。
彼女の細すぎる手足も、薄すぎる体つきも、繊細な顔立ちもその印象を加速させる。
だからこそ、この娘をこの世に繋ぎ止めたいと焦がれ、知らず知らずのうちに心捕われてしまうのだ。
あの幼き主上がそうであるように。
そんなもの思いに耽っていると、不意に隣に居たはずの気配がなくなっていることに気が付く。
「幽蘭!?」
思わず、昭華は周囲を見渡してしまう。
少し席を離れているだけなのだろう。
しかしまるで、忽然と幽蘭が消えてしまったかのような状況に、息をのむ。
これでは、自身もまたあの娘に執着しているようだ、という冷静な感情もどこかに抱きながら。
「──昭華様」
「ぬお! どこに行っておったのじゃ!?」
「……彼女をそのままにしておくのは、忍びないと思いまして。こちらを」
どうやら、幽蘭は侍従長にかける布を持ってきたらしい。
律儀なことだ。
しかし、幽蘭らしい振る舞いでもある。
この娘は、自分に火の粉が振り注がないのであれば、気遣いを欠かさないのだ。
「助かる。……今、陳徳が妃を呼びに行っている。ここに残るかの?」
「遠慮しておきます。私は部外者ですから」
昭華の言葉に、幽蘭は一礼してからその場を立ち去っていく。
後には昭華だけが残された。
そして、昭華は空を仰いでこぼした。
「……生きるというのは難しいな。
その言葉が、誰かに届くことはない。
晩秋の白んだ空に、溶けるように消えていった。
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