魔法少女たちの恋(魔法少女まどか☆マギカ) 作:LongLong
第十話 聖夜
鍵の回る音がしたのは、電話が繋がってから七分後だった。
ほむらは鍵を掛けていなかった。扉が外から勢いよく引き開けられて、背中を預けていた身体が後ろへ傾いた。その肩を、誰かの手が掴んだ。
「ほむら!」
杏子だった。
ダウンの前を開けて、肩で息をしている。赤い髪が、汗で額に貼りついている。その後ろから、灰色のパーカーのさやかが飛び込んできた。
杏子の目が、玄関の床に落ちた。
玄関の段差の縁から床へ、赤いものが筋になって広がっている。赤い手形。黒く濡れたコートの袖。肘の上で固く締め上げられた、くすんだ緑の止血帯。
杏子の顔から、表情が消えた。
「……さやか」
「わかってる」
さやかは靴も脱がずに膝をついた。ほむらの左腕を取って、裂けた袖を肘の上までそっとまくり上げる。
さやかの手が、一瞬止まった。
「……うわ」
小さく、それだけ言った。
さやかの左手の指輪が、青く光った。その輝きがさやかの掌に移って、ほむらの傷口の上に落ちた。水の底に沈んでいくような、冷たくて柔らかい光だ。
傷の縁が、動いた。
赤い線の奥のほうから、何かが少しずつ寄り合っていく。ほむらには、何日かけてもこうはできない。同じ魔力から出てくるはずなのに、塞ぐことと壊すことは、まるで別の言葉のようだった。
「ほむら、これ、いつ」
「七時前」
「一時間近く、このままだったの?」
「止血帯で、止めたわ」
さやかの目が、肘の上の帯に移った。
「……これ、どこから出てきたの」
「盾の中」
「なんで盾に止血帯入ってんのよ……」
さやかは呆れたように息を吐いた。光を当てる手は、止まらない。
杏子が、ほむらの横にしゃがみ込んでいる。その目は、ほむらの左手に向いていた。その指の、指輪を。
「見せろ」
ほむらは右手で、左手の指輪に触れた。ほどくと、掌にソウルジェムが載った。
杏子の息が止まった。さやかの光が、一瞬だけ揺れた。
ソウルジェムは、半分以上が黒い。底から渦を巻いて上がってきた濁りが、澄んだ部分を上から押し潰そうとしている。
「……変身したのか。この状態で」
「止血帯を、出すために」
「だからって……!」
杏子は言いかけて口を閉じた。立ち上がって、靴を脱ぎ捨て、廊下を走っていく。机の引き出しの開く音がした。
戻ってきた杏子の手に、グリーフシードが二つある。引き出しの中にあった、残りの全部だ。
一つ目を押し当てると、濁りが音もなく移っていく。それでも足りずに、杏子は二つ目を押し当てた。黒が、ゆっくりと引いていく。底のほうに、薄い煤が残っている。
杏子はダウンのポケットに手を入れて、自分のグリーフシードを一つ取り出した。それを、ほむらのソウルジェムに当てた。
最後の煤が移って、ソウルジェムが澄んだ。
「杏子、それは」
「貸しじゃねえからな」
杏子は、使い終わった三つをまとめて握りしめた。ほむらのほうは見ずに、床の血を見ている。
「あたしのほうが、多めに持ってんだよ。明日から、狩りはあたしがやる。おまえはしばらく休め」
「杏子」
「休め」
それ以上の返事を、杏子の声は受け付けなかった。
さやかの光が、少しずつ弱まっていった。
ほむらは自分の左腕を見た。赤い線は、どこにもない。乾きかけた血の跡だけが、白い肌の上に細い地図のように残っている。
「……治ったわ」
「止血帯、外していいよ。もう」
結び目は固く、右手だけではほどけなかった。杏子が手を伸ばして、棒を戻し、帯を外した。締めつけられていた腕に血が戻ってきて、指先がじんじんと痺れた。
「ありがとう、さやか」
「いいって。公園の、あれのお返し」
さやかは疲れた顔で笑って、玄関の床にぺたんと座り込んだ。
*
杏子が、洗面所から雑巾とバケツを持ってきた。
ほむらが手を伸ばすと、座ってろ、と言われた。さやかが手を伸ばすと、さやかも座ってろ、と言われた。
杏子は黙って床を拭いた。段差の縁を拭き、赤い手形を拭いた。バケツの水が赤く濁るたびに立ち上がって、洗面所で水を替えてくる。四往復目で、床は元の色に戻った。杏子がこんなに丁寧に何かを拭くのを、ほむらは初めて見たかもしれない。
「……で、ほむら」
さやかが膝を抱えて言った。
「結界、日比野さんと一緒だったんでしょ。見られた?」
「変身は、見られていないわ」
「結界は?」
「見たわ。使い魔も。航が、飾り玉で戦ったの」
さやかは目を閉じた。
「……そっか」
「魔女を倒したのは、知らない魔法少女だったわ」
杏子の雑巾が止まった。
「知らない?」
「杏子でも、マミでも、さやかでもない魔力。路地の奥でグリーフシードを摘まんで、こっちを見て、消えたの」
杏子とさやかが、顔を見合わせた。
「……よそのが来てんのか、見滝原に」
杏子の声が低くなった。
「マミに言っとく。今夜のうちに」
杏子は雑巾をバケツに放り込んで、それから、ほむらを見た。
「まどかには」
「言わないで」
ほむらは言った。
「共通テストまで、三週間しかないの。腕のことも、結界のことも。……あの子に、余計なものを持たせたくない」
杏子はほむらを見ていた。
その目が、何かを量るように少しだけ細くなる。
「……わかった。けどな、あいつは――」
杏子はそこで口を閉じた。
「何かしら」
「……なんでもねえ」
杏子はバケツを持って立ち上がった。洗面所のほうへ歩いていく背中を、ほむらは見ている。まどかに隠しごとをするのを、咎められたのだろう。四年前から、杏子はまどかにだけは甘い。
コートのポケットの中で、携帯が震えた。また、震えた。
さやかがほむらのポケットを見た。
「日比野さん?」
「そうよ」
「返事した?」
「大丈夫、とだけ」
さやかは少しのあいだ口をつぐんで、それから、ゆっくりと言った。
「電話してあげなよ。文字じゃ伝わんないよ、それだけじゃ。……あの人、今、たぶん生きた心地してない」
さやかは膝を抱え直した。
「あたし、恭介に言ったあと、何日も電話出なかったでしょ。あれ、今思うと、一番やっちゃいけなかった。待ってる側、きついんだよ。すごく」
さやかは立ち上がって、杏子の後を追って廊下を歩いていった。
玄関に、ほむらが一人残った。
*
画面に、未読のメッセージが十一件溜まっている。
ほむらは一件も開かずに、日比野の名前を押した。
呼び出し音は、一回も鳴り終わらなかった。
『ほむら!』
かすれた声だ。電話の向こうで、風の音がしている。
『ほむら、ほんとに大丈夫? 今どこ、病院?』
「家よ」
『家……』
日比野の声が途切れた。
『腕は。血、すごかったでしょ。俺、今、救急病院の前にいて。ほむら来てないかって、受付で訊いて。来てないって言われて』
ほむらは左腕を見た。乾いた血の跡の下の、何もない白い肌を。
「腕は、もう平気。友達が来て、手当てをしてくれたわ」
嘘ではない。全部でもない。
『……ほんとに?』
「本当よ」
電話の向こうで、日比野が長く息を吐いた。何かが地面に擦れる音がする。しゃがみ込んだのかもしれない。
『よかった……』
「航」
『……うん』
「急に帰って、ごめんなさい。航は病院まで探しに行ったのに、私は何も言わずに走っていった」
電話の向こうで、短い間があった。
『……心配した。すげえ、心配した。人生で一番。鹿目さんに会う前より、ずっと』
ほむらは目を閉じた。
「航の肩は」
『え?』
「コートの肩。切られていたわ」
『あ……コート、裂けただけ。中まで届いてない、たぶん』
日比野は、自分の肩のことを今初めて思い出したらしい。
「埋め合わせを、させて」
『埋め合わせ?』
「鍋。航が作るはずだったのに、食べられなかったわ」
『……じゃあ、今度こそ、鍋。年明け。ほむらの腕が治ってから』
治っている、とは言わなかった。
「わかったわ」
『あとさ。シャツ。まだ開けてない。ほむらの前で開けたいから、今度の鍋のとき、開けていい?』
「……ええ」
日比野はそこで黙った。
ほむらは、日比野が次に何を言うのかを待った。
さっきの、何だったの。
路地で、日比野はそう言いかけた。メッセージでもそう打って、今それはいい、とすぐに打ち直していた。
『今日は、ゆっくり休んで。……おやすみ、ほむら』
「おやすみなさい」
電話が切れた。
訊かれなかった。包装紙の廊下も、胡桃割り人形も、振り下ろされるサーベルも、全部見たのに。
ほっとしている自分がいた。
そういう自分を、ほむらは少しだけ嫌だと思った。
*
居間に入ると、台所の明かりが点いている。
杏子が冷蔵庫の前にしゃがみ込み、さやかがその後ろから覗き込んでいる。
「白菜、半分。豆腐、一丁。鶏もも……ある。長ネギは、ねえな」
「何をしているの」
「晩飯。ファミレス、途中で出てきたから。あたしもさやかも、ドリンクバーしか飲んでねえ」
「ポテト、半分残してきたんだよね……」
さやかが名残惜しそうに言った。
冷蔵庫の中身は、二日後の火曜に、まどかと食べるつもりで買っておいたものだった。
「私が作るわ」
「座ってろ。今日は、あたしが作る」
ほむらは杏子を見た。
杏子が台所に立つところを、ほむらは見たことがない。マミの部屋でさえ、杏子は食卓で箸を持って待っている側なのだ。
「……作れるの?」
「鍋だろ。切って、入れて、煮るだけだろ」
杏子は白菜を洗いはじめた。手つきが少し乱暴で、葉が一枚、流しの縁から床に落ちた。杏子はそれを拾って、もう一度洗った。
「さやか、豆腐切れ」
「えー、あたしお客さんなんだけど」
「腕治した客は、ついでに豆腐も切るんだよ」
「どういう理屈よ……」
さやかは文句を言いながら、豆腐を掌の上に載せて包丁を入れはじめた。
杏子が鶏肉を前にして、手を止めた。
「……ほむら。鶏って、どのくらいに切んの」
「一口大」
「一口って、誰の一口だよ」
「杏子の一口なら、大きすぎるわ」
さやかが噴き出した。杏子は、うっせえ、と言って、少しだけ小さめに切った。
土鍋に水を張って昆布を入れたのは、ほむらだった。椅子から、指示だけをした。昆布はそこ、醤油は大さじ二。杏子は、いつもよりずっと素直にそのとおりに動いた。
土鍋が、ことことと音を立てはじめる。湯気が、窓を白く曇らせていく。
さやかが曇った窓に、指で星を描いた。その横に、下手なクリスマスツリーも。
「イブに三人で鍋かあ。クリぼっち会の延長戦だね」
「ぼっちじゃねえだろ。三人いんだから」
「三人とも、相手いないじゃない」
「……ほむらは、いるだろ」
杏子が言った。
さやかは窓から指を離して、ほむらを見た。
「……そっか。ほむらは、いるんだ」
さやかは少し寂しそうに笑って、首を振った。
「いいじゃん。いるんだから。今日はたまたま、こっちにいるだけ」
*
鍋を食卓の真ん中に置いて、蓋を開けた。
白菜と、豆腐と、鶏肉と、しめじ。長ネギは入っていない。
「いただきます」
杏子が、最初にほむらの器によそった。鶏肉を三切れ、白菜を多めに、豆腐を二つ。それから、さやかの器と、自分の器に。
ほむらは器を両手で持った。
温かい。
さっきまで、自分の手は冷たかったのに。日比野のポケットの中でも、玄関の床の上でも。器の温かさが、掌からゆっくりと腕に染みてきて、止血帯の痕のある肘の上まで届いた。
白菜を一口食べた。
出汁が少しだけ薄い。醤油も少しだけ足りない。杏子の作った、鍋の味だ。
「……どうだよ」
杏子が、自分の器を持ったまま、ほむらの顔を見ていた。
今日の、どうだった、と日比野がいつも訊くのと同じ種類の問いだ。だいたい同じ、と言うつもりはなかった。出汁は薄くて、醤油は足りない。それでも。
「……おいしいわ」
杏子の目が見開かれた。
「ほむらが、おいしいって言った」
さやかが豆腐を頬張ったまま言った。
「……言ったわ」
「ほむらがそれ言うの、初めて聞いたかも」
杏子は何も言わずに、自分の器に目を落として白菜をかき込んだ。その耳が赤い。
「……当たり前だろ。あたしが作ったんだから」
声が上ずっている。さやかが声を上げて笑い、ほむらの口元も、ほんのわずかに動いた。
三人で鍋を食べた。さやかが、ファミレスで杏子がパフェを三つ頼んだ話をした。杏子が、二つだ、と訂正した。三つ目は半分あたしが食べたから、とさやかが言い、じゃあ二つ半だ、と杏子が言った。
窓の外のどこかの家から、クリスマスの歌がかすかに聞こえてくる。
グリーフシードは、引き出しの中にもう一つもない。見滝原のどこかに、知らない魔法少女がいる。日比野は結界を見て、訊かなかった。まどかには、何も知らせないことにした。
考えることは、たくさんある。ほむらはそれを、今夜だけは脇に置いた。
杏子が、ほむらの器が空になったのを見て、おたまを持った。
「……杏子」
「何」
「ありがとう」
「礼、言うことじゃねえって」
杏子は自分の器を持ち上げて、顔を隠すように汁を啜った。
「明日も休めよ。腕」
「治っているわ」
「治ってても、休め」
締めの雑炊を作ったのは、結局ほむらだった。米を入れる頃合いがわからない、と杏子が言ったからだ。
今度は座っていなかった。杏子とさやかに挟まれて台所に立ち、卵を溶いて鍋に回し入れた。三人分の雑炊は、すぐになくなった。
*
十二月二十五日の昼前、玄関のチャイムが一度だけ鳴った。
扉を開けると、誰もいなかった。足元に、紙袋が一つ置かれている。駅ビルの婦人服売り場の紙袋だった。
中に、くすんだ薔薇色のカーディガンが一枚、畳まれて入っていた。十月にまどかと買ったものと、同じ色の、同じ形の。
紙袋の上に、メモが一枚載っていた。杏子の字で、開店と同時に行った、一着だけ残ってた、とだけ書いてある。
外階段の下を見たが、赤い髪はもうどこにもなかった。
ゆうべ脱いだほうのカーディガンは、左の袖が肘の下から裂けて、乾いた血で黒く固まっている。ほむらはそれを畳んで、クローゼットのいちばん奥にしまった。
*
夕方、マミの部屋の扉を開けたのは、マミではなかった。
まどかだ。赤と緑の縞のエプロンを着けて、手にケーキ用のナイフを持っている。
「ほむらちゃん! いらっしゃい」
まどかはナイフを持った手を広げかけて、慌てて背中に隠した。
「マミさん、今、チキンの仕上げしてて。わたし、お手伝い係なの。今日だけは、勉強お休み」
部屋の中は温かい。オーブンの熱と焼けた鶏の皮の匂いが、玄関まで流れてくる。リビングの隅の白いツリーには、金色の玉と赤いリボンに加えて、小さな電球が巻き付けられている。点いたり消えたりしている。
ほむらはコートを脱いだ。下に着ていたのは、白いシャツの上の、くすんだ薔薇色のカーディガンだった。
まどかが、ほむらの袖を見た。
「それ、着てきてくれたんだ」
「ええ。……まどかが、選んでくれたから」
まどかは、袖口に一度だけ指先で触れた。毛玉ひとつない、まだ硬さの残る毛糸だった。まどかは少しだけ首を傾げてから、嬉しそうに、少し照れたように笑った。それから、ナイフを持って台所へ戻っていった。
廊下で、さやかがほむらの袖を軽く引いた。まどかの背中が台所の向こうに消えたのを確かめてから、小声で言う。
「腕」
ほむらは左の袖をまくり上げた。何もない白い肌を、さやかは指でそっとなぞった。
「……よし。さやか先生の仕事、完璧」
さやかは袖を下ろしてやり、何事もなかったようにリビングへ戻った。
ローテーブルはダイニングテーブルの隣に寄せられて、一つの大きな食卓になっていた。白いクロスが掛けられている。
台所から、マミが顔を出した。白いブラウスの上に、臙脂のエプロン。頬が少しだけ赤いのは、オーブンの熱のせいだろう。
「暁美さん、いらっしゃい。もうすぐ焼き上がるわ。座って待っていて」
マミは微笑んで台所へ戻った。
その微笑みが、いつもより少しだけ短い。オーブンの熱のせいではないのかもしれない。
*
ローストチキンは、丸ごと一羽だった。
マミが大皿を食卓の真ん中に置くと、まどかが拍手をした。こんがりと焼けた皮が、部屋の明かりを受けて光っている。
「じゃがいもの皮むき、全部鹿目さんがしてくれたのよ」
「えへへ……」
杏子は大皿を見つめて、喉を一度だけ鳴らした。
「いただきます」
五つの声が揃った。
マミがチキンを切り分けて、いちばん大きな腿を杏子の皿に載せた。杏子はそれを両手で持って齧りついた。少しのあいだ、食べる音と、ツリーの電球のかすかな音だけになった。
杏子の腿が骨だけになったころ、ほむらはフォークを置いた。
「話があるの」
食卓の音が止まった。
ほむらは、昨夜決めたとおりの順番で話した。
イブの夜、日比野と駅前のイルミネーションを歩いたこと。近道の路地で、結界に二人で巻き込まれたこと。包装紙の廊下と、胡桃割り人形の使い魔。日比野が飾り玉を引きちぎって、ほむらの前に立ったこと。変身しかけたところで、知らない魔法少女が魔女を倒したこと。
左腕のことは、言わなかった。
さやかがチキンを口に運ぶ手を止めて、一瞬だけ杏子を見た。杏子は骨を皿に置いて、何も言わなかった。
「知らない魔法少女……」
マミが眉を寄せた。
「佐倉さんから、ゆうべ聞いたわ。私も気をつけて見ておく」
マミはそれだけ言った。腕のことには触れなかった。杏子から、そちらも聞いているのだろう。
「航は、結界を見たわ。使い魔も。変身は、見ていない。……それでも、何も訊かなかったの」
ほむらは自分の皿を見た。
「年明けに、会う約束をしたわ。そのときに、話すつもり。魔法少女のことと、ソウルジェムのこと」
食卓が静かになった。
「航は見たのに、訊かない。訊かないまま、待っている。……それに甘えているのは、私のほうだから」
さやかが小さく息を吸った。十月のこの部屋で、さやかは言った。訊かれないから、楽なんでしょ。
さやかは何も言わずに、ほむらを見て、ゆっくりと頷いた。
まどかは、紅茶のカップを両手で包んでいる。
「……話すんだね」
まどかが言った。
「ええ」
「……全部?」
ほむらはまどかを見た。
「全部は、まだ」
まどかは少しのあいだ、カップの中を見ていた。
「……そっか」
まどかはそれだけ言った。それから顔を上げて、少しだけ笑った。
「日比野さん、きっと、逃げないと思う。何もわからないのに、ほむらちゃんの前に立ったんでしょ。……そういう人、逃げないよ」
*
マミが立ち上がった。
「……お茶を、淹れるわね」
台所でケトルに水を入れる音がした。火を点ける音がした。そのあと、何の音もしなくなった。
「マミさん?」
まどかが台所のほうを覗いた。
マミはコンロの前で、ケトルの取っ手を握ったまま立っていた。
ケトルが鳴りはじめて、マミは火を止めた。それから、ゆっくりと振り返った。
「ごめんなさい。……私も、話しておきたいことがあるの」
マミはティーポットを持って食卓に戻り、五つのカップに紅茶を注いだ。注ぐ手が、少しだけ震えている。席に着くと、膝の上で両手を重ねた。左手の指輪を、右手で覆うように。
「昨日ね。先輩のお部屋に、泊まったの」
食卓の空気が止まった。
さやかの口が半分開いた。まどかが両手で口を押さえた。杏子は持ち上げかけたカップを止めた。ほむらだけは、動かなかった。
「晩ご飯を作って、一緒に食べて。遅くなって、電車がなくなって。……そのまま」
マミの頬は赤い。それでも、目は笑っていなかった。
「朝、目が覚めて。先輩はまだ寝ていて。私、その寝顔を見ながら、ずっとこの指輪のことを考えていたの」
マミは覆っていた右手を開いた。左手の指輪が、ツリーの電球の光を受けてかすかに光った。
「先輩は、何も知らないの。この指輪のことも、私が夜に何をしているのかも、この身体が何なのかも。何も知らない人の隣で、眠ったの。言えないまま、あんなに近くにいて」
マミは顔を上げた。
「暁美さんの話を聞いていて、思ったの。暁美さんは、話すと決めた。私は、話すかどうかを考えることさえしなかった。昨日の夜も、今朝も」
マミの目に、涙が溜まっている。
「私は、ずるいのかしら」
誰も、すぐには答えなかった。ツリーの電球が、点いて、消えた。
「幸せだったの。すごく。……幸せだったから、言わなかったの。言ったらこの幸せがどうなってしまうのか、怖くて。美樹さんのお話を、聞いていたから」
マミはさやかを見た。
「ごめんなさい、美樹さん。あなたのことを、言わない理由にしてしまって」
「謝んないでよ、マミさん」
さやかが身を乗り出した。
「あたしの話、そういうふうに使っていいから。……ずるくないよ。あたしは言うほうを選んで、ああなった。マミさんは言わないほうを選んでる。どっちも選んだだけじゃん。杏子が言ってたでしょ。どっちも間違いじゃない、どっちもしんどいだけって」
「……言ったな、そんなこと」
「言ったよ。かっこよかったよ、杏子」
「うっせえ」
杏子はそっぽを向いた。
まどかが、マミの手にそっと自分の手を重ねた。
「マミさんが幸せなの、わたし、すごく嬉しいです。……ずるいなんて、思わないです」
ほむらはマミを見ていた。
四年間、この部屋でマミから受け取ってきた。紅茶を。ケーキを。夏の喫茶店で、それを話すのが用事でしょう、と。台所で、花火の夜の日比野くんと同じ場所に暁美さんが立っているわ、と。
受け取ったものは、返さなければならない。四月まで、ほむらはそう思っていた。今は少しだけ違う。返すためではなく、渡したいから渡す。
「巴マミ」
マミがほむらを見た。
「ずるい人は、自分がずるいかどうかを、気にしないわ」
マミは瞬きをした。
「あなたは、今朝からずっと気にしている。寝顔を見ながら。……それは、ずるい人のすることではないわ」
マミの口元が震えた。
「それに、あなたがずるいなら、私はもっとずるいわ。四月からずっと言わないでいる。嘘もついたわ。お風呂に入っていた、とか」
さやかが小さく噴き出した。
「お風呂って……ほむら、それ嘘だったの」
「嘘よ。結界の中にいたわ」
「真顔で言うことじゃないでしょ」
部屋のあちこちで、堪えきれなかった笑いがばらばらに漏れた。
マミが両手で顔を覆った。その手の中で、マミは泣きながら笑っている。
「……ありがとう、暁美さん」
手を下ろしたマミの目は赤かった。それでも、今度の微笑みは短くなかった。
「暁美さんに励まされる日が来るなんて」
「私も、思っていなかったわ」
マミはもう一度笑った。
まどかは、マミの手の上に自分の手を重ねたまま、ほむらを見ていた。
何かを言いたそうな顔だ。嘘もついたわ、とほむらが言ったとき、まどかの指が、マミの手の甲の上で小さく動いたのを、ほむらは見ていた。
まどかは何も言わずに、目を伏せた。
*
ケーキは、ブッシュ・ド・ノエル。切り株の上に、砂糖でできた小さなサンタクロースと、苺と柊の葉が載っている。
サンタクロースはじゃんけんで決めることになり、勝ったさやかが一口で食べた。
「甘っ。……あー、生き返る」
食後にプレゼント交換をした。一人一つずつ、千円以内のものを持ち寄って、音楽に合わせて回す。まどかの決めた決まりだ。曲が止まったとき、ほむらの手には青い包みが残っていた。
開けると、手のひらほどの硝子のスノードームだった。中に、赤い屋根の小さな家がある。振ると、白い雪が家の周りを舞った。
「あ、それ、わたしのだ」
まどかが嬉しそうに言った。
ほむらはスノードームをもう一度振った。雪が、ゆっくりと家の周りに降りていった。
*
食器を下げるとき、杏子がほむらの後について台所に入ってきた。
流しの前に並んで立つ。リビングからは、さやかとまどかの笑い声と、マミの声が聞こえてくる。
「……それ」
杏子は、ほむらのカーディガンの袖を顎で示した。
「サイズ、合ってたか」
「合っていたわ」
「ゆうべの、袖、裂けてたろ」
杏子は流しの水を出しながら言った。ほむらのほうは見なかった。
「まどかが選んだやつだろ、あれ。……裂けたのなんか着てったら、何があったかすぐばれる」
杏子は皿を一枚、水の下に差し入れた。
「それに、あいつが選んだもんが、あんなふうになってんの、あいつに見せたくねえだろ」
ほむらは杏子の横顔を見た。
杏子は皿を洗っている。乱暴な手つきで、それでも一枚も割らずに。
「……お金を、返すわ」
「いらねえ。貸しじゃねえって、ゆうべ言ったろ」
「でも」
「いらねえっつってんだろ」
杏子は洗った皿を、ほむらの手に押しつけた。ほむらは布巾でそれを拭いた。
まどかの選んだ色は、何事もなかったようにほむらの腕を包んでいる。まどかは、それが二着目だということを知らない。何も知らずに、着てきてくれたんだ、と言って笑った。
「……ありがとう、杏子」
「礼は、いらねえからな」
「言ってしまったわ」
「聞いてねえ」
杏子は次の皿を水の下に差し入れた。
*
九時を回ったころ、まどかが窓のほうを見て、声を上げた。
「雪……!」
全員が窓に集まった。
街灯の光の中で、ひとつひとつが見えるほど大きな雪が、ゆっくりと降りている。向かいの建物の屋根が、うっすらと白くなりはじめている。
「ホワイトクリスマスだ……」
さやかが窓硝子に額を付けた。
「見滝原でクリスマスに雪なんて、何年ぶりかしら」
マミがまどかの肩越しに言った。
ほむらは窓の端に立っていた。手の中に、まどかのスノードームがある。振っていないのに、窓の外で雪が降っている。
コートのポケットの中で、携帯が一度だけ震えた。日比野だった。
『メリークリスマス。雪、降ってる』
写真が一枚付いていた。アパートの窓から撮った雪の写真で、窓硝子の手前に、紙袋が一つ写り込んでいた。深い緑の包み紙と、金色のリボン。開けられていない。
『腕、お大事に。ゆっくり休んで』
その下に、サンタの帽子を被った犬のスタンプが一つ。いつもの敬礼だ。
「……ほむら」
いつのまにか、さやかが横から覗き込んでいた。
「顔。今、顔、変わった」
「変わっていないわ」
「変わったって。まどか、見た?」
さやかがまどかを振り返った。
まどかは窓の外を見ていて、少し遅れて振り返って、笑った。
「……うん。見たよ」
ほむらは入力欄に指を置いた。
『メリークリスマス』
送信して、少し考えてから、窓の外の雪を一枚撮った。マミの部屋の窓から見た、見滝原の屋根の雪。窓硝子に、ツリーの電球と、四人の後ろ姿がうっすらと映り込んでいた。それを送った。
『きれい』
『後ろに誰か映ってる。友達?』
『大事な人たちよ』
画面の向こうで、入力中の表示が点いては消え、また点いた。
『いいね』
『すごく、いい』
ほむらは携帯をポケットに戻した。
気がつくと、まどかが隣に立っていた。
ほかの三人は、ケーキの残りを取りに台所へ向かったところだった。窓の前には、ほむらとまどかの二人だけになっている。
「ほむらちゃん」
まどかは窓の外の雪を見ながら言った。
「昨日……怪我、しなかった?」
ほむらの手の中で、スノードームの雪が止まった。
まどかは雪を見ていた。ほむらのほうは見ていない。カーディガンの袖を見ているようにも、見ていないようにも見えた。
「しなかったわ」
ほむらは言った。
四年前の春、全部を話した。何十周の一か月のことも、ソウルジェムのことも、最後の光のことも。それから先、まどかに隠したことは一つもなかったはずだった。
まどかは、少しのあいだ雪を見ていた。
「……そっか」
まどかは言った。いつもの高さの声だ。
「よかった」
まどかは窓の前を離れて、台所のほうへ歩いていった。ケーキ、まだあるって、と振り返って言った。
ほむらは窓の前に残った。
スノードームを振った。小さな家の周りに、また雪が舞った。
背中に視線を感じて振り返ると、台所の入口に杏子が立っていた。手に皿を二枚持っている。
杏子はほむらを見ていた。それから、台所の奥にいるまどかの背中を見た。もう一度、ほむらを見た。
「……おまえさ」
「何かしら」
杏子は口を開いて、閉じた。
「……なんでもねえ」
杏子は皿を持って、リビングのほうへ歩いていった。
さっきのまどかとのやりとりを、見られていたらしい。杏子はゆうべ、わかった、と言った。けれど本当は、反対なのだろう。まどかに隠しごとをするのは、杏子の流儀ではない。
窓の外で、雪が見滝原の屋根を少しずつ白く塗っていた。
四年前、この街の空は真っ黒で、最後の一瞬だけ真っ白になった。今夜の白は、音もなく、ゆっくりと降りてきている。誰かが勝った瞬間の白ではない。ただの冬の雪なのだろう。
*
一月四日の昼過ぎ、日比野は駅の改札の前に立っていた。
紺のダッフルコートの右肩に、細かい縫い目がある。クリスマスの夜にサーベルが裂いたところだ。不揃いな縫い目が斜めに一本走っている。自分で縫ったらしい。
ほむらを見つけると、日比野は片手を上げかけて、途中で下ろした。代わりに背筋を伸ばして、頭を下げた。
「あけまして、おめでとうございます。今年も、よろしくお願いします」
「あけましておめでとう。……今年も、よろしく」
顔を上げると、日比野は笑っていた。その目が、ほむらの左腕に下りた。
「腕、どう」
「平気よ」
「……そっか」
日比野は、それ以上は訊かなかった。
足元に、紙袋が二つ置いてある。一つにはりんごが、もう一つには細長い箱が入っている。
「長野から。りんごは、鹿目さんに。受験のお守り代わりってことで。こっちは年越し蕎麦の残り。父ちゃんが打ったやつ。ほむらに」
「ありがとう。まどかが喜ぶわ」
まどかが喜ぶのは、りんごよりも、お守りという言葉のほうかもしれない。
「年末、ずっと店手伝ってて。大晦日なんか、朝の四時から夜中の十二時まで茹で釜の前。腕、パンパン。……ほむらは? 正月、何してた?」
「初詣に行ったわ。友達と」
「おみくじ、引いた?」
「中吉だったわ」
「なんか書いてあった?」
ほむらは少し考えた。元日のマミの部屋で、まどかが声に出して読み上げていた細かい字を。
「待ち人、来る。障りあれども」
日比野は瞬きをして、それから照れたように笑った。
「……障り、あったね」
「あったわ」
「でも、来るって」
日比野は歩きだした。ほむらはその隣に並んだ。
*
日比野のアパートは、大学の坂を下って、商店街とは反対の方向へ五分ほど歩いたところにあった。白い外壁の二階建てで、外階段を上がった二階のいちばん奥の扉だった。
「狭いけど」
本当に狭い。玄関から細い廊下が二歩分。左手に二口のコンロと小さな流し。右手にユニットバスの扉。その奥に、六畳ほどの部屋が一つ。
真ん中に、折りたたみの小さなテーブル。窓際にベッドと本棚。棚には、教科書と山の本と料理の本がぎっしりと詰まっている。壁には八ヶ岳の等高線の地図が画鋲で留めてあり、その上に赤いペンで細い線が何本も引かれている。登った道らしい。
ベッドの枕元の壁に小さな鏡が掛かっていて、その横に蓋の開いたヘアワックスの容器があった。
「……寝癖、今日も直らなかった」
日比野は鏡を見ないようにして言った。
窓際の机の上に、紙袋が一つ置かれていた。深い緑の包み紙と、金色のリボン。包み紙の角が、少しだけ潰れている。路地に落ちたときの潰れだろう。
「座ってて。すぐ準備するから」
日比野は台所に立って、冷蔵庫から白菜と長ネギと鶏肉と鱈としめじを出した。
長ネギが、あった。
クリスマスの夜、結界の包装紙の床に転がった長ネギの青い葉を、ほむらは思い出した。
テーブルの前に座って、ほむらは部屋を見回した。
誰かが一人で暮らしている部屋に、客として入るのは初めてだった。何十周のどの一か月にも、そういう部屋はなかったはずだ。マミの部屋は四年通って、半分は自分の居場所のようになっている。まどかの部屋には、中学のころから何度も入った。ここはどちらとも違う。日比野が、日比野の手で整えた部屋だった。
台所から、包丁の音がした。規則正しい音だ。蕎麦屋の厨房から聞こえていた音に、少し似ている。
*
寄せ鍋は、土鍋ではなく、アルミの片手鍋で出てきた。
「土鍋、買おうと思ったんだけど、一人だと使わないから……」
日比野は言い訳するように言いながら、鍋をテーブルの上のカセットコンロに載せた。蓋を開けると、湯気が狭い部屋いっぱいに広がって、窓硝子がみるみる白く曇った。
白菜と、鱈と、鶏肉と、しめじと、豆腐。斜めに切られた長ネギが、出汁の上に浮いている。
「いただきます」
二つの声が揃った。
日比野はほむらの器によそってから、自分の器によそった。それから箸を持ったまま、食べずにほむらを見た。
ほむらは長ネギを一切れ、口に入れた。
甘い。火の通った長ネギのとろりとした甘さが、出汁と一緒に舌の上に広がる。昆布と鰹と、鶏と鱈の味がする。醤油は多すぎず、少なすぎない。
イブの夜、杏子の作った鍋は、出汁が少しだけ薄かった。あれも、おいしかった。
これも。
「……おいしいわ」
日比野の箸が、宙で止まった。
「え」
「おいしいわ」
ほむらはもう一度言った。
日比野は箸を浮かせたまま動かなかった。それから、ゆっくりと顔全体で笑った。その笑顔が崩れた。
「……おいしい、って言った。悪くない、とか、好きかもしれない、とかじゃなくて」
日比野は携帯を取り出しかけて、やめた。メモ帳を開く代わりに、携帯をテーブルの上に伏せた。
「メモ、いいや。……覚えとく」
*
締めのうどんまで空になったころ、窓の外は暗くなりはじめていた。
日比野が机の上の紙袋を取った。
「開けていい?」
「どうぞ」
日比野は金色のリボンをゆっくりとほどいた。緑の包み紙を、破らないようにテープを一枚ずつ剥がす。白い箱の蓋を開けると、薄い灰色の、襟のあるシャツが畳まれて入っていた。
日比野はそれを持ち上げて、広げた。
「……すげえ」
シャツを胸の前に当てて、壁の鏡を見る。
「サイズ、たぶんぴったり。なんでわかったの」
「大学の先輩に、選ぶのを手伝ってもらったの。水色の次は、これだろうって」
「水色しか持ってないの、ばれてる……」
日比野は少しだけ笑った。
「選んだのは、先輩。渡したいと思ったのは、私よ」
日比野は、シャツを胸に当てたまま、ほむらを見た。
少しのあいだ何も言わずに、それからシャツを丁寧に畳み直して箱に戻した。机の引き出しを開けて、小さな包みを取り出す。
「俺からも。……クリスマスに、渡すつもりだったやつ」
紺の包み紙に、白いリボン。ほむらはそれをほどいた。
手袋だった。
くすんだ薔薇色の、指の分かれた細身の毛糸の手袋。手首のところに、白い糸で小さな雪の結晶が一つ編み込まれていた。
「ほむら、手、冷たいから。いつもポケットに入れてあげられるわけじゃないし。……色、そのカーディガンに合わせた。鹿目さんが選んだって言ってたやつ」
ほむらは手袋を見ていた。
まどかの選んだ色だ。日比野はそれを知っていて、合わせてきたのだ。カーディガンが二着目だということは、知らない。
左手の手袋に指を入れた。指輪のある指を通すとき、銀の輪が毛糸の内側に引っかかった。少し力を入れると、指輪ごと指が手袋の中に収まった。
毛糸の温かさが、指輪の上からゆっくりと染みてきた。
「……ありがとう」
「似合う?」
「わからないわ」
「似合ってるよ」
日比野は笑った。
*
片付けを終えて、二人はテーブルの前に並んで座った。
曇っていた窓硝子が、少しずつ透明に戻っていく。向かいの建物の窓に、ぽつぽつと明かりが点いていた。
日比野は、手袋を外したほむらの左手を取っていた。
「……やっぱ冷たい」
両手で包まれた。
肩が触れている。日比野の体温が、カーディガンの袖越しに伝わってくる。息の音が、すぐそばで聞こえた。
日比野が、ほむらのほうへ顔を向けた。
右のこめかみの寝癖が、目の前にある。四月の最初の木曜日から、どこへも逃げなかった目が、すぐ前にある。
その顔が、ゆっくりと近づいてきた。
イブの午後、ほむらは決めていた。言うなら、その前に。もしそういうことになりそうになったら、その前に必ず。
日比野の息が、唇に触れた。
「待って」
ほむらは、日比野の胸に右手を当てた。
日比野が止まった。ゆっくりと身体を引いて、ほむらの顔を見る。目が大きく揺れていた。
「……ごめん。嫌だった?」
「嫌じゃないわ」
ほむらは言った。
「嫌じゃない。……その前に、言わなければいけないことがあるの」
ほむらの手を包んでいた日比野の手が、固くなった。
ほむらは、その手の中から左手をそっと抜いた。カーディガンの左の袖を、肘の上までまくり上げる。
何もない、白い肌がそこにある。
日比野の目が、その腕に落ちた。十秒ほど、日比野の口は開かなかった。
「……傷は」
声が、かすれている。
「傷、どこ。あれ、十日で治る傷じゃなかった。俺、見たよ。あんなに深く……」
「治ったの。友達に治してもらったわ。あの夜のうちに」
「あの夜のうちに……?」
日比野の目が、ほむらの腕と顔を交互に見た。
ほむらは息を吸った。
蕎麦屋の夜は、この指輪は、まで言って喉が詰まった。今日も詰まるかもしれない。そのときは、見せればいい。言葉が出なくても、見せることはできる。
喉は、詰まらなかった。
「クリスマスの夜の、あの場所。あれは、魔女の結界よ」
日比野は瞬きをした。
「魔女は、人の絶望から生まれるの。結界を張って、人を引き込んで、殺す。あの胡桃割り人形は、その手下。使い魔と呼ぶわ」
「……魔女」
「魔女を狩る者がいる。魔法少女と、呼ばれているわ」
ほむらは日比野の目を見た。
「私は、魔法少女なの」
部屋の中が静かになった。カセットコンロの上の空になった鍋が、冷えていく小さな音を立てている。
日比野は笑わなかった。冗談を聞いた人の顔ではない。何を聞いたのかを、まだ理解できていない人の顔だ。
「中学二年のときから。夜、魔女が出たら、狩りに行くの。手当てをしてくれた友達も、魔法少女。あの夜に魔女を倒したのは、私も知らない魔法少女」
日比野の口が、少しだけ開いた。
「それから」
ほむらは左手を、日比野の前に差し出した。指輪のある指を。
「外せない、と言ったわね」
「……うん」
「外せない理由」
ほむらは指輪に意識を落とした。
銀の輪が光の中で形を変えて、ほむらの掌の上に、卵形のソウルジェムが載った。紫の表面の奥、底のほうに、薄い煤が沈んでいる。
日比野の息が止まった。
「ソウルジェム」
ほむらは言った。
「魔法少女になるとき、魂を身体から取り出して、これに移すの。これが私の魂。私の本体よ」
日比野は、ソウルジェムを見て、それからほむらの顔を見た。
「この身体は、入れ物。これが無事なら、身体がどれだけ傷ついても死なない。これが砕ければ、身体が無事でも死ぬわ」
「……だから、外せない」
「ええ」
日比野はソウルジェムを見つめたまま、しばらく動かなかった。それから、ゆっくりと首を振った。
「……ごめん。わかんない。ほむらが嘘ついてないのは、わかる。わかるけど、頭が追いつかない」
日比野は両手で自分の顔を覆った。
「魔女とか、魔法少女とか、魂とか。そんなの、漫画とかアニメとかの……」
言いかけて、手を下ろした。
「……でも、俺、見たんだよな。あの廊下。あの人形。ほむらの腕」
日比野はほむらの顔を見た。
「見たのに、信じられない。変だよな。見たのに」
ほむらはソウルジェムを指輪の形に戻さなかった。掌に載せたまま、右手を日比野のほうへ差し出した。
「手を、貸して」
「え」
「見せるわ。少しだけ」
日比野は、戸惑いながら、ほむらの右手を握った。
ほむらはソウルジェムを胸の前に掲げた。
紫の光が溢れた。部屋の蛍光灯よりもずっと冷たく澄んだ光の中で、カーディガンと白いシャツがほどけていく。代わりに、白と灰色の衣装がほむらの身体を包んだ。左腕に、円い盾の重さが戻ってきた。
日比野の手が、ほむらの右手の中で強ばった。手は、離れなかった。
ほむらは、盾の砂時計に右手の指を掛けた。日比野の手を握ったままの指で。
音が、消えた。
冷蔵庫の低い唸りが止まった。窓の外を走っていた車の音が止まった。壁の時計の秒針が、目盛りと目盛りのあいだで止まった。
カセットコンロの上の鍋から立ち上っていた最後の湯気が、白い糸のまま、宙に浮いて動かなくなった。
「……え」
日比野の声だけが、止まった部屋の中に響いた。
「なに、これ。……止まってる」
日比野は、宙に浮いた湯気を見た。窓の外を見た。向かいの建物の窓辺で、カーテンを引こうとしている誰かの影が、腕を上げたまま動かなくなっている。
「時間を、止めたの。私の魔法」
ほむらは言った。
「私に触れている人だけは、止まらない。だから航は、今、私と同じところにいるわ」
日比野は、ほむらと繋いだ自分の手を見た。それから、宙の湯気に、空いているほうの手をそっと伸ばした。指先が白い糸に触れると、湯気は、そこだけ形を崩して、また動かなくなった。
「……すげえ」
日比野の声が震えている。怖がっている声ではなかった。驚きすぎて、怖がるのを忘れているのだろう。
ほむらは、もう一度砂時計に指を掛けた。
冷蔵庫が唸りはじめた。窓の外を車が走り抜けていった。湯気が、ふっと消えた。時計の秒針が、何事もなかったように一つ進んだ。
ほむらは変身を解いた。光が一度だけ部屋を満たして、引いていった。くすんだ薔薇色のカーディガンのほむらが、そこに座っている。
ソウルジェムは、また掌の上にある。
日比野の手は、まだほむらの右手を握っている。
*
日比野は長いあいだ、口を開かなかった。
ほむらの手を離して、壁の八ヶ岳の地図を見ていた。赤いペンで引かれた、登った道の線を。
ほむらは掌の上のソウルジェムを見ていた。待つしかなかった。
公園のベンチで、さやかは言った。恭介、自分の左手をずっと見てた。十分くらい。何にも言わずに。
時計の秒針の音が、部屋の中ではっきりと聞こえた。さっき止まって、また動きはじめた秒針だ。
十分が過ぎた。
「……一個だけ、訊いていい?」
ほむらは顔を上げた。
訊いていい、と日比野は言った。四月から一度も、自分から何かを重ねて訊かなかった人が。
「どうぞ」
「今も、戦ってるの。毎晩」
「毎晩ではないわ。魔女が出た夜だけ」
「怖く、ないの」
「……怖いわ。ときどき」
日比野は目を閉じた。
「クリスマスの夜、ほむら、固まってたでしょ。人形が出てきたとき。ゼミで雷が鳴ったときみたいに」
「……そうね」
「あれ、怖かったからじゃなくて。どうするか迷ってたんだ。俺の手、握ってたから。時間止めても、俺も一緒に止まらないから」
ほむらは答えなかった。
「俺がいたから、何もできなくて。それで、腕、切られたんだ」
「航のせいではないわ」
「でも」
「私が、言っていなかったから」
ほむらは言った。
「四月から、ずっと。言っていれば、あの夜、迷わずに済んだわ」
日比野はほむらを見た。長いあいだ見ていた。
それから、膝で這うようにして、ほむらのすぐ前に座った。
「それ、触っても、いい?」
日比野は、ほむらの掌の上のソウルジェムを指した。
ほむらは、少しだけ迷った。このソウルジェムに自分以外の誰かが触れたことは、ほとんどない。杏子がグリーフシードを当てるときと、さやかが濁りを確かめるときくらいだった。
「……いいわ」
日比野は人差し指の先で、ソウルジェムの表面にそっと触れた。すぐに離して、もう一度触れた。今度は少しだけ長く。
「……あったかい」
日比野は言った。
「手は、あんなに冷たいのに。こっちは、あったかいんだ」
ほむらは日比野の指先を見ていた。
震えている。硝子細工に触れるように、慎重に。お茶会で、さやかは言った。恭介、あたしのこと、壊れ物みたいに扱ってるんだって。
その震える指先が、壊れ物に触れる指なのか、大事なものに触れる指なのか、ほむらには区別がつかなかった。
日比野は指を離して、ほむらの顔を見た。
「……いろいろ、考えた。今、十分くらいで。すげえ、いろいろ」
日比野は小さく笑った。
「ほむらが夜に何してたのか。電話に出なかった土曜日のこととか。腕のこととか。指輪のこととか。俺の知らないほむらが、何年分もあるんだなって。それ、全部、一回じゃわかんないと思う。わかんないまま、これからちょっとずつ、わかっていくんだと思う」
日比野は、ほむらの掌の上のソウルジェムを、もう一度見た。
「でも、一個だけ、今わかってることがあって」
日比野は顔を上げた。
「ほむらは、ほむらだよ」
ほむらは日比野を見た。
「魔法少女でも。魂がこっちでも。身体が入れ物でも。……自己紹介で、特にありませんって言ったのも。雷で固まってたのも。出汁巻き食べて、好きかもしれないって言ったのも。さっき、おいしいって言ったのも。全部、ほむらでしょ」
日比野は少しだけ声を詰まらせた。
「ほむらは、ほむら以外の、何者でもないよ」
ほむらは、その言葉を聞いていた。
それがどこから来ているのかを、量ろうとした。十分間、日比野は地図を見て考え、この言葉に辿り着いた。それは本当だ。ほむらには、それがわかる。
ただ、それがどこまで届いた言葉なのかは、わからなかった。
日比野は、まだ全部を見ていない。魔女の本当の姿を知らない。ソウルジェムがどこまで濁ったら、何になるのかを知らない。何十周の一か月のことを、知らない。
恭介も、最初は受け入れた。変わってしまったのは、そのあとだった。
それでも。
ほむらは日比野の顔を見ていた。首まで赤くなった顔を。瞳の潤んだ顔を。その目は、今も、どこへも逃げていなかった。ソウルジェムを見たあとでも。止まった部屋を見たあとでも。
「……ありがとう」
ほむらは言った。
ソウルジェムを指輪の形に戻して、左手の指に嵌めた。
それから、身体を日比野のほうへ傾けた。
日比野の目が見開かれた。
ほむらの唇が、日比野の唇に触れた。
一秒だった。二秒だったかもしれない。日比野の唇は温かかった。ほむらの唇は、たぶん冷たかった。
ほむらは身体を離した。
日比野は動かなかった。目を見開いて、口を少しだけ開けて、固まっている。三〇二教室で雷が鳴ったときの、ほむらのように。
「……え」
ようやく声が出た。
「え、あ、え。……今の、ほむらから……」
「そうよ」
日比野の顔が、首から額まで一度に赤くなった。両手で顔を覆う。指の隙間から、笑い声とも泣き声ともつかない声が漏れた。
「やばい。……俺、止められたとき、終わったと思ったのに」
日比野は手の隙間からほむらを見た。
「ずるいよ、ほむら」
手を下ろして、泣きそうな顔で笑った。それから両腕を伸ばして、ほむらを抱き寄せた。
日比野の腕がほむらの背中に回った。額が、日比野の肩に当たった。
温かい。胸から、腕から、首筋から。日比野の体温が、ほむらの身体の冷たいところにゆっくりと染みてくる。額のすぐそばで、日比野の心臓の音が聞こえた。速い。
ほむらは迷ってから、自分の腕を日比野の背中に回した。
誰かを抱きしめ返したのがいつ以来なのか、思い出せなかった。
日比野の肩の上で、ほむらの顔は、日比野からは見えない。
その死角で、胸の奥の、いつもの冷たい場所が静かに疼いていた。
言ったことが、あった。
言わなかったことが、あった。
中学二年の同じ一か月を、何十回繰り返したのか。その一か月の終わりに、何を何度見てきたのか。まどかが死ぬのを。マミが、さやかが、杏子が死ぬのを。
あるとき、ほむらは、まどかに頼まれて、まどかのソウルジェムを撃ち抜いた。
見捨てた時間軸も、あった。救えないとわかった瞬間に、盾の砂時計を返して、全部を置き去りにした時間軸が。
ソウルジェムのことを言えたのは、それが、ほむらの身に起きたことだったからだ。願いと引き換えに、魂を取り出された。
時間を繰り返したことは違う。それは、ほむらが、したことだった。
日比野は、ほむらはほむらだと言った。ほかの何者でもない、と。
そのほむらの中に、それが全部入っていることを、日比野は知らない。
ほむらは、それを言わなかった。口にすれば、日比野の目が、今度こそ逃げるかもしれない。そうならなくても、恭介のように、何か別のものを見るようになるかもしれない。
日比野の腕に、少しだけ力がこもった。
「……背中、あったかくなってきた」
耳元で、日比野が小さく言った。
ほむらは何も返さずに、日比野の肩に額を預けていた。
日比野が腕を緩めて、ほむらの顔を覗き込んだ。
「ほむら? ……やっぱ、嫌だった?」
「嫌じゃないわ」
それは、本当だった。
「嬉しかったわ」
それも、本当だった。
日比野はまた顔を赤くして、そっか、と言った。そっか、ともう一度言って、ようやく腕をほどいた。
ほむらは左手を膝の上に置いた。指輪が、手袋を外した肌の上で冷たかった。
さっき、日比野の指先が触れたソウルジェムは、あったかい、と言われた。
そのソウルジェムの底に、今日も薄い煤が沈んでいた。
*
九時を過ぎたころ、ほむらは日比野のアパートを出た。
駅まで送ると日比野が言い、ほむらは断らなかった。外階段を下りると、夜の空気が頬に冷たかった。ほむらは、くすんだ薔薇色の手袋を嵌めた。
日比野が、手袋の上からほむらの左手を取った。
「……あ、手袋の上からだと、冷たいかわかんないや」
日比野は少しだけ残念そうに笑った。
坂を上って、大学の正門の前を通り、商店街を抜けた。日比野はときどき何かを訊きかけて、やめた。代わりに山の話をした。夏合宿で登った北アルプスの話。夜中にテントの外に出たら星が多すぎて、どれが何座なのかわからなかった話。
改札の前で、日比野はほむらの手を離した。
「ほむら」
「何かしら」
「……話してくれて、ありがとう」
蕎麦屋でも、日比野は同じことを言った。家族と離れて暮らしている、とほむらが言ったときに。
「俺、たぶん、これからいっぱい訊くと思う。今まで訊かなかった分。……いい?」
ほむらは日比野の顔を見た。
訊かない人だった。四月から、ずっと。一つ訊いて、止まる人だった。
その人が、これから訊くと言っている。
「……ええ。答えられることは、答えるわ」
その先にあるもののことは、言わなかった。
日比野は嬉しそうに笑って、手を上げた。ほむらも、手袋の手を上げ返した。
改札を抜けて、ホームへの階段を上った。
電車の窓に、自分の顔が映っている。長い黒髪と、くすんだ薔薇色のカーディガンと、同じ色の手袋。
唇に、まだ日比野の温かさが残っている。
ほむらは窓の外を流れていく街の明かりを見ながら、手袋の上から、左手の指輪を右手で包んだ。
答えられることは答える。そう言った。
では、答えられないことを訊かれたら、どうするのか。
その答えは、まだ、ほむらの中のどこにもなかった。