魔法少女たちの恋(魔法少女まどか☆マギカ) 作:LongLong
第十三話 額縁
二月十五日の夜、ほむらは自分の部屋のベッドで眠った。
前の晩は、日比野の六畳の部屋の、一組の布団だった。日比野の腕が肩の下にあって、寝息が首筋にかかっていた。夜中の三時に、ほむらは誰かの名前を呼んで、ごめんなさいと謝っていたらしい。日比野が手を握って、静かにさせてくれた。
今夜は隣に誰もいない。
天井に、カーテンの隙間から白い線が一本引かれていた。ほむらはそれを見ながら、目を閉じた。
*
病院の廊下だ。
見滝原の、何十回も退院の朝を迎えた病院の、白い廊下。足音がしなかった。
いつもの夢と違ったのは、廊下の長さだった。歩いても歩いても、出口に着かない。両側の壁に額縁が並んでいた。額縁の中はどれも白かった。
歩いているうちに、額縁の白の中に、少しずつ何かが浮かびはじめた。
顔だ。
一つ目の額縁に、短い黒髪の少女の顔。左の耳に銀の輪。二つ目の額縁に、知らない魔法少女の顔。いくつもの時間軸で、ほむらの前に立ちはだかった者の一人だった。
額縁の中の二つの顔が、ほむらを見ている。ほむらが額縁の前で足を止めた瞬間に、廊下の奥から声がした。
「……思い出しましたか」
ほむらの声で、ほむらではない誰かが、廊下の奥から話しかけていた。
「その顔。ずっと見ないようにしてましたよね。……でも、覚えてるんです。全部。わたしが、全部、覚えてます」
廊下の奥の暗がりに、誰かが立っていた。
赤い縁の眼鏡。肩の前に垂らした、二本の三つ編み。見滝原中学の制服。胸の前で、病院の名前の入った紙袋を抱えている。
初めて見滝原中学の教室に入った日の、ほむらだった。四年前に、自分の手でほどいたはずの髪だった。
三つ編みの少女は眼鏡の奥の目を細めて、ゆっくりと微笑んだ。
目が覚めると一時二十分だった。
*
二月十六日の夜も、同じ廊下の夢を見た。
額縁は二つから五つに増えていた。三つ目にさやかの顔があった。人魚の形をした魔女になる、ほんの少し前の顔だった。四つ目にマミの顔。五つ目に杏子の顔。どれも、いつかの時間軸で、ほむらが最期を見届けた顔だった。
三つ編みの少女は昨夜と同じ場所に立っていた。
「増えましたね」
少女は額縁を見渡して言った。
「まだ、増えますよ。……暁美さんが、忘れたふりをしてる分だけ」
目が覚めると二時五分だった。
水を飲んで、ベッドに戻って、眠った。
また夢を見た。今度は廊下ではなく、あの川沿いの、橋の手前の土手だった。短い黒髪の少女が、アスファルトの上に倒れていた。
少女が目を開ける。
あの夜、少女の目は見開かれたまま、何も映さなくなった。夢の中の少女は、その目でほむらを見上げていた。
「……あいつにさ、言ってないんでしょ。あたしのこと」
少女は笑っている。
「ずるいね」
目が覚めると四時四十分だった。
*
一週間がそうやって過ぎた。
毎晩、夢を見た。一晩に一つだった夢が二つになり、やがて三つになった。目が覚めて、水を飲んで、ベッドに戻ると、夢の続きがあった。それは前よりも長かった。
額縁は毎晩増えていく。
知っている顔が増えて、知らない顔も増えた。知らない顔のうちのいくつかは、よく見ると知っている顔だった。救えないとわかった瞬間に置き去りにした時間軸で、ほむらの背中を見送った顔だった。名前を覚える前に、ほむらのほうから見捨てた顔だった。
夢の中では覚えていた。一つ一つの顔を、眉の形まで。
一つだけ、ほむらが見ないまま通り過ぎる額縁があった。
廊下の途中の、少しだけ低い位置に掛かっている。額縁の縁から、桃色の髪の先と、赤いリボンの端が、ほんの少しだけ覗いていた。
最初の時間軸のまどかだった。眼鏡と三つ編みのほむらを、魔女の結界から救い出して、ワルプルギスの夜に一人で向かっていったまどか。
ほむらはそこに目を向けなかった。毎晩、同じ額縁の前で、同じように目を伏せて通り過ぎた。
「見ないんですか」
廊下の奥で、三つ編みの少女が言った。
「鹿目さんのことは、見ないんですか。……わたしを、最初に助けてくれた人なのに」
ほむらは目を伏せて歩いた。視界の端で、桃色の髪の先が揺れた気がした。
三つ編みの少女は、毎晩そこにいて、少しずつほむらのほうへ近づいてきていた。四日目の夜には、廊下の真ん中まで来ていた。
「ねえ、暁美さん」
少女はほむらのすぐ前に立って、首を傾げた。
「あの人の顔も、額縁に入れましょうよ」
ほむらの喉が凍る。
「日比野航さん。……きれいに入ると思います。寝癖も、ちゃんと」
少女の手の中に拳銃が現れた。ほむらの手の中にも現れた。同じ速さで同じ重さで。
目が覚めて身体を起こすと、息が浅く、速い。右手が、布団の上で何かを握る形に固まっていた。
左手の指輪が熱い。
魔女の気配はどこにもない。それなのに指輪は、変身の直前と同じ熱を持っていた。ほむらは右手で左手を押さえた。その手の下で、指輪の熱が少しずつ引いていった。
時計は三時十五分を指していた。
指輪をほどいて、掌の上のソウルジェムを見た。濁りが、底から三分の一ほどまで上がってきていた。
魔女を狩っても、魔法を使ってもいない。ただ眠っていただけなのに、濁っていた。
*
二月十九日の木曜日、ほむらは第二食堂の窓際の席で、かけうどんの丼を前にしていた。
向かいの日比野は唐揚げ定食で、箸で唐揚げを一つ挟んだまま、ほむらの顔を見ていた。
「……ほむら」
「何かしら」
「寝れてる?」
ほむらは丼から顔を上げた。
「目の下。……なんか、影ある」
日比野は自分の目の下を指でなぞってみせた。
答えは一つしか用意していなかった。
「課題が、多いの」
「あー……後期試験、再来週からだもんね」
日比野は少しだけ眉を下げた。
「無理しないでよ。ほむら、満点取る人なんだから、ちょっとくらい寝ても平気だって」
日比野は笑って、唐揚げを口に入れた。
課題は多くなかった。後期試験の準備は、一月のうちに終わらせていた。蕎麦屋の夜から数えて、いくつめの嘘なのか、ほむらはもう数えていなかった。
日比野がワンゲルの春合宿の話を始めた。三月の頭に、雪の残った低い山に登るのだという。話しながら、日比野は笑っていた。
その顔が止まった。
動きを失ったのは、日比野ではない。ほむらの目の中で、日比野の笑った顔が、笑った形のまま動かなくなったのだ。
夢の中の額縁と、同じだった。
ほむらの手から、箸が落ちた。丼の縁に当たって、テーブルの上に転がった。
「ほむら?」
日比野の声がして、日比野の顔が動いた。瞬きをして、眉を寄せて、ほむらを見ている。止まってなど、いなかった。止まって見えたのは、ほんの一瞬だった。
「……手、震えてる」
ほむらが自分の右手を見ると、震えていた。
あの夜、川沿いで少女のソウルジェムを撃ったとき、ほむらの手は震えなかった。そのことが怖かった。
今は、震えている。
「……箸が、滑ったの」
ほむらは落ちた箸を拾った。
「そっか」
日比野は何も訊かずに、自分の皿の唐揚げを一つ、ほむらの丼の上に載せた。
「食べて。タンパク質。寝れないときは食べるのが一番だって、母ちゃんが言ってた」
ほむらはうどんの上の唐揚げを食べた。
味が、しなかった。
*
二月二十六日の夜、まどかの二次試験の二日目が終わった。
その夜、ほむらの部屋の玄関のチャイムを鳴らしたのは、まどかだった。木曜日だった。来ることはわかっていた。
扉を開けると、まどかは、大きなボストンバッグを肩に掛けていた。
「……ほむらちゃん」
まどかは玄関の明かりの下でほむらの顔を見て、何かを言いかけ、言葉を飲み込んだ。
「今日から、しばらく泊まるね」
「……どうして」
「試験、終わったから」
まどかは靴を脱ぎながら、続けた。
「パパにも、ママにも、言ってきた。ほむらちゃんの家で、合格発表まで、ゆっくりするって」
ほむらはまどかの肩のボストンバッグを見た。二泊や三泊で済ませるつもりは、ないらしい。
まどかは居間に入って、バッグを床に下ろした。それからほむらのほうを振り返った。
「……杏子ちゃんから、聞いたの」
ほむらはまどかを見た。
「試験の、帰り道で。駅の改札の前で、杏子ちゃんが待ってたの。……ほむらが、やばい、って」
まどかは自分の袖口を握った。
「わたしの試験が終わるまで、言わないでおいたんだって。ほむらちゃんに、そう頼まれてたからって。……でも、今日で試験、終わったから」
まどかは少しだけ笑った。泣き出しそうな笑い方だった。
「杏子ちゃん、言ってた。……おまえが行け、って。あたしじゃなくて、おまえが行け、って」
なぜ杏子が自分で来なかったのか、ほむらにはわからなかった。杏子は一月から、狩りを二人分引き受けている。夜の見回りで手が空かないのだろう、とほむらは思った。
まどかはボストンバッグを開けて、中から布団用のシーツと、枕カバーを取り出した。
「わたし、床で寝るね。ほむらちゃんのベッドの横」
「まどか」
「いいの」
まどかはシーツを広げながら言った。
「わたし、四年前から、ほむらちゃんに守ってもらってばっかりだったから」
まどかの声は小さい。
「今度は、わたしの番」
*
まどかはベッドの横の床に布団を敷いて、ほむらに背を向けて眠った。
ほむらはベッドに横になった。天井に白い線があった。床から、まどかの寝息が聞こえはじめる。規則正しい。バレンタインの夜、日比野の寝息を聞いたのと、同じ規則正しさだった。
白い線が、少しずつぼやけていった。
*
廊下だ。
三つ編みの少女はもう廊下の奥にはいなかった。隣にもいなかった。
ほむらの中にいた。
ほむらの目で廊下を見て、ほむらの足で廊下を歩いていた。ほむらの指輪が、ほむらの意思ではない熱を持ちはじめていた。
廊下の突き当たりに、扉が一つあった。病院の廊下にはないはずの、白いアパートの、外廊下に面した扉だった。
その扉の向こうに、新しい額縁が掛かっているのがわかった。
日比野の顔が入っている。右のこめかみの寝癖まで、きれいに。笑っている。六畳の部屋で、ほむらは、ほむらだよ、と言ったときの顔だった。
「……ほら」
ほむらの口が、ほむらの声で、ほむらではない言葉を言った。
「迎えに行きましょう。あの人を、額縁に入れに」
手の中に何かが現れた。重くて、冷たくて、握り慣れたもの。
拳銃だ。
違う、とほむらは叫んだ。声は出なかった。
足が、扉のほうへ進んでいく。もう片方の手が、扉の把手に伸びていった。
「——ほむらちゃん」
声がする。
額縁の中からではなかった。もっと近く、すぐ後ろから。
「ほむらちゃん。……起きてる?」
目が開く。
暗い。廊下ではない。自分の部屋の、玄関だった。
ほむらは、玄関の扉の前に立っていた。
白と灰色の衣装を着ていた。左腕に円い盾の重さがある。右手に、拳銃を握っている。
左手は、玄関の扉の把手を握っていた。扉が、拳ひとつ分だけ開いている。その隙間から、二月の夜の冷たい空気が流れ込んで、足首を撫でていた。
扉の外の外階段を下りれば、川沿いの道に出る。川沿いの道を行けば、大学の坂の下に着く。白いアパートの、二階のいちばん奥の部屋に。
背中に、温かいものがあった。
まどかだった。
裸足のまま、後ろからほむらの身体に両腕を回していた。寝間着の胸を、ほむらの背中に押し当てて。ほむらの右の手首を、拳銃ごと、自分の右手で押さえている。
まどかは、離れなかった。
拳銃を握った腕にしがみついたまま、ほむらの背中に額を付けていた。
「……ほむらちゃん」
まどかの声は、揺れていなかった。そうならないように、押さえつけた声だった。
「起きてる?」
ほむらの手の中で、拳銃が震えている。
いつ起き上がったのか、わからなかった。いつ変身したのか。いつ盾から銃を抜いたのか。いつ寝室を出て、玄関まで歩いたのか。何一つ、覚えていなかった。
夢の中で扉の把手に手を伸ばしていたとき、この手は、この扉を開けていた。
「……まどか」
声が出た。掠れた、自分の声だった。
「うん。わたしだよ」
まどかは、ほむらの背中に額を付けたまま言った。
「ほむらちゃんが起き上がって、光ったの、見てた。……それで、銃、持ったまま、玄関のほうに行ったから」
まどかの腕に、少しだけ力がこもった。
「行かせちゃだめだって、思ったの」
ほむらの左手が、扉の把手から落ちた。扉が、外の風に押されて、静かに閉まった。
右手の拳銃が、盾の中へ吸い込まれるように消えた。衣装がほどけて、寝間着のほむらが、玄関の冷たい床の上に残った。
膝の力が抜けて、ほむらはその場に座り込んだ。まどかも、腕を回したまま、一緒に座り込んだ。
右手を見ると、震えていた。左手の指輪が熱い。いつまでも引かなかった。
「……航のところへ」
ほむらは、閉まった扉を見ていた。
「行ってないよ」
まどかが言った。
「ほむらちゃんは、行かなかった。わたしが呼んだら、止まった。……ちゃんと、止まったんだよ」
まどかは、ほむらの前に回り込んで、膝をついた。ほむらの両手を、自分の両手で包んだ。震える右手と、熱い指輪の左手を、まとめて。
「夢の中で、扉の向こうに、額縁があったの。航の顔が、入っていたわ。……迎えに行こうと、言われたの」
「うん」
まどかはほむらの手を強く握った。
「わかってたよ。寝言で、日比野さんの名前、呼んでたから」
ほむらはまどかを見た。
「……私は」
「いいの」
まどかは、ほむらの頭を、自分の肩に引き寄せた。
「いいから。今は、何も考えないで」
まどかの肩が震えている。
その震えが、ほむらの頬に伝わってくる。まどかが震えているのか、自分が震えているのか、わからなかった。
「……怖かった」
まどかが、ほむらの頭の上で、小さく言った。
「正直に言うとね。すごく、怖かった」
ほむらは何も言えずに、まどかの肩に額を押し当てて、目を閉じた。
瞼の裏に廊下はなかった。額縁も三つ編みの少女もいない。
まどかの心臓の音が、速く聞こえていた。
四年前、ワルプルギスの夜のあとで、瓦礫の上に座り込んだまどかを抱き起こしたとき、同じ速さの音を聞いた。あのとき、ほむらは、この音を守り終えたのだと思った。
玄関の扉の下の隙間から、冷たい風がまだ細く入ってきていた。
まどかの両手の中で、ほむらの指輪の熱が、少しずつ、少しずつ引いていった。
*
二月二十七日の朝、ほむらは台所に立っていた。
玄関で銃が消えてから、まだ五時間しか経っていない。あのあと、まどかはほむらをベッドに寝かせて、自分はベッドの横に座って、朝まで起きていた。ほむらは眠らずに、天井を見ていた。
六時に起き上がって、台所へ向かう。
朝食を作ろうと思った。いつもと同じように。白飯と、味噌汁と、卵焼き。まどかのために。いつもと同じにすれば、昨夜のことも、いつもの中に沈んでいく気がした。
卵を三つ、ボウルに割った。
出汁を入れて、塩を入れて、砂糖を入れた。まどかの好きな甘さに。菜箸で溶いて、卵焼き器に流し込んで、巻いた。形になった。
皿に載せて切り、一切れ味見をする。
舌の上で何かが崩れた。しょっぱすぎる。卵の甘さが、塩の下に埋もれている。
砂糖の瓶と、塩の瓶を見た。
砂糖を入れたと思った匙で、塩を二度、入れていた。
いつ間違えたのか、瓶を持った手の感触も、匙の重さも、覚えていなかった。
「……ほむらちゃん」
振り返ると、まどかが台所の入口に立っていた。目の下に、昨夜よりも濃い影がある。
まどかは皿の上の卵焼きを見て、ほむらの顔を見た。
何も言わずに台所に入ってきて、卵焼きを一切れ、指でつまんで口に入れた。噛んで飲み込む。
「……しょっぱいのも、おいしいよ」
まどかはもう一切れつまんだ。
「七月の生姜焼きも、ちょっとしょっぱかったもん。わたし、あれも好きだった」
しょっぱすぎる卵焼きを、まどかは皿が空になるまで食べた。一度も顔をしかめなかった。
食べ終えてから、まどかは携帯を取り出して、ほむらに背を向けて廊下へ出ていった。
廊下から、まどかの小さな声が聞こえた。
「……マミさん。朝から、ごめんなさい。今日、来てもらえますか。杏子ちゃんも。……ほむらちゃんが」
声は、そこで途切れた。そのあとの沈黙が長い。
「……ほむらちゃんが、もう、一人じゃ無理なの」
*
その日の夜、マミと杏子が来た。まどかが二人を玄関で迎える声が、居間まで聞こえた。
マミは玄関でほむらを見るなり、立ち止まった。
「……暁美さん」
マミの声は小さい。
ほむらは自分の顔が今どうなっているのかを知らなかった。朝から、鏡を見ていない。怖かったのだ。鏡の中に、三つ編みの少女が立っている気がした。
杏子が靴を脱いで、まっすぐほむらの前に来た。
「見せろ」
杏子はほむらの左手を指差した。
ほむらが指輪をほどくと、掌の上にソウルジェムが載った。マミが息を呑んだ。
朝、まどかが杏子から預かっていたグリーフシードで浄化したソウルジェムだった。夕方の今、その底から、濁りが半分近くまで上がってきていた。
「……朝に浄化して、これなのか」
杏子の声は低い。
「魔女は」
「狩っていないわ」
「魔法は」
「使っていない。……夜中の、一度だけ」
「眠ったか」
「眠っていないわ」
杏子はソウルジェムを見つめて、少しのあいだ黙った。
「……普通じゃねえ」
杏子は顔を上げた。
「何もしてねえのに、半日でこんだけ濁るやつ、あたしは見たことねえぞ」
マミがほむらの右手を両手で包んで、冷たい、と小さく言った。
「暁美さん。しばらく、私の家に来ない? 夜は、私と佐倉さんが交代で起きているわ。そうすれば——」
「行かないわ。マミの家で、同じことが起きたら。……マミに、銃を向けたら」
マミの手が止まった。
壁際に立っていたまどかが、何か言いかけて、口を閉じた。
ほむらはマミの手の中から右手を抜いた。
「縛るわ」
三人の目がほむらに集まる。
「夜、眠るとき。盾の中に、手錠があるの。ベッドの脚に繋いでおけば、夢の中で何をしても、身体は動けない」
「ほむら。盾から出すってことは、変身するってことだろ。毎晩。ソウルジェムが——」
「わかっているわ」
「わかってねえよ!」
杏子の声が居間に響いた。握られた拳が震えている。
「……わかってねえよ、ほむら」
杏子の声が低くなっていく。
「ほっといても半日で半分なんだぞ。そこに毎晩変身足したら、どうなるか。……あたしは、おまえのソウルジェムが真っ黒になるとこなんか、見たくねえんだよ」
「一度だけでいいわ。手錠は、一度出しておけば、盾にしまわなくていい。鍵だけ、誰かに預ければ」
誰も、すぐには答えなかった。
「……わたしが、持つ」
まどかは壁際から一歩出て、ほむらの前に手を差し出した。
「鍵。わたしが持つ。朝になったら、わたしが外す」
杏子がまどかを見た。何か言いかけて、やめた。
ほむらは、その夜、一度だけ変身した。盾の中から、黒い手錠を一つ取り出した。四年前、どこかの施設から持ち出したものの残りだった。変身を解くと、指輪の奥の濁りが、また一段上がったのがわかった。
小さな鍵を、まどかの掌に載せた。まどかはそれを、首から下げた細いチェーンに通して、服の内側にしまった。
マミが鞄からグリーフシードを二つ取り出して、ローテーブルの上に置いた。杏子もダウンのポケットから三つ取り出して、その隣に並べた。
クリスマスの夜に、引き出しは空になった。杏子が狩りを肩代わりして、少しずつ埋めてきた。それが今、三人分の力で、ほむら一人のために集められている。
ほむらはそれを見ていた。借りだ、と思った。
この冬、借りではない、と何度も聞いてきた。杏子からもマミからも。目の前の五つは、それでも、借りにしか見えなかった。返せるあてのない、借りだった。
*
二月二十八日の夜から、ほむらは自分を繋いで眠った。
ベッドに横になって、右の手首に手錠の片方を掛け、もう片方をベッドの脚に掛けた。金属の輪が、手首の骨の形に沿って冷たく閉じた。
まどかはベッドの横の床で眠った。胸元のチェーンの先に、小さな鍵を下げて。
それでも夢は来た。
廊下を歩き、額縁が並び、三つ編みの少女がほむらの中から話しかけてきた。
繋がれた手首の感触が、夢の中にも届いていた。廊下を歩くたびに、右の手首が、見えない何かに引かれる。それでもほむらは歩いた。夢の中で、手首が少しずつ擦れていった。
「繋いでも、無駄ですよ」
少女がほむらの口で笑った。
「暁美さんが歩けないなら、わたしが歩きます。……ほら。ソウルジェムが、代わりに歩いてくれてますよ」
目が覚めても、手錠は外れていなかった。ほむらの身体は、ベッドの上にあった。右の手首に、赤い筋が一本付いている。夜のあいだに、何度も引かれた跡だった。
指輪をほどいてソウルジェムを見ると、寝る前に浄化したはずのものが、また三分の一まで濁っていた。
ベッドの横で、まどかが起きて座っていた。
まどかは、ほむらの顔を見て、右の手首を見た。何も言わずに、胸元のチェーンを引き出して、鍵を外した。ほむらの手首から手錠を外すと、赤い筋の上に、そっと自分の指を置いた。
*
三月に入ってから、ほむらは台所に立たなくなった。
そうしようとはした。朝、冷蔵庫を開けて、中を見た。卵と、豆腐と、鮭の切り身。見ているうちに、何を作ろうとしていたのかがわからなくなった。冷蔵庫の扉を開けたまま、五分立ち尽くしていたこともあった。冷気が足元に溜まって、爪先が冷たくなってから、扉を閉めた。
夕飯は、まどかが作るようになった。
三月一日の夜、まどかは台所で、長いあいだ何かを刻んでいた。湯を沸かす音と、キャベツの葉を茹でる匂い。一時間ほどして、まどかは小さな鍋をほむらの前に置いた。
ロールキャベツだ。
七月の夜、外階段の上で、まどかが膝に載せていた容器の中身と、同じ形をしていた。
「パパに、作り方、教わってきたの。……ちゃんとできたか、わかんないけど」
まどかの声が、少しだけ掠れている。
ほむらは、一つを箸で割って、口に入れた。
味が、しない。
トマトの酸味も、肉の甘さも、キャベツのやわらかさも、舌の上を通り過ぎていくだけだった。紙を噛んでいるのと変わらない。
第二食堂で、出汁巻きを、好きかもしれない、と言った舌だった。イブの夜に、杏子の薄い鍋を、おいしい、と言った舌。六畳の部屋で日比野の寄せ鍋を。駅前のイタリアンで、仔羊の香草焼きを。
その舌が何も伝えてこない。
箸が止まる。
「……味が、しないの」
まどかの箸が、ロールキャベツを持ち上げかけたところで止まった。
まどかは、長いあいだ、ほむらを見ていた。
「……そっか」
まどかはそれだけ言った。
自分の器のロールキャベツを、一口、二口と食べた。三口目で箸が止まった。
まどかは器を置いて両手で顔を覆い、肩を一度だけ震わせた。
それから顔を上げて、何事もなかったように、また食べはじめた。
ほむらの器の中のロールキャベツは、冷めていった。
*
三月二日の月曜日は、後期試験の最終日だった。
最後の科目は、一般教養の心理学だった。二百人が入る大教室の、前から三列目の窓側に、ほむらは一年間座ってきた。
朝、ほむらは鏡を見ずに家を出た。
髪を梳かしたかどうかを覚えていない。着ている服が昨日と同じものなのかどうかも。薔薇色のカーディガンの袖口に、小さな染みが付いている。いつ付いたのか、記憶にない。手袋は忘れてきた。
講義棟の廊下を歩くと、すれ違う学生たちがほむらを見た。入学してから、この長い黒髪は、いつも見られてきた。その視線には慣れていた。
今日の目は違う。
見て、それから目を逸らしていく。見てはいけないものを見たときのように。二人連れの女子学生の一人が、もう一人の袖を引いて、小声で何か言った。
教室に入って、前から三列目の窓側に座った。試験用紙が配られて、表を向けた。
問題文が並んでいた。一問目。論述。四百字以内。
ほむらは一行目に目を落とした。
読めない。
文字は、一つ一つの字の形まで、はっきりと見えていた。それが意味にならない。字と字のあいだに隙間があって、そこに白い額縁が一つずつ嵌まっていた。
額縁の中に顔があった。字の一つ一つに一つずつ。
瓦礫の上のまどか。人魚の形をした魔女になる前のさやか。マミ。杏子。河川敷の少女。置き去りにした時間軸の、名前を覚えなかった顔たち。
問題用紙の上の四百字が、四百の額縁になって、ほむらを見ていた。
ほむらは顔を上げて、教室の中を見回した。
二百人近い学生が、机に向かっている。鉛筆の音が、雨のように続いていた。
その顔が、一つずつ、額縁に嵌まって見えた。後ろの席の男子学生。斜め前の女子学生。教壇の横の試験監督。全員の顔が、白い縁取りの中で止まっていた。
「……足りない」
声が出た。
自分の口から出た声だった。自分の意思で出した声ではなかった。
「額縁が、足りないわ」
鉛筆の音が止まって、近くの席の学生たちが、顔を上げてほむらを見た。
ほむらの口はまだ動いている。
「一つ、二つ、三つ……」
数えていた。教室の中の顔を。指先で一人ずつ差しながら。
「……君?」
教壇の横から、試験監督の声がした。
その声でほむらは止まった。
いつのまにか、立ち上がっていた。右手の人差し指が、斜め前の女子学生の顔を差している。女子学生は椅子の上で身を引いて、怯えた目でほむらを見上げていた。
教室じゅうの目が、ほむらに集まっていた。
三〇二教室で雷が鳴ったときとは、違った。あのときは誰も気づかなかった。日比野だけが見ていた。今は、全員が見ていた。
ほむらは手を下ろして、白紙の答案用紙を机の上に残して、鞄を掴んだ。
「君、まだ試験中だぞ——」
試験監督の声を背中に聞きながら、ほむらは教室を出た。
*
行き先は決めていなかった。気がつくと講義棟の三階の、女子トイレの前にいた。中に入って洗面台の前に立ち、冷たい水で顔を洗った。
それから前を向いた。
朝から見ないようにしていた鏡が、そこにあった。
鏡の中に女が立っている。
長い黒髪がほつれて、肩の上で絡まっている。入学したころは、いつも一本の乱れもなかった髪だった。頬が削げている。目の下の影が、黒に近い紫になっている。目が充血して、白目との境が滲んでいた。唇がひび割れていた。
鏡の中の女の髪が、肩の前で、二本に分かれて垂れていた。
三つ編みだ。
鏡の中の女が、眼鏡の奥で、口の端をゆっくりと持ち上げた。
ほむらは笑っていなかった。眼鏡も掛けておらず、髪も編んでいない。鏡の中の女だけが笑っていた。
「……っ」
後ずさると、背中が個室の扉にぶつかった。
入口の扉が開いた。
「……暁美さん」
振り返ると、ショートカットの女子学生が立っていた。桐谷奈央だった。
四一二教室の扉の横の窪みで、日比野を、航、と呼んだ女子学生。桐谷も同じ講義を取っていたらしい。
桐谷はほむらに目を向けていた。刺すような目ではなかった。
「……あんた」
桐谷の声が少しだけ震えている。
「今、自分がどんな顔してるか、わかってる?」
ほむらは答えなかった。
「さっきの、何。指差して、数えて。……額縁って、何」
桐谷は一歩近づいて、止まった。それ以上は来ない。越えられない何かが、ほむらとのあいだにあるようだった。
「あたし、あんたのこと、嫌いだけど」
桐谷ははっきりと言った。
「嫌いだけど、今のあんたは見てられない。……保健センター、行きなよ。今すぐ」
ほむらは鏡を見た。鏡の中の女はもう笑っていなかった。三つ編みもほどけている。ほむらと同じ削げた頬と、充血した目で、ほむらを見返していた。
「……平気よ」
「平気なわけないでしょ」
桐谷の声が尖った。
「航にも、言うからね。あいつ、今日の午後から春合宿なのに。……あんたがこんなんなってるの知らないで山行くとか、ありえないでしょ」
桐谷はそう言い捨てて、トイレを出ていった。扉が閉まる。
ほむらは洗面台の縁に手をついた。指先が震えていた。
*
一時間後、ほむらは講義棟の一階の、出口の手前で足を止めた。
ガラス扉の横に、日比野が立っていた。
春合宿の大きなリュックを背負って、登山靴を履いている。後期の最初の木曜日に、四一二教室の扉の横でほむらを待っていたときと同じ立ち方だった。
ほむらを見た日比野の表情が、崩れた。
「……ほむら」
日比野が駆け寄ってきた。リュックが背中で揺れた。
「奈央から聞いた。試験中に、って……」
日比野はほむらの前で止まって、ほむらの顔を正面から見た。日比野の顔から、血の気が引いていくのが見えた。
「……なんで」
日比野の声が掠れていく。
「なんで、言ってくれなかったの。先月の終わりから、ずっと返事、短くなって。昼も、二回連続で断られて。課題とか、具合悪いとか。俺、信じてた。信じて、待ってた」
日比野の両手が、握りしめられている。
「全部聞いた夜に、いっぱい訊くって言った。……今度は、訊く。何があったの、ほむら」
ほむらは日比野を見ていた。右のこめかみの寝癖を。何度も何度も見てきた顔を。
その顔の周りに、白い縁が浮かびはじめた。
額縁だ。日比野の顔が、夢の廊下の突き当たりの額縁と同じ形の中に嵌まっていく。下に、札が付いている。日比野航、と書かれていた。
「ほむら?」
日比野の手が伸びてきた。ほむらの左手へ。指輪のある手へ。何度も握ってきた手へ。
ほむらの身体が、勝手に後ろへ跳ねる。
「触らないで」
鋭く冷たい声が出た。
日比野の手が宙で止まった。日比野の顔が止まった。額縁の中で止まったのではない。日比野自身が止まっていた。
「……え」
「今は、触らないで」
指輪が熱い。変身の直前の熱だった。魔女はどこにもいない。
この手が日比野に触れたら。その瞬間に、夢の中と同じように、指輪がほどけたら。
「……ごめんなさい」
ほむらは日比野の横をすり抜けて、ガラス扉を押し開け、外へ出た。
「ほむら!」
背後で日比野が呼んだ。追ってくる足音はしなかった。
振り返らずに坂を下りた。走れない。足が、自分のものではないように重い。
坂の途中で携帯が震える。
『ほむら。今日から五日まで、山で電波ない』
『帰ったら、会いに行く。ほむらの部屋に。鹿目さんに怒られてもいいから』
『だから、待ってて』
『お願い』
ほむらはその文字を見つめた。
そのうちに、文字と文字のあいだに、白い額縁が嵌まりはじめた。
ほむらは画面を伏せた。
*
三月六日の金曜日に、まどかの合格発表があった。
見滝原大学の、教育学部。
ほむらがそれを知ったのは、その日の昼過ぎだった。
目を覚ますと、ベッドの横のまどかの布団は畳まれていた。手錠はもう外されている。枕元に、小さな紙が一枚置いてあった。まどかの字だった。
掲示板、見てくるね。ほむらちゃん、やっと眠れたみたいだから、起こさないでおくね。
ほむらはその紙を見ていた。
三月六日。
合格発表の日を、ほむらは覚えていなかった。
時間を繰り返していたあいだ、まどかに関わる日付なら、どんな小さなものでも覚えていた。まどかの誕生日。まどかの母親の帰りが遅い曜日。まどかが保健係の当番の日。この時間軸に来てからも、四年分の火曜と木曜と土曜を一つも取りこぼさなかった。合格発表の日は、まどかから直接聞いていた。三月六日、ほむらちゃんの大学の掲示板、見に行くね、と。そのときの声まで、耳に残っていたはずなのに。
覚えていなかったのだ。
枕元の携帯の画面を点けた。未読の数字が、赤く表示されている。四十を超えている。
いちばん上に、まどかの名前がある。
『ほむらちゃん! 受かったよ! ほむらちゃんの大学! 四月から、後輩だよ!』
その下に掲示板の前で撮った写真が付いていた。まどかが受験番号の書かれた紙を持って、泣きながら笑っている。後ろにさやかが写っている。さやかも泣いている。
その下に日比野の名前が十以上並んでいた。山で電波がないと言っていたのに、下山したらしい五日の夜から、途切れずに届いていた。
ほむらは日比野のメッセージを開かなかった。
まどかからもう一つ、届いていた。
『今日の夜、マミさんのおうちで、お祝いしてくれるんだって。……ほむらちゃん、来られそう?』
ほむらは写真の中のまどかの顔を見ていた。
泣きそうな、嬉しそうな顔が、少しずつ白い縁に囲まれていった。
『行くわ』
『おめでとうを、言わなければ』
*
マミの部屋のリビングに、五人が揃っていた。
ローテーブルの上に、苺のタルトが載っていた。真ん中にチョコレートのプレートが立てられていて、白い字で、合格おめでとう、と書かれている。
部屋は明るかった。ほむらが入ってくるまでは。
玄関で靴を脱いでリビングに入った瞬間に、笑い声が止まった。
さやかが、ほむらを見て、フォークを持った手を宙で止めた。
「……ほむら?」
さやかの声が震えている。
まどかは立ち上がって、ほむらのほうへ来ようとして、ほむらの顔を見て止まった。この十日、毎晩隣で寝ていたまどかの顔にさえ、何かが走った。まどかはそれを押し込めて、笑った。
「ほむらちゃん、来てくれたんだ」
マミが台所から紅茶のポットを持って出てきて、ほむらを見て足を止めた。
杏子は壁際で腕を組んでいた。何も言わずに、ほむらの顔だけを見ていた。
ほむらはまどかの前に立った。
「……まどか」
声が、掠れている。
「合格、おめでとう」
まどかの目に涙が溜まった。
「……ありがとう、ほむらちゃん」
まどかはほむらの両手を取った。冷たい、とは言わなかった。
ほむらはソファの端に座った。さやかが隣を空けて、ほむらの顔を横から見ていた。
マミがタルトを切り分けて、一切れをほむらの前に置いた。ほむらはフォークを持って、一口食べた。
味は、しない。
「……おいしいわ」
嘘だった。まどかが両手で口を押さえて、ナイフを握ったマミの手が止まった。ほむらの「おいしい」がどんな声で言われるものか、この部屋の全員が知っていた。
今の声はそれではない。
ソファが柔らかく、部屋が暖かかった。
十日以上、ほとんど眠っていない。昨夜、ようやく眠れた数時間のほかは。
瞼が、重くなっていく。
*
廊下だ。額縁が並んでいた。廊下の突き当たりに、新しい額縁が一つ掛かっていた。
中は空で、下に札が付いていて、鹿目まどか、と書かれていた。
「……おめでとうございます、鹿目さん」
ほむらの口が、ほむらの声で、ほむらではない言葉を言った。
「四月から、暁美さんと同じ大学なんですよね。……毎日、会えますね」
ほむらの身体が、額縁のほうへ歩いていた。
「きれいに入りそうです。……その顔」
額縁の中に顔が浮かびはじめた。
紺のスーツの襟。二つの赤いリボン。まだ輪郭の定まらない、笑った顔。
まどかだ。
駄目、とほむらは思った。この子は駄目。この子だけは、額縁に入れさせない。何度やり直してでも、それだけを。
額縁の前に誰かが立っていた。ほむらに背中を向けて。肩の前に垂らした、二本の三つ編み。細い腕をまっすぐに伸ばして、小さな拳銃を両手で握っている。銃口が、額縁の中のまどかの笑った顔に向いていた。
三つ編みの少女だ。
初めて盾から銃を取り出した時間軸で、震える両手で構えた、あの拳銃だった。
あれを、止めなければ。あれが撃つ前に。
「……守らなきゃ」
ほむらの口が、ほむらの声で、ほむらの言葉を言った。
「まどかを、守らなきゃ」
指輪が熱い。
盾の中から、重さが引き出されてくる。拳銃よりもずっと長く、ずっと重いもの。繰り返しのどこかで、ほむらが拳銃では足りなくなって手にするようになった、ライフルだった。
「守らなきゃ。……まどかを」
銃床を肩に当てた。照準の先に、三つ編みの小さな背中があった。
*
「——ほむら!」
杏子の声がした。
目が開くと、マミの部屋のリビングだった。ほむらはローテーブルの前に立っていた。
白と灰色の衣装と、薔薇色のカーディガンが、ほむらの身体の上で交互にちらついていた。点いたり消えたりする電球のように。左腕で、盾の輪郭が現れては消えていた。
ほむらは、ライフルを構えていた。銃床が右の肩に食い込み、左手が銃身を支えている。銃口が、まっすぐに、まどかの顔に向いていた。
「……守らなきゃ」
自分の口がまだ動いている。
「まどかを、守らなきゃ」
声も、言葉も、ほむらのものだった。
ソファの前に立ったまどかの手から、フォークが落ちて、絨毯の上に転がっていた。
まどかの前に杏子が立っていた。
杏子は変身していた。赤い衣装に長い槍。穂先がほむらに向いている。ほむらの胸に。
「……ほむら」
杏子の声は低く、震えている。
「手、下ろせ」
さやかも変身していた。青い衣装に白いマント。まどかの横に立って、右手に剣を握っている。切っ先は下を向いている。いつでも振り上げられる角度で。
「……ほむら、やめて」
さやかの唇が震えている。
マミも変身していた。壁際で、両手でマスケット銃を構えている。足元にティーポットが転がって、絨毯の上に紅茶が染みを広げている。
マミの銃口は、ほむらの右の肩を狙っていた。銃床が当たっている場所だ。左手の甲のソウルジェムには、決して当たらない場所だった。
狙う手が震えている。
三人が変身している。
クリスマス会で、窓の外の雪を見ていた人たちだった。窓硝子に映り込んだ、大事な人たちだ。その三人が、今、武器を手にして、ほむらを見ていた。
守らなければいけないものを見る目ではなかった。守らなければいけないものの前に立ちはだかっている何かを見る目だった。
杏子の背中の後ろで、まどかが動く。
「まどか、出んな!」
杏子が叫んだ。
まどかは杏子の脇をすり抜けて、前へ出た。ほむらの銃口とまどかとのあいだに、もう誰もいない。
まどかはほむらの前に立っていた。銃口の、一歩手前に。
まどかはほむらの顔だけを見ていた。構えられた銃でもなく。二月二十六日の夜、玄関で、背中から、起きてる? と訊いたまどかが、今はほむらの正面に立っていた。
「……ほむらちゃん」
まどかは両手を伸ばした。
銃身を支えるほむらの左手の上に、両手をそっと重ねた。手の甲のソウルジェムごと。
「わたし、ここにいるよ」
まどかの手は温かかった。震えていて、それでも、離さなかった。
「守らなくていいよ。……わたし、ここにいるから」
ほむらの指から、力が抜けていく。
ライフルが、まどかの両手の下で、光になってほどけて消えた。白と灰色の衣装が消えて、盾の重さが消えた。薔薇色のカーディガンだけが、残った。
膝が崩れて、ほむらは絨毯の上に座り込んだ。
杏子は槍を下ろさなかった。
その姿勢のまま、ほむらの前に膝をついた。穂先を下に向けて、空いている手をほむらの左手に伸ばした。
「ソウルジェム」
ほむらは指輪をほどいた。掌の上にソウルジェムが載った。
部屋の全員の目が、それに注がれる。
黒い。
底から八割近くまで、黒い濁りが渦を巻いていた。澄んでいるのは、上のほんのわずかな部分だけだった。
朝、まどかが杏子のグリーフシードで浄化したばかりのソウルジェムだった。
さやかの手から、剣が滑り落ちた。切っ先が絨毯に触れて、鈍い音を立てた。
マミの銃口が、ゆっくりと下がっていった。その途中で、マスケット銃は光の粒になって消えた。
杏子はソウルジェムから目を離さなかった。
「……このまま濁り続けたら、どうなるか」
杏子の声が震えていた。
「おまえが、一番よく知ってるだろ。ほむら」
ほむらは掌の上のソウルジェムを見ていた。
これが真っ黒になったとき、魔法少女が何になるのか。ほむらはいくつもの時間軸で、それを見てきた。人魚の形をした魔女を、何度も。
コートのポケットの中で、携帯が震えた。
一度。二度。三度。
日比野だった。画面を見なくてもわかった。
*
杏子はグリーフシードを三つ使った。
一つ目で、ソウルジェムの濁りが半分まで引いた。二つ目で、底のほうに薄い煤を残すだけになった。三つ目でようやく澄んだ。
そのソウルジェムを、杏子はほむらの掌の上に戻した。
「……朝までは、もつと思う」
杏子の声は、まだ少しだけ震えている。
「朝までは」
杏子はそれ以上は言わずに、変身を解いた。赤い衣装がほどけて、黒いパーカーの、いつもの杏子に戻った。
ほむらはソウルジェムを指輪の形に戻して、左手の指に嵌めた。
その瞬間に、身体から力が抜けていった。
十日以上ほとんど眠っていなかった。手錠で繋いだ夜も、天井を見て朝を待った夜も。その全部の重さが、一度に落ちてきた。
絨毯の上に座り込んでいた身体が、横に傾いた。誰かの腕が肩を支えた。杏子だった。
「……いい。寝ろ」
杏子の声がすぐ近くで聞こえた。
「眠ったら」
ほむらは言いかけた。舌がうまく動かない。
「眠ったら、また」
「わかってる」
杏子はほむらの頭を、自分の膝の上に載せた。
「みんないる。……四人いる。今夜は、四人で見てる」
マミが寝室から毛布を持ってきて、ほむらの身体にそっと掛けた。
さやかがほむらの足元に座った。毛布の上から、ほむらの右の手首に手を置いた。手錠の赤い筋が残っているほうだった。
「……ほむら、手、冷たすぎ」
さやかは小さく言って、両手で手首を包んだ。青い光が、さやかの掌からほんのわずかに滲んで、赤い筋が少しずつ薄くなっていった。
マミは壁際の椅子に座って、膝の上で両手を重ねていた。
まどかがほむらの顔の横に膝をついた。
守らなきゃ、とほむらが言いながら、さっき銃口を向けていた顔だった。
まどかは泣いた跡の残る目でほむらを見下ろしていた。それからほむらの左手を、両手で取った。指輪ごと。
「……ほむらちゃん」
まどかの手は温かかった。
「わたし、ここにいるからね」
杏子が何か言いかけた。まどかは首を振った。
「いいの、杏子ちゃん。……毎晩、隣で寝てたんだもん。今さらだよ」
ほむらは自分を見下ろしている顔を見上げていた。
杏子の顔。まどかの顔。その向こうにマミの顔。足元のほうにさやかの頭。
四つの顔が、ほむらを囲んでいた。輪になって。
どこかで見た形だ。
見滝原中学の、二年の教室。転校初日の休み時間。黒板の前で名前を書いたばかりの転校生を、真ん中に閉じ込めた、クラスメイトたちの輪。前の学校はどこだったの。髪、きれいだね。部活は何かやってたの。答えられない質問が、四方から降ってきた。
違う、とほむらは思った。これはあれとは違う。
そう思ったところで、瞼が落ちた。
*
見滝原中学の、二年の教室。
窓から、白い光が差し込んでいる。休み時間のざわめきが、遠くで鳴っていた。
ほむらは教室の真ん中に立っていた。背が高い。十九歳の身体で、中学の教室に立っていた。
周りを、誰かが囲んでいた。輪になって。
顔を上げると、さやかと、マミと、杏子がいた。
転校初日にクラスメイトたちが立っていた場所に、三人が立っていた。三人ともほむらを見ている。さっきまでのマミの部屋の顔ではなかった。心配する顔でも、怯える顔でもない。
「……嘘つき」
最初に言ったのは、さやかだった。
腕を組んだその目は、十月のマミの部屋でほむらに向けたのと、同じだった。
「あたしには、恭介に全部言わせといてさ。あたしが訊かれて、言って、それで壊れたの、見てたくせに。……自分は、一番大事なとこ、ずっと隠してたんだ。訊かない人、選んで」
さやかは一歩近づいた。
「それに、あたし、覚えてるよ。人魚の魔女になったあたしに、爆弾、いくつ投げた?」
さやかは泣きながら笑っていた。
「ずっと黙ってたね。……ほむらの、嘘つき」
「私が死ぬのも、知っていたのね」
マミが言った。
マミは胸の前で、両手を重ねていた。左手の指輪を、右手で覆って。クリスマス会の、あの姿勢だった。
「あの病院の結界で、私がどうなるのか。何度も繰り返して、知っていたのでしょう。……それでも、私のお茶会に来て、紅茶を飲んで、ケーキをおいしいって言ったのね」
マミの声は静かで冷たい。
「ずるい人は、自分がずるいかどうかを気にしないって、言ったわね。……あのとき、暁美さんは、何を隠していたの」
ほむらはマミを見ていた。違う、と言おうとして、言えなかった。違わないのだ。
「おまえさ」
杏子はポケットに手を突っ込んで立っていた。
「あたしが、さやかと一緒に吹っ飛んだとき。……どこにいた」
杏子の目は乾いている。
「見てたよな。あたしが、あの魔女と一緒に死ぬとこ。それで、次の時間軸で、何食わぬ顔して、あたしに組もうって言いに来たよな」
杏子は片頬だけで笑った。
「嘘つき」
「嘘つき」
さやかが言った。
「嘘つき」
マミが言った。
三つの声が、輪の中で重なって、教室の端から端まで響いた。転校初日の、四方から降ってきた質問と同じ響き方だった。
輪の外側に、別の輪ができている。
額縁だった。教室の壁から剥がれて、宙に浮いて、三人の後ろに並んでいた。額縁の中の顔が、一斉に口を開いた。
河川敷の少女の顔が。知らない魔法少女たちの顔が。置き去りにした時間軸の顔たちが。
「嘘つき」
何十もの声が何十もの口から。
ほむらは耳を塞ごうとした。手が上がらない。右の手首に、手錠が掛かっている。自分で掛けた手錠だ。教室の床に固く繋がれていた。
逃げられなかった。行く場所もなかった。
輪の外から、誰かが歩いてきた。
紺のダッフルコート。右の肩の、不揃いな縫い目。右のこめかみの、跳ねた髪。
日比野だ。
日比野は、さやかと杏子のあいだに立った。輪が、閉じた。
「……ほむら」
日比野の声は優しかった。一月四日の夜の、六畳の部屋と同じ声だった。
「ほむらは、ほむらだよって、言ったよね。俺」
日比野は笑っている。
「ほむら以外の、何者でもないって。……魔法少女でも。魂が指輪でも。身体が入れ物でも」
日比野の笑顔が、ゆっくりと崩れていった。
「でも、何十回も時間を繰り返して、そのたびに誰かを殺してきたとは、言ってくれなかった」
ほむらの胸の、骨の奥が軋む。
「答えられることは答えるって、ほむら、言ったよね。……答えられないことは、答えないって意味だったんだ。それ」
日比野は首を振った。
「バレンタインの夜。俺の部屋で。俺の腕の中で。……その手で、俺に触ってたんだ。優しくしてほしいって、言ったよね」
日比野の目から、涙がこぼれた。
「航」
ほむらの声がようやく出た。
「航、私は」
「嘘つき」
日比野は言った。ほむらはほむらだと言ったのと、同じ口で。
「ほむらの、嘘つき」
輪の中の四つの顔が、ほむらを見ていた。輪の外の何十もの額縁の顔が、ほむらを見ていた。
「嘘つき」
四つの口が同時に言った。何十の口がそれに重なった。
ほむらは輪の真ん中に立っていた。転校初日の、あのときと同じ場所に。
あのとき、ほむらはまだ何もしていなかった。答えられない質問に、ただ黙っていただけだった。
今は、違う。
輪の中の誰の言葉にも、嘘はなかった。
声が、ふっと途切れた。
さやかの輪郭が、窓の光に溶けるように薄くなっていった。マミも、杏子も。日比野の紺のコートも、右のこめかみの跳ねた髪も。輪の外の額縁が、一つずつ、音もなく崩れていく。教室の壁も、休み時間のざわめきも。
足の下で、何かが軋んだ。
瓦礫だった。崩れたビルのコンクリートの破片が、見渡すかぎり続いている。嵐の過ぎたあとの、灰色の空。水たまりの一つ一つに、割れた空が映っていた。
ほむらは、その瓦礫の上に一人で立っていた。
少し先の、折れた鉄骨の陰に、誰かが横たわっていた。
桃色の衣装が、泥と煤で汚れている。二つの赤いリボンの片方が、ほどけかけていた。その周りの瓦礫の上に、砕けた桃色の石の欠片が散らばっていた。水たまりの縁で、小さな欠片が一つ、灰色の空を映して光っている。
まどかだった。
十九歳のまどかではない。中学二年の、あの嵐のあとのまどかだった。
「……ほむらちゃん」
まどかの声は、輪の中の誰の声よりも静かだった。責める高さでも、泣く高さでもない。教室で、保健室まで連れていってくれたときと同じ、柔らかい声だった。
「わたしのこと、殺したよね」
ほむらの喉が、閉じた。
嘘つき、とは言われなかった。輪の中の誰よりも、まどかは本当のことしか言わなかった。
「お願いって言ったのは、わたし。でも、引き金を引いたのは、ほむらちゃんだよ」
まどかは、瓦礫の上で、少しだけほむらのほうへ顔を向けた。
「忘れないでね、わたしのこと」
ほむらは何も言えなかった。
ほむらの右手の中に、冷たい重さが集まりはじめた。
指輪が熱い。
*
「——ほむらちゃん」
声がした。
まどかの声だった。瓦礫の上のまどかの声ではない。もっと近くて、もっと震えていた。
左手が温かい。誰かが両手で、ほむらの左手を握っていた。
目が開くと、マミの部屋の天井だった。照明が落とされて、部屋の隅の小さなスタンドの明かりだけが点いていた。
ほむらの頭は、杏子の膝の上にあった。杏子の顔が真上にあって、目を閉じずにほむらを見下ろしていた。
左側にまどかがいた。ほむらの左手を、両手で握っている。泣いている。頬に、涙の跡が何本も付いていた。
足元にさやかがいた。両手で、ほむらの右の手首を包んでいた。
壁際の椅子にマミがいた。膝の上で両手を重ねていた。
ほむらの頭を膝に載せた杏子と、まどかと、さやかと、マミ。四つの顔が、ほむらを囲んでいた。輪になって。
ほむらの身体が跳ねた。まどかの手を振り払いかけて、杏子の膝から起き上がろうとした。
杏子の両手が、ほむらの肩を押さえた。
「ほむら。……ここは、マミんちだ」
杏子の声は低く、ゆっくりだ。
「あたしだ。杏子だ。……まどかも、さやかも、マミも。夢じゃねえ」
ほむらは杏子を見上げた。
「……杏子」
「そうだよ」
ほむらの右手が、毛布の上で、何かを握る形に曲がっていた。指の周りに、紫の光がかすかに残っていた。
まどかが何かを握りかけたほむらの右手を、自分の右手で押さえた。左手では、ほむらの左手を握り続けていた。
紫の光が消えていく。
「……ほむらちゃん、泣いてたよ」
まどかが小さく言った。
「寝ながら。ずっと。……ごめんなさいって。違うって。何回も」
ほむらは自分の頬に触れようとした。両手とも、まどかに握られていて、動かせなかった。
頬が、冷たく濡れていた。
いつから泣いていたのか、ほむらは知らなかった。最後に泣いたのがいつだったのかも、思い出せなかった。
「……言われたの」
声が、掠れている。
「嘘つき、って」
まどかの手が止まった。部屋の空気が止まった。手首を包んでいたさやかの手に、力がこもった。
「言ってねえよ。誰も、言ってねえ。……それ、夢だ」
ほむらは天井を見ていた。杏子の顔の向こうの、マミの部屋の天井を。
「……まどかにも」
まどかの両手が、ほむらの手を握ったまま、動かなくなった。
「殺したよね、って」
部屋の誰も、動かなかった。
杏子は口を開かずに、まどかの顔を一度だけ見て、それから、ほむらの額に自分の額をそっと押し当てた。
長いあいだ、そうしていた。杏子の額は熱い。
「……でも」
ほむらは杏子の額の下で言った。
「嘘じゃ、なかった」
誰も、口を開かなかった。そうできなかったのだと、ほむらにはわかった。
杏子が額を離すと、まどかの顔が、すぐそばにあった。
「……ほむらちゃん」
まどかは、ほむらの両手を握ったまま、ほむらの目を覗き込んでいた。
「今、わたしのこと、見てる?」
ほむらは、まどかを見た。
泣き腫らした目の、十九歳のまどかを。その顔に、瓦礫の上の、泥に汚れた桃色の衣装のまどかの顔が、薄く重なって見えた。どちらが前で、どちらが後ろなのか、ほむらにはわからなかった。
「……見ているわ」
まどかは、少しのあいだ、ほむらの目を見ていた。
それから、そっか、と小さく言った。
まどかの手が、ほむらの両手を握っていた。まだ震えている。それでも離さなかった。
部屋の隅のスタンドの明かりが、四つの顔を下から照らしていた。輪になって。さっきの夢と、同じ形で。
それなのに、誰も、ほむらを指差していなかった。
床の上に落ちたほむらのコートのポケットの中で、携帯が、また一度だけ震えた。