魔法少女たちの恋(魔法少女まどか☆マギカ) 作:LongLong
第二話 食券
その夜の夕飯は肉じゃがにした。
鹿目まどかは予備校から直接来て、玄関で「ただいま」と言いかけて「おじゃまします」に言い直した。四月に入ってから、これで三度目の言い直しになる。火曜と木曜と土曜の夜、まどかはほむらの部屋で夕飯を食べ、九時までほむらに数学を見てもらってから家に帰る。二月の終わりに、まどかの母親がそう決めたのだ。一人で机に向かわせておくと、あの子は夜中までずるずる続けちゃうから、と。費用の代わりに、と言って、まどかの父親は毎週何かしらのおかずを詰めた容器を持たせてくる。肉じゃがの味付けも、もとはその父親に教わったものだ。
まどかは、じゃがいもを箸の先でそっと半分に割った。湯気が上がる。
「まどか。人に借りを返すとき、どうしている?」
「え?」
まどかの箸が、じゃがいもの断面の上で止まった。
「借り? 誰に?」
「ゼミの人」
「何を借りたの?」
ほむらは一瞬言葉を選んだ。どう言い換えても、事実は一つしかない。
「雷が鳴ったときに、窓を閉めてもらったの」
今度はまどかの箸が完全に止まった。顔が上がり、目がまっすぐこちらを向いている。
「……固まっちゃったの?」
「少しだけ」
まどかは箸を置き、茶碗も置いた。食事の途中でまどかが両手を空けるのを、ほむらはこの部屋ではあまり見たことがない。
「大丈夫だった?」
「ええ。何も起きなかったわ」
それが二つの意味で本当だということを、まどかはわかったはずだった。取り乱さなかったこと。それから、変身しなかったこと。あの嵐のことも、その前に何度も繰り返された一か月のことも、まどかは知っている。四年前の春、全部が終わったあとで、ほむらが自分の口から話したからだ。まどかは長く息を吐いて、椅子の背にもたれた。
「それで、その人にお礼したいの?」
「断られたわ。貸しにしておくって」
「……そっか」
まどかは箸を取り直し、半分にしたじゃがいもを口に入れた。噛みながら、目は天井の照明のあたりにある。
「どんな人?」
「寝癖があるわ」
「ふふ、なにそれ」
まどかは小さく笑って、玉ねぎを一切れつまんだ。
「男の子?」
「ええ」
まどかは玉ねぎを口に入れた。飲み込むまでに、少し時間がかかる。
「お昼ごはん、ごちそうしたら? 大学生って、そういうものなんでしょ。さやかちゃんが言ってたよ」
「それで、足りるかしら」
「窓を閉めてもらったんでしょ? それなら、足りすぎるくらいだと思うな」
まどかは味噌汁をひと口飲んで、お椀を両手で包んだ。
「……いいと思う」
二月の夜に、ほむらは行って、と言ったのと同じ声だった。言い方だけが、少し違う。どこが違うのかをほむらは探そうとしたが、探しはじめる前に、まどかはもう「このじゃがいも、ほくほくだね」と笑っていた。
*
木曜なら、彼は確実に大学にいる。
三限の三〇二教室からいちばん近い食堂は、人文棟の地下の第二食堂だった。二限を空けてある木曜、ほむらは昼休みが始まる五分前にそこへ下りた。券売機が四台、壁際に並んでいる。その脇の柱の陰に立てば、入ってくる人間の顔が全部見える。どこに立てば全員を見渡せるかを、ほむらの目は部屋に入った瞬間に決めてしまう。
メニューの一覧を上から読んだ。日替わり定食、四百三十円。カレー、三百八十円。かけうどん、二百五十円。いちばん下の段の右端に、特製ロースカツ定食、六百九十円とある。
昼食一回の相場というものをほむらは知らない。まどかは足りすぎると言った。多すぎるのと足りないのとでは、多すぎるほうがいい。少し多めに返しておけば、借りは二度と戻ってこない。
ほむらは六百九十円の食券を一枚買った。
十二時十分にチャイムが鳴り、階段から人が流れ込んできた。券売機の前に列ができては崩れ、またできる。十二時十七分、紺のパーカーが階段を下りてきた。一人だ。右のこめかみの上で、先週と同じ場所の髪が跳ねている。
彼が券売機の前でポケットの小銭を探しているあいだに、ほむらは柱の陰を出た。
「これ」
日比野は顔を上げてほむらを見て、それから差し出された食券を見た。
「……暁美さん?」
「先週の分よ」
日比野は食券を受け取り、印字された文字を二度読んだ。
「特製ロースカツ定食。……これ、ここでいちばん高いやつじゃないですか」
「足りない?」
「いや、足りすぎです。窓一枚で」
まどかと同じことを言う。ほむらはそれを覚えておくことにして、それ以上は考えなかった。用件は済んだのだ。
「これで、貸し借りはなしね」
ほむらは踵を返しかけた。
「あ、待って。暁美さんは? もう食べました?」
「まだよ」
「じゃあ、せっかくだし一緒に食べましょうよ」
「食券は一枚しか買っていないわ」
日比野は一瞬言葉に詰まってから、横の券売機を指差した。
「……買えば、いいんじゃないですか」
それはそのとおりなのだ。断るなら、断る理由を言葉にしなければならない。理由を探すより、二百五十円を入れるほうが手間は少ない。ほむらは券売機に硬貨を入れて、かけうどんのボタンを押した。
窓際の長机に、並んだ空席が二つあった。窓といっても地下なので、外に見えるのは半地下の空堀に植えられた低い植え込みと、その上を行き来する人の足首だけだった。
座ったとたん、視線が集まってくるのがわかった。隣の机から、斜め向かいから、配膳口の列から。顔に来て、髪に来て、それから向かいの日比野のほうへ移っていく。
「めっちゃ見られてますね」
日比野はロースカツの一切れ目を持ち上げながら言った。困っているようには聞こえない。
「いつものことよ」
「慣れてる感じですね」
「高校の三年間で慣れたわ」
そのころは、たいてい両隣にまどかとさやかがいた。視線はほむらに来てから、二人のどちらかへ逃げていくのが常だった。逃げ場が向かいの一人しかないというのは、ほむらにとっても初めてのことなのだ。
「それだけで足ります?」
「足りるわ」
「うどん、好きなんですか」
「特には」
「じゃあ、何が好きなんですか。食べ物」
「好きな食べ物は、ないわ」
日比野の箸が止まった。
「ない?」
「何を食べても、だいたい同じよ」
嘘ではない。同じひと月を繰り返していたころ、食事は身体を次の日まで動かすための作業でしかなかった。病院の食事も、コンビニのパンも、ゼリー状の栄養食も、ほむらの中では同じ棚に並んでいた。今でも自分一人の夕飯なら、ほむらは何も作らない。台所に立つのは、火曜と木曜と土曜に食べる人間が来るからだった。
日比野は箸を置いて、右のこめかみの寝癖を指で押さえた。先週と同じ仕草で、押さえても髪は戻らなかった。
「それ、自炊始めた人間からすると、けっこう衝撃です」
「そう」
「俺、最初の週にカレーを大鍋で作ったんですよ。一週間もつと思って。三日目で飽きて、五日目にはもう何の味もしなくなって。米は焦がすし」
日比野は、そのときの鍋の大きさを両手で示してみせた。一人分にしては、どう見ても大きすぎる。
「暁美さんは、あれが毎日ってことですか」
「飽きることも、ないわ」
日比野は何か言いかけてやめ、代わりにカツを一切れ食べた。
「……じゃあ、見つけましょうよ」
「何を」
「暁美さんの、好きな食べ物」
「必要ないわ」
「必要かどうかじゃなくて」日比野はそこで言葉を探し、見つからなかったらしく笑った。「まあいいや。俺が勝手に探すんで」
ほむらは返事をせずに、うどんを啜った。出汁の味がする。それ以上の何かがするわけではない。
それから二人とも、食べることに集中した。植え込みの上を、スニーカーとパンプスと革靴が、左から右へ、右から左へ通り過ぎていった。
「ここ、どこも新しいですよね」
日比野が窓の外の足首を見ながら言った。
「最初に来たとき、全部がまだ誰のものでもない感じがして。建物に、まだ癖がついてないっていうか」
ほむらは丼から顔を上げた。
入学式の朝、講堂を見上げて、影の落ち方がまだ決まっていないと思った。同じものを、別の言葉で言われた気がする。
「災害のあとに建ったって、学長が言ってましたよね。中学のとき、ニュースで見ました。長野のテレビでも、ずっとこっちの空を映してて。真っ黒で、最後のほうで、何回もものすごく明るくなって」
何回も、と日比野は言った。その光の半分ほどは、ほむらが自分で仕掛けたものだった。長野の中学生はそれを、画面越しに、遠い町の不思議な天気として見ていたのだ。
「暁美さんは、ここにいたんですか」
「ええ」
日比野は少しのあいだほむらに目を向けていた。それから、そっか、とだけ言って、味噌汁の椀を持ち上げた。
それで終わりだった。
ほむらが見滝原の人間だと知ると、人はたいてい続けて訊いた。どこにいたのか、何を見たのか、誰か失くしたのか。二つ目か三つ目までは必ず進んだ。日比野は一つ目で止まった。
その理由をほむらは考えようとした。答えが出る前に、日比野が空になった皿に箸を揃えて置いた。
「ごちそうさまでした。……じゃあ、これで貸し借りなしですね」
貸し借りなし、はほむらの言葉だった。
「ええ」
「じゃあ、次は普通に誘ってもいいですか」
「誘う理由がないわ」
「理由がないと、だめですか」
それを禁じる規則を、ほむらは一つも思いつかなかった。そう口にする必要も、なかった。
「行かないわ」
「じゃあ、また誘います」
日比野は笑ってトレーを持ち、立ち上がった。ほむらも丼を持って立った。返却口にトレーを置き、階段を上り、人文棟の三階まで来たところで日比野が振り返った。
「……あ、そっか。行き先、一緒だった」
ほむらは何も言わずに先に教室へ入り、窓際の、出口にいちばん近い角の席に座った。日比野は先週と同じ向かいの辺の、先週と同じ席に座った。隣に来るかもしれないと思っていたことに、ほむらは彼が座ってから気づいた。
*
日曜日の午後、巴マミの部屋に五人が揃った。
四年前は、揃うたびにどこかで誰かが誰かを睨んでいた。今はローテーブルの上に紅茶のポットが二つとケーキの皿が五枚並び、そのうち一枚だけが最初から大きく切られている。大きいほうは、誰が何も言わなくても杏子の前に置かれる。ここに住んでいる人間の分は大きくていい、というのがマミの理屈で、杏子に言わせれば用心棒の手当てだった。
まどかは参考書を鞄から出さずに座った。日曜のこの二時間だけは勉強しない、と決めているらしい。
「で、さやかはどうなの、看護学校」
杏子がケーキの皿を抱えたまま訊いた。
「学校じゃなくて大学。何回言わせんの」
美樹さやかはフォークを振って、それから急に真面目な顔になった。
「解剖学、やばい。骨だけで二百個あるのよ。名前、全部覚えるんだって。頭蓋骨だけで二十何個に分かれてるとか、聞いてないし」
「さやかちゃん、魔法で治すとき、骨の名前とか考えてる?」
「考えてるわけないでしょ。えいって治してるだけ。だから余計に腹立つのよ、えいで治せるものの名前を必死に覚えてるの」
まどかが声を上げて笑った。マミが微笑みながら、それでも知っておくのは大事なことよ、と言い、さやかは、マミさんまでそういうこと言う、と唇を尖らせた。
「暁美さんは、大学、どうかしら。同じ構内にいても、全然会わないわね」
「静かよ」
「え、静かなの? 勧誘とか、すごいって聞いたけど」
「最初の一日だけよ」
「ほむらの場合、静かにさせてるんじゃないの。にらんで」
「にらんでいないわ」
話が一巡して、紅茶が二杯目に移ったころ、まどかがケーキの皿から顔を上げた。
「ねえ、ほむらちゃん、ゼミの男の子にお昼ごちそうしたんだよね」
部屋の音が止まった。
「……はあ!?」
最初に声を出したのはさやかだった。
「ほむらが? 男に? え、ちょっと待って、どういうこと」
「借りを返しただけよ」
「借りって、何の」と杏子が訊いた。
「雷が鳴ったときに、窓を閉めてもらったの」
「雷?」さやかが噴き出しかけた。「ほむら、雷とかダメだったっけ。あんた、戦車みたいに何でも撃つくせに——」
「さやか」
杏子がフォークを止めて言った。
さやかの口が開いたまま止まった。それから、何かに思い当たった顔になった。あの日の空の下には、さやかもいたのだ。
「……あ。ごめん」
「構わないわ」
ほむらがそう言うと、さやかは小さく肩をすくめて紅茶を飲んだ。気まずそうにしていたのは三秒ほどで、そのあとはもう元の顔に戻っていた。四年前から、さやかはそういう人間だ。ほむらにとってはそれで構わない。気遣われるより、うっかり踏まれるほうがまだ扱いやすい。
「それで、どんな人なの」さやかがすぐに身を乗り出した。「顔は? 背は?」
「寝癖があるわ」
さやかは瞬きをした。マミが困ったように笑った。
「暁美さん、それは答えになっていないわ」
「事実を言っただけよ」
「また誘われたんだって」
まどかが、ケーキの最後のひと口を口に入れながら言った。明るい声だった。
「えーっ」とさやかが言い、「で、なんて答えたの」と続けた。
「行かないと言ったわ」
「かわいそ……」
「でも、また誘いますって言われたんでしょ」とまどかが言った。「めげてなかったんだよね、その人」
ほむらは、それをまどかに話した覚えはあった。どういう声で話したのかは覚えていなかった。まどかはさっきから、ケーキにフォークを入れる速さがいつもより少しだけ遅かった。ほむらはそれを見ていたが、受験生の日曜の疲れだろうと思って、それ以上は気に留めなかった。
杏子の目が、ほむらに向いていた。何か訊くつもりの目だったが、結局、何も訊かずに大きいケーキの残りを片づけた。
ほむらは自分の皿のケーキにフォークを入れた。
マミのケーキだった。眼鏡をかけて髪を三つ編みにしていたころ、ほむらはこの部屋で初めてこれを出された。最初の一か月の、まだ何も知らなかったころのことだ。こんなにおいしいものがあるのか、と思ったものだ。そのことを覚えているのはほむらだけで、マミはほむらに初めてケーキを出したのを四年前の春だと思っている。そのとき口に入れた感覚は、何十周を経た今でも同じ場所にあった。舌の上で、少しだけ世界の輪郭がはっきりする感じ。
好きな食べ物はない、と三日前に答えた。嘘をついたつもりはなかった。おいしいと思うことと好きだということは、別のことのはずだった。
ただ、あのとき、答えの候補はここに一つあったのだ。ほむらはそれを口にしなかった。出していれば、日比野の探し物はあの場で終わっていただろう。
なぜ出さなかったのかは考えなかった。ほむらはケーキの二口目を食べ、紅茶を飲み、さやかの頭蓋骨の話の続きに耳を傾けた。
*
五月の半ばに、ロースカツの借りの返しの返しが来た。
連休明けの木曜、第二食堂で、日比野は自分のトレーの唐揚げを一つ箸でつまみ、ほむらの丼の縁に載せた。味見です、と言う。ほむらは唐揚げを食べ、翌週、唐揚げ定食の食券を一枚渡した。唐揚げ一つに定食一つは明らかに多すぎたが、それでいいとほむらは考えていた。多めに返せば終わる。終わるはずだった。
その翌週、日比野はまた何かを一つ、ほむらの丼の縁に載せた。
六月の半ばの午後、講義棟を出たところでにわか雨に降られた。ほむらは傘を持っていなかったが、濡れることにそれほど頓着しない。濡れた服は乾くし、髪も乾く。歩き出そうとしたところで、横から紺色の傘の柄を差し出された。日比野はほむらの手に柄を押しつけると、自分は鞄を頭の上に掲げて図書館のほうへ走っていった。一度も振り返らない。
傘は乾かして畳み、翌週の木曜に返した。食券を一枚添えて。
置かれて、返して、また置かれる。六月の終わりまでに、借りは五つになり、返したのも五つになった。借りがひとつもない日は、ひと月のうち二日か三日しかない。借りを作らせ、返させ、また作らせる仕組みなのだということを、ほむらは三つ目のあたりで見抜いていた。そのうえで、仕組みから抜ける手間を惜しんだ。そういうことにしておいた。
昼食は借りのたびに一緒に食べた。借りのない週に誘われれば、行く日もあれば、断る日もあった。断っても日比野は翌週また同じ調子で誘った。
「今日の、どうでした」
食べ終わるたびに日比野はそう訊いた。
「だいたい同じよ」
ほとんどの日、ほむらはそう答えた。一度だけ、七味をかけすぎた日替わりの親子丼について、前のより辛いと答えたことがある。日比野はその日、携帯のメモ帳に何かを打ち込んでいた。画面のいちばん上に候補という文字が見え、その下に並んだ項目の、ほとんどの行頭に×が付いていた。
晩ご飯にも三度誘われた。
「夜は、無理よ」
三度ともほむらはそれだけ答えた。日比野は理由を訊かず、了解です、と言って、それで終わった。
火曜と木曜と土曜の夜には、まどかが来る。それ以外の夜も、魔女が出れば外に出なければならない。どちらも日比野に話すような種類のことではなかった。
基礎ゼミの班発表で同じ班になったのは六月の初めだった。四人の班で、連絡用のグループとは別に、日比野から個別に一件、友だち追加の通知が来た。ほむらはそれを承認した。断る理由を探すほうが手間なのだ。
*
七月の最初の日曜日、マミの部屋のローテーブルには、ケーキの皿と一緒に赤い表紙の問題集が一冊載っていた。まどかのものだ。今日だけは勉強しないという決まりは、六月の模試のあとで静かに撤回されたらしい。
「で、ほむら。その後、どうなの」
さやかがフォークをくわえたまま言った。
「特にないわ」
「三か月よ? 何もないの?」
「お昼に、たまに行くわ」
「……それだけ?」
「それだけよ」
さやかは大げさに天井を仰いだ。
「三か月でお昼だけって、中学生でももうちょっと進むわよ」
「進める理由がないわ」
「理由とかじゃないでしょ、こういうのは」
さやかはフォークを置いた。とたんに顔つきが変わる。何かを話したくてたまらない人間の顔だ。
「聞いてよ。恭介がさ、今度のコンクールで弾く曲、最初にあたしに聴かせてくれたのよ。先生より先に。電話越しだけど。夜の十一時に掛かってきて、今から弾くから聴いててって」
「さやかちゃん、それ三回目だよ」
まどかが笑いながら言った。
「いいの、何回でも言うの。向こうは東京の音大で、あたしはこっちで骨の名前覚えてて、会えるの月に二回なのよ。だから夜の電話は毎日って決めてるの。十一時になると、恭介のほうから掛けてくるの。今日はどこまで覚えた、って。五分で切るんだけど、その五分のために、あたし十一時までに一日のノルマ終わらせてるのよ。これ、すごくない? 恋愛の力で成績上がってるのよ、あたし」
「上がったの?」とまどかが訊いた。
「……小テスト、二点上がった」
「それは恋愛の力じゃなくて、ノルマの力だと思うわ」とほむらが言った。
「夢がないなあ、ほむらは」
さやかは唇を尖らせてから、夏祭りの話を始めた。恭介が帰ってくる日に合わせて浴衣を着るつもりだけれど、柄がまだ決まらないこと。恭介は紺がいいと言ったが、紺は去年も着たこと。
マミが微笑みながら紅茶を注ぎ足した。その手元を見て、さやかが急に浴衣の話を止めた。
「……そういえばマミさん。紅茶の研究会、まだ続けてるんですよね。ティーバッグの」
「ええ、まあ」
「去年はティーバッグしか使わない会なんてって言ってたのに、なんで続けてるんですか」
ポットを傾けていたマミの手が、一瞬止まった。
「そんな言い方はしていないわ。少し意外だった、と言っただけよ」
「で、なんでですか」
マミはポットをゆっくり起こした。
「……四年生の先輩が一人、茶葉を持ってきてくださったの。私、顔に出ていたみたいで。ティーバッグの会でごめんね、って。わざわざ缶ごと」
一拍おいて、さやかが身を乗り出した。
「マミさん。その先輩、男の人ですか」
「美樹さん」
「男の人ですよね」
「……そうだけれど。それが何かしら」
まどかが両手で口を押さえ、さやかが、ほらー、と声を上げた。
「知ってたけどな」
杏子がケーキを食べる手を止めずに言った。
「佐倉さん!」
「こないだの晩飯のとき、三回くらいその先輩の話してたろ。茶葉の缶、まだ棚に飾ってあるし」
杏子が顎で示した先、キッチンの棚のいちばん目立つ段に、見慣れない紺色の缶が一つ置かれていた。マミの頬に、ゆっくりと色がのぼった。
「べ、別に、そういうのじゃないのよ。紅茶の話ができる人が、大学に一人いるというだけで」
「それを、そういうのって言うんですよ」
さやかが勝ち誇ったように言い、まどかが、マミさん、いいなあ、と言った。
「暁美さんも、構内ですれ違っているかもしれないわね」とマミは話を逸らすように言った。「背の高い、眼鏡の方よ。……いえ、なんでもないわ。今のは忘れてちょうだい」
ほむらは棚の上の紺色の缶を見ていた。茶葉を受け取って、マミはその先輩に何を返したのだろう。マミの話のどこにも、返したものは出てこない。受け取って、棚のいちばんいい場所に置いて、それを嬉しそうに話している。それだけなのだ。
それから、さやかの言う、夜の十一時に五分だけ掛かってくる電話というものを考えた。五分のために一日の予定を組み替える。それはほむらの知っているどの取引とも形が違う。何かを渡しているようで、何も渡していない。受け取っているようで、何も受け取っていない。
「ほむらちゃん」
話の切れ目で、まどかがそっと言った。
「その人、三か月ずっと誘ってくれてるんだよね。ほむらちゃん、綺麗だから、最初は見た目なのかなって思ったけど。三か月って、きっと本気だよ」
「本気かどうかは、関係ないわ」
「関係あるよ」
まどかは困ったように笑った。関係がある理由を、ほむらは確かめようとしなかった。まどかは問題集の角を指でそろえ、それきり、その話には戻らなかった。
杏子がフォークを置いた。
「ほむら。そいつに、どこまで話してんだ」
部屋の空気が、少しだけ変わる。さやかが紅茶から口を離し、マミがポットから手を離した。
「何も」
「魔法少女のことも?」
「何も話していないわ」
杏子はほむらの顔を見ていた。少しして、ふうん、と言った。
「ならいいけどな。……今のところは」
最後の一言を、杏子はケーキの最後のひと口と一緒に飲み込むように言った。ほむらはその一言の意味を理解していた。そして、何も答えなかった。
*
七月の第二火曜日、第二食堂は期末試験前の人間で混んでいた。
窓際のいつもの二席が埋まっていたので、二人は配膳口に近い端の席に座った。隣の机に、一年生らしい女子学生が四人いた。座ってから三分のあいだに、四人のうち三人がそれぞれ一度ずつほむらの顔を見た。一人が何か言い、残りの三人が笑った。笑い声は小さく、悪意のないことは声の高さでわかる。
「気になります?」
日比野がカレーの皿にスプーンを入れながら訊いた。
「慣れたわ」
「まあ、見ちゃう気持ちは、ちょっとわかりますけど」
ほむらは顔を上げた。日比野は手を止めて、少し照れたように笑った。
「前から思ってたんですけど。暁美さんって、綺麗ですよね。髪とか、目とか」
髪とか、目とか。
三つ編みをほどいたのは、守られる側をやめると決めた周のことだった。眼鏡を外したのは、魔法で目を直してからだった。どちらも、何度目かの一か月をやり直す途中で、ほむらが自分で作り替えたものだ。教室の後ろの席で、名前を呼ばれるたびに肩をすくめていた少女を、外側から一枚ずつ剥がして、その下に今の顔を貼った。
そして、その外側の内側にあるのは、指輪に収まった石が動かしている入れ物でしかない。
四月の最初の木曜日、彼の視線はどこへも逃げなかった。そのことがずっと自分の中に残っていたのだと、ほむらはいま初めて知った。逃げなかったはずの目が、結局は外側を見ていたのだということも。
指輪は熱くならない。代わりに、胸のあたりの温度が一段下がった。怒りが冷たい形で来るとき、ほむらの身体はいつもこうなる。
ほむらは箸を置いた。
「ごちそうさま」
丼にはうどんが半分残っていた。ほむらは日比野の顔を見ずにトレーを持って立ち、返却口に置いて階段を上った。背後で日比野が何か言いかけた気配がしたが、言い終わる前に、ほむらは地上へ出ていた。
食べ物を残したのは、何年ぶりだろう。返却口の向こうで、職員があの丼を傾けて残ったうどんを捨てるところを、ほむらは想像しなかった。代わりに、四限の教室の場所と、そこまでのいちばん短い道順を考えた。
四限が始まって十四分後、携帯が一度震えた。
『さっきはすみませんでした。何か、嫌なことを言ったんだと思います。ごめんなさい』
ほむらは画面を一度だけ見て伏せた。返信はしない。
*
その日の夕方、見滝原の東の河川敷で結界がひとつ開いた。
中は、錆びた遊具ばかりの公園の形をしている。回転する球形のジャングルジムの中心に魔女が絡まり、ブランコの鎖を何百本も束ねたような腕が、きいきいと鳴りながら空を掻いていた。
杏子が槍を構えて一歩出るより先に、ほむらは盾から手榴弾を三つ出して、ピンを抜いていた。投げ込んだ三つが爆ぜてもほむらの手は止まらず、四つ目と五つ目がジャングルジムの骨組みの内側へ転がり込んだ。鎖の腕が千切れ、遊具が裏返り、ブランコの座板が結界の天井まで飛んでいった。魔女が崩れたあとも、最後の一つが遅れて爆ぜて、もう何もない地面に穴を開けた。
ほむらは結界がほどけるのを待たずに変身を解いた。
杏子は構えかけた槍を下ろした。転がってきたグリーフシードを拾い、それから、焦げた地面の穴をのぞき込んだ。
「……やりすぎじゃね」
ほむらは答えなかった。
土手の上まで並んで歩いた。川面に、対岸の街灯が細長く揺れている。
「なんかあったろ」
「何もないわ」
「何もねえやつは、手榴弾五個も投げねえよ」
杏子はそれ以上は訊かず、土手の階段の上で足を止めた。マミの部屋は右で、ほむらの部屋は左になる。
「まどか、今日来んだろ。火曜だし」
「ええ」
「じゃあ、あいつに言っとけよ。そういうのは」
杏子は片手を上げて右へ下りていった。ほむらはその背中を見送ってから左へ下りた。杏子の背中は、四年前よりずいぶん高いところにあった。
*
七時半を少し過ぎて、まどかが来た。
ほむらが鶏の照り焼きを焼くあいだ、まどかは台所の入口に寄りかかって、予備校の英語講師の口癖の話をしていた。ほむらは相槌を打ちながら、皮の焦げ目の具合を見ていた。いつもと同じ火加減のつもりが、少し焦げてしまう。
まどかの話が止まった。
「ほむらちゃん、なにかあった?」
「何もないわ」
「……なにか、あったよね?」
まどかは台所の入口から動かない。問い詰めはしないかわりに、ほむらが話しだすまでそこにいる。昔から、まどかはそういうふうにしか待たない。
「綺麗だと、言われたわ」
「……え?」
「髪とか、目とか」
まどかの顔から、さっきまでの講師の話の名残が消えた。
「それで?」
「それだけよ」
「それで、照り焼き、ちょっと焦げちゃったんだ」
「怒ってはいないわ」
「……怒ってる顔、してるよ」
ほむらはフライパンの火を止めた。まどかは少しのあいだ、焦げた皮の端を見ていた。それから、何でもないことのような声で言った。
「わたしも、ほむらちゃんは綺麗だと思うけど」
ほむらはまどかの顔を見た。まどかの目は、もう食器棚のほうに逃げていた。
胸の温度は下がらない。昼間、第二食堂で一段下がったものが、ここでは動かなかった。同じ言葉で、言ったのがまどかだというだけで、何も起きなかった。何が違うのだろう、とほむらは考えようとした。
「こないだのお茶会でも言ったんだよ、わたし。……聞いてなかったでしょ」
「……聞いていたわ」
「本気だよ、ってところだけ、だよね」
図星だった。ほむらが黙ると、まどかは小さく笑って、お皿出すね、と食器棚のほうへ行った。
食べ終わって、数学の問題集を二人で一ページ進めたところで、まどかがシャープペンシルを置いた。
「晩ごはん、誘われてるんでしょ。その人に」
「……誰から聞いたの」
「ほむらちゃんから。この前、三回目って言ってた」
ほむらはそれを覚えていない。自分がまどかに何をどこまで話しているのか、数えたこともなかった。
「断ってるの、わたしが来るからだよね」
「違うわ」
「……違わないと思うな」
まどかは問題集の余白に、意味のない丸を一つ描いた。
「わたしだって、たまにはパパのごはん食べたい日もあるし。ロールキャベツ、最近ぜんぜん作ってもらってないもん。ほむらちゃんが晩ごはんに行く日は、うちで食べて一人で勉強するよ。そのくらい、ちゃんとできるから」
まどかの声は、いつもの冗談の高さだった。
ほむらはそれを確かめていた。まどかの声なら、ほむらは何十周も聞き分けてきた。泣き出す前の声。何かを決めてしまう前の声。キュゥべえの名前を口にする前の、少しだけ平らになる声。そのどれとも違う、と確かめて、ほむらは息を吐いた。冗談の高さだ。危ないものは、何もない。
「……そう」
「そうだよ」
九時になって、ほむらはいつものようにまどかを角の信号まで送った。まどかはほむらの半歩前を歩き、信号が青に変わると、またね、と手を振って渡っていった。向こう側の歩道に着いてからも、まどかは一度も振り返らなかった。ほむらはその背中が街灯の下を三つ過ぎるまで見送った。
*
木曜日、人文棟の三階に上がると、三〇二教室の扉の横に日比野が立っていた。
扉の横の、壁が少し窪んだところだ。そこに立てば、階段から上がってくる人間の顔が全部見える。四月に第二食堂の柱の陰でほむらが選んだのと、同じ種類の場所だった。
日比野はほむらを見つけると壁から背中を離した。寝癖を押さえようとして、途中でやめた。
「この前は、すみませんでした」
頭を下げた。深すぎず、浅すぎない角度だ。
「正直、何が悪かったのか、まだちゃんとはわかってないんです。でも、暁美さんが嫌だったのはわかったんで。……ごめんなさい」
廊下を、二人、三人と学生が通り過ぎていった。何人かが、頭を下げている日比野と、その前に立っている長い黒髪を見比べながら教室に入っていった。
ほむらは日比野の旋毛を見ていた。寝癖は右のこめかみだけでなく、旋毛のあたりにももう一つあった。三か月のあいだ、一度も見たことのない角度なのだ。
「顔を上げて」
日比野が顔を上げた。
「髪と目のことは、言わないで」
「……はい。もう言いません」
日比野は理由を確かめなかった。四月の食堂で、あの嵐のことを一つだけ訊いて止まったときと同じように、そこで止まった。
謝罪を一つ受け取った。もらったものは返さなければならない。ほむらはいつものように返すものを探したが、謝罪に見合うものも、謝罪を返す方法も知らなかった。
それでも、言葉は出てくるのだ。
「晩ご飯」
「え?」
「誘われていたわ。何回か」
日比野は口を半分開けて、瞬きを二回した。
「……誘ってました」
「今日なら、行けるわ」
日比野の手が寝癖のほうへ上がりかけて、宙で止まった。何を押さえればいいのか、わからなくなった手らしい。
「……え、いいんですか」
「ええ」
村瀬が階段を上がってきて、二人の横を通り過ぎ、教室の窓を半分開けた。七月の湿った風が廊下まで流れてきた。
ほむらは教室に入り、窓際の角の席に座ってから携帯を出した。木曜の午後一時、まどかは予備校で数学の講義を受けているはずだった。
『今日、夕飯作れない』
送信して、画面を伏せようとしたとき、携帯が震えた。
『わかった! パパにロールキャベツお願いしとくね。楽しんできてね』
十秒も経っていない。
講義の最中に、まどかの携帯は手の中にあったことになる。ほむらはその短い文を、村瀬が出欠を取り始めるまで見ていた。早すぎる、と思った。