魔法少女たちの恋(魔法少女まどか☆マギカ)   作:LongLong

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第四話 ラムネ

第四話 ラムネ

 

 駅前の着付けの店は、雑居ビルの二階にある。

 階段を上がると、畳敷きの広い部屋に、浴衣が何十枚も衣桁に掛けて並べられている。紺、藍、白、薄紅、山吹、藤。柄も朝顔や金魚や花火から、名前のわからない幾何学模様まで、壁一面にある。

 まどかは入口で立ち止まった。

「……こんなにあるんだ」

 調べたときには写真で見ていたはずだった。写真と実物とでは、数の圧が違ったらしい。

 店の女性は二人を見るなり、あら、と声を上げた。まどかの髪を見て、ほむらの髪を見て、もう一度まどかの髪を見た。

「お二人とも、お髪の色がはっきりしてらっしゃるから、浴衣は選びやすいですよ」

 選びやすい、というのは、選べる色が少ないという意味なのだ。ピンクの髪に薄紅は溶け、黒い髪に黒は溶ける。まどかが何日もかけて決められなかったことを、店の女性はさっさと絞り込んでいった。

 まどかは、衣桁の前を行ったり来たりしたあとで、一枚の前で足を止めた。淡い藤色の地に、白い萩が細く流れている浴衣だ。

「……これ、がいいな」

 店の女性はその浴衣を衣桁から外して、まどかの肩に当てた。

 鏡の中で、淡い紫がまどかの頬の下に広がった。

 私の色だ、とほむらは思った。

 口に出したわけではないのに、その言い方が自分でもよくわからなかった。指輪をほどけば掌に現れる、あの石の色。何十周ものあいだ、自分のものだと言えたのはその色くらいしかなかった。けれど、まどかがそれを考えて選んだはずはない。ピンクの髪に合う色を探せば、紫の側へ寄っていくのは自然なことだろう。ほむらはそう考えて、それ以上は考えなかった。

 まどかは鏡越しにほむらを一度だけ見て、すぐに自分の袖の端へ目を落とした。

「お嬢さんは、どうなさいます?」

 店の女性に訊かれて、ほむらは壁の浴衣を順に見た。黒は溶ける。白は浮く。藤色はまどかが取った。目が止まったのは、藍よりも少しだけ深い紺の地に、白い撫子が散った一枚だった。理由はない。強いて言えば、見慣れた色だった。どこで見慣れたのかは、考えなかった。

「それで」

 帯は、まどかが白に近い銀鼠、ほむらが臙脂になった。

「お嬢さんのほうは、せっかくの長いお髪ですから、上げてしまいましょうか」

 鏡の前に座らされ、髪を梳かれた。腰に届く長さの黒を、店の女性は三つに分けてねじり、巻き上げて、首の後ろの高いところでまとめた。簪が一本、差し込まれた。

 鏡の中で、ほむらは自分の首の後ろを見た。

 髪を上げたことは、ほとんどない。三つ編みをほどいた周から、髪はいつも背中を覆っていて、首もうなじも誰にも見せずにいた。今、首の後ろに、店の冷房の風が直接当たっている。守るものを一枚剥がされたような感じがした。

 隣の鏡で着付けを終えたまどかが、ほむらの後ろに立った。

 鏡越しに目が合った。

 まどかは、すぐには口を開かなかった。藤色の袖の端を指でつまんだまま、鏡の中のほむらのうなじのあたりを見ていた。

「……似合うね、ほむらちゃん」

「あなたも」

「わたしは、いいの」

 まどかは藤色の袖を持ち上げて、落ち着かなそうに眺めた。それから鏡の中のほむらをもう一度見て、目を伏せた。

 

    *

 

 待ち合わせは、駅から川へ下りる階段の上だ。

 五時半を回ったばかりなのに、階段の下の河川敷はもう人で埋まりはじめていた。レジャーシートの青や緑が、土手の斜面にまだらに広がっている。屋台の列が川沿いの道に沿って、ずっと上流のほうまで続いている。焼きそばのソースと綿菓子の砂糖と、発電機の排気の匂いが、夕方の湿った空気の中で混ざっている。

 マミと杏子が先に来ていた。マミは白地に青い桔梗、杏子は山吹色の地に白い線で波を描いた浴衣だった。並んで立つと、杏子のほうが頭半分ほど高い。マミの手には大きな紙袋が提げられていて、レジャーシートと紙皿とウェットティッシュが入っているらしかった。

「暁美さん、鹿目さん」

 マミは二人を見て目を細めた。

「とても似合っているわ。二人とも、まるでお人形みたい」

「人形はやめろって、さっきあたしにも言ってたろ」

 杏子が言い、マミが笑った。杏子はほむらの頭の上から足元までを一度見下ろして、へえ、とだけ言った。それから、まどかの藤色に目を留めて、ほんの一瞬だけ何かを言いかける顔をした。結局、何も言わずに、帯に挟んだ小銭入れの位置を直した。

 最後に、さやかが来た。

 藍と白の縞の浴衣だ。その右腕が、隣を歩く男子の左腕にぴったりと絡んでいる。

 男子のほうは、濃い灰色の甚平を着ている。背が高く、線が細い。さやかに腕を引かれて階段を上がってくる足取りが、どこか重かった。

「お待たせー! 恭介、連れてきた!」

「……連れてこられました」

 上条恭介は困ったように笑って、全員に頭を下げた。

「本当に、僕が来てよかったのかな。女の子の集まりなのに」

「いいの! みんないいって言ったでしょ」

「言ったのは、さやかだけだった気がするんだけど」

「細かいことはいいの」

 さやかは恭介の腕をさらに強く引き寄せた。恭介は観念したように肩を落とした。

 さやかの目が、ほむらのところで止まった。

「……うわ」

「さやか?」

「ほむら、それ反則でしょ。何それ。ずるい。うなじとか出しちゃって」

 さやかは恭介の腕を離さずにほむらの周りを一周しようとして、恭介ごと引きずった。恭介が、わ、と言ってよろけた。

「恭介、ほむら覚えてるでしょ。中二のとき、同じクラスだった」

「もちろん覚えてるよ。久しぶりだね、暁美さん。高校が別になってから、ほとんど会ってなかったから」

「ええ。久しぶりね」

 恭介はほむらに丁寧に頭を下げた。中学二年の教室で、ほむらが転校してきたころ、恭介の席はまだ空いていた。戻ってきてからも、ほむらが彼と言葉を交わしたのは数えるほどしかない。その左手はさやかの腕に絡め取られていて、指だけが所在なげに動いていた。指先の皮膚が、少し硬そうに見える。弦を押さえ続けてきた指なのだ。

 四年前、病院のベッドの上で、その手は動かなかった。それが今は弦を押さえている理由を、恭介は知らない。隣で腕を絡めている少女が、それと引き換えに何を差し出したのかも。ほむらは知っている。何十周のうちの何回か、その差し出したものが最後にどういう形に変わったのかも、知っている。

 ほむらは、それを顔には出さずに頭を下げ返した。

 

    *

 

 屋台の列は、思っていたよりもずっと長い。

 射的の屋台の前で、マミが足を止めた。コルク玉を込める古いライフルが、台の上に五丁並んでいる。棚の上には、キャラメルの箱や、ぬいぐるみや、よくわからない置物が段々に並んでいる。

「懐かしいわ」

 マミは財布から三百円を出した。

「マミさん、射的、得意なんですか?」

 まどかが訊いた。マミはライフルを一丁取り上げて、重さを確かめるように少しだけ持ち上げた。

「……少しだけ」

 一発目でキャラメルの箱が落ちた。二発目でその隣の箱が落ちた。三発目で、最上段の、どう見ても落ちそうにない招き猫の置物が、首を傾げるようにゆっくりと倒れて、棚の奥へ消えた。

 屋台の男が口を半開きにした。

 ほむらは何も言わずに三百円を台に置いた。

 一発目で、マミが落とさなかった段の左端が落ちた。二発目でその隣が落ちた。三発目、ほむらはコルク玉を込め直して、狙う時間をほとんど取らずに引き金を引いた。棚のいちばん奥で、熊のぬいぐるみが後ろ向きに倒れた。

 屋台の男が、ほむらを見て、マミを見て、もう一度ほむらを見た。

「……お嬢ちゃんたち、何かやってる?」

「いいえ」

 二人は同時に言った。

 マミはもう三百円を出した。ほむらも出した。二巡目が始まったあたりで、屋台の男は棚の商品を少しずつ奥へ下げはじめた。それでも落ちる。三巡目に入る前に、まどかが二人の袖を引っ張った。

「マミさん、ほむらちゃん、もうやめてあげて……」

 屋台を離れるとき、まどかの両腕には、キャラメルの箱が六つと、熊のぬいぐるみと、招き猫が抱えられていた。

 その三軒先に、ゲームの屋台があった。

 腰の高さの台に穴が五つ並んでいて、そこから緑色のワニの頭がランダムに飛び出してくる。それを柄の短いハンマーで叩く。一分間で何匹叩けるか。最高記録が、手書きの紙で屋台の柱に貼られている。四十二匹。

 杏子はその紙を見上げた。

「……ふうん」

 杏子は帯の間から小銭入れを出した。

 ブザーが鳴った。ワニが左端の穴から顔を覗かせ、頭が上がりきる前にハンマーが落ちた。二匹目は右から二番目、三匹目は真ん中。杏子の手首はほとんど動いていないように見える。ワニが穴から顔を出す、その半瞬前に、ハンマーがもうそこにあるのだ。

 屋台の周りに、少しずつ人が集まってきた。ワニの出てくる速さが上がり、二匹同時に出るようになった。杏子は持ち替えもせずに両方を叩いた。叩く音が、太鼓の連打のように途切れずに続いた。

 ブザーが鳴った。電光の数字が七十一で止まった。

 屋台の周りからどよめきが上がった。屋台の若い男が柱の紙を剥がし、新しい紙に七十一と書き直した。

 杏子はハンマーを台に置いて、山吹色の袖で額の汗を拭った。

「……ワニ、遅くね?」

 さやかが恭介の腕にしがみついて、腹を抱えて笑っていた。恭介も笑っている。まどかは招き猫を脇に挟んで拍手をしていた。

 

    *

 

 土手の斜面に、マミが大きなレジャーシートを広げた。

 六人が座ると、シートの端が少しはみ出した。紙皿の上に、たこ焼きが三舟分、焼きそばが二つ、フランクフルトが四本並んだ。

「いただきます」

 たこ焼きは皮の外側がかりっとしていて、中が溶けるように熱い。一口で頬張った杏子が声にならない声を上げて、口元を押さえた。

「杏子ちゃん、熱いよって言ったのに」

 まどかが笑いながら、ペットボトルのお茶を差し出した。杏子はそれを受け取って、半分飲んだ。

「……先に言えよ」

「言ったよ、ちゃんと」

 さやかは爪楊枝に刺したたこ焼きに息を吹きかけて冷ましてから、恭介の口元へ差し出していた。

「はい、恭介、あーん」

「……さやか、みんな見てる」

「見てないって」

 見ていた。マミは頬に手を当てて微笑み、まどかは両手で顔を覆いながら指の隙間から見ていた。杏子は見ていなかった。自分のたこ焼きを、今度は慎重に半分に割っていた。

 恭介は観念して口を開けた。さやかは満足そうに笑った。

 ほむらは自分のたこ焼きを一つ、口に入れた。

 熱い。ソースと、青のりと鰹節の味がする。今日の、どうだった、と頭の中で誰かが訊いた。ほむらはその声に答えなかった。頭の中は、別のことで埋まっているのだ。

 隣で、まどかがたこ焼きを冷ましている。向かいで、マミが紙皿を配っている。杏子が二舟目に手を伸ばし、さやかが笑い、恭介が困っている。

 何十周ものあいだ、この顔ぶれが一枚のシートの上に揃ったことは、一度もなかった。

 ある周では、マミは最初の一週間でいなくなった。ある周では、杏子とさやかは、同じ夜に同じ場所で消えた。ある周では、マミの銃口が杏子に向き、ほむら自身の銃口もまた、ここにいる誰かに向いた。この川の上の空が真っ黒だった日、シートを広げる人間など、どこにもいなかったのだ。

 今、同じ川の土手で、同じ顔ぶれがたこ焼きを分け合っている。それはこの時間軸で、ほむらがようやく辿り着いた場所だった。

 ほむらは、この感じに付けるべき名前を探した。思い当たるものは、一つしかない。自分には縁のない言葉だと、ずっと思っていた言葉だ。

 幸せ、というのは、たぶんこういうものを指すのだろう。

 ほむらはそれを口には出さなかった。代わりに、もう一つたこ焼きを取った。

「ほむらちゃん」

 まどかが、半分に割ったたこ焼きの片方を、ほむらの紙皿にそっと載せた。

「こっち、蛸、大きいよ」

「ありがとう」

 まどかは自分の分を口に入れた。今度は熱くなかったらしく、小さく笑った。

 

    *

 

 花火が始まるまで、あと三十分ほどになった。

「飲み物、足りなくなるわね」

 マミが空になりかけたペットボトルを振った。

「じゃんけんで負けた人が、買い出し!」

 さやかが拳を突き上げた。

「負けた二人な。一人じゃ持ちきれねえし」

 杏子が付け加えた。

 六人で輪になった。最初はグー、じゃんけん、ぽん。

 ほむらはパーを出した。四人がチョキで、二人がパー。もう一人のパーは、恭介の手だった。

「……僕か」

 恭介が自分の掌を見下ろした。

 さやかが一瞬口をつぐんだ。恭介を見て、ほむらを見た。それから急に手を挙げた。

「あたしも行きたーい!」

「負けてないでしょ、さやかちゃん」

「いいの! ついでにかき氷食べたいの!」

 さやかは恭介の腕を取り直した。そういうことになったらしい。

 三人で屋台の列のほうへ下りていった。さやかは恭介の腕にぶら下がるようにして歩き、ほむらはその半歩後ろを歩いた。人の流れが、上流から下流へ、下流から上流へ、ゆっくりと擦れ違っていく。

 かき氷の屋台の列に並んだところで、さやかの名前が呼ばれた。

「さやかー!」

 人混みの中から、浴衣の女の子が二人、手を振りながら近づいてきた。

「うそ、来てたの!? え、彼氏? 噂の音大の彼氏?」

「ちょ、声大きいって」

 さやかは恭介の腕を離して、二人に手を振り返した。それから、ほむらと恭介のほうを振り返った。

「ごめん、大学の友達。ほむら、恭介、ちょっと待ってて」

 さやかの同級生たちはほむらを見て、一瞬言葉を失ったような顔をしてから、ぺこりと頭を下げた。ほむらも頭を下げた。

 さやかは二人と一緒に、少し離れた屋台の陰まで行った。三人の笑い声が、人混みの隙間から切れ切れに聞こえてくる。

 ほむらと恭介は、かき氷の列に取り残された。

 同じ教室にいたころも、二人で話したことはほとんどない。恭介は、何か話したほうがいいのだろうかという顔で、二度ほどほむらのほうを見た。ほむらは何も話す必要を感じていない。恭介は三度目に見かけてやめ、屋台の上に吊るされたシロップの一覧表を読みはじめた。

 列が少し進んだ。屋台の横の、ラムネを冷やしている氷水の盥の前を通ったとき、恭介が足を止めた。

「あ、飲み物もここで買えるね。巴さんに頼まれた分と……ええと、何本だったかな」

「六本」

「六本」

 恭介は屋台の男に六本と言って代金を払い、氷水から引き上げられた青い瓶を腕いっぱいに抱えた。一本がこぼれそうになって、恭介はそれをほむらのほうへ差し出した。

「暁美さん、これ、持ってもらってもいいかな。いや、よかったら先に一本どうぞ。暑いし」

 ほむらは差し出された瓶を受け取った。

 冷たい。瓶の表面の水滴が、指の間を伝って落ちる。

 顔を上げたとき、人の流れの向こうに、見覚えのある寝癖が見えた。

 七人か八人の集団だ。男子と女子が半々くらいで、何人かは日焼けしていて、何人かはサンダルの足にトレッキングシューズの日焼け跡が残っている。集団の端に、紺のTシャツを着た男子がいた。右のこめかみの上で、髪が跳ねている。

 日比野だった。

 その足が止まった。

 目が合った。

 日比野の視線が、ほむらの顔から上げた髪へ移り、うなじのあたりで止まった。何かを言いかける形に口が動いた。それから、何も言わずに視線を下ろした。七月の木曜日に、髪と目のことは言わないで、とほむらは言った。日比野はそれを守ったのだ。

 視線は、ほむらの手の中のラムネの瓶に下りた。そこから、隣に立っている男子へ移った。灰色の甚平を着て、ラムネの瓶を腕いっぱいに抱えて、困ったように笑っている、背の高い男子へ。

 日比野の口が、あ、の形に開いた。

 声は出なかった。

 集団の何人かが、日比野の視線の先を追った。そのうちの二人に、ほむらは見覚えがあった。ファミレスの通路で、へえー、と言った二人だ。彼らはほむらを見て、隣の恭介を見て、それから顔を見合わせた。

 誰も何も言わない。

 集団の中の女子の一人が、日比野の袖を軽く引いた。短い髪で、日焼けした腕をしている。日比野は我に返ったように瞬きをした。

「……こんばんは」

 日比野は、ほむらに向かって小さく頭を下げた。敬語だった。

「……ええ」

「楽しんでください」

 それだけ言って、日比野は集団の流れに戻った。先輩の一人が日比野の背中を一度だけ軽く叩いた。集団は下流のほうへ、人混みに紛れていった。紺のTシャツが提灯の明かりの下を二度くぐって、見えなくなった。

 違う、とほむらは言おうとした。

 この人は違う。友達の、恋人だ。じゃんけんで負けて、一緒に買い出しに来ただけ。ラムネは、持つのを頼まれただけ。

 口は開かなかった。

 言おうとした言葉の、その先を考えてしまったからだった。

 違う、と言うのなら、何と違うのかを言わなければならない。日比野が何を思ったのかを、ほむらは先回りして否定することになる。そうする理由は、どこにもなかった。日比野は何も訊いていないし、何かを咎めたわけでもない。釈明は、疑いを向けられた人間がするものだ。ほむらは何も疑われていない。

 それでも日比野は、二つを繋げるはずだった。ファミレスのボックス席で、ほむらは、一緒に行きたい人がいる、と言った。その夜から半月ほど後の花火大会で、ほむらは灰色の甚平の男子の隣に立ち、その男子から受け取ったラムネを手にしていた。

 繋げずにいられる理由は、日比野の側にはない。

 だとしても、それを解く義務は、ほむらの側にもなかった。

 義務がないのに解きたいと思うのなら、それは何なのか。ほむらの考えはそこで行き止まりになった。その壁の向こうに何があるのかを、ほむらは見ないことにした。

「暁美さん?」

 恭介が心配そうにほむらを見ていた。

「今の人たち、知り合い?」

「……大学の」

「そっか。挨拶、しなくてよかったのかな。僕、何か変なことしてなかった?」

「していないわ」

 恭介は少しほっとしたように笑った。何も知らない顔だ。

「ごめんごめん、お待たせー!」

 さやかが人混みを掻き分けて戻ってきた。

「え、ラムネ買ったの? 気が利くじゃない恭介。……で、かき氷は?」

「まだ並んでる途中だったんだけど」

「えーっ」

 さやかが恭介の腕を揺さぶり、恭介が瓶を落としかけた。ほむらは手の中の一本を握り直した。瓶は、さっきより少しぬるくなっている。

 

    *

 

 最初の一発は、七時半ちょうどに上がった。

 川の上の空に、細い光の筋が一本、音もなく昇っていく。いちばん高いところで一瞬消えて、次の瞬間、空いっぱいに白い菊が開いた。遅れて、腹の底に響く音が来る。

 土手の斜面から、一斉に歓声が上がった。

 二発目は赤、三発目は緑。四発目で、金色の柳が川面すれすれまで枝を垂らした。

 ほむらはシートの端に座って、空を見上げていた。

 右隣には、まどかがいる。膝を抱えて、口を少し開けて、空を見ている。花火が開くたびに、まどかの横顔と藤色の袖が、赤や緑や金色に染まった。

 左隣には誰もいない。シートの端が、少しはみ出しているだけだった。

 大きな、真っ白な菊が上がった。空全体が、一瞬だけ昼間のように白くなる。

 何回も光って、それで急に晴れたでしょ、と日比野は言った。何かが勝った瞬間みたいに見えたんだ、と。

 この川沿いのどこかで、日比野も今、同じ白を見上げているのだろう。隣にはワンゲルの仲間たちがいる。袖を引いた女子もいる。日比野はこの白を見て、四年前の空を思い出しているだろうか。それとも、さっきのラムネの瓶を思い出しているだろうか。

 巾着の中で、携帯が一度だけ震えた。

 ほむらはそれを取り出さなかった。画面に何があっても、なくても、花火の続きが見えなくなる気がした。

 白い菊がゆっくりと崩れて、光の粒になって川へ落ちていった。

 花火の合間に、マミと杏子がそっと立ち上がった。

 二人は目だけで何かを確かめ合い、土手の上の暗がりへ歩いていった。ほむらの指輪が、かすかに熱を持っていた。熱は、ずっと前からそこにあったのかもしれない。ほむらが立ち上がろうとしたとき、杏子が一度だけ振り返って、首を横に振った。

 十二分後、二人は何事もなかったように戻ってきた。マミの手には、屋台で買ったらしいりんご飴が二本あった。一本を、まどかに渡した。

「どこ行ってたんですか?」

「少し、お手洗いに」

 マミは微笑んで座った。杏子はほむらの横を通り過ぎるとき、ほんのわずかに顎を引いた。片付いた、という意味だ。

 指輪は、もう冷えている。

 最後の十分間、空は休みなく光り続けた。何十発もの花火が重なって開き、川の上の夜が、何度も昼に戻った。音が重なりすぎて、一つ一つを聞き分けられなくなる。

 最後の一発は、また白。

 光が消えると、土手の斜面から拍手が湧き上がった。拍手は、なかなか鳴りやまなかった。

 

    *

 

 帰り道は、来たときよりもずっと混んでいる。

 駅へ向かう人の流れから外れて、六人は川沿いの道を下流へ歩いた。さやかは恭介の腕にぶら下がり、まどかは招き猫を抱え、マミは熊のぬいぐるみを抱えていた。杏子が、まどかの落としかけたキャラメルの箱を拾った。

 橋のたもとで、それぞれの方向へ分かれた。

「ほむら、写真送るからねー!」

 さやかが手を振り、恭介が頭を下げた。マミと杏子が並んで歩いていき、マミが最後に振り返って、気をつけて帰ってね、と言った。

 ほむらは、まどかを家まで送った。

 下駄の音が、二人分、交互に鳴った。慣れない鼻緒が、足の指の間に食い込んでいる。まどかは途中で一度立ち止まり、鼻緒の具合を直して、また歩きだした。

「……楽しかったね」

 まどかが前を向いて言った。

「ええ」

「杏子ちゃん、ワニ、七十一匹だって」

「見ていたわ」

「射的、マミさんとほむらちゃん、来年は出入り禁止かも」

「たぶん」

 まどかは小さく笑った。それから、少しのあいだ何も言わずに歩いた。

「ほむらちゃん……なにか、あった?」

 ほむらは答えなかった。

「買い出しから戻ってきてから、ずっと、空の上のほうを見てたよ」

「花火を見ていたのよ」

「花火、下から上がってくるのに」

 まどかはそれ以上は訊かなかった。ほむらも、それ以上は口にしなかった。

 言うべきことがあるのかどうか、ほむらにはまだ決められなかった。言えば、まどかは何と言うだろう。その人に言えばいいのに、と言うかもしれない。気にしなくていいよ、と言うかもしれない。どちらの言葉を聞きたいのかも、ほむらにはわからない。

 まどかの家の門の前で、まどかは招き猫を抱え直して、おやすみ、と言った。玄関の明かりが点いて、藤色の袖が扉の向こうに消えた。

 部屋に戻って、ほむらは鏡の前に立ち、簪を抜いた。

 巻き上げられていた髪がほどけて、背中へ落ちた。首の後ろが、また覆われた。

 巾着から携帯を出した。さやかから、写真が十四枚届いている。射的の屋台の前で呆然とする男の顔。七十一の数字の前で汗を拭う杏子。シートの上の六人。その中の一枚で、ほむらは、まどかの割ったたこ焼きの片方を受け取っていた。その横で、まどかはほむらのほうを見ている。花火ではなく、ほむらのほうを。シャッターの切れた間が悪かったのだろう、とほむらは思った。

 花火の最中に一度震えたのは、ゼミの班のグループに届いた、夏休みの課題の連絡だった。

 写真を閉じて、日比野とのトーク画面を開いた。

 いちばん下には、七月の謝罪の文が残っている。その下に、入力欄が白く空いている。

 ほむらは入力欄に指を置いた。

 今日の人は、と打った。

 指が止まった。

 今日の人は、何なのか。友達の恋人、と打てば、その先に、だから違う、が続く。そう打つ理由を、ほむらは土手の上でも、橋のたもとでも、この部屋に帰ってくるまでの道でも、見つけられなかった。

 打った言葉を、一字ずつ消した。入力欄が、また白くなった。

 ほむらは携帯を伏せて机の上に置き、浴衣の帯を解きはじめた。臙脂の帯は思っていたよりも固く結ばれていて、ほどくのに時間がかかった。

 窓の外で、どこかの家の子どもが、手持ち花火に火を点けたらしかった。細い、ぱちぱちという音が、しばらく聞こえていた。

 

    *

 

 八月の最初の週、ほむらは村瀬の課題に取りかかった。

 近代の短編小説を一つ選び、四千字で論じる。図書館で全集を三冊借り、候補を五つに絞り、そのうちの一つに決めた。そこまでで、丸一日かかってしまう。いつもなら、半日で済む作業だ。

 書き出しの一文をノートに書いた。続きが出てこなかった。ペンの先を紙に当てたまま、ほむらは窓の外の、真夏の白い空を見ていた。

 白い空を見ると、あの夜の最後の一発を思い出す。最後の一発を思い出すと、その三十分前の、かき氷の列を思い出す。ラムネの瓶の冷たさと、人混みの向こうで止まった足と、声にならなかった日比野の口を思い出す。

 一日目、それは胸のどこかに置かれた小石のようなものだった。三日目には、握りこぶしくらいになっていた。

 一週間が経つころには、朝、目を開けた瞬間に、まずそれがそこにあることを確かめるようになっていた。日付を確かめ、ソウルジェムの濁りを確かめる。その前に、胸の中の重さを確かめる。四年間、朝いちばんに確かめるものは日付だった。その順番が、初めて入れ替わったのだ。

 日比野は今ごろ、長野の蕎麦屋で盆を運んでいる。客の顔が変わるのを見ている。その合間に、あの夜のことを思い出しているのかどうか。そうだとしたら、何を思っているのか。

 考えても答えの出る問いではなかった。答えの出ない問いを、ほむらは何十周ものあいだ、考えないことで処理してきた。考えている暇があれば、次の一か月の手順を組み直せばよかった。今度の問いには、組み直す手順がない。考えないようにしても、夜、布団に入ると勝手に戻ってくる。

 課題の四千字は、十日かけてようやく半分まで進んだ。

 

    *

 

 八月の第二土曜日の夜、ほむらは鮭を焦がした。

 グリルの扉を開けたとき、切り身の皮の半分が黒くなっていた。火を止めるのを二分ほど忘れていた。その二分のあいだ、ほむらは台所の窓の外の、暗くなりかけた川のほうを見ていた。何を考えていたのかは、はっきりしている。それを思い出したくなかった。

 焦げた鮭を皿に載せて、食卓に出した。

 夏期講習の帰りのまどかは、皿を見て、ほんの少しだけ目を見開いた。

「……ほむらちゃんが焦がすの、二回目だね」

「作り直すわ」

「ううん、いいよ。食べられるもん」

 まどかは焦げた皮を箸でそっと端に寄せてから、身のほうを口に入れた。

 ほむらも自分の皿の鮭を一口食べた。焦げたところは苦い。ファミレスのドリアの、チーズの焦げたところと同じ種類の苦さだった。焦げたところは悪くない、とほむらはあの夜言った。日比野は携帯の候補の一覧に丸を付けた。

 箸が止まっていた。

 まどかがお茶碗を置いた。

「……ほむらちゃん」

「何かしら」

「花火のときから、ずっと、だよね」

 まどかはほむらの顔を見ていた。

「課題も、あんまり進んでないみたいだし。今日は、お魚も焦げちゃったし。……わたしでも、わかるよ」

 ほむらは自分の皿を見た。焦げた皮の黒さが、白い身の上で目立っていた。

 誰かに話したい、と思った。

 その誰かを、ほむらは頭の中で探した。さやかは夏休みに入っても実習の準備に追われていて、毎晩十一時の電話のために一日のノルマを詰め込んでいる。杏子にこの種の話をしても、困った顔をさせるだけだろう。そして、この夏をいちばん大事に過ごさなければならないのは、まどかだった。こういうものを、彼女にだけは持ち込みたくない。

 その、まどかが、目の前にいた。

 何十周もの話を、ほむらが自分の口から話した相手も、まどかだった。全部を知っているのは、まどかしかいない。

「花火の日」

 ほむらは言った。

「買い出しのときに、日比野くんに会ったの」

 まどかの指が、箸の上で、ほんのわずかに止まった。

 ほむらは話した。かき氷の列のこと。恭介がラムネを渡してきたこと。日比野と目が合ったこと。日比野の視線が髪で止まって、瓶に下りて、恭介に移ったこと。声にならずに開いた口。こんばんは、と、楽しんでください。それから、ファミレスで、一緒に行きたい人がいる、と自分が言ったこと。

 話しているうちに、ほむらは、自分がこれを誰にも話していなかったことの重さを知った。話し終えても、胸の中の石は小さくならなかった。形が、少しだけはっきりした。

 まどかは途中から箸を置いて聞いていた。両手を膝の上にそろえて、一度も口を挟まなかった。

 聞き終えても、まどかはすぐには何も言わなかった。返事が来るまでに、冷蔵庫の低い音が一度、切り替わった。

「……ほむらちゃんは、どうしたいの?」

「違うと言うべきかどうか、わからないの」

「うん」

「言う理由が、ないわ」

「……うん」

「なのに、言いたいのかもしれない」

 まどかは膝の上の指を組んで、また、ほどいた。視線が食卓の上を、焦げた皮のあたりから湯呑みのあたりまで、ゆっくり行き来した。

「わたしじゃ、うまく言えないかも」

 まどかは小さな声で言った。

「そういうの、よくわからないし。……それに、わたしが言うと、なにか、違う気がするから」

 何が違うのかを、まどかは言わなかった。ほむらも訊ねなかった。受験の夏に、余計な荷物を一つ持たせてしまった。そう思っただけだった。

「マミさんに、聞いてみたら?」

「巴マミ?」

「うん。マミさん、そういうの詳しそうだし。先輩とも、うまくいってるみたいだし。大学、九月の終わりまでお休みなんでしょ? ほむらちゃんと同じで」

 まどかの言うとおりだ。お茶会は、受験生がいるという理由で月に一度になっていた。マミの部屋の紅茶を淹れる相手も、この夏は減っているはずだ。

「……聞いてみるわ」

「うん」

 まどかは箸を取り直して、端に寄せていた焦げた皮を、ひと切れだけ口に運んだ。

「焦げてるところ……意外と、おいしいね」

 まどかはそう言って、少し笑った。ほむらはその横顔を見ていた。笑った顔の、どこが少しだけ違うのかを、ほむらは探さなかった。

 

    *

 

 マミが指定したのは、駅の反対側の、古い商店街の奥にある喫茶店だった。

 扉を開けると、ドアベルが鳴った。店の中は薄暗く、冷房がよく効いていて、紅茶の葉の匂いがする。壁一面の棚に、茶葉の缶がぎっしりと並んでいる。

 マミは窓際の二人掛けの席に座っていた。薄い水色のワンピースを着ている。ほむらを見つけると、小さく手を振った。

「ごめんなさいね、呼び出すみたいになって」

「呼んだのは、私よ」

「そうだったわね」

 マミは少し可笑しそうに笑った。

 向かいの椅子に座ってから、ほむらは、マミと二人きりで向かい合うのが、この時間軸では初めてだということに思い至った。四年間、マミの部屋に何十回も通った。紅茶を何百杯も飲んだ。いつも隣にまどかがいて、さやかがいて、杏子がいた。二人きりで向かい合っていたのは、まだ何も知らなかった最初の周の、眼鏡をかけたころのほむらだけだ。

 マミも同じことを考えていたらしかった。

「なんだか、不思議ね。暁美さんと二人でお茶をするの」

「ええ」

 マミはメニューを開いた。茶葉の名前が二ページにわたって並んでいる。マミはダージリンのセカンドフラッシュを頼んだ。ほむらはメニューを最後まで読んで、マミと同じものを頼んだ。

「後期の講義は、もう決めたの?」

「だいたい」

「暁美さんのことだから、もう全部の単位を計算してあるんでしょう」

「表を作ったわ」

「やっぱり」

 マミは嬉しそうに笑った。それから、自分の話をした。前期の試験のこと。研究会の夏の合宿で、茶畑を見学しに静岡まで行ったこと。

「ティーバッグしか使わない会だと思っていたのに、合宿で茶畑に行くのよ。おかしいでしょう」

「先輩も、行ったの?」

 マミのカップが、ソーサーの上で小さく鳴った。

「……行ったわ」

「そう」

「ええと、その」

 マミはカップを持ち直し、飲まずにまた置いた。

「この前の日曜日の、お食事のあとにね。もう一度、会ったの。今度は、紅茶の専門店に。先輩が、私が好きそうだからって、探してきてくださって」

 マミの頬に、ゆっくりと色がのぼった。

「それで、合宿のときも、茶畑を歩きながら、ずっと二人で話していて。気がついたら、ほかの人たちとはぐれていて。みんなに、からかわれて」

 マミは両手で頬を押さえた。

「……ごめんなさい。私ばっかり、こんな話」

「いいわ」

 本心だ。マミの話を聞いているのは、嫌ではない。マミが誰かの話をするときの顔を、ほむらは何十周も前から見てきた。けれど、自分の恋の話をするときのマミの顔は、そのどの周にもなかったものだった。

 紅茶が運ばれてきた。白い磁器のポットと、揃いのカップ。マミがほむらの分まで注いでくれた。琥珀色の液体から、湯気が細く立ち上る。

 言おう、とほむらは思った。そのためにここへ来たのだ。

 ほむらはカップを持ち上げて、一口飲んだ。マスカットのような香りがした。カップを置いて、口を開けて、閉じた。

 マミが茶畑の話の続きをしていた。斜面の上から見下ろすと、茶の木の列が緑色の波のように見えたこと。ほむらは相槌を打ちながら、ティースプーンで、砂糖を入れていない紅茶をかき混ぜていた。三周、四周。カップの中で琥珀色の渦が回った。

 五周目で、マミの話が止まった。

「暁美さん」

 マミはほむらの手元を見ていた。

「それ、お砂糖、入っていないわよ」

 ほむらはスプーンを止めた。

 マミは少しのあいだ、ほむらを見ていた。それから、自分のカップを両手で包むように持った。

「何か、話したいことがあるんじゃないかしら」

 穏やかな声だ。

「鹿目さんから、少しだけ聞いたの。暁美さんが、何か話したいことがあるかもしれないって。何の話かは、教えてくれなかったけれど」

 ほむらはマミを見た。

「急がなくていいのよ。ここ、閉店まであと四時間あるもの」

 マミは微笑んだ。

 ほむらはスプーンをソーサーの上に置いた。置く音が、店の静けさの中で、思ったよりも大きく響いた。

「花火の日」

 ほむらは、まどかに話したのと同じ順番で話した。二度目だったので、一度目よりも言葉は滑らかに出てきた。滑らかに話せば話すほど、自分が何を気にしているのかが、輪郭を持って浮かび上がってくる。

 マミは途中で一度も口を挟まなかった。紅茶にも手を付けなかった。ほむらが、打ちかけて消した言葉のところまで話し終えると、マミはゆっくりと息を吐いた。

「……それは、早く言ったほうがいいわ」

「早く」

「ええ。時間が経つほど、向こうの中で、それが本当のことになっていくもの」

 マミは自分のカップを見つめた。

「誤解って、放っておくと固まるのよ。最初は柔らかくて、指で押せば形が戻るのに。何日も経つと、固まって、動かなくなる。そうなってから崩そうとすると、両方が痛いわ」

 マミがそれをどこで知ったのか、ほむらは確かめなかった。巴マミがかつて何を一人で固めてしまったのかを、ほむらは別の周で見て知っている。

「……向こうは、何とも思っていないかもしれないわ」

 ほむらは言った。

「あの人を見て、少し驚いただけかもしれない。誤解なんて、していないかもしれない。こちらの、勘違いかもしれない」

 口にした言葉は、マミよりも、自分の耳のほうへ向かっている。勘違いなら、何もしなくていい。そうしていい理由を、一つずつ並べているだけだった。

 マミは少しのあいだ、ほむらを見ていた。

「三か月、毎週のようにお昼に誘って。断られても、また誘って。お店を何軒も探して、花火に誘った人が?」

 ほむらは紅茶のカップに目を落とした。

「それにね」マミは柔らかく続けた。「もし本当に勘違いだったとしても。暁美さんがこの二週間、こんなに考え込んでいることは、勘違いじゃないでしょう」

 琥珀色の表面に、天井の照明が小さく映っていた。ほむらはそれを揺らさないようにカップを持ち上げて、一口飲んだ。

「メッセージだと、難しいわ」

「どうして?」

「打つと、言い訳になるの」

 ほむらは、あの夜に入力欄に打ちかけた言葉のことを考えた。今日の人は。その先に続けられる言葉は、どれも文字にすると、何かを弁解している形になる。弁解する理由は、ほむらにはないはずだった。

「じゃあ、お食事に誘ったら?」

「用事がないわ」

 マミは目をしばたたいた。

 それから口元を押さえて、小さく笑った。その笑いが、なかなか止まらない。

「暁美さん」

 マミは笑いの残った声で言った。

「それを話すのが、用事でしょう」

 ほむらは黙った。

 その言葉を、頭の中で繰り返した。それを話すのが用事。確かにそのとおりだ。誤解を解くために会う。それは用事と呼んでいいものだった。借りを返すためでもなく、謝罪を受け取ったからでもなく。

 ただ、それを用事と呼ぶことに、ほむらの中の何かが、まだ頷かなかった。

 マミは、ほむらの顔を見て、また少し考えた。

「……でも、その人、今は長野なのよね」

「九月まで」

「後期は、いつから?」

「九月の、終わりよ」

「そう」

 マミはカップを持ち上げて、ようやく一口飲んだ。

「それなら、お食事に誘っても、どのみち九月の終わりね。……だったら、休みが明けて最初に会ったときに、顔を見て話したほうがいいかもしれないわ。メッセージで中途半端に伝えるより、そのほうが暁美さんらしいと思う」

「私らしい」

「ええ。暁美さんは、言うときは、ちゃんと相手の顔を見て言う人だもの」

 マミはそう言って微笑んだ。

 ほむらは、自分がそういう人間なのかどうかを考えた。判断する材料は、自分の中にはなかった。この四年間、それを見ていたのはマミのほうだった。

「……そうするわ」

「ええ」

 マミは満足そうに頷いた。それから、少しだけ首を傾げた。

「ねえ、暁美さん。一つだけ、訊いてもいいかしら」

「何」

「どうして、誤解を解きたいの?」

 ほむらは、すぐには口を開かなかった。

 答えを持っていなかった。花火の夜、人混みの中で行き止まりになった問いと、同じ問いだった。義務がないのに解きたいのなら、それは何なのか。その壁の向こうを、ほむらはまだ見ていない。

「わからないわ」

 ほむらは正直に言った。

 マミは驚いた顔をしなかった。ただ、目を細めた。何かを知っていて、それをほむらに教えるつもりはない人の顔だった。

「そう」

 マミはポットから、二人のカップに紅茶を注ぎ足した。

「それなら、九月までに、少しだけ考えておくといいわ」

 

    *

 

 喫茶店を出ると、夕方の熱気が肌に貼りついた。

 商店街の入口で、マミとは別れた。これから先輩と電話をする約束があるのだという。そう話すマミの頬は、また赤くなっていた。

「暁美さん、またね。今度は、暁美さんのお話も、もっと聞かせて」

 マミは手を振って、駅のほうへ歩いていった。水色のワンピースの裾が人混みの中で揺れて、見えなくなった。

 ほむらは川沿いの道を通って帰ることにした。

 二週間前、この道は人で埋まっていた。今は、散歩の老人と、自転車の中学生と、犬を連れた女性が、ときどき擦れ違うだけだった。土手の斜面には、レジャーシートの跡も、たこ焼きの舟も残っていない。誰かが、きれいに片付けたのだ。

 橋の少し手前で、ほむらは足を止めた。

 ここだ。かき氷の屋台が出ていた場所。ラムネを冷やす氷水の盥が置かれていた場所。今は、ただの舗装された道の端で、夏草が少し伸びているだけだった。

 ほむらはそこに立って、人混みのあった向こうを見た。

 誰もいなかった。

 それを話すのが、用事でしょう、とマミは言った。どうして誤解を解きたいの、とも言った。

 二つの問いは、同じ場所から出ているように思えた。一つ目には答えが用意されていた。二つ目には、まだ用意されていない。二つ目の答えが出れば、一つ目は問いでさえなくなる気がした。

 ほむらは、九月の終わりの、後期の最初の木曜日を思い浮かべた。窓際の角の席。向かいの辺に、日焼けした日比野が座っている。ほむらは立ち上がって、何かを言う。

 何を言うのかは、まだ決まっていなかった。

 違う、と言うのか。あれは友達の恋人だった、と言うのか。一緒に行きたい人がいると言ったのは、まどかのことだった、と言うのか。それとも、何か別のことを言うのか。

 どの言葉を思い浮かべても、その先に日比野の顔が浮かんだ。人混みの向こうで止まった顔ではなく、ファミレスの窓際で、タメ口になった瞬間の顔だった。やめます、やめる、と言い直して、自分で吹き出した顔。

 ほむらは歩きだした。

 川面に夕日が長く伸びていた。対岸の街灯が、一つずつ点きはじめている。

 歩きながら、ほむらは後期の最初の木曜日までの日数を、指を折って数えた。四十一日あった。

 かつてのほむらは、ひと月の残りの日数を、何十回も指で追った。最後の一本を折る日は、いつも嵐の日だった。今、指を折って数えているのは、嵐の来ない日までの日数だった。

 その数字を、誰かに言うつもりはなかった。まどかにも、マミにも。数えたという事実ごと、胸の中の、石のあった場所の隣に置いた。

 石は、朝よりも少しだけ軽くなっていた。その代わりに、隣に置いた数字のほうが、家に着くまでのあいだに、少しずつ重くなっていった。

 

    *

 

 後期の基礎ゼミは、木曜の二限に移っていた。

 教室も変わっている。人文棟の四階、四一二教室。三〇二と同じ広さの部屋に、同じように長机がコの字形に並べられている。窓の向きだけが違った。南向きの窓の外に、まだ青い銀杏の並木が見える。

 ほむらは、窓際の、出口にいちばん近い角の席に座った。

 十時二十五分。開始の五分前。向かいの辺は半分ほど埋まっていた。前期と同じ顔ぶれが、少しずつ日に焼けて、少しずつ髪型を変えて座っている。

 四十一日を数え終えた朝だった。

 言うことは決めてあった。

 違う、とは言わない。釈明もしない。あの夜、隣にいたのは友達の恋人で、自分はその友達と、友達の恋人と、ほかに三人と一緒に花火を見に行った。一緒に行きたいと言ったのは、そのうちの一人のことだった。事実だけを順番に並べる。それから、昼食に誘う。借りはないけれど、話したいことがあるから、と言う。

 それを話すのが、用事でしょう、とマミは言った。四十一日かけて、ほむらはその言葉にようやく頷けるようになっていた。

 十時二十九分に、扉が開いた。

 日比野だった。

 日に焼けている。前期の終わりよりも二段階くらい濃い。髪が短くなっていて、右のこめかみの上の寝癖は、短くなった分だけ、かえって目立って跳ねていた。紺のパーカーではなく、白い半袖のシャツを着ている。袖から出た腕も、よく焼けていた。

 日比野は、向かいの辺の、前期と同じ位置の席に座った。鞄を置いて、顔を上げる。

 目が合った。

 日比野の目が、一瞬だけ、何かを探すように揺れた。

「……お久しぶりです」

 敬語だった。

「ええ」

 チャイムが鳴って、村瀬が入ってきた。夏休みはどうだった、と村瀬は言い、誰の返事も待たずに、後期の授業計画の説明を始めた。

 ほむらはノートを取りながら、頭の中で授業が終わったあとの手順を確かめた。

 チャイムが鳴ったら、すぐに立つ。十三人が鞄を閉めているあいだに、先に廊下に出る。扉の横の、壁の少し窪んだところで待つ。七月に、日比野がほむらを待っていたのと同じ場所だ。あそこに立てば、教室から出てくる人間の顔が全部見える。

 九十分が、いつもより長かった。

 村瀬が、それでは来週、と言った。

 ほむらはノートを閉じるより先に立ち上がった。ペンケースと一緒に鞄に押し込み、扉を開けて、廊下に出た。

 扉の横の窪みには、先客がいた。

 女子学生だった。ショートカットの髪に、日焼けした腕。細身のジーンズに、スニーカー。壁に背中を預けて、携帯を見ていた。

 ほむらの足が止まった。

 見覚えがあった。八月の最初の土曜日、花火大会の人混みの中で、日比野の袖を引いた女子だった。

 向こうが顔を上げた。

 目が合った。

 向こうもほむらを覚えていたらしい。一瞬だけ、目が大きくなった。それから、ほむらの髪を見て、顔を見て、もう一度目を見た。測るような視線だ。長くはない。女子学生はすぐに携帯の画面へ視線を戻した。

 背後で、教室の扉が開いた。

「航!」

 女子学生が壁から背中を離して、手を振った。

「二食行こ。今日、限定の親子丼あるって」

 ほむらの横を白い半袖のシャツがすり抜けて、女子学生の前で止まった。

「え、なんでいんの」

 日比野の声だ。タメ口だった。

「先輩が、航は木曜二限ここだって。待ってたんだから感謝して」

「頼んでないし」

「ひどっ。合宿のとき、飯おごるって言ったの誰よ」

「……それは、言った」

 日比野は観念したように肩を落とした。女子学生が笑って、日比野の腕を軽く叩いた。

 日比野が振り返った。

 ほむらを見た。

 日比野の顔から、表情が一瞬抜け落ちた。口が小さく開いた。何かを言いかけて、言葉が喉のどこかで引っかかったような開き方だった。

 女子学生が、日比野の視線の先を追った。ほむらを見て、日比野を見た。

 ほむらは踵を返した。

 階段のほうへ歩いた。背後で、日比野が何か言ったような気がした。人の名前のような、短い音だった。振り返らなかった。階段を下りた。三階を過ぎ、二階を過ぎ、一階の出口を出た。

 外に出ると、九月の終わりの日差しが、まだ夏の強さで照りつけていた。

 

    *

 

 第二食堂へ下りる階段の前を、ほむらは通り過ぎた。

 足がそちらへ向かなかった。階段の下では、今ごろ券売機の前に列ができていて、その列の中に、白い半袖のシャツと、日焼けしたショートカットの髪が並んでいるはずだった。限定の親子丼の食券を、どちらかがどちらかの分まで買っているのかもしれない。合宿のとき、飯おごるって言ったの誰よ。

 正門の近くのコンビニに入った。

 棚の前で、何を買うのかを考えなかった。手に取ったおにぎりは、鮭と昆布だった。レジで温めますかと訊かれて、いいえ、と答えた。

 銀杏並木の下のベンチに座って、おにぎりの包装を剥がした。

 海苔が少し湿っていた。鮭は塩が効いている。今日の、どうだった、と頭の中で誰かが訊いた。だいたい同じよ、とほむらは答えた。四月から何度も言ってきた答えが、今日は少しだけ嘘に近かった。

 おにぎりを半分食べたところで、手が止まった。

 航、とあの女子学生は呼んだ。日比野はタメ口で答えた。頼んでないし、と言った。合宿でおごる約束をしていた。

 あの二人は、何なのか。

 ほむらはそれを知らなかった。知る手段もない。サークルの仲間なのかもしれない。それ以上なのかもしれない。どちらとも判断できる材料が、手の中に同じだけあった。

 判断を保留しようとした。四月から、日比野については何度もそうしてきた。

 今日はうまくいかなかった。保留の棚に載せようとするたびに、航、という声がその棚から滑り落ちる。

 そこで、手の中のおにぎりが急に重くなった。

 八月の最初の土曜日、日比野は人混みの向こうから、同じものを見ていたのだ。ほむらの隣に立つ誰か。その誰かから受け取った何か。名前も、関係もわからない。ただそこにいるという事実だけ。

 日比野はあの夜、何も訊かなかった。こんばんは、と言って、楽しんでください、と言って、人混みに戻っていった。

 今、ほむらも、何も訊かずに階段を下りてきた。

 同じなのだ。立っている場所が入れ替わっただけだ。

 四十一日前、マミは言った。誤解って、放っておくと固まるのよ。

 ほむらは残りのおにぎりを口に押し込んだ。昆布のほうは開けずに鞄に入れた。三限の講義が始まるまで、ベンチから立たなかった。

 

    *

 

 その夜、マミの部屋には七時少し前に五人が揃った。

 お茶会ではなく、夕飯だ。九月の模試の結果が出たから、とマミが声を掛けたのだ。まどかの労いと、さやかの前期試験の打ち上げと、杏子の胃袋のため、と言って、マミは台所で三時間かけて煮込み料理を作っていた。

 ダイニングテーブルには、牛すね肉の赤ワイン煮と、バゲットと、根菜のサラダが並んでいた。

「いただきます」

 五つの声が揃った。

「見て見て見て」

 さやかがスプーンを置くより先に、携帯の画面をテーブルの中央に突き出した。前期の成績の画面だ。

「全部通った! 解剖学も! 骨、二百六個、覚えきったんだから」

「すごいじゃない、美樹さん」

「マミさんのおかげです! あと、恭介の毎晩の電話のおかげ」

「それは恋愛の力じゃなくて、カードを読んだ杏子の力だと思うわ」

 ほむらが赤ワイン煮を口に運びながら言った。

「ほむらって、ほんっとに夢がないわね」

 さやかは唇を尖らせたが、すぐにまた笑った。

「あとね、恭介、コンクールで入賞したの。二位。本人は一位じゃなかったって落ち込んでるけど、あたしは二位でもじゅうぶんすごいと思うのよ」

「さやかちゃん、それ、今日の本題より嬉しそう」

「当たり前でしょ!」

 まどかは自分の成績表を、少し恥ずかしそうに、ほむらのほうへ差し出した。

「わたしも、数学、B判定からA判定になったよ。確率のところ、全部取れたの」

 ほむらは成績表の数字を見た。第一志望の欄に、見滝原大学の名前と、教育学部の文字があった。その横に、Aという文字が一つ、印字されている。

「ほむらちゃんの図のおかげ。条件が付いたら、全体を数え直す」

 まどかは、ほむらの言葉を一字一句違えずに暗唱した。

「……よかったわ」

 ほむらは言った。

 まどかの顔がぱっと明るくなった。七月の夕方、確率の問題が解けたときと同じ顔だった。人の顔が変わるところを見るのが好きだった、と言った誰かの声が、赤ワイン煮の湯気の向こうから聞こえた気がした。

 杏子は二杯目の赤ワイン煮をよそいに立ち、戻ってきて、三つ目のバゲットに手を伸ばした。

「マミ、これ、うめえ」

「ありがとう、佐倉さん。……それでね」

 マミはスプーンを置いた。

 テーブルの全員がマミを見た。食事の途中でスプーンが置かれることは、この部屋ではめったにない。

「私も、少しだけ報告があるの」

 マミの頬に、見慣れた色がのぼった。

「先輩と、お付き合いすることになったわ」

 一秒の沈黙のあと、さやかが椅子から立ち上がった。

「きゃーっ! マミさん! マミさん!」

「美樹さん、座って……」

「座れませんって! いつですか!? どっちから!?」

「……先週の土曜日に。先輩から」

「うわああ」

 まどかは両手を胸の前で組んで、目を潤ませていた。杏子はバゲットをくわえたまま、へえ、よかったじゃん、と言った。同じ部屋に住んでいるのに、杏子は知らなかったらしい。あるいは知っていて、黙っていたのかもしれない。

 ほむらはマミを見ていた。

 別の周で、この部屋のマミは一人だった。紅茶を淹れるのも、ケーキを焼くのも、魔女を狩るのも、一人だった。誰にも頼れずに、最初の一週間でいなくなった周もある。その部屋のテーブルに、今、五人分の皿が並んでいる。そしてマミは、六人目の話をして、頬を染めている。

「おめでとう」

 ほむらが言うと、マミは少し驚いたようにほむらを見た。それから、ありがとう、と言って微笑んだ。

 その微笑みが、一瞬だけ、ほむらの顔の上で止まった。何かを確かめるような目だった。

 

    *

 

 食器を片付けるとき、マミはほむらにだけ声を掛けた。

「暁美さん、デザート、一緒に運んでもらえるかしら」

 台所は、リビングから少し奥まったところにあった。カウンター越しに、さやかとまどかの笑い声と、杏子がさやかに何か言い返す声が聞こえてくる。

 マミは冷蔵庫から洋梨のタルトを出した。ナイフを湯で温めてから、切り分けはじめる。刃がタルト生地を割る、小さな音がした。

「今日だったのでしょう」

 マミはナイフを動かしながら言った。

「後期の、最初の授業」

「ええ」

「話せた?」

 ほむらは皿を並べる手を止めなかった。

「話せなかったわ」

 マミのナイフが、一瞬だけ止まった。すぐにまた動きだした。

「……何か、あったのね」

 ほむらは話した。授業の前に決めていた手順。扉の横の窪み。そこにいた女子学生が、花火の夜に日比野の袖を引いた女子だったこと。航、という呼び方。タメ口。合宿でおごる約束。日比野が振り返ってほむらを見て、言葉が喉に引っかかった顔をしたこと。自分が踵を返して、階段を下りたこと。

 コンビニのおにぎりのことは、言わなかった。

 マミはタルトを切り終えて、ナイフを流しに置いた。それから、ほむらのほうに向き直った。

「誘おうと思っていたのね。お昼に」

「思っていたわ」

「でも、誘えなかった」

「誘えなかったわ」

 ほむらはマミの言葉を繰り返した。ほかに言えることがなかった。

 マミは少しのあいだ、ナイフの刃先を見ていた。リビングから、さやかの笑い声がまた聞こえた。

「暁美さん」

 マミは静かに言った。

「その女の子が誰なのか、暁美さんは知らないのよね」

「知らないわ」

「日比野くんに、訊いてもいない」

「訊いていないわ」

「……それ、どこかで聞いた話じゃないかしら」

 ほむらは顔を上げた。

 マミは、困ったように少しだけ笑っていた。

「花火の夜の日比野くんと同じ場所に、暁美さんが立っているわ」

 ベンチの上で、ほむらが自分で行き着いた結論だった。同じ結論をマミの口から聞くと、それは急に動かしがたいものになった。

「知っているわ」

 ほむらは言った。

「昼に、そう思ったの」

「そう」

 マミは頷いた。

「じゃあ暁美さんは、あの夜の日比野くんの気持ちが、少しわかったのね」

 ほむらは答えなかった。

 わかった、とは言いたくなかった。わかった、と言えば、自分が今日、階段を下りながら感じていたものに、名前が付いてしまう気がした。

 マミはそれ以上は言わなかった。タルトの皿を二枚、ほむらの手に載せた。

「来週も、木曜日はあるわ」

「ええ」

「来週は、扉の横で待つより、教室の中で声を掛けたほうがいいかもしれないわね。誰かに先を越されないように」

 マミはそう言って、残りの三枚の皿を持った。

「それと、暁美さん」

 リビングへ向かいかけて、マミは振り返った。

「九月までに考えておくといいって、言ったでしょう。どうして誤解を解きたいのか」

「……ええ」

「答え、出た?」

 ほむらは手の中のタルトの皿を見た。洋梨の薄切りが、扇の形に並んでいた。

「まだよ」

「そう」

 マミは微笑んだ。

「でも、今日のお昼は、答えに少し近づいたんじゃないかしら」

 それだけ言って、マミはリビングへ戻っていった。

 ほむらは台所に一人で立っていた。カウンターの向こうで、杏子が、タルトでけえ、と言う声がした。まどかが、マミさんのタルト大好き、と言った。

 ほむらは手の中の二枚の皿を持ち直した。一枚は自分の分で、もう一枚はまどかの分。

 リビングに戻ると、まどかがこちらを見ていた。何かを言いたそうな顔だった。言わずに、ほむらの手からタルトの皿を一枚、両手で受け取った。

「……ありがとう、ほむらちゃん」

 まどかはタルトにフォークを入れた。ほむらも自分の分を食べた。

 洋梨は甘い。カスタードは、少しだけ洋酒の香りがした。マミの味だ。舌の上で、世界の輪郭が少しだけはっきりする。

 輪郭がはっきりした世界の中で、航、という声が、まだ耳の奥に残っていた。

 

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