魔法少女たちの恋(魔法少女まどか☆マギカ) 作:LongLong
第三話 花火
三限が終わると、日比野は携帯を持ってほむらの机の角まで来た。
「一応、いくつか探したんですけど」
画面に、店の写真が並んでいる。駅前のイタリアン。白いクロスの掛かったテーブルに、細いグラスと火の点いた蝋燭が写っている。その下に、個室の和食の店。暖簾と、石畳と、竹の植え込み。さらにその下に、屋上にテラス席のあるカフェ。夕暮れの空を背にして、ソファ席で誰かが乾杯している。
日比野が指で画面を送るたびに、写真の中の照明は少しずつ暗くなり、テーブルの上の皿は少しずつ小さくなっていく。
「どこも、予約なしでも入れそうなとこです。……たぶん」
ほむらは写真を見ていた。どの店も、そこへ行くこと自体に何かの意味が付いている店なのだ。蝋燭にも、暖簾にも、夕暮れにも。そういう場所に座る自分を、ほむらはうまく思い描けない。何十周ぶんの一か月を思い返しても、蝋燭の灯ったテーブルの前に座っていた夜など一度もないのだ。思い描けない場所へ入っていくのは、結界に踏み込むのと少し似ている。
「普通のところがいいわ」
「普通……」
日比野は画面を見つめてから、ずっと上のほうまで指を戻した。検索結果の、最初のほうに出ていた店だ。
「……ここ、とか?」
大学の正門を出て坂を下ったところにある、ファミリーレストランだった。赤い看板の、全国どこにでもある店。
「そこで」
日比野は、ほっとしたような、拍子抜けしたような顔で笑った。
「じゃあ、六時半に正門で」
*
六時半に正門へ行くと、日比野はもう来ていた。
パーカーではない。水色の、襟のあるシャツを着ている。一度家に帰って着替えてきたらしい。右のこめかみの寝癖は水で濡らして押さえつけた跡があったが、乾いてきたところから少しずつ持ち上がりはじめていた。
「お待たせしました。……いや、待ってないか。すみません」
言い直して、自分で首を傾げた。
坂を下りながら、日比野はずっと喋っていた。期末試験の範囲のこと。村瀬の出したレポートの課題のこと。坂の途中の自動販売機が、なぜか一台だけ全部の飲み物が百円であること。ほむらが相槌を打つ前に、話はもう次へ移っている。昼の食堂の日比野は、喋ることと黙ることを、もっと自然に行き来していたはずではないか。
自動扉が開くと、冷房の風と一緒にざわめきが流れ出てきた。
店の中は、半分以上が大学の人間らしい。知っている顔はなかったが、同じ構内で見かける種類の服と鞄と喋り方が、ボックス席のあちこちに散らばっている。案内された窓際の席に着くまでのあいだに、いくつかの視線がほむらの顔に来て、それから前を歩く日比野の背中に移った。
メニューを開いたところで、通路の向こうから声が掛かった。
「お、日比野じゃん」
日比野の肩が目に見えて跳ねた。
通路に男子学生が二人立っていた。どちらも日焼けしていて、片方はトレッキングシューズを履いている。先に声を掛けたほうが日比野を見て、向かいのほむらを見て、もう一度日比野を見た。
「……おっ?」
「ちょ、先輩」
「へえー。へえー」
「やめてください、ほんとに」
日比野はメニューで顔の半分を隠すようにして言った。耳の縁が赤い。
「邪魔しないって。ごゆっくりー」
二人はほむらに軽く会釈をして、二つ離れたボックス席へ歩いていった。座ってからも一人がこちらを振り返り、もう一人に小突かれている。
日比野はメニューを顔の前から下ろさずに、低い声で言った。
「……すみません。サークルの先輩で」
「何のサークル」
「ワンゲルです。山登る。……明日、絶対いじられる」
日比野は窓のほうへ肩を少しだけ向けていた。二つ向こうのボックス席から、自分の顔が見えにくくなる角度だ。
見られたくないのだ、とほむらは思った。
何を見られたくないのかは、二通り考えられる。人目を引く女と二人で座っているところを、知り合いに見られたくない。あるいは、単にからかわれたくない。前者なら、七月の第二火曜日に第二食堂で聞いた言葉と話が合わなくなる。後者なら、耳の縁の赤さと話が合う。
ほむらは判断を保留した。四月から日比野について保留にしてきた判断がいくつ溜まっているのか、数えるのはやめておいた。数えはじめたら、たぶん両手では足りない。
*
日比野はハンバーグのセットとドリンクバーを頼み、ほむらはチーズの載ったドリアを頼んだ。
料理が来るまでに、日比野はドリンクバーに三回立った。一回目はメロンソーダを、二回目はアイスティーを持って戻り、三回目は何も持たずに戻ってきた。
「……何取りに行ったか、忘れました」
ほむらが何も言わずにいると、日比野は自分の手元の空のグラスを見て笑った。
「緊張してますね、俺」
「そう見えるわ」
「見えますよね」
日比野はグラスの縁を指でなぞった。
「昼と何が違うんだろうって、さっきから考えてるんですけど。同じ人と、同じようにご飯食べてるだけなのに」
同じではない、とほむらは思った。昼は、借りを返すために食べている。今夜の食事には返すものがない。借りも貸しも置かれていないテーブルに、二人で座っている。それは、ほむらにとっても初めての形だった。
口に出す前に、料理が来た。
ドリアは、表面のチーズがところどころ焦げている。スプーンを入れると、焦げたところがぱりっと割れて、下から湯気が上がる。
日比野はハンバーグを切りながら、自分のことを話しはじめた。
実家は長野の、松本から少し山に入ったところにある蕎麦屋だということ。祖父の代からの店で、今は父親が打っていること。小学生のころから、昼の混む時間には店に出て、客の前に盆を置いていたこと。
「蕎麦って、食べる前と後で、顔が変わるんですよ。お客さんの」
日比野は空いているほうの掌を、自分の顔の前で上下させた。
「店に入ってくるときは、みんな普通の顔してて。一口目で、ちょっとだけ変わる。それを、盆を下げに行くときに見るのが好きだったんだよ。じいちゃんなんか、厨房の小窓からずっと客のほう覗いててさ。今日のは当たりだ、とか一人で言ってて」
そこまで言って、日比野は手を止めた。
「……あ。すみません、タメ口」
「同じ一年よ」
日比野が瞬きをした。
「敬語を使う理由が、ないわ」
四月から、ほむらは日比野に一度も敬語を使っていない。日比野はそれを、三か月のあいだ一度も口にしなかった。
「……じゃあ、やめます。……やめる」
言い直して、日比野は自分で吹き出した。笑ったあとの声は、さっきまでより少しだけ低いところに落ち着いていた。それから急に我に返ったように、フォークを皿の上に置いた。
「……いや、だから暁美さんの好きな食べ物探してるとか、そういうことじゃなくて。いや、そういうことなのかな。わかんないけど」
耳の縁がまた赤くなった。日比野はメロンソーダを一気に半分飲んだ。
ほむらはドリアを口に運んだ。焦げたチーズの、少し苦いところが舌に当たった。
「長野から、どうしてここに」
ほむらのほうから何かを訊いたのは、それが最初だった。日比野がグラスを置いた。
「……中学のとき、テレビで見たって、前に言ったよね。あの空」
「ええ」
「あれが、ずっと頭から抜けなくて」
日比野は窓の外を見た。坂の上に、大学の建物の明かりがいくつか見えている。四年前には、どれもなかった明かりだ。
「真っ黒な空が、最後のほうで何回も光って、それで急に晴れたでしょ。何が起きたのか、ニュースでは結局ちゃんと説明されなかった。気象の何とか、って。でも俺、あれ、何かが勝った瞬間みたいに見えたんだ。変だよな。人が大勢亡くなってるのに」
ほむらのスプーンが、ドリアの縁で止まった。
「それで、あのあとの街がどうなったのか、自分の目で見てみたくて。……大学選んだ理由として、最悪だよな。親には、文学部で教職取るって言ってある」
日比野は恥ずかしそうに笑った。
ほむらは口を開かなかった。言えることなど、一つもない。何かが勝った瞬間に、その空のいちばん近くで誰が何をしていたのかを、目の前の人間は知らないのだ。何十回も負けた末の、たった一度の勝ちだった。その一度の空を、長野の中学生は四年間覚えていて、それを確かめに坂の上の大学まで来た。
ほむらはスプーンを動かした。ドリアは、まだ熱い。
「暁美さんは? ずっと見滝原なんだよね」
「ええ」
「実家から通ってるの?」
「一人で住んでいるわ」
「へえ、俺と一緒だ。じゃあ、自炊とか」
「火曜と木曜と土曜は、夕飯を食べに来る人がいるから。その日だけ作るわ」
日比野は何かを訊きかけて、やめた。口の形だけが、誰が、と動きかけていた。代わりに、ハンバーグの最後の一切れを口に入れた。
それから日比野は、試験の話と、ワンゲルの夏合宿で登る山の話をした。ほむらはそれを聞きながら、ときどき短く答えた。自分のことを話すのは得意ではない。話せることと話せないことの境目を探しているうちに、話すべき瞬間が過ぎていく。
ドリアの皿が空になった。日比野はいつものように訊いた。
「今日の、どうだった」
「焦げたところは、悪くないわ」
日比野はぽかんと口を開け、それから携帯を取り出して何かを打ち込んだ。画面を見て、もう一度笑う。
「三か月で、初めて丸が付いた」
そういう答え方をしたのは、ほむらにとっても初めてだった。
*
窓の外はすっかり暗くなっていた。
二つ向こうの席で、ワンゲルの先輩たちが伝票を持って立ち上がった。通りがかりに一人が日比野の肩を軽く叩いていき、日比野は振り返らずに片手だけ上げて応えた。
「あの」
先輩たちが自動扉の向こうへ消えてから、日比野が言った。
「八月の最初の土曜、川沿いで花火大会があるの、知ってる?」
「ええ」
「一緒に、行かない?」
日比野はテーブルの上で両手を組んでいた。指の関節が、白くなっている。
ほむらは六月の終わりの夕方を思い出した。予備校の帰りのまどかと、駅の改札で待ち合わせた日だ。改札の横の掲示板に、花火大会のポスターが貼られていた。夜空いっぱいに開いた赤い花火の写真の前で、まどかが足を止めた。
去年も、受験で行けなかったね。今年も、だめかなあ。
まどかはそう言って、少し笑った。ほむらは、一日くらいならいいと思うわ、とだけ答えた。まどかはそれきりポスターの話をしなかったし、ほむらもしなかった。それでも、あの日の短いやりとりは、どこかに消えずに残っていた。
「一緒に行きたい人がいるわ」
言ってから、ほむらは自分の言葉を聞いた。約束がある、と言うつもりだったのだ。先約がある、でもよかった。口から出たのは、そのどちらでもない。
日比野の組んだ指がほどけた。
「……そう、ですか」
日比野の手が寝癖のほうへ上がった。押さえても、髪は戻らない。
口が少しだけ開いた。誰と、と訊く形の口だ。ほむらはそれを見ていた。四月から何度も見てきた、一つ訊いてそこで止まる口だ。
日比野は口を閉じた。
「わかりました」
敬語に戻っている。日比野はそれだけ言って、グラスに残っていたメロンソーダを飲んだ。氷が溶けて、ずいぶん薄くなっていたはずだった。
それからの十分間、二人ともほとんど喋らなかった。日比野は一度試験の話をしかけて、途中でやめた。ほむらは空の皿の縁に残った焦げを、スプーンの先で集めていた。特に理由はない。
レジの前で、日比野が先に伝票を取った。
「俺、出しますよ」
「自分の分は、自分で払うわ」
「いや、でも。誘ったの、俺なんで」
「借りになるわ」
伝票をつかんだところで、日比野の手が止まった。四月から、何度も聞かせてきた言葉だ。日比野は小さく笑った。口元だけが持ち上がって、目は笑っていない。
「……ですよね」
伝票がトレーの上に戻された。日比野は自分の分だけを払って横に避け、ほむらを待った。ほむらはドリアの分の小銭を数えて、トレーに置いた。
今夜、二人のあいだでは何も動かなかった。貸したものも、借りたものも。
店を出ると、湿った夜気が肌に貼りついた。坂の下の交差点で日比野が立ち止まった。
「じゃあ、俺、こっちなんで」
「ええ」
「……ごちそうさまでした。いや、自分で払ったか」
今日何度目かの言い直しをして、日比野は少しだけ笑った。その顔を、ほむらは街灯の下で見た。昼の食堂でも、さっきのボックス席でも見たことのない顔だった。こういう顔もするのか、と思う。
「また木曜」
「ええ」
日比野は背を向けて、横断歩道を渡っていった。一度も振り返らない。六月の雨の日と同じだ。
*
部屋の前まで帰り着いたのは九時少し前だった。
アパートの外階段のいちばん上の段に、まどかが座っていた。膝の上に、布で包んだ四角い容器を載せている。
「あ、おかえり、ほむらちゃん」
まどかは慌てて立ち上がり、スカートの後ろを手で払った。
「パパがね、ロールキャベツ作りすぎちゃって。ほむらちゃんの分も持っていきなさいって。……明日でもよかったんだけど、明日だと味が落ちちゃうから」
ほむらは鍵を開けながら、外階段の手すりに付いた錆を見た。まどかがここに何分座っていたのかを、それで測れるわけではない。
「上がって。お茶を淹れるわ」
「うん。ちょっとだけ」
まどかは容器を台所に置くと、いつもの椅子に座った。ほむらが麦茶を注いで出すと、両手で受け取った。
「それで、どうだった?」
「ファミレスよ」
「……え?」
「ファミレスに行ったわ」
まどかは一瞬ぽかんとして、それから口元を押さえて笑った。
「ファミレス……。ほむらちゃんらしいね」
「普通のところがいいと言ったの」
「言いそう」
まどかは笑いながら麦茶を一口飲んだ。
「ごちそうしてもらったの?」
「自分の分は、自分で払ったわ」
まどかの手が、コップを口の手前で止めた。
「……向こうは、出すって言わなかったの?」
「言ったわ」
「そっか。……せっかくなら、ごちそうしてもらってもよかったのに」
「借りになるもの」
「そういうのは、借りとかじゃないと思うな」
「じゃあ、何」
「……わかんない。わたしに訊かないで」
まどかはコップを両手で包んで、中の麦茶を見下ろした。
まどかに夕飯を作ることを、まどかへの貸しだと考えたことは、ほむらには一度もない。まどかのほうも、借りだと思って食べてはいないはずだった。それを何と呼ぶのか、ほむらは知らなかった。まどかにも答えられなかった。
ほむらはロールキャベツの容器の布をほどいた。蓋の上に、まどかの父親の字で、温めて食べてね、と書いた紙が貼ってある。その横顔に、ほむらは言った。
「花火に、誘われたわ」
まどかの指が、コップの側面で止まった。
「……そうなんだ。いつの?」
「川沿いの。八月の最初の土曜」
「行ってくればいいのに」
まどかはコップの水滴を指でなぞりながら言った。ほむらのほうは見ていなかった。
「断ったわ」
「どうして?」
「あなたと行くと、言ったもの」
まどかの指が止まった。
「……言ったっけ、そんなの」
「六月。駅の掲示板の前で」
まどかはコップを持ったまま、動かなかった。
「あんなの、覚えてたの?」
「言ったのは、あなたよ」
「言ったけど……。あれは、その場で言っただけだよ。わたし、浪人生だし」
まどかはコップをテーブルに置いた。置く音が、思ったより大きい。
「なんて言って、断ったの?」
「一緒に行きたい人がいる、と」
まどかの肩が、小さく揺れた。
冷蔵庫の低い音だけが、部屋の中にあった。
「……ほむらちゃんの、ばか」
まどかは下を向いたまま言った。声が、いつもより少しだけ低い。ほむらはその低さの理由を探した。見つかる前に、まどかが続けた。
「わたしとなんて、いつでも会えるのに。火曜も、木曜も、土曜も。……そういうのは、その人と行かなきゃ」
「花火は、年に一回よ」
まどかが顔を上げた。
何かを言い返そうとする顔だ。口を開けて、閉じて、もう一度開けて、それから急に、顔をくしゃっと崩して笑った。
「……ほんとに、ばか」
まどかは立ち上がって、ロールキャベツの容器を電子レンジに入れた。
「食べて。パパの、おいしいから」
ほむらは箸を取った。
温め直したロールキャベツは、コンソメの中で少し崩れかけている。一口目で、何かがほどけた。マミの部屋でケーキを口にしたときと同じ場所に、同じものが少しだけ触れた気がする。さっき、焦げたチーズの苦いところにも、似たものがあったような気がした。確かめる方法はない。
まどかは向かいの椅子に戻って、ほむらが食べるのを見ていた。今日の、どうだった、とは訊かなかった。それを訊くのはまどかの役ではなかったし、訊かれなくても、ほむらの顔のどこかに答えは出ていたのかもしれない。
九時半に、ほむらはまどかを角の信号まで送った。信号を待つあいだ、まどかは携帯を開いて何かを見ていた。画面の明かりが、下から顔を照らしている。何を見ているのか、ほむらは訊ねなかった。青に変わると、まどかは携帯をしまって、またね、と言って渡っていった。
*
夏休み前の最後の木曜日、十一時五十分になっても、携帯は震えなかった。
一限の語学が終わってから、ほむらは図書館の窓際で本を読んでいた。四月から、木曜の昼が近づくと、たいていこのあたりの時間に短いメッセージが届いた。今日、行きます? とか、二食空いてますかね、とか。借りがある週は、ほむらのほうから食券の写真を送ることもあった。
日比野とのトーク画面のいちばん下には、七月の第二火曜日に届いた謝罪の文が、最後の一件として残っていた。
十二時十分にチャイムが鳴った。ほむらは本を閉じて、人文棟の地下へ下りた。
券売機の前でメニューを上から読み、かけうどんのボタンを押した。いつもの窓際の二席は、今日は空いている。ほむらはその片方に座った。向かいの椅子は、机の下に押し込まれたままになっている。
うどんを啜ると、出汁の味がした。
窓の外の植え込みの上を、スニーカーとサンダルが行き来していた。七月の終わりの足首は、四月よりもずっと日に焼けている。
食堂の奥のほうで、笑い声が上がった。
配膳口の向こうの、壁際の大きなテーブルだ。男子学生が四人と、女子学生が一人。日焼けした腕が何本もテーブルの上に並び、その中に紺のパーカーの袖が見えた。この季節になっても、日比野はまだ長袖を着ている。
日比野は向かいの男子学生の話に、身体を二つに折って笑っていた。声を出して、肩を揺らして。短い髪の女子学生が何か言い、日比野が手を振って否定し、テーブル全体がまた笑った。
声を出して笑う日比野を、ほむらは数えるほどしか見たことがなかった。
ほむらは丼に視線を戻した。うどんは半分ほど残っていた。七月の第二火曜日のことを思い出して、今度は残さずに平らげた。丼が空になっても、何かが足りない感じがする。量はいつもと同じなのに。
*
三限の三〇二教室に入ると、日比野はもう向かいの辺の席に座っていた。
「おはようございます」
日比野はほむらに軽く頭を下げた。
敬語だ。先週の木曜の夜、ファミレスのボックス席で日比野の口調は一度だけ崩れ、四十分ほどで元に戻った。それきりだ。
「……ええ」
ほむらは窓際の角の席に座った。
前期最後の講義は、夏休みのレポート課題の説明だった。近代の短編小説を一つ選び、四千字で論じること。締め切りは九月の最初の授業。村瀬がスクリーンに参考文献の一覧を映しているあいだ、ほむらは向かいの辺を一度だけ見た。日比野はノートに何かを書き写していて、顔を上げなかった。
九十分が過ぎた。村瀬が、良い夏休みを、と言い、教室の空気が一斉にほどけた。
十三人が鞄を閉める音の中で、ほむらは立ち上がった。向かいの辺では、日比野がリュックを肩に掛けようとしていた。
「日比野くん」
名前を声に出したのは、初めてだった。
日比野が振り返った。少し驚いた顔をしている。
「はい」
ほむらは次の言葉を探した。何を言うつもりで呼び止めたのかさえ、まだ決めていなかったのだ。
「……夏休み」
「はい」
「長野に、帰るの?」
「はい。月の頭にサークルの行事があるんで、それが終わったら。お盆まで実家の店手伝って、そのあとワンゲルの合宿で。こっち戻るの、九月になると思います」
「そう」
日比野は次の言葉を待つ顔をしていた。ほむらの口からは何も出てこなかった。訊きたいことも、伝えたいことも、手元には何一つない。
「……じゃあ、良い夏休みを」
日比野は軽く頭を下げて、教室を出ていった。
ほむらは窓際に立っていた。誰かが開けたままにした窓から、七月の熱い風が入ってきて、机の上のプリントの端をめくった。
四月の最初の木曜に、この窓を閉めたのは日比野だった。ほむらは窓枠に手を掛けて、自分で閉めた。音は、思ったより軽い。左の掌を開いてみる。あの日の三日月の跡は、とっくにどこにも残っていなかった。
*
四時少し前に、マミの部屋のインターホンを押した。
リビングのローテーブルには、もう参考書とノートが広げられていた。まどかは予備校の夏期講習の合間で、さやかは前期試験の真っ最中らしい。二人とも昼過ぎからここにいたらしい。
「ほむらちゃん、ごめんね、授業の日に」
まどかが立ち上がりかけて、膝をローテーブルにぶつけた。
「最後の日だったから」
「じゃあ、よろしくお願いします、先生」
まどかは座り直して、ぺこりと頭を下げた。
ローテーブルの反対側では、さやかが単語帳のようなカードの束を杏子に押しつけていた。
「いい? 表に番号書いてあるから、読んで。あたしが骨の名前答えるから」
「なんであたしが」
「暇でしょ、どうせ」
「暇じゃねえよ。昼寝って予定があんだよ」
杏子はぶつぶつ言いながらカードを一枚めくり、裏の字を見て眉を寄せた。
「……これ、なんて読むんだ。せっ……せつ、こつ?」
「それ答えのほうでしょ! 表を読むの、表を!」
マミが台所から紅茶を運んできて、二人のあいだにそっとカップを置いた。
「美樹さん、佐倉さんは字の多いものを見ると眠くなる体質なのよ」
「マミ、それフォローになってねえぞ」
ほむらはまどかの隣に座った。
まどかの苦手は数学だ。確率の単元で、条件付きの問題になると手が止まる。二月の本番でも、点を落としたのはそこなのだ。
「ここ、なんで分母が変わるのか、わからなくて」
ほむらはまどかのノートの余白に図を描いた。袋が二つ。中に玉がいくつか。最初の条件で、どちらの袋から取ったのかが決まる。その時点で、見るべき全体が小さくなる。
「条件が付いたら、全体を数え直すの。分母は、いつも、いま見ている全体よ」
「いま見ている、全体……」
まどかは図と問題文を何度か見比べてから、ゆっくりとシャープペンシルを動かしはじめた。途中で一度止まり、自分で消しゴムを使って、また書いた。最後の行に答えが出た。
「……合ってる?」
「合っているわ」
まどかの顔がぱっと明るくなった。
蕎麦って、食べる前と後で顔が変わるんですよ、と日比野は言った。ほむらはまどかの顔を見ていた。解けなかった問題が解けたときにも、人の顔は変わる。
「ほむらちゃん、教えるの上手だね」
「図にしただけよ」
「それが上手なんだよ」
まどかは次の問題に取りかかる前に、少しだけ照れたように言った。
「わたし、来年はちゃんと受かるから。ほむらちゃんと同じ大学の、教育学部。……ほむらちゃんがいるなら、心強いし」
知っていることだ。二月の夜からずっと、まどかはそう言い続けている。それでも、口に出して言われるたびに、ほむらの胸のどこかで小さく何かが鳴る。かつて何十回も守れなかった約束を、この時間軸でようやく守り終えた。その先で、今度は守られた側のまどかから、約束を差し出されているからかもしれない。
「……次の問題」
ほむらが言うと、まどかは、うん、と言って笑った。
テーブルの反対側では、杏子がようやく表と裏を覚えたらしく、番号を読み上げては、さやかの答えに「たぶん合ってる」と返していた。裏の字も読めないのだから、合っているかどうかは杏子にもわからないのだ。
窓の外の光が、少しずつ橙色になっていった。
*
夕飯はマミが作った。夏野菜のラタトゥイユと、冷たいトマトのパスタと、大皿のサラダ。マミの部屋のダイニングテーブルは五人で囲むには少し狭く、椅子が足りない分は、リビングからクッションを運んで杏子とさやかが床に座った。
「いただきます」
五つの声が揃った。
ほむらはラタトゥイユを一口食べた。茄子とズッキーニと、トマトの酸味。今日の、どうだった、と頭の中で誰かが訊いた。トマトの酸味が少し強い、と答えかけて、ほむらは誰も訊いていないことに気がついた。
「マミさん、これ、すごくおいしいです」
まどかが言い、さやかが頷き、杏子は何も言わずに二杯目をよそっていた。
食事が半分ほど進んだところで、さやかがフォークを置いた。
「で。マミさん」
「何かしら」
「その後、どうなんですか。茶葉の先輩」
マミの手が、グラスの手前で止まった。
「……どう、って」
「どうもこうもないでしょ。あれから何かあったんですか」
マミはグラスを見つめていた。それから、観念したように小さく息を吐いた。
「……今度の日曜日に、お食事に行くことになったの」
「二人で!?」
「……二人で」
まどかが両手で口を押さえ、さやかが、きゃー、と声を上げた。杏子はパスタを巻く手を止めずに、へえ、と言った。
「どこ行くんですか」
「先輩が、お店を探してくださっているみたい。私、あまり詳しくないって言ったら、任せてって」
マミは頬に手を当てた。
「一緒に探しましょうか、と言ったのだけれど。当日まで秘密だって」
「うわ、それ、絶対いいとこですよ」
さやかが身を乗り出した。
「マミさん、何着ていくんですか。ワンピース? ワンピースですよね」
「ま、まだ決めていないわ」
ほむらはマミの頬の色を見ていた。先輩が店を探してくれている、という話を、マミは嬉しそうにしている。一週間前、日比野の携帯の画面に並んだ蝋燭と暖簾と夕暮れの写真を、ほむらは一つずつ見て、全部を断ったのだ。
「ほむらも行ってたぜ、晩飯」
杏子がパスタを口に入れる前に言った。
テーブルの上の会話が、一瞬で止まった。
「……え?」
「先週の木曜、駅裏に使い魔出たろ。マミと片付けに行く途中で、坂の下のファミレスの窓際にいるの見えたんだよ。男と二人で」
「え、ほむら、行ったの!? 晩ご飯!?」
「行ったわ」
「しかもファミレス?」
「普通のところがいいと言ったの」
「それで? それで?」
「会計は別にしたわ。向こうは出すと言ったけれど、借りになるから」
「ちょっと」
「帰りに花火に誘われて、断ったわ」
さやかがクッションの上でのけぞった。
「待って待って待って。全部だめじゃない! え、何? ファミレスで割り勘で、花火断ったの? それ、相手の人、生きてる?」
「生きているわ。今日、教室にいたもの」
「そういう意味じゃないのよ!」
杏子が肩を揺らして笑っていた。自分で火を点けておいて、燃え広がり方は本人の想像より早かったらしい。
「暁美さん」マミが困ったように眉を下げた。「お店は、先方が探してくださったのでしょう?」
「写真を見せてもらったわ。蝋燭のある店とか」
「それは……」
マミは何か言いかけて、言葉を探すように自分のグラスを見た。先輩が店を探してくれていると嬉しそうに話したばかりの口では、続きを言いにくいようだった。
「花火を断った理由は、何かあったのかしら」
「先約があったわ」
「誰と」
さやかが食い気味に訊いた。
「まどかと」
今度こそ、部屋の音がすべて止まった。
まどかのフォークがパスタの皿の縁に当たって、小さな音を立てた。
さやかがゆっくりとまどかのほうを向いた。マミも、杏子も。四人分の視線がまどかに集まった。
まどかは皿のほうへ顔を伏せていた。
「……わたしは、行ってきなよって、言ったんだよ」
小さな声だ。
「ほむらちゃんが、自分で断っちゃったの。わたしは、その人と行ってきてって言ったの。……ね、ほむらちゃん」
「言ったわ」
ほむらは頷いた。事実だ。
さやかは口を開けて、閉じて、また開けた。何か言おうとして、結局は何も言わずに、テーブルの下でまどかの膝を軽く叩いた。まどかはさやかのほうを見なかった。
沈黙を破ったのは、さやかだった。
「じゃあさ」
さやかはフォークを持ち直して、明るい声で言った。
「みんなで行こうよ、花火。恭介、八月の頭に帰ってくるし。マミさんも、杏子も。まどかも一日くらい休んだって、ばちは当たらないって」
「いいわね」とマミが最初に微笑んだ。「一日くらいなら、勉強を休んでもいいと思うわ。鹿目さん、夏期講習は?」
「その日は……お休み、です」
「おまえ、恭介に会いたいだけだろ」
「悪い?」
さやかは杏子をにらみ、それからまどかのほうへ顔を向けた。
「まどかは?」
まどかは少しだけ顔を上げた。
「……みんなが、いいなら」
それから、残っていたパスタを少しずつ口に運んだ。
ほむらはまどかの横顔を見ていた。六月の終わりに駅の掲示板の前で交わした約束は、二人のものだった。今、それは五人か六人のものになっている。まどかの顔から、それについての何かを読み取ろうとした。わかったのは、まどかがパスタを噛む速さが、いつもより少しだけ遅いということだけだった。受験生の夏は、誰でも疲れている。ほむらはそう思うことにした。
*
食器を片付けるとき、ほむらは流しの前に立った。隣にマミが並んだ。ほむらが洗い、マミが拭く。四年前の二人には、考えられない分担だろう。
「暁美さん」
マミは皿を拭きながら言った。
「その人、どんな人なのかしら」
「寝癖があるわ」
「それは前にも聞いたわ」
マミは拭き終えた皿を棚に置いた。
「同じ構内にいるのに、私、一度も見かけたことがないのよね。暁美さんが男の子と一緒にいるところ、想像できないわ」
「私もよ」
マミは口元に手を当てて、小さく笑った。
「ファミレスで割り勘、のところは想像できたけれど」
「実際に、そうだったもの」
「ええ。だから想像できたのよ」
マミは次の皿を手に取った。
「花火の日、もし会ったら、少しだけ見てみたいわ。暁美さんの隣に立つ男の子」
「会わないわ」
「花火大会には、見滝原じゅうの人が集まるのよ」
ほむらは答えずに、泡の付いたグラスを水ですすいだ。マミはそれ以上は言わなかった。皿を拭く手の動きが、さっきより軽い。日曜日の自分の約束のことを考えているのだろう、とほむらは思った。
*
マミの部屋を出たのは、九時を回ったころだった。
さやかは反対の方向へ帰っていき、杏子はマミの部屋に残った。ほむらはまどかを家まで送るために、並んで川沿いの道を歩いた。
まどかは、ほむらの半歩後ろを歩いていた。
いつもはまどかのほうが先を歩く。ほむらが歩く速さを少し落とすと、まどかは落とした分だけ、さらに遅くなった。
「……ごめんね。みんなの前で、あんなふうになっちゃって」
後ろから、まどかの声がした。
「あなたは、何も悪くないわ」
「ほむらちゃんが言ったの、事実だもんね」
まどかは少しだけ笑った。それでも、ほむらの隣には並ばなかった。
川面に、対岸の街灯が揺れていた。九日前の夜、角の信号でまどかは半歩前を歩き、渡ってからも一度も振り返らなかった。今夜はほむらの後ろにいる。どちらの夜も、まどかの顔は見えなかった。
橋のたもとまで、二人とも何も言わずに歩いた。
「浴衣」
まどかが不意に言った。
「どうする?」
「着たことがないわ」
「……わたしも、ちゃんとしたのは、小学生のとき以来かも」
まどかは少し間を置いた。
「調べたんだよ。この前。レンタルとか、着付けしてくれるお店とか。駅前に一軒あって、当日のお昼に行けば、髪もやってくれるんだって」
一週間前の夜、角の信号の前で、まどかの顔を下から照らしていた携帯の明かりを、ほむらは思い出した。
「そう」
「……でも、みんなで行くなら、わざわざ着なくてもいいかな」
まどかは足元の小石を、靴の先でそっと道の端へ寄せた。
「着るわ」
ほむらは言った。
後ろで、まどかの足音が止まった。
ほむらも立ち止まって振り返った。街灯の下で、まどかがまばたきを二回した。それから、両手を胸の前で小さく握った。
「……ほんとに?」
「ええ」
「ほむらちゃん、ぜったい似合うよ」
「あなたも」
まどかは一拍おいて、くすぐったそうに笑った。ひとしきり笑ってから、ようやくほむらの隣まで歩いてきた。
二人は並んで川沿いの道を歩いた。家に着くまで、まどかは浴衣の柄の話をしていた。ピンクは自分の髪と同じになるからだめで、黒はほむらの髪と同じになるからだめで。それなら何色ならいいのかを、まどかは最後まで決めなかった。