魔法少女たちの恋(魔法少女まどか☆マギカ) 作:LongLong
第十一話 悪夢
一月の第二土曜日、マミの部屋の食卓には、三人分の皿しか並んでいない。
まどかは来なかった。共通テストまで、あと一週間だ。昼過ぎに、今日は家で最後の追い込みをします、とメッセージが届いた。その下に付箋だらけの数学の問題集の写真が一枚付いている。いちばん上の黄色い付箋に、ほむらの字で、仕上がっている、と書いてある。先週の木曜の夜、最後の大問の見直しを終えたまどかの問題集に、ほむらが貼ったものだった。
さやかも来なかった。看護の大学の後期試験が、来週から始まるのだという。解剖生理学、の文字だけが並んだ時間割の写真を送ってきて、その下に泣いている猫のスタンプを三つ並べていた。
「寂しいわね、三人だけって」
マミはそう言いながら、大きな鍋を食卓の真ん中に置いた。
蓋を開けると、ビーフシチューだ。牛のすね肉が、ほとんど形をなくすまで煮込まれている。付け合わせは、バターライスと、人参のグラッセと、ほうれん草のソテー。鍋の中身は、三人分にしては、明らかに多すぎる。
「……マミ、これ、五人分だろ」
「つい、いつもの量で作ってしまったの」
マミは少しだけ照れたように笑った。
「佐倉さんが、いつも通り三杯食べてくれれば、ちょうどいいわ」
「任せろ」
杏子は深皿を両手で持って、マミに差し出した。
「いただきます」
三つの声が揃った。
*
シチューを一杯食べ終えたところでマミがスプーンを置いた。
「暁美さん」
マミはほむらを見た。
「日比野くんに、話したのでしょう。年明けに」
杏子から聞いたのだろう。ほむらは頷いた。
「話したわ」
「どこまで?」
ほむらは自分の深皿の中のシチューを見た。
「腕が、治っていること。魔女のこと。魔法少女のこと。ソウルジェムのこと。……時間を止めて、見せたわ」
マミの目が見開かれた。
「時間まで」
「信じられないと、言われたから」
「……日比野くんは、何て?」
ほむらは年明けの夜の、六畳の部屋を思い出した。十分間、八ヶ岳の地図を見ていた日比野の横顔を。ソウルジェムに触れた、震える指先を。
「ほむらは、ほむらだと」
マミの睫毛の先が、少しだけ濡れている。
杏子は二杯目のシチューに取りかかっていた。こういう話のときの杏子は、口より先に皿を空にするらしい。
「でも……時間を繰り返したことは、話していないわ。……何を見てきたのかも。何をしてきたのかも」
マミの表情が止まった。
「まどかに頼まれて、まどかのソウルジェムを撃ったときのことも」
食卓が静かになる。
マミはそれを知っている。四年前の春、ほむらは同じことを、この部屋で話した。まどかにも、さやかにも、杏子にも。マミはそのとき、何も言わずに紅茶を淹れ直した。
「……それは」
マミは言葉を探すように、スプーンの柄を指でなぞった。
「すぐには、話せないわね」
「話せないわ。ソウルジェムのことは、話せた。あれは、私がされたことだったから。……時間を繰り返したことは、私がしたこと」
杏子のスプーンが深皿の縁で止まった。
「ほむら」
杏子が低い声で言った。
「あれは、まどかに頼まれて――」
「頼まれても、引き金を引いたのは私よ」
ほむらは杏子の言葉を遮った。
杏子は口を閉じ、スプーンを深皿に戻した。何か言い返したそうな顔をしている。言い返さずに、三杯目をよそいに立った。
マミはほむらを見ていた。
「日比野くんは、いつか、訊くと思う?」
「これから、いっぱい訊くと言っていたわ。今まで訊かなかった分」
「そう……」
マミは窓のほうを見た。外はもう暗い。
「答えられないことを訊かれたら、暁美さんは、どうするの」
年明けの帰りの電車の窓で、ほむらが自分に向けたのと同じ問いだ。
「……わからないわ」
「そう」
マミはそれ以上、重ねなかった。
デザートは、りんごのコンポートだった。日比野が年明けに持ってきたりんごの、まどかに渡した残りの三つで、マミが昼のうちに作っておいたものだという。
杏子がそれを一口食べて、うまい、と言った。
*
九時を回ったころ、杏子がダウンを羽織りながら言った。
「あたし、先に出るわ。見回り」
クリスマスの夜から、狩りは杏子が多めに引き受けていた。空になったほむらの引き出しのぶんのグリーフシードも、杏子が少しずつ集めてくれている。
「私も行くわ」
「いい。今日は東のほうだけだし。ほむらは帰って寝ろ」
杏子は玄関で靴を履いて、振り返らずに手を上げた。扉が閉まる。
ほむらはマミと並んで食器を洗った。マミが洗い、ほむらが拭く。
洗い物が終わると、ほむらはコートを着た。マミもコートを羽織った。
「下のコンビニまで、一緒に行くわ。明日の朝の牛乳を、切らしてしまって」
エレベーターで一階まで下りて、マンションの向かいのコンビニに入った。マミは牛乳を一本と、なぜかプリンを二つ買った。一つをほむらに渡した。
「今日、来てくれたお礼」
コンビニを出たところでマミの足がゆっくりになった。
ほむらは日比野に贈られた薔薇色の手袋を嵌めていた。マミがそれを見て、小さく微笑んだ。
「日比野くんから?」
「そうよ」
「素敵ね。カーディガンと、同じ色」
「航が、合わせたと言っていたわ」
マミは、ふふ、と笑った。それから牛乳の入ったビニール袋を両手で持ち直して、少しのあいだ黙った。
「……暁美さん。訊きづらいことを、訊いてもいいかしら」
「どうぞ」
マミはほむらのほうを見なかった。コンビニの硝子の扉を見ている。そこに、二人の姿が映っていた。
「日比野くんのお部屋に、行ったのでしょう。年明けに」
「行ったわ」
「……そういうことは、したの?」
マミの頬が、コンビニの明かりの中でもはっきりと赤い。
「していないわ」
ほむらは言った。マミの肩から、少しだけ力が抜けた。
「キスは、したわ」
マミの肩に、また力が入る。
「……そ、そう」
「私から」
「暁美さんから……」
マミは両手で頬を押さえかけて、牛乳の袋を落としそうになった。ほむらが袋の底を支えた。
「ごめんなさい。変なことを訊いて」
「構わないわ」
「……私ね」
マミは硝子に映った自分の顔を見ていた。
「クリスマスの、あの夜。何も言わないまま、先輩と……そういうことに、なったでしょう。それが、ずっと、胸のどこかに引っかかっていて」
マミの声が小さくなっていく。
「暁美さんが、全部を話さないまま、同じことになったら。……私と同じ気持ちに、ならないかしらって。余計なお世話だって、わかっているのだけれど」
ほむらはマミを見た。
十二月の食卓で、マミは言った。私は、ずるいのかしら。
「心配してくれて、ありがとう」
マミは泣きそうな顔で笑った。
「……暁美さんに、お礼を言われるの、まだ慣れないわ」
「私も、言うのに慣れていないわ」
マミは声を出して笑った。それから牛乳の袋を提げてマンションの入口へ戻っていった。自動扉の前で一度だけ振り返った。
「気をつけて帰ってね。……プリン、今夜のうちに食べてしまうのよ」
*
マミのマンションから、ほむらの部屋までは、歩いて十五分ほどだった。
川沿いの道を通って帰ることにした。
土手の上の道には、人影がない。冬の夜の川は、黒く、静かだった。対岸の街灯が、水面に細長く揺れている。クリスマスのイルミネーションは、もう片付けられていた。
橋の手前まで来たところでほむらの足が止まった。
手袋の中で左手の指輪が熱を持っている。
魔女ではない。
魔力の気配だ。細くて、冷たくて、糸を張ったように鋭い。
知っている気配だった。たぶん、忘れようとしても忘れられない種類のものだろう。クリスマスの夜、包装紙の結界の中で遠くから入ってきた気配。
「……気づくの、早いじゃん」
声が頭の上から降ってきた。
橋の欄干の上に、人影が立っていた。小柄な影だ。ほむらより、頭一つ分ほど背が低い。黒い外套のようなものを着ていて、その裾が川風に揺れていた。
影は欄干の上から、音もなく土手の道に飛び降りた。
街灯の光の下に、顔が見えた。
少女だ。ほむらより、一つか二つ年下に見える。短く切った黒い髪に、薄い唇。左の耳で、小さな銀の輪が光っていた。
耳飾りの形をした、ソウルジェムだ。
「あんたが、長い黒髪の魔法少女?」
少女はほむらの髪を見て、にやりと笑った。
「見滝原、魔法少女多すぎなんだよね。四人もいるって、どういうこと。グリーフシード、足りないでしょ。こっちはさ、隣の市で、一人でやってんの。魔女、全然出ないの」
少女は両手を外套のポケットに入れた。
「だから、ちょっと分けてもらいにきた。縄張り」
ほむらは答えなかった。
「クリスマスの魔女、あれ、あたしが狩ったやつ。あんた、結界の中にいたよね。腕、ざっくりやられてた」
少女はほむらの左腕を見た。
「治ったんだ。いいね、仲間がいて」
「縄張りは、渡さないわ」
「そう言うと思った」
少女はポケットから手を出した。
「あともう一個、訊いていい?」
少女の目が細くなった。
「あのとき、あんたの前に立ってた男。飾り玉振り回してたやつ。……あれ、あんたの男?」
左手の指輪が、また熱くなった。
少女はそれを見て笑った。
「わかりやす」
少女の指先から、光る糸が何本も伸びた。
*
蜘蛛の糸のように細い、銀色の糸だ。
少女の十本の指先から一本ずつ、夜の空気の中に張られていく。街灯の光を受けて一瞬だけ光り、すぐに見えなくなった。その見えない糸が、ほむらの周りを囲んでいた。
ほむらは手袋の中の指輪に意識を落とした。
紫の光が溢れた。白と灰色の衣装がほむらの身体を包み、左腕に円い盾の重さが戻ってきた。
変身と同時に、見えない糸の一本が、ほむらの頬を掠めた。頬の皮膚が細く裂けた。
「遅い」
少女が指を動かすと、糸が四方から締まってくる。
ほむらは盾の砂時計に指を掛けた。
川の音が消えて、対岸の街灯の揺らぎが、水面の上で止まった。少女の指先から伸びた糸が、張り詰めたまま、夜の中に銀色の線として固まっていた。止まった時間の中では見えなかった糸も見える。ほむらの喉元まで、あと指一本分のところまで来ていた。
誰も、ほむらに触れていない。
ほむらは糸の隙間をくぐって、少女の背後へ回った。盾から拳銃を一丁抜き出し、少女の右の膝の裏を、軽く蹴った。
砂時計を戻すと、川の音が戻ってきた。糸がほむらのいなくなった空間を締め上げて、空を切った。少女の膝が折れて、身体が前のめりに土手の道へ倒れた。
「……え」
顔を上げようとする少女の後頭部に、ほむらは銃口を当てた。
「動かないで」
少女の身体が固まる。十本の指から伸びていた糸が、力を失って、アスファルトの上に落ちた。
三十秒も、かかっていない。
「……何なの、あんた」
少女は地面に頬を付けたまま、息を切らしながら言った。
「いつ動いたの。見えなかった」
ほむらは答えずに考えた。
殺す必要はない。糸を封じて、マミと杏子に引き渡せばいい。縄張りの話は、そのあとで決めればいい。見滝原から出ていくと言えば、放してやればいい。
「見滝原から、出ていって。そうすれば、帰すわ」
少女は地面の上で首を少しだけ動かして、ほむらを見上げた。
それから笑う。
「……日比野航」
ほむらの指が止まる。
「大学の坂の下の、白いアパート。二階の、一番奥の部屋」
少女は笑っている。
「クリスマスのあと、ちょっと調べたんだよね。あの男、あんたの弱点でしょ。結界の中で、あんたが変身もしないで腕切られてたの、あいつがいたからでしょ。手、繋いでたもんね」
少女は首だけを持ち上げた。
「縄張り、くれないならさ。あいつの部屋の前に、魔女の卵、置いといてあげる。グリーフシード、孵る寸前のやつ。あたし、持ってるんだよね。一個」
少女の目が細くなった。
「あの男、今度は、飾り玉で何分もつかな」
ほむらの胸の温度が、すっと下がっていく。
夏の第二食堂で髪と目のことを言われたとき、胸の温度は一段下がった。コーヒーチェーンで、この人は知らないと思ったとき、もっと古いところが冷えた。
今夜の冷たさは、そのどちらとも違う。もっと底のほうのものだ。繰り返しの、いちばん最後の時間軸。何を犠牲にしても構わないと決めた、あの夜の冷たさだった。まどかを守るためなら、ほかの誰の命も量らない。そう決めて、それを手に覚えさせた。
指輪は、熱くならない。
ほむらは銃口を、少女の後頭部から、左の耳へ下ろした。
「ちょ、待っ――」
引き金を引いた。
硝子の割れる、小さな音がした。冬の夜の、薄い氷を踏み割るような音だった。
少女の目から、光が消えた。見開かれたその目は、もう何も映していない。少女の身体から力が抜けて、ただの重さになった。
ほむらは拳銃を盾にしまった。撃った手応えは、ほとんど残っていないらしかった。
左の耳の銀の輪の中で、砕けたソウルジェムの欠片が、街灯の光を細かく反射していた。
外套のポケットから黒い小さなものが三つ転がり出ていた。グリーフシードだ。そのうち一つは、表面に細かいひびが入っている。孵る寸前の、魔女の卵。
少女の言ったことは、本当だったのだ。ほむらはそれを見下ろしていた。
川の音がする。対岸の街灯が水面に揺れている。橋の上を、遠くで車が一台、通り過ぎていった。
変身を解くと、薔薇色の手袋が戻ってきた。日比野に贈られた手袋だ。その指先に、火薬の匂いがかすかに移っていた。
*
ほむらはひびの入ったグリーフシードを拾った。
放っておけば、朝までに孵るかもしれない。そうなれば、この川沿いに新しい結界が開く。明日の朝ここを通る誰かが、その中に引き込まれる。
残りの二つは拾わずに、少女の身体を、もう一度だけ見た。
明日の朝、散歩の老人か、ジョギングの誰かが見つけるだろう。外傷のない、若い女の遺体として。死因のわからない突然死として。
ほむらは背を向けて、川沿いの道を歩きだした。走る理由は、どこにもない。
歩きながらさっきの自分を思い出していた。
殺す必要はなかった。銃口を後頭部に当てたまま、魔女の卵を取り上げて、見滝原から追い出せばよかった。そうするつもりだった。出ていって、と言ったとき、ほむらは本当にそうするつもりだったのだ。
日比野航、と少女が言った。
白いアパート。二階の、一番奥の部屋。
その言葉を聞いた瞬間に、選択肢は一つしか残っていなかった。
いや、違う。選択肢は最初から二つあった。撃つことと、撃たないこと。その二つが、ずっと並んでほむらの中にあった。撃たないほうを選んでいたのは、選ぶ余裕があったからだ。
それが消えた瞬間に、ほむらの指は迷わずにもう一つのほうを引いた。
一秒もかからなかったのだろう。
イブの結界の中でほむらは変身するかどうかを、一秒近く量っていた。そのあいだに腕を切られた。
今夜は量らなかった。
まどかのために、何十周もかけて手に覚えさせたやり方だった。量らない。迷わない。邪魔をするものがあれば、それが誰であっても取り除く。四年前の春に、そのやり方は役目を終えたはずだった。
どこかへしまわれたのだと思っていた。
違った。錆ひとつ付かずに、同じ場所にあった。今夜それは、まどかではなく航のために動いた。
変わったのだと思っていた。
日比野と昼を食べて、夜を食べて、手をつないで、好きだと言って、キスをして。杏子の鍋を、おいしいと言った。マミに、ありがとうと言った。借りではなく渡したいから渡すようになった。
変わった部分は、本当に変わったのだろう。ただ、その下に変わらなかった部分が手つかずで残っていた。
ほむらは、ほむらだよ、と日比野は言った。
そのほむらの中に、今夜のこれも入っている。
ほむらは自分の胸の中を探してみた。
人の命を一つ終わらせた夜に、あるはずのもの。罪悪感と呼ばれるもの。後悔と呼ばれるもの。手の震えや、吐き気や、今夜は眠れないだろうという予感のようなもの。
どこにもない。
胸の中は、夜の川の水面のように平らだった。少女のソウルジェムが砕けた音は覚えている。目から光が消えるところも、はっきりと見た。それを覚えていて、それで何も感じていない。
繰り返しのなかで、そうなるように自分を作り替えた。感じていたら、次の時間軸へ進めなかったからだ。
その作り替えた自分が、今夜も、何事もなかったように動いた。
それが、ほむらには、いちばん怖い。
手袋の指先の薔薇色の毛糸が、街灯の下で黒っぽく見えた。
*
アパートの前まで来ると、外階段の下に、長い影が一本立っていた。
杏子だ。ダウンのポケットに両手を突っ込んで、手すりに背中を預けている。
杏子はほむらを見つけると、手すりから背中を離した。それからほむらの頬の細い傷を見た。
「……東のほうを回ってたら、川のほうで、知らねえ魔力と、おまえのが、ぶつかったのがわかった」
杏子の声は低い。
「着いたときには、もう誰もいなかった。……土手の上に、一人、倒れてた」
ほむらは外階段の一段目の前で足を止めた。
「クリスマスの、魔法少女よ」
「……で」
「縄張りを、奪いにきたと。止めたわ。時間を止めて、後ろから押さえて。殺さずに、終わるはずだった」
ほむらは手袋を外した。
「航の名前を、出されたの」
杏子の身体が固まる。
「航の部屋の場所を、知っていたわ。縄張りを渡さないなら、航の部屋の前に、魔女の卵を置くと」
ほむらはコートのポケットからひびの入ったグリーフシードを取り出して、杏子の手の上に載せた。
「本当に、持っていたわ」
杏子はグリーフシードを見て、それからほむらを見た。
「……それで」
「ソウルジェムを、撃った」
外階段の下が静かになって、土手のほうから、冬の風の音だけがしている。
「……一秒も、かからなかったわ。航の名前を聞いた瞬間に、指が、そっちを選んでいた。クリスマスの夜は、変身するかどうかも量ったのに。今夜は、量らなかった」
杏子は口を挟まずに聞いていた。
「繰り返しのなかで覚えたやり方よ。まどかのために。もう、しまったと思っていたわ」
ほむらは手の中の手袋を見た。
「しまえていなかった。同じ場所に、同じ形で。今度は、航のために動いたわ」
杏子が一歩、ほむらのほうへ寄った。
「それに」
ほむらは言葉を探した。
「何も、感じていないの」
杏子の動きが止まる。
「帰り道、ずっと探したわ。後悔とか、罪悪感とか。どこにもなかった。今も、ないの」
ほむらは自分の胸に左手を当てた。
「いちばん怖いのは、それ。撃ったことでも、撃つやり方が残っていることでもない。……それに対して、何も思っていないこと」
杏子は少しのあいだほむらの顔を見ていた。それからほむらの手から手袋をそっと取り上げた。薔薇色の毛糸の、火薬の匂いの移った指先を、親指でなぞった。
「……あたしも、たぶん、同じことしてた」
杏子は手袋に目を落としていた。
「あいつがマミの名前出してたら。さやかの名前出してたら。まどかでも。……あたしも、たぶん、迷わなかった」
杏子は顔を上げた。
「あたしたち、そういう生き方してきたんだよ。ずっと。守りたいもんができたら、それ守るために、何でもする。おまえだけじゃねえ」
「……杏子」
「でもな」
杏子は手袋を、ほむらの手に戻した。
「何とも思ってねえのが、怖い。……そう言ったよな」
杏子はほむらの目をまっすぐに見ていた。見下ろす角度だ。
「本当に何とも思ってねえやつは、それを怖いなんて言わねえよ。四年前のおまえは、怖がりもしなかった。……今のおまえは、ここに立って、あたしにそれ話してる。震えてもいねえのに、話してる。それが、変わったってことだろ」
ほむらは自分の手を見た。
震えてはいない。
そのことが、怖かった。
「マミには、あたしから言っとく。今夜のうちに。……あの女の身体のことも、マミと二人で、なんとかする」
杏子はひびの入ったグリーフシードを、ダウンのポケットにしまった。
「これは、あたしが処分する」
「杏子」
「何だよ」
「まどかには」
杏子の手がポケットの上で止まった。
「試験が、終わるまでは」
杏子はほむらを見ていた。何かを言いかけて、口を閉じた。
「……わかった」
それからほむらの頭に、ぽん、と手を載せた。子どもにするような仕草だ。杏子がほむらにそれをしたのは、初めてだった。背が並んでいたころには、できなかった仕草なのだろう。
「今日は、もう寝ろ」
杏子は手を離す。
「マミのプリン、まだ食ってねえだろ。食ってから寝ろ」
「……なぜ知っているの」
「マミが、二個買うときは、一個は人にやるやつなんだよ」
杏子は少しだけ笑った。いつもより下手な笑い方だ。片手を上げてマミのマンションのほうへ歩いていった。
*
部屋に入って、プリンを冷蔵庫に入れた。食べる気には、なれない。
洗面所の鏡で、頬の細い傷を見た。浅い傷だ。このくらいなら、数日のうちに身体が勝手に閉じていく。
身体では塞がらない傷のことを、ほむらは考えた。
シャワーを浴びた。湯の温かさが、冷たい手足にゆっくりと染みていった。十日前の夜、日比野の腕の中で、背中、あったかくなってきた、と言われた。
同じ身体なのだ。
湯の中で、左手の指輪を見た。ソウルジェムの底には、今夜も薄い煤が沈んでいる。少女のソウルジェムが砕けたときの、薄い氷を踏み割るような音が、まだ耳の奥に残っていた。
脱衣所の棚の上で、携帯が一度だけ震える。
日比野からだった。髪を拭きながら、ほむらはそれを見た。
『今日、先輩たちとのご飯、楽しかった?』
『こっちは課題の山。助けて』
その下に泣いている犬のスタンプが一つ。大学の坂の下の白いアパートの、二階の一番奥の部屋で、日比野はこれを打ったのだろう。
魔女の卵は、その部屋の前には置かれなかった。
ほむらは入力欄に指を置いた。
『楽しかったわ。ビーフシチュー』
『課題、がんばって』
既読が付いて、すぐに返事が来る。
『いいな、シチュー!』
『がんばる。おやすみ、ほむら』
ほむらはその文字を見つめた。
『おやすみなさい』
送信して、画面を伏せた。その上に、濡れた髪から一滴だけ、水が落ちた。
*
一月の第三土曜日の朝、ほむらは大学の正門の前に立っていた。
七時四十分。空は晴れているが、風が冷たい。正門の前の歩道を、分厚いコートを着た受験生たちが、次々と坂を上ってくる。参考書を開きながら歩く者。耳にイヤホンを差して、目を閉じて歩く者。親に付き添われて、何度も受験票を確かめている者。
共通テストの初日だった。
ほむらの大学も、試験会場の一つになっている。まどかの受験票に印刷されていたのは、ほむらが毎日通っている、この正門の奥の講義棟だった。
隣に、マミと杏子と、さやかが立っていた。マミは紙袋を一つ提げている。杏子はダウンのポケットに両手を突っ込んで、足踏みをしていた。さやかは後期試験の勉強の合間に抜けてきたのだという。目の下の隈を見るかぎり、さやかのほうがよほど受験生らしい。
「……さみい」
「佐倉さん、まだ来て五分よ」
「五分でもさみいもんはさみいんだよ」
坂の下から、見慣れた影が上がってきた。
まどかだ。マフラーに顎を埋めて、手袋をした両手で、受験票の入ったクリアファイルを胸に抱えている。こちらに気づいて、片手を小さく振った。鼻の頭が、寒さで赤い。
「みんな……来てくれたんだ。朝、早いのに」
「見送りよ」
ほむらが言うと、まどかは、嬉しそうに笑った。それから少しだけ顔を曇らせた。
「……吐きそう」
「まどか、朝ご飯、食べた?」
さやかが訊いた。
「おにぎり、一個。半分しか入らなかった」
「残りの半分は」
「ポケット」
まどかはコートのポケットからラップに包まれた食べかけのおにぎりを出して見せた。パパが作ってくれたの、と言った。
「昼まで持っとけ。休み時間に食え」
*
マミが紙袋の中から小さな包みを一つ取り出した。白い紙に包まれて、赤い紐で結ばれている。表には、マミの字で、鹿目さんへ、と書かれている。
「お守り代わりに。中は、チョコレートとナッツ。糖分が切れたら、休み時間に食べて」
「マミさん……」
まどかは包みを両手で受け取って、胸に抱えた。
「それから、大事なことを一つ」
マミの声がいつもの柔らかさより固くなった。お茶会で紅茶を注ぐときの声ではない。四年前、結界の中でまどかを後ろに下がらせていたときの声だった。
「休み時間に、答え合わせをしないこと。終わった科目のことは、終わった科目。合っていても間違っていても、次の科目の点数は変わらないわ。気にするだけ、損よ」
「……はい」
まどかが真剣な顔で頷いた。
「それから」
マミはほむらのほうを向いた。
「暁美さん」
「何かしら」
「試験中に時間を止めて、鹿目さんに答えを教えに行くのは、駄目よ」
ほむらが瞬きをする。
一拍の沈黙のあと、さやかが噴き出して、マフラーの中で咳き込んだ。まどかが両手で口を押さえた。杏子がダウンのポケットの中で肩を揺らした。
「……しないわよ」
ほむらは表情を変えずに言った。
「本当に?」
「本当よ」
「暁美さんの本当は、鹿目さんのことになると怪しいのよね」
マミがにっこりと笑った。ほむらは少しだけ眉を寄せて、それ以上は言い返さなかった。
それからまどかのほうへ向き直った。
「まどか」
「うん?」
「わからない問題があったら、合図して。止めて、教えに行くわ」
まどかがきょとんとした。
「ほ、ほむらちゃん!?」
まどかの声が裏返った。
「今、マミさんにダメって言われたばっかりだよ!?」
「冗談よ」
ほむらの表情は、ほとんど動かなかった。ただ、声だけが少し柔らかい。
「まどかには、必要ないもの。まどかの数学は、仕上がっているわ」
まどかの顔が赤くなって、それから泣きそうな顔で笑う。
「……ほむらちゃん、ずるい」
*
七時五十分を回ると、正門の奥の講義棟へ向かう受験生の流れが、太くなりはじめた。
「ねえ、ほむら」
さやかが言った。
「去年、どうだった? 共通テスト。緊張した?」
ほむらは少し考えた。去年の一月、ほむらはこの同じ講義棟で試験を受けた。前の晩も、まどかに数学を教えていた。それ以外に、特に覚えていることはない。
「特に」
「特にって……」
「そういや」
杏子がダウンのポケットから片手を出した。
「ほむら、去年、どうだったんだよ。あたし、共通テストってのが何なのか、今もよくわかってねえんだけど」
「そういえば、暁美さんの点数、聞いたことがなかったわね」
マミとさやかが、ほむらを見た。
「何点だったの?」
「満点よ」
正門の前の空気が止まる。
受験生の流れだけが、ほむらたちの横を坂の上へ流れていった。
「……は?」
最初に声を出したのは、さやかだ。
「満点って……全部?」
「受けたものは、全部」
さやかの口が半分開いて、閉じなかった。マミも同じ顔で固まっている。杏子は、へえ、と言った。よくわかっていないらしい。
まどかだけが、表情を変えていない。
「……知ってたよ」
まどかは小さく言った。
「え、まどか、知ってたの!?」
「去年、成績表、見せてもらったもん。……だから、ほむらちゃんに教わったの。数学も、過去問も」
まどかはマフラーの上から、ほむらを見上げた。
「わたしの先生、満点なんだよ。すごいでしょ」
「すごいとかの問題じゃないでしょ、満点って……」
さやかは両手で頭を抱えた。それから急に笑い出して、マフラーから顔を全部出した。
「なんか、まどかの緊張、あたしが代わりに吹っ飛んだわ。満点の人が受けた建物で受けるんでしょ、まどか。……いいじゃん、縁起よくて」
「縁起は、関係ないわ」
「関係あるの! 気持ちの問題!」
杏子がよくわからないという顔でさやかの肩を叩いた。
「なんかわかんねえけど、ほむらがすげえってことだな」
「そういうこと」
まどかが口元を押さえて笑っていた。吐きそう、と言っていた顔は、どこにもなかった。
*
八時になると、正門の奥から係員の声が聞こえてきた。受験生は、講義棟の入口で受験票を提示してください。
「……行ってきます」
まどかが背筋を伸ばした。
「行ってきます、マミさん。さやかちゃん。杏子ちゃん」
まどかは最後にほむらを見た。
「……ほむらちゃん」
「いってらっしゃい」
まどかは少しのあいだほむらの顔を見ていた。頬の、細い傷のあたりを。一週間でほとんど目立たなくなった、薄い線のあたりを。
まどかは何も言わなかった。訊けば、ほむらが困ることを知っているのかもしれない。
「……うん。行ってきます」
まどかは正門をくぐっていった。講義棟へ続く並木道の、受験生の流れの中に紛れていく。一度だけ振り返って、手を振った。ほむらは薔薇色の手袋の手を上げ返した。
まどかの背中が、並木の向こうに見えなくなる。
マミが長く息を吐いた。白い息が、冷たい空気の中に広がって、消えた。
「……行ったわね」
「ええ」
「私たちの試験じゃないのに、私のほうが緊張してしまうわ」
見送る側のほうが、待つ時間は長いのかもしれない。
マミはそれから声を落として、ほむらの隣に立った。
「暁美さん。……先週の件、佐倉さんと片付けたわ。隣の市の子だった。身元のわかるものは、何も持っていなかった。……今は、それだけ」
「……ありがとう」
「お礼はいらないわ。今日は、鹿目さんのことだけ考えていて」
マミはそれだけ言って、さやかのほうへ戻っていった。
「マミさん、あいつ出てくるまで、どっかで時間潰そうよ。さみい」
「そうね。駅前の喫茶店、開いているかしら」
三人が坂を下りはじめた。
ほむらはもう一度だけ正門の奥を振り返った。
並木道の向こうに講義棟の窓が並んでいる。四月の入学式の日に見上げて影の落ち方がまだ決まっていない、と思った建物だった。九か月が経って、その建物の影は、少しだけ決まったように見えた。
あの窓のどれかの向こうで、まどかが鉛筆を握っている。
四月、この正門を、まどかがくぐるかもしれない。
ほむらは手袋の中で左手の指輪に触れた。冷たかった。
*
共通テストの二日目が終わった日曜日の夜、マミの部屋のローテーブルの上には、問題冊子が六冊積み上げられていた。
まどかの分だ。冊子の表紙の余白に、まどか自身の答えが、鉛筆で小さく書き写されている。その横に、今日の夕刊が広げられていた。解答の一覧が、細かい字で紙面の半分を埋めている。
「じゃあ、始めるわね」
マミが赤ペンのキャップを外した。
「暁美さん、数学と理科をお願いできるかしら。私は、国語と英語と社会を」
「わかったわ」
まどかはダイニングテーブルの椅子に座っていた。ローテーブルのほうを見ないようにしながら、何度もちらちらと見ている。隣で、さやかがまどかの背中をさすっていた。
杏子はソファに寝転がって、ポテトチップスの袋を抱えている。見張り役というより、ただくつろいでいるようにしか見えない。
「……なあ、あたし、何すりゃいいんだ」
「佐倉さんは、鹿目さんが逃げ出さないように見張っていて」
「逃げねえだろ」
「逃げたい……」
まどかがテーブルに額を付けて呻いた。
ほむらは数学の冊子を開いた。
解答の一覧と、冊子の余白の数字を、上から順に見比べていく。一問目、合っている。二問目、合っている。確率の大問。条件付きの問題。まどかの字が、余白に小さな図を描いていた。袋が二つと、中に玉がいくつか。七月の夕方、ほむらがノートの余白に描いたのと、同じ図だ。
答えは合っている。
赤ペンの丸が、途切れずに縦に並んでいった。
最後の問題に丸を付けて、ほむらは合計を出した。それから理科。マミが国語と英語と社会の合計を、別の紙に書き出した。
ほむらは二人分の数字を足した。
まどかの第一志望である見滝原大学教育学部の、去年の合格者の平均点を、ほむらは覚えていた。
ほむらの出した合計は、それを上回っている。
「……ほむらちゃん」
まどかの声が震えている。
「どう。だめ? だめなら、だめって、はっきり言って」
「数学、九割を超えているわ」
まどかの目が、見開かれる。
「確率の問題は、全部合っている。全体でも、去年の合格者の平均を上回っているわ。……この調子なら、二次試験でも戦える」
まどかは少しのあいだ動かなかった。
それから両手で顔を覆うと、その中から、声にならない声が漏れた。肩が震えている。さやかがまどかの背中に抱きついた。
「まどか……! やったじゃん、やったじゃん……!」
「……去年は、落ちたのに」
まどかは顔を覆ったまま言った。
「去年は、ここで、だめだったのに……」
「鹿目さん自身の力よ」
マミが赤ペンを置いて言った。目元を指で拭っていた。
杏子がソファから身体を起こして、ポテトチップスの袋をまどかのほうへ放り投げた。袋は、まどかの頭に当たって、テーブルの上に落ちた。
「……よかったな」
まどかは顔を上げて袋を拾った。目が真っ赤だ。
「杏子ちゃん、投げないで……」
笑いながら、泣いていた。
まどかはそれからほむらのほうを向いた。
「ほむらちゃん。……条件が付いたら、全体を数え直す。分母は、いつも、いま見ている全体」
まどかは七月の夕方にほむらが言った言葉を、もう一度暗唱した。
「試験中、ずっと、頭の中で言ってたの」
ほむらはまどかの顔を見た。
その顔が、変わっている。解けなかった問題が解けたときの顔よりも、もう少し大きく。
「……よかったわ」
「で」
杏子がソファの上で胡座をかいた。
「結局、何点なんだよ。わかるように言え」
「合格圏よ」
マミが言った。
「……それ、いいってことか」
「すごく、いいってこと」
杏子は、へえ、と言ってにやりとした。
「じゃあ、焼肉だな。……マミのおごりで」
「私なの!?」
マミが声を裏返らせて、部屋中が笑った。
*
その夜からほむらは夢を見るようになった。
最初の夢は瓦礫の上だった。
嵐の過ぎたあとの、灰色の空だ。崩れたビルの残骸が、見渡すかぎり続いている。水たまりの一つ一つに、割れた空が映っていた。
瓦礫の上に、まどかが横たわっていた。桃色の衣装が、泥と煤で汚れている。まどかの手の中に桃色の光を宿した卵形の石がある。表面の奥が、底のほうから黒く濁りはじめていた。
「お願い、ほむらちゃん」
まどかは震える手で、石をほむらのほうへ差し出した。
ほむらの手の中に拳銃があった。いつ握ったのかは、夢の中でも、わからなかった。握り慣れた重さだ。
銃口が、石に向く。
引き金を引いても、石が砕ける音はしなかった。まどかの腕が、瓦礫の上に静かに落ちた。
ほむらはそれを見下ろしていた。何も感じなかった。
あの時のほむらは、泣いていた。引き金を引く前も、引いたあとも、ずっと。夢の中のほむらは、泣いていなかった。
目が覚めると天井が暗かった。カーテンの隙間から、街灯の光が一本、白い線を引いている。
左手を顔の前に持ち上げて、指輪をほどいた。暗闇の中でも、濁りの色はわかった。寝る前よりも、少しだけ増えていた。
時計は、三時十二分を指している。
*
二日目の夢は演奏会場だった。
客席の誰もいない、広いホールだ。舞台の上で、巨大な影が、身体を揺らしながら剣を振り回している。鎧の騎士の形をした、人魚の尾を持つ魔女。
ほむらはその魔女の名前を知らなかった。その魔女が、誰だったのかは知っていた。
盾から、爆薬を一つ、二つ、三つと出していく。
ホールが光に包まれた。魔女の身体が崩れていく。その途中で、魔女は一度だけ、客席のほうを振り返った。その仕草に見覚えがある。
何も感じない。
目が覚めると二時四十分だった。
*
三日目の夢は病院の白い天井だった。
点滴の落ちる音。まだ何も起きていない、一か月の始まり。
ほむらはベッドの上で目を開けていた。
ついさっきまでいた時間軸の、最後の光景が、まだ瞼の裏に残っていた。瓦礫の向こうで、手を伸ばしていたまどか。その手に届く前に、ほむらは盾を回した。届かないとわかった瞬間に。
見捨てた、とほむらは知っていた。
救えない時間軸を、救えないとわかった瞬間に置き去りにした。それを、何十回も繰り返した。置き去りにされた時間軸のまどかは、あのあとどうなったのか。ほむらは一度も、確かめたことがない。
何も感じない。
目が覚めると二時二十分だった。
*
四日目の夢は夜の河川敷だった。
あの夜の川沿い。橋の手前の、土手の上の道。アスファルトの上に倒れている、短い黒髪の少女。左の耳の、銀の輪。
夢の中ではそれが一人ではなかった。
少女の向こうにもう一人、倒れていた。その向こうにも、もう一人。知らない顔と、知っている顔が、土手の道に沿って並んでいる。どれも魔法少女だった。いくつもの時間軸で、ほむらの前に立ちはだかった者たちだった。
ほむらはその列の端から端まで歩いていった。
一人ずつ、ソウルジェムを撃っていった。
薄い氷を踏み割るような音が、一つ、また一つ、夜の川の上に響く。
何も感じない。
目が覚めると一時五十分だった。
*
五日目の夢は六畳の部屋だった。
折りたたみの小さなテーブル。本棚の、料理の本と山の本。壁の、八ヶ岳の等高線の地図。ベッドの枕元の、小さな鏡。
日比野がテーブルの前に座っていた。
右のこめかみの上で、髪が跳ねている。日比野はほむらを見上げて笑っていた。年明けの夜と同じ顔だった。ほむらは、ほむらだよ、と言ったときの顔だった。
ほむらの手の中に拳銃があった。
違う、とほむらは思った。これは違う。この人は違う。
指は止まらなかった。
日比野の笑った顔が、笑った形のまま動かなくなった。
ほむらはそれを見下ろしていた。何も感じなかった。
そのことにさえ、ほむらは気づかなかった。
目が覚めた。
身体を起こした。息が荒い。自分の息の音が、暗い部屋の中ではっきりと聞こえた。
左手を見た。指輪を見た。ほどかなくても、濁りが増えているのがわかった。
ありえない、とほむらは思った。
航を撃つはずがない。あの夜、少女が航の名前を出したとき、ほむらは迷わずに少女を撃った。航を守るために。その航を、撃つはずがない。
ありえないのに。
夢の中の指は、少しも迷わなかった。瓦礫の上のまどかのときも、人魚の形をした魔女のときも、河川敷の少女たちのときも。そして、航のときも。
同じ指だった。どの夢でも、同じ重さのものを握って、同じ速さで終わらせた。何も感じずに。
時計は、四時五分を指していた。
窓の外は、まだ暗かった。
*
火曜の夜、夕飯の鯖を焼きながら、ほむらは二度、グリルの火を止め忘れかけた。
三度目に気づいたのは、まどかだった。台所の入口から、ほむらちゃん、と小さく呼んだ。ほむらは火を止めた。皮は、少しだけ焦げていた。
食卓で、まどかは焦げた皮をそっと端に寄せて、身を食べた。八月の夜と同じだった。
「……ほむらちゃん、ちゃんと寝てる?」
まどかは鯖を見ながら訊いた。
「寝ているわ」
ほむらは言った。
まどかは少しのあいだ箸を止めていた。
「……そっか」
まどかはそれ以上は続けずに、二次試験の過去問の話をした。英語の長文が、思ったより短かった話をした。それから九時に帰っていった。角の信号の前で、まどかは一度だけ振り返った。何か言いたそうな顔をして、言わずに手を振った。
まどかは二次試験の準備で疲れているのだろう、とほむらは思った。
*
二月の最初の日曜日、日比野と、見滝原の水族館へ行った。
日比野が前の週から行きたいと言っていた場所だった。海のない県で育つと、水槽一つにも特別な重みがあるらしい。大水槽の前で、日比野は壁一面の青い光を見上げてうわ、と声を上げた。
「すげえ。長野、海ないから、こういうの、ほんとに感動する」
鰯の群れが、銀色の渦になって、水槽の中を回っていた。渦はときどき形を変える。そのたびに、青い光の中で鱗が一斉に光った。
「ほむら、見て。あれ、エイ。でけえ」
日比野が水槽の硝子に顔を近づけて指を差した。
ほむらはその横に立ってエイを見た。平たい身体が、水の中を、ゆっくりと羽ばたくように進んでいく。
きれいだった。
そう思ったのと同じところで五日目の夢の、六畳の部屋が浮かんだ。日比野の笑った顔が、笑った形のまま、動かなくなったところが。
ほむらはエイから目を離した。
「ほむら?」
「……何でもないわ」
日比野は少しだけほむらの顔を見て、それから次の水槽のほうへ歩いていった。
クラゲの部屋は薄暗い。恋人たちが、ここだけ少し声を落として歩くものらしい。
円柱の水槽の中で、白く透き通ったクラゲが何十匹も、ゆっくりと浮き沈みしていた。下から当てられた照明の色が、数秒ごとに、青から紫へ、紫から桃色へ、ゆっくりと変わっていく。
日比野は水槽の前のベンチに座った。ほむらも隣に座った。
「クラゲってさ、脳ないんだって。心臓もないって」
日比野は水槽を見上げながら言った。
「何も考えてないのに、ずっと浮いてんの。なんか、いいよね。のんびりしてて」
日比野は何も考えていないクラゲの話をした。長野の実家の近くの川で、夏になると小さなカニが取れる話。先週、ワンゲルの部室で、先輩の作った鍋がとんでもなくまずかった話。
魔法少女の話はしなかった。
あの夜から、日比野が訊いたことは二つだけだった。魔法少女って、お腹すくの。魔女って、冬のほうが多いの。どちらも、昼の第二食堂で唐揚げを食べながら、何でもないことのように訊かれた。
日比野はほむらが魔法少女であることを、忘れているかのようにほむらに接していた。あの夜より前と、同じように。出会ってから、ずっとそうだったように。
それが、ありがたかった。
少なくとも、そうであるはずだった。
「ほむら」
日比野がベンチの上で、ほむらの手を取った。手袋を外した、右手を。
「今日、楽しい?」
ほむらは日比野を見た。
クラゲの水槽の光が、日比野の横顔を、青から紫へ、紫から桃色へ、ゆっくりと染めていた。右のこめかみの寝癖が、その光の中で柔らかく跳ねている。
楽しい、と答えたかった。
そう言っても、嘘にはならない。大水槽の鰯の渦を見たとき、エイの羽ばたきを見たとき、日比野が、うわ、と声を上げたとき、ほむらの中で、確かに何かが動いた。それは、楽しい、と呼んでいいものだった。
ただ、その楽しいもののすぐ隣に、いつも夢があった。
六畳の部屋の、動かなくなった笑顔が。
「……楽しいわ」
ほむらは言った。
本当だった。全部ではなかった。
日比野は少しのあいだほむらの顔を見ていた。それから嬉しそうに笑った。
「よかった。……俺も、すげえ楽しい」
日比野はほむらの手を少しだけ強く握った。
その手の温かさを、ほむらは感じていた。
それと同じところで夢の中の自分の手が、拳銃を握っていた。
ほむらは日比野の手を握り返した。その力が強くなった。日比野がちょっと驚いたようにほむらを見て、それからまた笑った。
楽しいのに。そのはずなのに。
楽しみきれない自分が、ほむらは嫌だった。
日比野は何も知らずに、何も訊かずに、ほむらを楽しませようとしている。忘れたふりなのか、本当に忘れているのか、ほむらにはわからなかった。どちらでも、日比野のしていることは同じだった。ほむらを、出会ったころからのほむらとして扱ってくれている。
そのほむらの中に、瓦礫の上のまどかと、人魚の形をした魔女と、置き去りにした時間軸と、河川敷の少女たちと、夢の中の日比野が入っている。
日比野はそれを知らない。
その日比野の手を握りながら、ほむらは、楽しい、と言った。
クラゲが、青い光の中で、ゆっくりと沈んでいった。何も考えずに。脳も心臓もなく。
ほむらはそれが少しだけ羨ましかった。
*
その夜も、夢を見た。
六畳の部屋の夢だった。
目が覚めたのは、三時を少し過ぎたころだった。
ほむらはもう一度眠ろうとはしなかった。コートを羽織って、部屋を出た。外階段を下りて、川沿いの道を歩いた。どこへ行くつもりもなかった。部屋の中にいると、天井の白い線が、六畳の部屋の蛍光灯に見えてくる。
土手の上は、真っ暗だ。対岸の街灯だけが、黒い川の上に細い光を落としている。
橋の手前まで来たところで足が止まった。
あの夜の場所だ。
アスファルトの上には、何も残っていない。マミと杏子が、片付けたのだ。
「……こんな時間に、何やってんだよ」
背後から声がした。
振り返ると、杏子が立っていた。ダウンの前を開けて、両手をポケットに突っ込んでいる。見回りの帰りらしかった。
「杏子こそ」
「あたしは、見回り。……おまえ、三日前の夜も、ここ歩いてたろ」
ほむらは杏子を見た。
「見てたの」
「見回りの道なんだよ、ここ」
杏子はそれだけ言って、ほむらの隣に立った。二人で、黒い川を見た。
「何の夢だ」
ほむらは答えなかった。
「夜中に出歩くやつは、だいたい夢だろ。……あたしも、昔、そうだった」
ほむらは川を見たまま言った。
「……撃つ夢」
杏子は黙っていた。
「まどかを。瓦礫の上で、頼まれて撃ったときの。……さやかだった魔女を。置き去りにした時間軸のまどかを。ここの、あの子を。……ほかの、魔法少女たちを」
ほむらはコートのポケットの中で、手を握った。
「それから、航を」
杏子の肩が、わずかに動いた。
「ありえないのに。航を、撃つはずがない。ここで、航を守るために、あの子を撃った。その航を、撃つはずがない。……なのに、夢の中の指は、迷わなかった。瓦礫の上のときと、同じ速さで。何も、感じずに」
ほむらは自分の右手をポケットから出して見た。
「今日、航と水族館に行ったわ。楽しかった。……楽しかったのに、ずっと、夢が隣にあった。航の手を握りながら、夢の中の手のことを考えていたわ」
杏子は口を挟まなかった。対岸の街灯の光が、川面で風に揺れて、細く伸びては縮んでいる。ほむらはその揺れを見ながら、続けた。
「航は、魔法少女のことを、忘れたみたいに接してくれる。出会ったころと、同じように。……それなのに、私が、楽しみきれないの」
ほむらは手を下ろした。
「それが、嫌」
杏子は少しのあいだ口を開かなかった。
黒い川を見ていた。対岸の街灯の、細い光の揺れを。
「……あたしも、見てたよ。昔」
杏子がぽつりと言った。
「撃つ夢じゃなかったけど。親父の夢。家族の夢。あの教会の夢。毎晩。……何年も」
ほむらは杏子の横顔を見た。
その父親と家族に何があったのかを、ほむらは知っていた。前の時間軸で、杏子自身の口から何度か聞いた。この時間軸でも、四年前の冬に、マミの部屋で一度だけ。
「今は、たまにしか見ねえ。……いつから見なくなったのか、よく覚えてねえけど」
杏子は少しだけ照れたように首の後ろを掻いた。
「マミの飯、食うようになってからだと思う。たぶん」
杏子はほむらのほうを向いた。
「だから、夢は、そのうち減る。……たぶんな。保証はしねえけど」
「……たぶん」
「たぶんだよ。あたし、医者じゃねえし」
杏子はダウンのポケットから何かを取り出して、ほむらの手に押しつけた。グリーフシードだ。二つ。
「濁ってんだろ。毎晩」
「杏子」
「貸しじゃねえからな」
杏子はそれだけ言って、土手の階段のほうへ歩きだした。それから立ち止まって振り返った。
「ほむら」
「何かしら」
「楽しみきれねえのが嫌だって思ってんなら、楽しいってことだろ」
杏子はポケットに手を戻した。
「楽しくなかったら、嫌だとも思わねえよ」
杏子はそれだけ言って、階段を下りていった。マミのマンションのほうへ、ダウンの背中が遠ざかっていく。
ほむらは手の中のグリーフシードを見た。
それから左手の指輪を見た。指輪をほどいて、ソウルジェムにグリーフシードを一つ近づけた。濁りが、音もなく移っていった。
ソウルジェムが、少しだけ澄んだ。
部屋に戻って、ほむらはベッドに横になった。天井に、カーテンの隙間から、白い線が一本、引かれていた。
目を閉じた。
その夜は、朝まで、夢を見なかった。