魔法少女たちの恋(魔法少女まどか☆マギカ)   作:LongLong

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第一章 暁美ほむらの恋
第一話 窓


第一話 窓

 

 目覚ましが鳴るより先に、暁美ほむらは枕元の携帯を引き寄せて日付を見た。

 四月七日。

 昨日の次の日だった。そんな当たり前のことを確かめる癖が、四年経っても抜けていない。同じひと月を何度もやり直していたころ、目を開けて最初にするのはいつも日付の確認だった。並ぶ数字は毎回同じだった。病院の白い天井と点滴の落ちる音と、まだ何も起きていない一か月の始まり。今は昨日の続きの数字が、昨日の続きの朝に出てくる。それを見届けないと起き上がれない。身体というのは、案外しつこいものらしい。

 左手を顔の前にかざすと、指輪がほどけて掌に紫のソウルジェムが載った。卵形の表面の奥に、薄い煙のような濁りがかかっている。昨夜は何も狩っていないので、これは一日を暮らしただけで溜まった分になる。机の引き出しからグリーフシードを一つ出して近づけると、煙は音もなくそちらへ移っていった。

 クローゼットには黒いスーツが掛かっていた。三週間前、駅ビルの売り場で店員に勧められるままに選んだものだった。袖を通して鏡の前に立つと、誰かの葬式に向かう人のように見えた。長い黒髪が黒い上着の背中に溶けて、髪と布の境目がほとんど見分けられない。似合うかどうかで言えば似合ってはいるのだ。似合いすぎて、少しばかり縁起が悪いだけで。

 同じ引き出しの奥には赤い縁の眼鏡がしまってある。もう何年もかけていないし、度も合わない。それを捨てずにいる理由を、ほむらは自分に説明したことがなかった。引き出しを閉めるときに指先が縁に触れたけれど、取り出しはしなかった。

 机の上で携帯が震えた。

『ほむらちゃん、入学おめでとう!! スーツ姿、あとで写真送ってね。わたしも来年ぜったい行くから、待っててね』

 末尾に、ピンクの兎が両手を握りしめているスタンプが一つ付いていた。

 送られてきたのは六時五十二分だった。予備校の自習室は七時半に開く。その前に家を出て、電車の中でこれを打ったのだろう。送り終えたら、すぐに単語帳を開いたに違いない。

 二月の合格発表の日、ほむらはまどかの部屋で、同じ画面を二人でのぞき込んだ。ほむらの番号はあって、まどかの番号はなかった。まどかはまず「ほむらちゃん、おめでとう」と言った。自分の番号が並びから抜けていることには、少し遅れて気づいたような顔をした。泣いたのはそのあとで、泣きながら笑ったのは、さらにそのあとだった。

 その夜、ほむらは入学を断って、もう一年一緒にやると言った。まどかは首を横に振った。普段ならどこかで折れるはずのまどかが、その日だけは最後まで折れなかった。

「それはだめ。ほむらちゃんは行って。わたしが追いかけるから」

 追いかける、という言い方を、ほむらは今も少し持て余している。追いかけるのは、ずっと自分のほうだったからだ。

 時間を戻せば、と一度だけ考えたことは誰にも言っていない。盾が戻れるのは、あのひと月の始まりにだけだった。そのひと月はもう四年も後ろにある。仮に戻れたとしても、試験の点数のために使っていい力でないことくらいはわかっていた。何十回も繰り返して守った命が、今は予備校の自習室で、ありふれた不運と一緒に英単語を覚えている。その不運に、ほむらはもう指一本触れることができないのだ。

『ありがとう。写真は、たぶん撮らないわ』

 打ってから末尾を消して、書き直した。

『ありがとう。まどかも、無理はしないで』

 送るとすぐに既読がついた。電車の中の、単語帳の上でついた既読だった。

 続けてもう一件、巴マミから届いた。

『暁美さん、入学おめでとう。式が終わったら、正門の左側で待っているわね。人が多いから、ひとりで抜けようとしないこと』

 マミは一年先にこの大学に入っている。二年生になったばかりの先輩からの念を押すような一文に、ほむらは小さく息を吐いた。人混みを抜けることにかけてなら、ほむらはたぶん誰より慣れている。マミもそれは知っているはずで、知っていても書かずにいられないのが巴マミという人だった。

 みんなのグループにも一件あった。美樹さやかからの、ナースキャップを被った猫のスタンプだった。看護系の大学に進んださやかの入学式も、今日の午後だと聞いている。まどかはそのスタンプに、少し遅れて拍手のスタンプを返していた。

 

    *

 

 見滝原大学の講堂は、敷地の北の端に建っていた。

 四年前、このあたりには何もなかった。あの嵐のあと見滝原の北部は長く更地のままで、再開発の最初の区画に選ばれたのがこの敷地だった。硝子と白い石を組み合わせた建物は、どこから見ても新しすぎた。影の落ち方さえ、まだ決まっていないように見える。

 正門から講堂へ続く並木道の途中に、「入学式」と墨で書かれた立て看板があった。その前に短い列ができている。スーツの新入生と、その横に立つ親たち。母親が娘の襟を直し、父親が携帯を構えて三歩下がる。撮り終えると今度は三人で並んで、通りがかった学生にシャッターを頼む。

 ほむらはその横を通り過ぎた。ほむらの隣でカメラを構える人はいない。それを寂しいと感じる仕組みは、ずっと前に使い道をなくして錆びついていた。

 文学部の区画の、後ろから三列目に座った。式が始まるまでのあいだに、前の席の男子学生が二度振り返った。一度目は髪を見て、二度目は顔を見て、三度目は振り返りかけてやめた。ほむらは配られた式次第に目を落としたまま、それをやり過ごした。見られることにも、見られたあとで何も起きないことにも、ほむらはとっくに慣れていた。

 高校の三年間も、似たようなものだった。

 ほむらとまどかとさやかは同じ見滝原の高校に進み、三年のうち二年は同じクラスになった。昼は三人で机を寄せて、帰りは三人で駅まで歩いた。行事の班も体育のペアも、気づけばいつもその三人で決まっていた。話しかけてくる人がいなかったわけではない。ただ、その大半はほむらの隣にいるまどかかさやかを通して話しかけてきたし、ほむらのほうにも、輪の外へ手を伸ばす理由が見つからなかった。廊下で会釈を交わす程度の顔ならそれなりにいる。名前まで言えるのは、三年間でもたぶん両手で足りる。

 一度だけ、さやかに「あんたさ、もうちょっと友達作りなよ」と言われたことがある。その次の日も、ほむらは三人で昼を食べた。さやかもそれ以上は言わなかったし、言った本人がいちばん先に机を寄せてきた。

 守る必要がなくなっても、まどかの隣を離れる理由は見つからなかった。この講堂には、そのまどかもさやかもいない。隣に座っているのは、名前も知らない女子学生だった。

 学長の式辞の中ほどで、四年前の災害の話が出た。未曾有の嵐、と学長は言い、本学はこの街の再生とともに歩んできた、と続けた。前の列で、誰かの母親が鼻をすすった。

 その嵐を、ほむらは何度も見ている。

 来るとわかっている空を、来る日の朝から何度も見上げた。勝てずに終わった回のほうがずっと多い。勝った一度の空よりも、負けた何十回の空の色のほうをよく覚えている。この講堂では誰の役にも立たない記憶だった。壇上の学長も、隣で式次第を丸めたり伸ばしたりしている女子学生も、そんなことは知らない。知らなくていいのだ。そのために戦ったのだから。

 ほむらは壇上に活けられた花の、いちばん端の一本に目を置いて、式辞が終わるのを待った。

 

    *

 

 講堂を出たとたん、声の壁にぶつかった。

 並木道の両側に長机とのぼりがすき間なく並んでいた。上級生たちがビラの束を扇のように広げて、新入生の手元へ差し込んでくる。テニス、軽音楽、写真、茶道、アカペラ、何の略なのかわからないアルファベット。受け取らないでいると、ビラは宙で行き場をなくす。次の瞬間には、隣の新入生の手に移っている。

 ほむらの前でだけ、ビラの止まっている時間が少し長かった。

「写真部です、被写体とか興味ないですか」

「モデルやってます? え、やってない? うそ」

「演劇部でーす、その髪、舞台で絶対映えますって」

 ほむらは歩く速さを変えなかった。人の流れの中で、半歩先のすき間を先に読んで身体を入れる。どこに誰が立っていて、次に誰が一歩踏み出してくるか、かつてのほむらは知っていた。同じ廊下を、同じ一か月のあいだに何十回も歩いたからだ。ここにいる誰の動きも、今のほむらは知らない。それでも身体は勝手にすき間を探し当てるのだから、慣れというのは便利で、少し気味が悪い。

 正門の左側に、黄色い巻き髪が見えた。

「暁美さん」

 巴マミは、ほむらの手に一枚もビラが残っていないのを見て、口元に手を当てて笑った。

「さすがね。私なんか去年、十八枚持たされたのよ」

「数えたの」

「数えるわよ。どれも断れなかったんだもの」

 マミは自分の鞄を持ち直し、並木道のほうを振り返った。看板の前の列はさっきより短くなっていた。

「撮りましょうか、あそこで」

「いいわ、別に」

「私が撮りたいのよ」マミはもう携帯を取り出していた。「私のときはね、誰もいなかったの。ひとりで看板の前に立って、通りがかった人に撮ってもらったのよ。知らない人に撮ってもらった写真って、なんだか少し遠いの。あとで見返しても、自分のことなのに、よその家のアルバムみたいで」

 そう言われてしまうと、断る理由が見つからなかった。ほむらは列の最後尾について、三組の家族のあとで看板の横に立った。

「表情、固いわよ」

「いつもこうよ」

「知ってるわ」

 マミは一枚だけ撮って、すぐに携帯を下ろした。二枚目を撮らないところに、ほむらは少しだけ救われた。

「佐倉さんも来たがってたんだけど、起きなかったの。夜のうちに二つ回ってくれたから、寝かせておいたわ」

 佐倉杏子は、この二年ほどマミの部屋で暮らしている。家賃は払っていない。マミに言わせれば居候で、杏子に言わせれば用心棒だった。どちらの言い分も半分ずつ当たっている。

「落ち着いたら、みんなでお茶にしましょう。鹿目さんの息抜きにもなるでしょうし」

「……そうね」

 返事が一拍遅れたのを、マミは聞き逃さなかったらしい。何か言いかけて、結局「じゃあ、また連絡するわね」とだけ言った。そういうところで引いてくれるのも、巴マミという人だった。

 帰りの電車で、マミから写真が届いた。看板と黒いスーツと、この大学の名前が、一枚にきちんと収まっていた。送ってね、とまどかは書いていた。ほむらの指はトーク画面を開くところまでは動いた。この一枚が七時半からの自習室にどう届くのかを考えて、ほむらは画面を閉じた。

 

    *

 

 履修登録の締め切りは翌週の水曜だった。

 ガイダンスで配られた冊子と学内システムのシラバスを並べて、ほむらは一晩で時間割を組んだ。必修の語学を月曜と木曜に寄せ、空いた枠に概論を埋めていく。卒業に要る単位の計算は、冊子の説明を読むより表にしたほうが早かった。

 シラバスには、どの講義にも十五回分の題目が並んでいた。第一回、ガイダンス。第二回から第十四回まで、順に何かを学び、第十五回でまとめて終わる。半年先までの予定が紙に刷られて、新入生全員に配られているのだ。

 ほむらはその一覧を上から下まで眺めた。

 半年先のことを、ほむらは何も知らない。この教室で誰が隣に座り、どの回で誰が休み、期末の試験に何が出るのか。知っていることを繰り返すのには慣れている。知らない誰かの決めた予定のとおりに、先のわからない半年を過ごすのは初めてだった。それが妙に新しい。そう感じている自分が、ほむらは少し可笑しかった。

 一年次必修の基礎ゼミナールだけは、自分で選べなかった。クラスは学籍番号で機械的に割り振られ、ほむらの番号は第九クラスに落ちた。木曜三限、人文棟三階、三〇二教室。担当教員の名前には見覚えがなかった。名簿も時間割も知らない名前ばかりで、それにもそのうち慣れるのだろう。

 

    *

 

 水曜の夜、駅の東口の地下通路で結界がひとつ開いた。

 使われなくなった連絡口の、シャッターの下りた売店の奥に空間の継ぎ目があった。踏み込むと、中はどこまでも続くコインロッカーの壁だった。扉という扉が勝手に開いては閉じている。使い魔はロッカーの鍵の形をしていて、ちゃりちゃりと鳴りながら天井を這い回っている。魔女は通路の突き当たりにいた。ロッカーを何百と積み上げた胴体の真ん中で、扉の一つが口のように開いては閉じていた。

 杏子が先に跳んで、節ごとにほどけた槍の柄で天井の鍵をまとめて薙ぎ払った。ほむらは盾から拳銃を抜き、開いた扉の奥へ三発撃ち込んだ。二発目で扉が閉じかけ、三発目で胴体の積み木ごと崩れた。

 結界がほどけていく。杏子は転がってきたグリーフシードを靴の先で止めて拾い、ほむらに放った。

「あなたが先でいいわ」

「いいって。昨日マミのやつ使わせてもらったし」

 ほむらは受け取って、自分のソウルジェムに近づけた。濁りはほとんどなかったが、杏子はこういうところで引かない。押し問答をするより、受け取ったほうが早い。

 地上に出ると、夜の空気はまだ少し冷たかった。駅前のロータリーを並んで歩きながら、杏子が口を開いた。

「で、どうよ大学」

「まだ二日よ」

「二日ありゃ何かあんだろ。友達は?」

「必要ないわ」

「言うと思った」杏子は両手を頭の後ろで組んだ。「じゃあ男は?」

「……意味がわからないわ」

「マミが言ってたぞ。大学ってのはそういうとこだって」

「巴マミがそんなことを言うかしら」

「言ってねえけど」

 ほむらが少し見上げると、杏子は悪びれもせずに舌を出した。この四年で杏子の背はずいぶん伸びて、いつのまにか目線がほむらより上になった。並んで話すたびに顎をわずかに上げなければならないのが、ほむらにはまだ慣れない。昔のままなのは、言いたいことを冗談に混ぜて先に投げてくるところだ。

 ロータリーの端の信号で、杏子が足を止めた。

「まどか、どうしてる」

「予備校よ。毎朝、七時半から」

「……あいつさ、落ちたの、おまえに悪いと思ってんだろ」

 信号は赤のままだった。ほむらは答えなかった。

「で、おまえはおまえで、受かったの悪いと思ってる」杏子は信号機を見上げたまま言った。「それ、あいつ一番嫌がるぞ」

「わかってるわ」

「わかってんのが、一番たち悪いんだよな」

 信号が青に変わった。杏子は先に歩きだして、横断歩道の白い線だけを選んで踏んでいった。子どもの遊びのような歩き方だった。ほむらはその背中を見ながら、黒い部分も気にせずに渡った。

 

    *

 

 木曜の三限は午後一時に始まる。

 朝の天気予報は、午後から大気の状態が不安定になると言っていた。三〇二教室は長机をコの字に並べた小さな部屋で、十四の席に十四人の新入生がいた。全員から全員の顔が見える並びだった。ほむらは部屋に入った瞬間にそれを理解して、窓際の、出口にいちばん近い角の席を選んだ。

 担当教員は五十がらみの女性で、村瀬と名乗った。専門は近代の日本文学だという。入ってくるなり蒸すわねと言って、ほむらの背後の窓を半分開けた。四月の初めにしては生ぬるい日で、空の西の端に、少し重たそうな雲が溜まっていた。

「じゃあ、まずは自己紹介ね。名前と出身と、何か一つ。趣味でも、最近はまってることでもいいわ。時計回りでいきましょう」

 時計回りだと、ほむらは九番目だった。

 一人目は神奈川から来たと言い、二人目は見滝原の地元だった。三人目は高校でずっとバスケットをやっていたと言った。ほむらは聞いていたが、覚えようとはしなかった。名前と顔を結びつけるのは、必要になってからでいい。向かいの辺の誰かが長野から来たと言った。一人暮らしで自炊を始めて、三日目に米を焦がしたらしい。そこで小さな笑いが起きた。ほむらの耳はその笑いを音として拾い、意味としては拾わなかった。

「暁美ほむらです。見滝原出身です」

 それで終わるつもりだった。村瀬が首を少し傾けた。

「何か一つ、ある? 趣味とか」

「特にありません」

 一秒か二秒の間があった。十三人分の視線が、顔と髪のあたりで落ち着く場所を探しているのがわかった。

 向かいの辺の、ちょうどほむらの正面あたりで、誰かが短く息を漏らした。笑い声と呼ぶほどのものではなく、嘲る響きもなかった。何かに感心したときに、人が思わず出す音に少し似ていた。

 村瀬が潔くていいわねと言って、十番目に移った。

 自己紹介のあと、村瀬はレポートの書き方の話を始めた。引用と剽窃の違い、出典の示し方。スクリーンに映された資料を、十三人がノートに写していく。ほむらは要点だけを三行に書いた。

 四行目を書きはじめたところで、教室が暗くなった。

 蛍光灯は点いていた。窓の外の光だけが、誰かが栓を抜いたように急に引いていった。半分開いた窓から湿った風が吹き込んだ。前の席の誰かのプリントが一枚、床へ滑り落ちる。何人かが窓のほうを見て、すぐにスクリーンへ目を戻した。春の天気なんてこんなものだと、誰もが思っている顔だった。

 そのとき、空が白く光った。

 数える間もなく、音が来た。

 ほむらの身体のどこかが、その音を知っていた。

 宙へ引き剥がされていくビルの鉄骨のきしみ。頬を打つ横殴りの雨と、自分で仕掛けた火薬の轟音まで呑み込んで唸り続ける風。逆さまに浮かんだ巨大な影は、見上げればすぐそこにいて、歯車の回るような声で笑っていた。瓦礫に叩きつけられて仰いだその空の下で、遠くから名前を呼ぶ声が途切れる、その瞬間の静けさ。何十回も聞いた。何十回聞いても慣れることはなく、そのたびに盾を回した。

 左手が動いていた。

 胸の前へ持ち上がって、そこにあるはずの盾を構えようとしている。何十回と繰り返した動きを、身体はまだ覚えていた。指輪が熱を持った。ソウルジェムの奥で、魔力がほとんど反射のように立ち上がりかけている。今ここで変身すれば、十三人の前で、ほむらは黒いスーツから別のものに変わる。それを止める手立てを、この一秒のあいだに考えている余裕はなかった。

 ほむらは右手でその手首を掴み、机の下へ引き下ろして膝に押さえつけた。

 爪が掌に食い込んだ。息をしていないことに、ほむらは気づいていなかった。二度目の光が窓の外を走った。

 コの字の向かいの辺で、椅子の脚が床を擦る音がした。

 足音が机の外周を回ってくる。一歩、二歩。ほむらはそれを数えていた。ほかには何もできずにいた。五歩、六歩。七歩目で、視界の端を紺色の袖が横切った。

 袖の持ち主は急がなかった。窓枠に手を掛けて、半分開いていた窓を最後まで閉めた。巻き上げてあったカーテンの紐をほどき、するすると下ろす。外の空が、布の向こうへしまわれた。

「閉めちゃっていいですか。雨、吹き込みそうなんで。カーテンも下ろしときますね、スクリーン見やすくなるし」

「あら、ありがとう。助かるわ」

 村瀬は振り返って礼を言い、また資料の説明に戻った。何人かが顔を上げ、なるほど見やすくなったという顔をして、またノートに目を落とした。

 男子学生は自分の席へ戻っていった。来たときと同じ七歩で、机の外周を回って。

 戻るあいだも、座ってからも、彼は一度もほむらのほうを見なかった。

 三度目の雷は、カーテンの向こうで鈍く鳴った。同じ空から鳴っているはずなのに、布を一枚隔てただけで遠い町の工事の音に変わった。指輪の熱がゆっくりと引いていった。吸い込んだ空気が冷たくて、ほむらはそこで初めて、自分が息を止めていたことに気がついた。

 右手を離して左の掌を開くと、爪の跡が四つ、小さな三日月の形に赤く並んでいた。

 ほむらは掌を膝の上で閉じて、四行目の続きを書いた。字は、それまでの三行と同じ形で書けた。

 

 残りの四十分、ほむらは講義を聞きながら、別のことを考えていた。

 光ってから、袖が視界に入るまで、およそ十秒。そのあいだ、ほむらは声を出していないし、椅子を鳴らしてもいない。外から見えたのは、動かなかったことと、右手で左手を押さえていたことくらいだ。机の下に隠れていた手を、向かいの辺から見ることはできない。

 見滝原中学の教室にいた三十人ほどなら、誰が次に何を言うか、ほむらはほとんど言い当てられた。同じ一か月を何十回も見てきたからだ。誰が雷に悲鳴を上げ、誰がそれをからかい、誰が窓に近づくか。それに比べて、この部屋の十三人については何一つ知らない。知らない人間の、知らない七歩だった。

 仮説は二つ立てられた。彼は何かに気づいて、それを気づかなかったことにして窓を閉めた。あるいは、ただ雨が吹き込みそうだったから閉めた。前者なら、彼は自分が助けた相手の顔を、わざと一度も確かめなかったことになる。カーテンを下ろす理由を、スクリーンのためだと教室じゅうに配ったことにもなる。後者なら、窓際の席でもない学生が、雨のためだけに机を半周したことになる。

 どちらにも裏づけが足りなかった。ほむらは判断を保留した。答えの出ないものを脇へ置いておくのは、本来ほむらの得意なことではない。

 

    *

 

 チャイムが鳴ると、十三人は思い思いに鞄を閉めて出ていった。ほむらは最後に出るつもりで、ノートを閉じるのを遅らせた。人の背中を見送ってから立つのは昔からの習慣だった。背中を見せるより、見ているほうがいい。

 足音が一つ、出口ではなくこちらへ向かってきた。

「暁美さん」

 顔を上げると、さっきの男子学生が机の角に立っていた。

 背は高いほうで、スーツではなく紺のパーカーを着ていた。髪は短く、直しきれなかった寝癖が一房、右のこめかみの上で跳ねている。目が合っても、彼の視線は顔から逸れなかったし、髪のほうへ逃げもしなかった。少しして、その目はほむらの膝の上へ落ちた。閉じた左手が、まだそこにあった。

 彼は手については何も言わなかった。

「あ、すいません、急に。……日比野です。日比野航。さっき自己紹介で言ったんですけど」

「聞いてなかったわ」

「ですよね」日比野は笑った。声は出さずに、目元だけで。「長野から来て、米焦がしたって言ったの、俺です」

 向かいの辺で起きた小さな笑い。その真ん中にいたのが、この顔だったらしい。ほむらは音としてだけ拾っていたものに、遅れて顔を貼りつけた。

 ほむらが「特にありません」と言ったとき、正面で息を漏らしたのも、たぶん同じ顔だ。

「さっきは、ありがとう」

 ほむらがそう言うと、日比野は一瞬、何のことかわからないという顔をした。それから、ああ、と小さく言った。

「窓ですか。いや、俺、雷だめなんですよ。光った瞬間、心臓止まるかと思って」

 嘘だ、とほむらは思った。

 雷のだめな人間は、光っている窓に向かって、自分から七歩も歩いていかない。カーテンの紐をほどく手も、あんなふうに落ち着いてはいないだろう。助けたことにしないために、彼は怖がり役を自分で引き受けたのだ。少なくとも、ほむらの立てた仮説の片方では、そういうことになる。

「何か、お礼をさせて」

「いや、いいですよ。窓閉めただけで何かもらったら、割に合わないんで」

「割に合わないのは、こっちよ」

「え?」

「借りを作ったままにしておくのは、好きじゃないの」

 日比野は少し考える顔になった。考えるときに、こめかみの寝癖を指で押さえる癖があるらしい。押さえたところで、跳ねた髪は戻らなかった。

「じゃあ、貸しってことで。そのうち返してください。いつでもいいんで」

 ほむらは黙っていた。日比野はそれを了承と受け取ったのか、リュックを片方の肩に掛け直した。

「じゃ、また木曜」

 出口のところで一度だけ振り返り、軽く頭を下げて、日比野航は廊下へ消えた。

 教室にほむらだけが残った。窓辺へ行ってカーテンを少しだけ持ち上げると、雨はもう上がりかけていた。濡れた並木の向こうで、雲の切れ間が白く光っている。もう雷の光ではなかった。

 返す期日も、方法も、額も決まっていない借りだった。ほむらはこういう借りがいちばん苦手だった。何かを渡すのは簡単で、置いて離れればいい。何十回もそうしてきた。受け取ったものの返し方だけは、誰にも教わったことがない。

 日比野航。

 聞いていなかった名前を、ほむらは一度だけ頭の中で繰り返した。興味があるからではなかった。返すまでのあいだ、覚えておかなければならない名前だというだけだ。

 かつてのほむらは、覚えた名前を何度も失くしてきた。一か月が巻き戻るたびに、覚えているのは自分だけになった。相手はほむらの名前を一から聞き直した。この名前はたぶん、明日になっても消えない。来週の木曜には、向こうもこちらの名前を覚えたまま、あの席に座っているはずだ。

 また木曜、と彼は言った。

 来週の木曜を、ほむらはまだ一度も見たことがなかった。

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