魔法少女たちの恋(魔法少女まどか☆マギカ) 作:LongLong
第十二話 バレンタイン
二月の第二月曜日、駅ビルの一階の催事場は、チョコレートの匂いで満ちていた。
入口から奥まで、長机がいくつも並べられている。その上に硝子のケースが載っていて、中に小さな箱が並んでいた。一粒ずつ仕切られた箱。宝石のように艶のある粒。金色の箔が載った粒。花の形の粒。どの箱にも、国の名前や、職人の名前を書いた小さな札が添えられていた。
売り場は女性で埋まっていた。ほむらはその人混みの端に立っている。ここに来るのは、たぶん人生で初めてだろう。
二月十四日まで、あと五日。
何を渡すのかを、ほむらは数日前から考えていた。そうするほど、答えは遠のいていく。出会ってからの十か月で、日比野から受け取ったものを数えようとした。傘。唐揚げ一つ。出汁巻きの弁当。手袋。りんご。途中で数えるのをやめた。
それに見合うものを、何か一つ。
そう思ってここへ来たのだが、硝子のケースを端から順に見ていくうちに、ほむらは少しずつわからなくなった。一粒の値段が、第二食堂のかけうどんより高い。九粒入りの箱が、ロースカツ定食の三倍もする。どれもきれいで、どれも同じに見えた。
真ん中あたりのケースの前で、足が止まった。
濃い茶色の、四角い箱だ。蓋に白い細い線で、山の稜線のような模様が描かれている。六畳の部屋の壁の、赤いペンで線を引かれた等高線の地図が浮かんだ。
これにしようか、と思った。
その前に一つだけ確かめておこうと、ほむらは携帯を取り出した。
『チョコレートは、何が好きかしら』
既読はすぐに付いた。返事が来るまでには、少し時間がかかった。
『え』
『え、それってもしかして』
『……バレンタイン?』
『そうよ』
また、少し間があった。入力中の表示が、点いたり消えたりしている。
『わがまま言っていい?』
『どうぞ』
『手作りがいい』
ほむらは画面を見つめた。
『下手でも、形ぐちゃぐちゃでも、なんでもいいから。ほむらが作ったやつがいい』
『出汁巻きのお返し、ってことで』
その下に手を合わせてお願いをしている犬のスタンプが一つ付いていた。
ほむらは目の前の硝子のケースを見た。山の稜線の模様の、濃い茶色の箱。
それから自分の手を見た。
料理なら作れる。四年間、火曜と木曜と土曜に、まどかのために作ってきた。出汁も取れるし、鮭も焼ける。出汁巻きも、四回目で形にした。
菓子を作ったことは、一度もない。
『作ったことがないわ』
『じゃあ、初めてのやつだ』
『それ、めっちゃ嬉しい』
ほむらは携帯をしまって、硝子のケースの前を離れた。
催事場の出口へ歩きながら、もう一度携帯を取り出した。今度は、日比野ではない名前を押した。
*
「まあ……!」
電話の向こうで、マミの声が一段高くなった。
『もちろんよ。いつでもいらっしゃい。……暁美さんが、お菓子を。まあ……』
マミは同じことを三回言った。
『木曜日はどうかしら。私も、先輩の分を作るつもりだったの。一緒に作りましょう』
木曜日の午後、ほむらはマミの部屋の台所に立っていた。
マミが貸してくれた臙脂のエプロンを着けている。クリスマス会でマミが着けていたものだ。後ろで紐を結ぶのに、少しだけ手間取る。
調理台の上に、材料が並んでいた。製菓用のチョコレートの塊。無塩のバター。卵。グラニュー糖。生クリーム。ココアパウダー。薄力粉。それから赤いりんごが二つ。
「日比野くん、長野の方なのでしょう」
マミはりんごを一つ手に取って、ほむらに見せた。
「ガトーショコラに、りんごのコンポートを挟むのはどうかしら。チョコレートとりんごは相性がいいのよ。それに、日比野くんの故郷の味が、少しだけ入るわ」
日比野が持ってきたりんごは、まどかに渡した分も含めて、もう残っていない。これは、マミが昨日スーパーで選んできたものらしい。
「それにするわ」
「決まりね」
マミは嬉しそうに微笑んだ。
リビングのソファから、声がした。
「……で、あたしは何すりゃいいんだ」
杏子だ。テレビも点けずにソファに寝転がって、台所のほうを見ている。
「佐倉さんは、味見係」
「任せろ」
「失敗したものを、全部」
「……任せろ」
二度目の返事は、一度目より嬉しそうだった。焦げるほうに賭けているのかもしれない。
*
まずは、りんごのコンポートから。
マミがりんごの皮を剥いた。まどかとは、やり方が違う。まどかは皮を途切れさせずに一本の螺旋にするが、マミはりんごをくし形に切ってから、一切れずつ刃を滑らせるように剥いていく。
「暁美さん、切ってみて。厚さは五ミリくらい」
ほむらは包丁を取って、くし形のりんごを薄く切っていった。刃が、果肉を音もなく通る。
マミが切られたりんごの一切れを指でつまんで、光に透かした。
「……五ミリ、ぴったりね」
「言われたとおりにしただけよ」
「それが、なかなかできないのよ」
マミは少し可笑しそうに笑った。
小鍋に、りんごとグラニュー糖とレモン汁と少しの水を入れて、弱火にかけた。りんごが少しずつ透き通っていく。台所に、甘酸っぱい匂いが広がった。ソファの上で、杏子が鼻をひくつかせた。
次はチョコレートだ。
マミが塊を包丁で細かく刻んで、ボウルに入れた。そのボウルを、湯を張った一回り大きなボウルの上に載せる。
「湯煎。お湯の温度は、五十度から五十五度。熱すぎるとチョコレートが分離してしまうの。それから、絶対に、水を一滴も入れないこと」
マミは温度計をほむらに渡した。
「暁美さん、測りながら混ぜてみて」
ほむらは温度計を湯に差して、目盛りを読んだ。五十八度。
「高いわ」
水差しに移しておいた常温の水を、湯の中に少しずつ足していく。五十六度。五十五度。五十三度。そこで止めた。
チョコレートのボウルを湯の上に戻して、ゴムべらでゆっくりと混ぜた。刻まれたチョコレートの縁が少しずつ溶けて、艶を帯びていく。
マミが隣からほむらの手元を覗き込んでいた。
「……暁美さん」
「何かしら」
「混ぜ方、上手ね」
ほむらはゴムべらを動かしながら、自分の手を見た。
ゴムべらを握る右手と、ボウルの縁を押さえる左手。その指の指輪が、ボウルの縁にかすかに当たっていた。
この手なのだ。
一か月前の夜、この手は川沿いで拳銃を握っていた。そのあとの何晩かは、夢の中で同じものを握っていた。三日前の夜も、二日前の夜も、夢は見なかった。杏子にグリーフシードを押しつけられた夜から、夢は少しずつ間遠になっている。
その手が、今、チョコレートを混ぜていた。五十三度の湯の上で、焦がさないように、分離させないように、ゆっくりと。日比野に渡すものを作るために。
「暁美さん?」
マミがほむらの顔を見ていた。
「手が、止まっているわ」
ほむらはゴムべらを動かし直した。
「……考えていたの」
「何を?」
ほむらは少しだけ迷った。
「この手で、作っていいのかと」
マミの目が見開かれた。視界の端で、ソファの上の杏子が身体を起こした。
「……杏子から、聞いているわね」
「ええ」
マミは静かに言った。
「川沿いのこと。佐倉さんから」
ほむらはボウルの中を見ていた。溶けたチョコレートが、ゴムべらの跡を残して、ゆっくりと平らになっていく。
マミは少しのあいだ口を開かなかった。
それからほむらの右手の上に、自分の手をそっと重ねた。ゴムべらを握る手の上に。
「暁美さん」
マミの手は温かい。
「この手でしか、作れないものがあるのよ」
マミはほむらの手ごとゴムべらを動かした。ゆっくりと、ボウルの底から縁へ。
「私の手もね。……いろいろなことを、してきたわ。魔女を撃って、使い魔を撃って。それだけじゃないことも。暁美さんは、別の時間軸の私が何をしたのか、知っているでしょう」
ほむらは返事をしなかった。それは、マミ自身も知っていることだった。
「でも、この手で、ケーキを焼いてきた。紅茶を淹れてきたわ。鹿目さんや、美樹さんや、佐倉さんや、暁美さんに」
マミは手を離した。
「日比野くんは、暁美さんが作ったものが欲しいって言ったのでしょう。上手なものでも、きれいなものでもなくて」
「……そうよ」
「それなら、暁美さんの手が作ったものでないと、意味がないわ」
マミは微笑んだ。
「どんな手でも」
ほむらはマミを見た。それからボウルの中を見た。
チョコレートはきれいに溶けて、艶があった。湯の温度は、五十三度から動いていない。
「……溶けたわ」
「ええ。完璧よ」
*
溶かしたチョコレートにバターを加えた。卵黄とグラニュー糖を、白っぽくなるまで泡立てる。卵白を、角が立つまで泡立てる。粉をふるう。
マミが手順を一つずつ教え、ほむらは言われたとおりに動いた。言われた量を、言われた温度で、言われた回数だけ混ぜた。
一つ目の型は、焦げてしまった。
マミのオーブンは癖が強く、温度を下げておく必要があった。それを、マミが言い忘れたのだ。
「ご、ごめんなさい、暁美さん……! うちのオーブン、少し強いの……」
焦げたガトーショコラは、表面の半分が黒くなっていた。
杏子がソファから飛んできた。
「それ、あたしの」
杏子は焦げたところごとナイフで切り分けて、口に入れた。少しだけ顔をしかめて噛んでから、飲み込む。
「……焦げてるとこ、案外うまい」
夏の夜に、まどかが焦げた鮭の皮を食べて、同じことを言っていた。
杏子は結局、焦げた一台を、半分ほど一人で食べた。味見係という言葉の意味を、杏子は少し広く取っているらしい。
二つ目の型は、焦げなかった。今度は、マミがオーブンの前から離れなかったのだ。
オーブンの扉を開けると、甘い、深い匂いが台所いっぱいに広がった。型の中で生地が膨らんで、表面に細かいひびが入っている。
「ガトーショコラは、ひびが入るものなの」
マミが言った。
「冷めると、少し沈むわ。それで、ちょうどいいの」
網の上で冷ますあいだに、マミは先輩へのトリュフを作った。丸めたガナッシュを、ココアパウダーの中で転がしていく。杏子がマミの手元を覗き込んで、一個、と言った。マミは、失敗したのをね、と言って、形の歪んだ一粒を杏子の口に入れた。
冷めたガトーショコラを型から外して、横半分にそっと切った。その断面に、りんごのコンポートを並べる。五ミリの厚さに揃えたりんごが、透き通って、薄い琥珀色になっていた。その上に、上半分をそっと重ねた。
表面に粉砂糖を振った。
マミが渡してくれた茶こしを軽く叩くと、ひびの入った表面に、白い粉が雪のように降りていった。
「……きれい」
マミが小さく言った。
黒に近い茶色の上に、白い粉が降り積もっている。ひびの隙間にも、白が入り込んでいた。
きれいだ。
自分の手が作ったものを、ほむらは初めて、きれいだと思った。
*
箱に詰めるとき、ほむらはガトーショコラを八つに切った。
そのうち六つを、マミが用意してくれた白い箱に並べた。蓋に紺のリボンを掛ける。日比野の手袋を包んでいた紙と同じ色を、マミが選んでくれた。
残りの二つを、別々に小さな皿に載せた。
「佐倉さんの分?」
「杏子は、焦げたのを食べたわ」
「……そうね」
マミはソファの上で腹をさすっている杏子を見て、笑った。
「一つは、あなたの分よ」
マミが瞬きをした。
「教えてもらった、お礼」
マミは皿を見ていた。それから口元を押さえて笑った。その声が、少しだけ震えていた。
「……借り、じゃなくて?」
「お礼よ」
マミはフォークで一切れを口に運び、噛んで、目を閉じた。
「……おいしい」
マミは目を開けた。
「暁美さん。これ、本当に初めて作ったの?」
「初めてよ」
「……ずるいわ」
マミは泣き笑いの顔で言った。
ほむらは残りの一切れの皿を見た。
「もう一つは?」
マミが訊いた。
「まどかの分」
マミの手が、フォークの上で止まった。
「今夜、来る日だから」
マミはほむらを見て、それから、皿の上の一切れを見た。何かを言いかけて、口を閉じた。
「……ラップ、かけておくわね」
マミは立ち上がって、台所の引き出しを開けた。
ソファの上で、杏子が、天井を見たまま動かなかった。
*
その夜、まどかは七時半に来た。参考書の詰まった鞄が、先週より少し重そうに見える。
夕飯を食べて、二次試験の英語の長文を一題見たあとで、ほむらはラップのかかった皿を冷蔵庫から出した。
「マミの部屋で、作ったの。航に渡すものの、余り」
まどかは皿の上のガトーショコラを見た。粉砂糖の白と、断面の琥珀色の線を。
「……ほむらちゃんが、作ったの?」
「ええ」
「チョコレートのお菓子、初めてだよね」
「初めてよ」
まどかはフォークを取って、端から小さく一口を切り取った。口に入れて、ゆっくりと噛んだ。
まどかの顔が、少しのあいだ動かなかった。
「……りんご、入ってる」
「マミが、選んだの。航の故郷の味が、少しだけ入るからって」
「そっか」
まどかは二口目を、一口目より少しだけ大きく切った。
「……おいしい」
まどかはフォークを置いて、皿の上の残りを見ていた。
「日比野さん、喜ぶね。きっと」
「そうかしら」
「うん。絶対」
まどかは笑った。いつもの高さの声だ。
ほむらはまどかの皿を見た。三口目は、なかなか切られなかった。二次試験まで、あと十日。疲れて、甘いものもあまり入らないのだろう。
まどかは結局、最後の一口まで、ゆっくりと時間をかけて食べた。いつもと同じように、残さずに。
*
二月十四日は、土曜日。
十二日の夜、まどかは帰り際に玄関で振り返って言った。
「十四日、ほむらちゃん、夜いないんだよね」
「ええ」
「じゃあ……遅くなってもいいから、十時くらいに、ちょっとだけ寄ってもいい? 過去問、一題だけ、見てほしいの。ポストに入れておくだけでもいいから」
「わかったわ。見ておくわ」
まどかは嬉しそうに頷いて、帰っていった。
十四日の夕方六時、ほむらは駅前の広場に立っていた。
白い箱を入れた紙袋を、右手に提げている。左手には、薔薇色の手袋を嵌めていた。
店は、ほむらが選んだ。
三日前の夜、ガトーショコラが冷めるのを待つあいだに、マミの部屋のソファで携帯の画面を開いた。映っていたのは、夏に日比野が見せてくれたのと同じ検索の結果だった。駅前のイタリアン。白いクロスの掛かったテーブルに、細いグラスと、火の点いた蝋燭。
あの夏の三限のあと、日比野の携帯の画面の、いちばん上にあった店だった。ほむらはその写真を見て、普通のところがいいわ、と言った。
同じ写真を、今度は自分の携帯で見た。蝋燭にも、白いクロスにも、意味が付いている。そういう場所に座る自分を、あのころのほむらは思い描けなかった。
今は、少しだけ思い描けた。向かいに日比野が座っている。それだけで、その場所に付いている意味の中身が変わる気がした。
ほむらは予約のボタンを押した。二名。二月十四日、十八時半。日比野には、店の名前だけを伝えてある。
六時五分に、日比野が改札から出てきた。
紺のダッフルコートの前が開いていて、その下に、薄い灰色の、襟のあるシャツが見えた。マミと選んだシャツだ。
日比野はほむらを見つけると、コートの前を、わざと少しだけ大きく開いてみせた。
「……着てきた」
日比野は照れたように笑った。
「外で着るの、初めて。今日のために、取っといた」
右のこめかみの上で、寝癖が跳ねている。水で押さえた跡があって、乾いてきたところから少しずつ持ち上がりはじめていた。
「似合っているわ」
ほむらが言うと、日比野は一瞬固まって、それから首まで赤くなった。
「……ほむらに、似合ってるって言われたの、初めてかも」
「言ったことがなかったもの」
「うん。……やばい、今日、もう満足かもしれない」
「まだ、店に入ってもいないわ」
日比野は声を出して笑った。
*
店の扉を開けると、中は暖かい。
照明が低く抑えられている。白いクロスの掛かったテーブルが十ほど並び、どのテーブルにも、小さな硝子の器の中で蝋燭の火が揺れていた。壁際の棚にワインの瓶が並んでいる。オーブンで何かが焼ける匂いと、ニンニクとオリーブオイルの匂いが、店の奥から流れてきた。
黒いベストの店員が、暁美様ですね、と言って、窓際の席に案内してくれた。
席に着くまで、日比野は一言も喋らなかった。席に着いてから、テーブルの上の蝋燭を見て、白いクロスを見て、それからほむらを見た。
「……ここ」
日比野の声が小さい。
「夏に、俺が見せた店だよね。いちばん最初の」
「一枚目だったわ」
「覚えてたの」
「覚えていたわ」
日比野は何か言おうとして、口を開けて、閉じた。
「……普通のところがいいって、言ってたのに」
「言ったわ」
ほむらは蝋燭の火を見た。硝子の器の中で、小さな炎が、店の空気の流れに合わせてかすかに揺れている。
「あのときは、ここに座る自分が、思い描けなかったの」
「……今は?」
「航が向かいにいるなら、座れると思ったわ」
日比野はテーブルの上で両手で顔を覆った。
「……ずるい。ほむら、最近、ずるいこと言いすぎ」
指の隙間から、声が漏れた。
コースは、ほむらが予約のときに決めてあった。前菜とパスタとメインと、ドルチェ。飲み物だけ日比野が選んで、二人とも炭酸水にした。
前菜は、真鯛のカルパッチョ。薄く切られた白身の上に、オリーブオイルと、細かく刻んだ香草と、柑橘の皮が散らされている。
日比野は一口食べて、目を見開いた。
「……うま。なにこれ。生なのに、全然生臭くない。これ、どうやって作ってんだろ。家でできるかな」
「航は、いつも作り方を考えるのね」
「え、そう?」
「出汁巻きのときも。蕎麦屋のときも」
日比野は少し考えて、それから笑った。
「……蕎麦屋の息子の、職業病かも」
パスタは蟹のトマトクリームで、メインは仔羊の香草焼き。
日比野は、一皿ごとに、一口目を食べるたびに何か言った。うまい、とか、やばい、とか、これ何入ってるんだろう、とか。
そして一皿ごとに、ほむらの一口目を見ていた。
ほむらはそれに気づいていた。最初から、ずっと。第二食堂のかけうどんでも、ファミレスのドリアでも、蕎麦屋の鴨せいろでも。日比野は自分の一口目より先に、ほむらの一口目を見ていた。
今夜も、同じだ。
ほむらは仔羊を一口食べた。香草の香りが鼻に抜けて、肉はやわらかく、脂が甘かった。
「……おいしいわ」
日比野が嬉しそうに笑った。
「今、ちょっと変わった。顔」
「変わっていないわ」
「変わったって。俺、プロだから。ほむらの顔の変化の」
日比野は自信満々に言って、それから自分の仔羊を一口食べて、目を閉じた。
ほむらはその顔を見ていた。日比野の顔も、一口目の前と後で変わっていた。
出会ってから、見る側はずっと日比野だった。今夜は、ほむらが日比野の顔を見ていた。
*
ドルチェは、パンナコッタ。苺のソースが、白い表面に細い線を描いていた。
「航」
「ん?」
「誕生日は、いつ」
日比野のスプーンが止まった。
「……え、俺?」
「訊いたことが、なかったから」
日比野は少し驚いたような顔でほむらを見ていた。ほむらのほうから何かを訊かれることに、まだ慣れていないらしい。無理もないだろう。十か月、訊くのはいつも日比野のほうだった。
「七月。七月の十日」
ほむらは頭の中で去年の七月の暦をめくった。
七月の第二火曜日に、第二食堂で、綺麗ですよね、と言われた。ほむらはうどんを半分残して席を立った。その二日後の木曜日に、三〇二教室の前で日比野に謝られた。その夜、坂の下のファミリーレストランへ行った。
「七月十日は、木曜日よ」
「え、そうだっけ」
「ファミレスの日」
日比野の動きが止まった。それから口がゆっくりと開いていく。
「……そうだ。そうだった。あの日、誕生日だった」
日比野は自分でも今思い出したという顔で額に手を当てた。
「朝、母ちゃんからメッセージ来てて。でも夕方、ほむらが晩ご飯行けるって言ってくれて、そっちで頭いっぱいで、完全に忘れてた」
あの夜、日比野はドリンクバーに三回立って、三回目は何も持たずに戻ってきた。蕎麦屋の実家の話をして、見滝原の空の話をして、花火に誘って断られた。会計を、別々にした。
誕生日の夜に。
「……会計を、別にしたわ」
「え?」
「航の誕生日に。自分の分は自分で払う、と言ったわ。借りになるから、と」
日比野は少しのあいだきょとんとしていて、それから吹き出した。
「いや、それは、知らなかったんだから……」
日比野はテーブルの上で肩を震わせて笑った。
「てか、ほむらは? 誕生日。俺も訊いたことない」
ほむらはパンナコッタのスプーンを置いた。
「探して」
「え?」
「航は、私の好きな食べ物を、勝手に探すと言ったわ。誕生日も、探して」
日比野は口を半分開けたまま、ほむらを見ていた。
「……それ、めっちゃ難しくない?」
「難しいわね」
「ヒントは」
「ないわ」
日比野は天井を仰いで、それから笑った。
「……わかった。探す。絶対見つける。それで、当日に、ちゃんと祝う」
食べ終えたところで、店員が伝票を持ってきた。日比野が手を伸ばしたが、ほむらはその手より先に伝票を取った。
「え、ちょ」
「今日は、私が」
「いや、でも、ここ、絶対高いでしょ。俺も半分……いや、全部払う」
日比野が身を乗り出した。
「七月の分よ」
日比野が止まった。
「航の誕生日に、割り勘をさせたもの」
ほむらは伝票を自分の手元に引き寄せた。
「……それ、借り返してるってこと?」
「借りではないわ。七月の分」
「それを借りって言うんだって……」
日比野は呆れたように言って、それから、少しだけ笑った。
「誘ったのは、私よ」
日比野の手が宙で止まった。第二食堂の券売機の前で、二人分の食券を買ったときにも、ほむらは同じことを言った。日比野は、それ、俺の台詞、と言って笑った。
今夜も、日比野は笑った。
「……それ、何回目」
「二回目」
「数えてんの」
「数えているわ」
日比野は観念したように手を下ろした。
「……じゃあ、今日はごちそうさまです。次は、俺」
*
店を出ると、夜の空気が頬に冷たい。
二人は、駅とは反対の方向へ、川沿いの道を歩いた。クリスマスに光の筋が走っていた土手の上には、今は街灯が等間隔に並んでいるだけだった。
橋の少し手前の、街灯の下のベンチで、ほむらは足を止めた。
一か月前の夜、この橋の手前で、ほむらは一人の少女のソウルジェムを撃った。この道を日比野と歩くのは、初めてだった。
ほむらはベンチに座った。日比野も隣に座った。
紙袋から白い箱を取り出して、日比野に差し出した。
日比野は箱を見て、それからほむらを見た。
「……これ」
「バレンタインよ」
日比野は両手で箱を受け取ると、膝の上に載せて、紺のリボンを指でなぞった。
「紺……手袋の包み紙と、同じ色だ」
「マミが、選んだの」
「……開けていい?」
「どうぞ」
日比野は年明けの夜にシャツの包みを開けたときと同じくらい、ゆっくりとリボンをほどいた。
蓋を開けた。
街灯の光の下で、六切れのガトーショコラが、粉砂糖を纏って並んでいた。黒に近い茶色の上に、白い粉が雪のように降り積もっている。断面の真ん中に、薄い琥珀色の層が、一本の線になって見えた。
日比野はすぐには口を開かなかった。言葉が、どこかで渋滞しているらしい。
「……りんご」
ようやく、日比野が言った。
「断面の、これ、りんご?」
「コンポート。五ミリに切ったわ」
「五ミリ……」
日比野は笑いそうな顔をして、笑わなかった。代わりに、少しだけ鼻をすすった。寒さのせいだけではないのかもしれない。
「食べていい? 今」
「どうぞ」
日比野は一切れを指でつまんだ。粉砂糖が指先に付く。それを、口に運んだ。
ほむらは日比野の顔を見ていた。
日比野が噛んで、そこで動きが止まった。目がゆっくりと閉じる。眉のあたりが下がって、口の端がほんのわずかに持ち上がり、それから、かすかに震えた。
日比野の顔が変わっていた。一口目の前と、後で。
蕎麦って、食べる前と後で、顔が変わるんですよ、とファミリーレストランの窓際で日比野は言った。それを、盆を下げに行くときに見るのが好きだったのだ、と。
自分の手が作ったものが、この人の顔を変えた。
チョコレートを溶かした手が。りんごを五ミリに切った手が。粉砂糖を降らせた手が。
川沿いで、引き金を引いた手が。
同じ手が、この顔を作った。
胸の奥の、ずっと深いところで、何かがゆっくりとほどけていった。八ヶ岳の写真を見たときにほどけたものとは違う。もっと奥の、もっと古い結び目だった。ほどけきりはしない。それでも、少しだけ緩んだ。
日比野が目を開けた。
「……うまい」
声がかすれていた。
「めちゃくちゃ、うまい。りんご入ってるの、すげえいい。チョコ、甘すぎなくて、りんごの酸っぱいのと合ってて……」
日比野は言葉を探して、見つからなかったらしく、首を振った。
「……うまい。それしか出てこない」
「航」
「うん」
「今、顔が変わったわ」
日比野が瞬きをした。
「……え、俺?」
「一口目の前と、後で」
日比野は少しのあいだほむらを見ていた。それからゆっくりと笑った。今度は震えずに、顔全体で。
「……うん。変わったと思う。自分でも、わかった」
日比野は残りの五切れの入った箱を、膝の上で大事そうに抱えた。
「ほむらが、見ててくれたんだ。俺の顔」
「見ていたわ」
「……いつも、俺が見る側だったのに」
「知っているわ」
ほむらは日比野の膝の上の箱を見た。
「航が、どうしてそれを見るのが好きだったのか。……少しだけ、わかったわ」
日比野は何も言わずに、ほむらの左手を取った。手袋を嵌めた手を。
「……手袋の上からだと、冷たいかわかんないって、前に言ったけど」
日比野は、手袋ごと、ほむらの手を両手で包んだ。
「今日は、あったかい気がする」
ほむらは自分の手を見た。手袋の中で、指輪はいつもの場所にある。冷たいのか温かいのか、ほむらにもわからなかった。日比野の手の温かさが、毛糸を通して、ゆっくりと染みてきていた。
川の音がした。対岸の街灯が、水面に揺れている。あの夜と、同じ川だ。その土手の上で、今夜、日比野がほむらの作ったものを食べて、顔を変えた。
ほむらはそれを忘れないでおこうと思った。夢の中の手のことを忘れることはできなくても、その隣に、今夜のこれを置いておこうと。
「……残りは、一日一個ずつにしようと思ってた。五日かけて」
「それでいいわ」
「毎日、一個ずつ、ほむらの顔思い出しながら食べる」
「私の顔ではないわ。自分の顔を」
「え?」
「航が食べて、顔が変わる。それを、覚えておいて」
日比野は少しのあいだ口を閉じて、それから、うん、と言った。うん、ともう一度言った。
川風が少しだけ強くなった。日比野が箱の蓋を閉じて、そろそろ行こうか、と言いかけた。
「航」
「うん?」
ほむらは日比野の膝の上の箱から目を上げた。
マミはコンビニの前で訊いた。そういうことは、したの、と。全部を話さないまま同じことになったら、私と同じ気持ちにならないかしら、と。
全部は、まだ話していない。時間を繰り返したことも。瓦礫の上で、まどかに頼まれて撃ったときのことも。この橋の手前で、何があったのかも。
それでも、今夜は、この人の近くにいたかった。ガトーショコラを食べて、顔を変えた人の近くに。
「今日」
ほむらは言った。
「泊まっても、いいかしら」
日比野の動きが止まった。
箱を閉じかけた手が、蓋の上で止まっている。口が開いていた。街灯の光の下で、日比野の喉が一度だけ動いた。
「……え」
「航の部屋に」
「い、いや、それは、わかる。わかるけど」
日比野は箱を膝から落としそうになって、両手で抱え直した。
「……え、いいの?」
「訊いているのは、私よ」
日比野は、口を開けて、閉じて、もう一度開けた。それから観念したように長く息を吐いた。白い息が夜の空気の中に広がって、消えた。
「……いい」
日比野は小さく言った。
「いいに、決まってる」
日比野はほむらを見た。耳まで赤くして、それでも目は逸らさなかった。一度も逃げなかった目だった。
「部屋、散らかってるけど。……あと、布団、一組しかないけど」
「知っているわ。前に見たもの」
「……だよね」
日比野は少しだけ笑った。いつもより、不器用な笑い方だ。
ほむらはベンチから立ち上がって、手袋を嵌めた左手を日比野のほうへ差し出した。日比野は白い箱を左腕に抱えて、右手でその手を取った。手袋越しの日比野の手は、温かかった。
二人は、駅とは反対の、大学の坂のほうへ歩きはじめた。
*
アパートの外階段を上がりきったところで、日比野が振り返った。
「……ちょっとだけ、ここで待ってて。三分。いや、二分」
日比野は鍵を開けて、扉の隙間から中に滑り込んだ。
中から、何かを慌てて動かす音がする。引き出しを開ける音と、閉める音。何かが床に落ちる音。小さく、やべ、と言う声。掃除機のスイッチが入りかけて、すぐに切れる音。
ほむらは外廊下の手すりに寄りかかる。坂の下に、大学の建物の明かりがいくつか見えている。
携帯を取り出した。九時四十分。
まどかとのトーク画面を開いて、入力欄に指を置いた。十時に寄る、とまどかは言っている。過去問を一題、ポストに入れておくだけでもいいから、と。
『今夜は、帰らないわ。過去問は、明日見る』
打ってから、画面を見つめた。
短い一行だ。七月に、夕飯を作れない、と送ったときと、同じくらいの長さだった。
送信した。
既読は、すぐに付いた。
返事は来なかった。
十秒が過ぎ、二十秒が過ぎた。七月の木曜日、まどかの返事は、十秒も経たないうちに来た。一分が過ぎた。
扉の中で、日比野が何かにつまずいて、いて、と言った。
二分が過ぎたころ、携帯が震えた。
『わかった』
少しして、もう一つ届いた。
『あったかくして寝てね』
ほむらはその二つの吹き出しを見ていた。一つ目の前に、二分近い間があった。一つ目と二つ目のあいだに、三十秒ほどの間があった。
まどかは自習室にいたのだろう、とほむらは思った。携帯を見られない場所にいて、出てきてから返したのだ。十日後には、二次試験がある。
『ありがとう』
送ると既読が付いて、今度は返事は来なかった。
扉が内側から開いた。
「……どうぞ。お待たせしました」
日比野は少し息を切らしていた。額にうっすらと汗が浮いている。右のこめかみの寝癖が、慌てて動いたせいで、いつもより大きく跳ねていた。
*
六畳の部屋は、前に来たときよりも片付いている。
正確には、物が見えないところに押し込まれていた。クローゼットの扉が閉まりきっておらず、隙間から服の袖が一本はみ出している。折りたたみのテーブルの上には、何もなかった。前は教科書が積まれていた場所だ。ベッドの上の布団がきれいに整えられていた。きれいすぎて、かえって、ついさっきのことだとわかる。二分では足りなかったらしい。
「座って。……あ、コート、預かる」
日比野は、ほむらのコートを受け取って壁のハンガーに掛け、自分のダッフルコートも隣に掛けた。灰色のシャツが、蛍光灯の下で見えた。
それから冷蔵庫を開けて、白い箱を入れた。いちばん上の段の、真ん中に。
「……一日一個。明日から」
日比野は冷蔵庫の扉を閉めて、その扉を一度撫でた。
「お茶、淹れる。……ココアのほうがいいかな。あ、ココア、ない。お茶しかない」
「お茶でいいわ」
日比野は小さなやかんに水を入れて、コンロにかけた。
ほむらはテーブルの前に座った。前と同じ場所だ。
壁の八ヶ岳の地図の、赤いペンの線の横に、小さな字で日付が書き込まれていた。前には見落としていたものだ。七月。十一月。その十一月の横に、初冠雪、とある。
やかんが鳴った。
日比野は湯呑みを二つテーブルに置いて、自分もほむらの隣に座った。向かいではなく、隣に。
二人とも、しばらく言葉を探すように、お茶を飲んだ。湯呑みの湯気が、蛍光灯の光の中で細く立ち上っていた。
「……あのさ」
日比野が湯呑みを置いた。
「改めて、言っていい?」
日比野は膝の上で両手を組んでいた。ファミレスのボックス席で花火に誘ったときと、コーヒーチェーンで告白したときと、同じ組み方だった。指の関節が白い。
「ほむらのことが、好きだ」
日比野はほむらの目を見て言った。
「大好きだ」
敬語ではない。最初の告白は、敬語だった。
「最初から、ずっと好きで。告白して、好きって言ってもらって。全部じゃないかもしれないけど、ほむらのこと聞いて。……それでも、好きで。むしろ、前より、ずっと」
日比野は少しだけ言葉を切った。
「それと、ごめん。一個、約束、破っていい?」
「約束」
「前の。髪と目のことは、言わないって」
ほむらの胸の奥が、一瞬だけ身構えた。
夏の第二食堂で、日比野は言った。綺麗ですよね。髪とか、目とか。胸の温度が一段下がった。ほむらはうどんを半分残して、席を立った。
「ほむらの髪も、目も、大好きだ」
日比野の声が、かすかに震えていた。
「最初に見たとき、なんて綺麗な人なんだろうって思った。ゼミの教室で。……でも、食堂で言ったとき、ほむら、傷ついたでしょ。だから、もう言わないって決めた。決めて、ずっと言わなかった。でも、ずっと思ってた。毎日」
日比野は手を持ち上げて、ほむらの長い黒髪の一房に、触れるか触れないかのところで止めた。
「この髪も、この目も、ほむらの、全部の一部だから。全部、大好きだ」
ほむらは日比野の手を見ていた。自分の髪のすぐそばで止まっている手を。
胸の温度を確かめた。
下がっていない。あの夏には一段下がったのに、今夜は下がらない。代わりに、胸の奥のずっと古いところが、ゆっくりと温まっていくのがわかった。
三つ編みをほどいたのは、守られる側をやめると決めた時間軸だった。眼鏡を外したのは、魔法で目を直してからだ。どちらも、何度目かの一か月をやり直す途中で、ほむらが自分で作り替えた外側だ。その外側を、夏の日比野は綺麗だと言った。ほむらは外側だけを見られたのだと思った。
今夜の日比野は、全部の一部だと言った。ソウルジェムを見たあとで。止まった部屋を見たあとで。
「……嬉しいわ」
ほむらは言った。
自分の口から出た言葉に、ほむらは少しだけ驚いた。嘘でも、飾りでもなかった。胸の中にあったものが、形を変えずに言葉になって出てきた。
日比野の目が、大きく見開かれた。
「……ほんと?」
「本当よ」
言ってから、ほむらは自分の言葉を聞いた。
蕎麦屋では、嘘は、と言いかけて、言えなかった。お風呂に入っていた、と言った口だ。それでも、今夜のこれは、嘘ではない。それだけは確かだった。
「私も」
ほむらは髪のそばで止まっていた日比野の手に、自分の手を重ねた。
「航が、好きよ」
日比野の手が、ほむらの手の下でかすかに震えた。
「好き」
ほむらはもう一度言った。
ノートの最後のページに、好きだから、と書いた。その二行目は書けなかった。蕎麦屋で、航のことが好きよ、と言った。今夜の好き、は、そのどれよりも短くて、どれよりも重かった。
*
日比野がほむらを抱き寄せた。
年明けの夜と同じだった。腕が背中に回り、額が日比野の肩に当たる。薄い灰色のシャツの、肩のところだった。マミと選んだ、日比野の肩幅に合わせたシャツ。
温かい。
ほむらは自分の腕を日比野の背中に回した。あの夜は少しだけ迷ってから回した。今夜は迷わなかった。
日比野が身体を離して、ほむらの顔を見た。ほむらも見つめ返した。
日比野の顔が近づいてきて、ほむらは目を閉じた。
唇が触れた。
あの夜はほむらからだった。一秒か、二秒だ。今夜は日比野からだった。一秒よりも、二秒よりも、長かった。
唇が離れたとき、日比野の息がほむらの頬にかかった。日比野の手がほむらの頬に触れて、耳の下を通り、首の後ろに回った。長い髪の中に、指が入ってきた。
ほむらの中で、何かが、静かに軋んだ。
この人は知らない。
この身体が、何をしてきた身体なのかを。
瓦礫の上で、頼まれて、まどかのソウルジェムを撃った手。救えないとわかった時間軸を、何度も置き去りにしてきた手。一か月前の夜、この川沿いの、ほんの少し先で、少女のソウルジェムを撃った手。夢の中で、何度もこの人の笑った顔を動かなくした手。
その手で、今、この人の背中に触れている。
日比野の指が、ほむらの髪をゆっくりと梳いていた。大好きだと言った髪を。
ほむらは日比野の背中に回した手に力を込めた。離したくなかった。
けれど、そうしなければいけないのかもしれない。本当のことを言って、この人に選ばせなければいけないのかもしれない。それでも触れたいのか、と。それでも、と。
言えなかった。
言えなくても、触れていたかった。
日比野がほむらの耳元で小さく言った。
「……ほむら。いい?」
ほむらは日比野の肩に額を押し当てた。長い沈黙があった。蛍光灯のかすかに唸るような音だけが、六畳の部屋の中にあった。
「……初めて、だから」
ほむらの声は、日比野の肩のシャツに吸い込まれて、小さかった。
「優しく、してほしいの」
言ってから、ほむらは自分の言葉を聞いた。
優しくされることを望んだ。それが許されるのか。この手で、いくつものものを終わらせてきた人間が。ソウルジェムを撃った夜に、何も感じなかった人間が。
その問いに、答えはなかった。
代わりに、日比野の腕が、ほむらの背中をそっと抱き直した。
「……俺も、初めて」
日比野の声が、少しだけ笑っていた。その笑いが、震えていた。
「だから、下手かもしれない。でも、優しくする。……約束する」
約束、と日比野は言った。夏の約束を、日比野は七か月守った。今夜それを破って、大好きだと言った。そして、また新しい約束をした。
ほむらは日比野の肩の上で小さく頷いた。
日比野の手が、テーブルの上の蛍光灯のリモコンに伸びた。
部屋の明かりが消えた。
カーテンの隙間から、外廊下の灯りが一本、細く差し込んで、天井に白い線を引いていた。
*
どれくらいの時間が経ったのか、ほむらにはわからなかった。
カーテンの隙間の白い線は、同じ場所にあった。
布団の中は温かい。日比野の体温と自分の体温が布団の中で混ざって、どちらがどちらのものなのか、もう区別がつかなかった。
日比野の腕がほむらの肩の下にあって、ほむらの頭がその腕の上に載っていた。日比野の心臓の音がすぐ近くで聞こえる。速かった音が、少しずつ遅くなっていった。
「……ほむら」
暗闇の中で、日比野が言った。
「何かしら」
「……痛くない?」
「平気よ」
「ほんとに?」
「航は、優しかったわ」
日比野が暗闇の中で小さく息を吐いた。
「……よかった」
少しのあいだどちらも口を開かなかった。
日比野の指が、布団の中でほむらの左手を探した。見つけて、握った。指が、指輪に触れた。
「指輪、ずっとしてたね」
「外せないもの」
「うん。知ってる」
日比野の指が、指輪の縁をそっとなぞった。
「最初、ちょっと冷たかった。途中から、あったかくなってた」
ほむらは黙っていた。
「これも、ほむらなんだよね。……ほむらの、いちばん大事なところ」
日比野は指輪ごとほむらの手を握り直した。
「外さなくていいよ。ずっと」
ほむらは暗闇の中で、日比野の顔のあるほうを見た。何も見えない。それでも、日比野がどんな顔をしているのかはわかる気がした。
「……航」
「うん」
「春休みは、長野に帰るの?」
「あー……うん。三月の半ばくらいから。店、手伝わないと」
日比野は少し考えるような間を置いた。
「……ほむら、来る?」
「長野に」
「うん。父ちゃんの蕎麦、食べてほしい。出汁巻きも、母ちゃんの、本物の。それから、りんご畑。春は、花が咲くんだよ。白いのが、畑いっぱいに」
「……行きたいわ」
「ほんと?」
「ええ」
「……やった」
日比野の声が暗闇の中で弾んで、それから心配そうになった。
「あ、でも、鹿目さん、大丈夫かな。ほむらがいないと、晩ご飯……」
「まどかは、四月から大学生よ。……受かれば」
「受かるよ。あの子、絶対受かる」
日比野はなぜか自信満々に言った。会ったのは一度きりなのに、どこからその自信が来るのだろう。
ほむらは二時間前に届いた二つの吹き出しを思い出した。わかった。あったかくして寝てね。その前の、二分近い間を。
「……まどかと、杏子にも、何か持って帰るわ」
ほむらは言った。
「長野のりんご。箱ごと」
「箱ごとで」
日比野が笑った。十二月の土曜日、玄関でまどかと交わした約束の言葉だった。
*
日比野が先にシャワーを浴びた。
浴室の扉の向こうで、湯の流れる音がする。ほむらは布団の中で、カーテンの隙間の白い線を見ていた。
戻ってきた日比野は、首にタオルを掛けて、濡れた髪から湯気を立てていた。右のこめかみの寝癖は、濡れてぺたりと寝ている。
「ほむらも、どうぞ。タオル、新しいの出しといた。……あと、着替え、これ」
日比野が畳んだ服を差し出した。
紺のパーカーだ。
三〇二教室で、雷が鳴った日に、窓を閉めた日比野が着ていたパーカーだった。第二食堂で、何度も向かいの席に座っていたパーカー。
「サイズ、でかいと思うけど。これしかなくて」
ほむらはそれを受け取った。
浴室は狭い。小さな浴槽と便器と洗面台が、ひとつの空間に押し込まれている。鏡が湯気で曇っていた。
シャワーの湯を、頭から浴びる。温かかった。
左手を顔の前に持ち上げた。指輪から、湯の滴が落ちていく。ほどいてはいないのに、ソウルジェムの底の煤が、うっすらと透けて見える気がした。
たぶん、湯気のせいだろう。
湯を止めて、日比野のパーカーを着た。袖が手の甲を覆い、裾が太腿の半ばまで届く。日比野の匂いがした。洗剤と、少しだけ台所の出汁の匂い。
部屋に戻ると、布団の上の日比野がほむらを見上げて、動きを止めた。
「……やば」
「何かしら」
「いや、なんでもない。……なんでもなくない。似合う。それ」
日比野は布団をめくって、自分の隣を空けた。一組しかない布団だ。ほむらはその隣に入った。
*
日比野はすぐに眠った。
横になって、ほむらの肩に腕を回して、何か言いかけて、その言葉の途中で寝息に変わった。
ほむらは眠らずに、天井の白い線を見ていた。
隣で日比野が眠っている。規則正しい寝息だ。肩に回された腕が、寝息に合わせてかすかに上下していた。
言おう、と思った。
今なら、言える気がした。日比野は眠っている。その耳に言えば、それは告白ではなく、ただの呟きになる。それなら、喉は詰まらないかもしれない。
時間を繰り返したこと。瓦礫の上で、まどかを撃ったときのこと。置き去りにした時間軸のこと。この川の、この橋の手前で、何があったのか。
口を開いた。
胸が痛んだ。
たとえではなかった。胸の真ん中の、骨の奥のあたりが、実際に締め付けられるように痛んだ。息が浅くなった。
言葉は出なかった。眠っている相手にさえ、言えなかった。
口にすれば、この人は目を覚ましたとき、何かを知っているかもしれない。知らなくても、ほむらが言ったという事実は、この部屋に残る。六畳の、一組の布団の中に。この人の隣に。
それが怖かった。
口を閉じると、胸の痛みがゆっくりと引いていった。それでも、底のほうに鈍く残った。
日比野が寝返りを打った。肩に回していた腕が少しずれて、ほむらの腰のあたりに落ちた。日比野の顔が肩のすぐそばに来て、寝息が首筋にかかった。
大好きだ、と日比野は言った。全部、大好きだ、と。
その全部の中に、今夜も言えなかったものが入っている。
天井の白い線は、入学式の朝、自分の部屋の天井に見たのと同じ形をしていた。ノートの最後のページに書いた夜も、クリスマスの前の夜も、同じ線だった。天井が変わっても、線は同じ形をしている。
見ているうちに、線の輪郭が少しずつぼやけていった。
それが自分の目のせいだと、ほむらは最後まで気づかなかった。
*
目を開けると、カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいた。
白い線ではなかった。もっと太い、金色の帯だ。帯の中で、細かい埃が光っている。
隣で、日比野が片肘をついて、ほむらの顔を見下ろしていた。
「……おはよう」
日比野は困ったように笑っていた。
「おはよう」
ほむらが身体を起こそうとすると、日比野が肩に手を置いて、そっと止めた。
「まだ七時。もうちょっと寝てていいよ」
「航は」
「俺は、五時半に目、覚めちゃって。……ほむらの寝顔、ずっと見てた」
日比野は言ってから、少しだけ赤くなった。それから表情を変えた。
「……ほむら、夜中、うなされてた」
ほむらの身体が止まった。
「三時くらいかな。苦しそうな声、出してて。……何回も、ごめんなさい、って言ってた」
日比野はほむらの顔を見ていた。
「あと、誰かの名前、呼んでた気がする。よく聞き取れなかったけど。……最初の音だけ、ま、って聞こえた」
ほむらは日比野の顔を見た。
名前。
誰の名前を呼んだのか、ほむらは覚えていなかった。夢を見たことさえ覚えていない。杏子にグリーフシードを押しつけられた夜から、夢は間遠になっていた。バレンタインの前の夜も、見なかった。
昨夜見たのだとしたら、何の夢を。
「……夢を、見ていたのね」
ほむらは言った。
「覚えていないわ」
嘘ではなかった。本当に、覚えていなかった。
日比野は少しのあいだ、ほむらの顔を見ていた。
一つ訊いて、止まる人だった。年明けの夜に、これからいっぱい訊く、と言った人だった。
日比野は何も訊かなかった。
「……俺、起こそうか迷ったんだけど」
日比野はほむらの左手を取った。指輪のある手を。
「手、握ったら、静かになった。……だから、ずっと握ってた」
ほむらは日比野の手を見た。自分の左手を包んでいる手を。
夜中の三時に、この手がほむらの手を握っていた。ほむらが何かに謝りながら、誰かの名前を呼んでいたあいだに。何も知らずに。知らずに、ただ、静かにさせてくれた。
胸の奥が、また痛んだ。昨夜の痛みと同じ場所だった。
「……ありがとう」
ほむらの声が、少しだけかすれた。
日比野は首を振った。それからほむらの頭を見て、急に吹き出した。
「てか、ほむら」
「何かしら」
「寝癖」
日比野は、ほむらの頭の、右のこめかみのあたりを指差した。
ほむらは手でそこに触れた。長い黒髪の一房が、横に向かって跳ねていた。
「同じとこ。俺と、同じとこ」
日比野は自分の右のこめかみの寝癖を指差して、声を出して笑った。そのまま、枕に顔を埋める。
「やばい、お揃い。寝癖、お揃い……」
ほむらは自分の寝癖に指を当てたまま、日比野を見ていた。枕に顔を埋めて、肩を震わせて笑っている日比野を。
ほむらの口元が動いた。
ほんのわずかでは、なかった。
日比野が枕から顔を上げた。ほむらの顔を見て、笑うのをやめた。
「……今、笑った」
「笑っていないわ」
「笑ったよ。ちゃんと。口、こう、なってた」
日比野は自分の口の端を指で持ち上げてみせた。
ほむらは返事をせずに、跳ねた寝癖を手で押さえた。髪は戻らなかった。
*
九時過ぎにアパートを出た。
日比野は大学の坂の途中の小さなカフェに連れていってくれた。木の扉に、手書きの黒板が立て掛けてある。モーニング、九時から十一時。
店の中は狭い。山帰りの人が一度に来たら、たぶん入りきらないだろう。カウンターに四席と、窓際に二人掛けのテーブルが三つ。コーヒーの匂いと、パンの焼ける匂いがした。
窓際の席に座ると、日比野は、厚切りのトーストとゆで卵とサラダのモーニングセットを二つ頼んだ。飲み物は、日比野がコーヒーで、ほむらは紅茶にした。
「ここ、ワンゲルの先輩に教えてもらった。朝、山から帰ってきたとき、よく来るんだって」
日比野はリュックの中から小さな保冷バッグを取り出した。中から白い箱が出てきた。紺のリボンは、もう解かれている。日比野は蓋を開けて、一切れのガトーショコラを紙ナプキンの上に取り出した。
「今日の分。一日一個」
日比野はそれをトーストの皿の横に置いた。
「コーヒーと一緒に食べようと思って、持ってきた」
紙ナプキンの上のガトーショコラは、粉砂糖が少しだけ溶けて、表面に薄い斑を作っていた。
トーストが来た。三センチほどもある四角い食パンで、表面がきつね色に焼けて、真ん中でバターが溶けている。日比野が自分のトーストを齧って、うま、と言った。それからほむらの一口目を見ていた。
ほむらはトーストを齧った。外側がさくりと割れて、中はやわらかい。バターの塩気が舌の上に広がった。
「……今日の、どうだった」
日比野が訊いた。何度も訊かれた問いだ。だいたい同じよ、とほむらは何度も答えてきた。
「バターが、おいしいわ」
日比野がにやりと笑った。
「今日の二重丸、バター」
日比野は携帯を取り出さなかった。いつからか、日比野はメモを取らなくなっていた。覚えておく、と言っていた。
日比野はコーヒーを一口飲んで、紙ナプキンの上のガトーショコラを指でつまんで、口に入れた。目が閉じた。昨夜のベンチと同じだった。一口目の前と後で、日比野の顔が変わった。
「……二日目も、うまい。一日置いたほうが、りんごの味がしみてる気がする」
「マミが、そう言っていたわ。ガトーショコラは、一日置くと落ち着くって」
「マミさん、すげえ」
日比野は残りの一口を、名残惜しそうに食べた。
窓の外を、日曜日の朝の人が、坂の上へ、坂の下へ、ゆっくりと行き来していた。犬を連れた人。ジョギングの人。パン屋の紙袋を提げた人。
日比野は長野の春の話をした。三月の終わりに、りんご畑に白い花が咲くこと。四月になると、実家の蕎麦屋の前の桜が咲くこと。桜の下で、父親が毎年、店の暖簾を新しいものに替えること。
「ほむら、来たら、父ちゃんびっくりすると思う。……俺が女の子連れてくるの、初めてだから」
「何と、紹介するの」
「え」
日比野はコーヒーのカップを口の前で止めた。
「……彼女、って」
日比野の耳が赤くなった。
「……彼女、で、いい?」
ほむらは紅茶のカップを置いた。
「いいわ」
日比野は両手で顔を覆った。朝のカフェの窓際で、指の隙間から長い息が漏れた。
ほむらはそれを見ていた。胸の奥の、昨夜痛んだ場所が、朝の光の中でまだ少しだけ鈍く残っている。それでも、温かかった。
*
カフェを出て、坂の下の交差点で二人は立ち止まった。日比野はアパートへ戻る方向、ほむらは川沿いの道へ向かう方向だった。
「……じゃあ。また明日。月曜。二限」
「ええ。二限で」
日比野は迷うような顔をして、周りを見回した。日曜の朝の交差点に、人は少なかった。
日比野はほむらの額に自分の額を軽く当てた。一秒だけ。
「……昨日、ありがとう」
日比野は小さく言った。
「全部。店も。ガトーショコラも。……泊まってくれたのも」
「私も」
ほむらは言った。
「ありがとう、航」
日比野は嬉しそうに笑って、手を上げた。ほむらも手袋の手を上げ返した。
日比野は横断歩道を渡り、渡りきったところで一度だけ振り返って、もう一度手を上げた。右のこめかみの寝癖が、朝の風に揺れていた。
その背中が、坂の上の角を曲がって見えなくなるまで、ほむらは交差点に立っていた。それから川沿いの道のほうへ歩きだした。
手袋の中で、右手の指で、左手の指輪に触れた。冷たくはなかった。最初、ちょっと冷たかった、途中から、あったかくなってた、と日比野は言った。今朝も、少しだけ温かかった。
川沿いの道に出ると、朝の光が水面に反射して眩しかった。
一か月前の夜、この道の先で、ほむらは一人の少女を撃った。昨夜、この道の反対側で、ほむらは日比野の腕の中にいた。夜中の三時に、誰かの名前を呼んで、ごめんなさいと謝っていた。その手を、日比野は何も知らずに握っていた。
同じ川だ。
ほむらは右のこめかみの髪に手袋の指で触れた。寝癖は、まだ跳ねている。
ポケットの中で、携帯が一度だけ震えた。まどかからだった。
『朝ごはん、食べた?』
短い問いが、画面のいちばん上にぽつんと浮かんでいた。
『食べたわ。今、帰っているところ。過去問、十一時に見られるわ』
送ると、既読はすぐに付いた。
返事は、十秒で来た。
『うん!』
その一言を、ほむらは見ていた。
十秒。七月の木曜日と、同じ速さだ。ゆうべの二分のことは、もう遠いことのように思えた。
ほむらは携帯をポケットに戻して、少しだけ、歩く速さを上げた。過去問は、たぶん英語の長文だろう。