魔法少女たちの恋(魔法少女まどか☆マギカ) 作:LongLong
第五話 有名
翌週の木曜日、ほむらは十時五分に四一二教室に入った。
授業が始まるまで二十五分ある。教室には、まだ誰もいない。蛍光灯も点いていない。南向きの窓から入る光だけで、長机の天板が白く光っている。
窓際の角の席に鞄を置いて、座らずに立った。
扉の横の窪みでは待たない、と決めていた。先週、そこには先客がいたのだ。今週もいるかもしれない。教室の中なら、日比野がここに入ってくるまで、誰も間に割って入れない。
来週は、扉の横で待つより、教室の中で声を掛けたほうがいいかもしれないわね、とマミは言った。誰かに先を越されないように、とも。
十時十二分、廊下に足音がした。
扉が開いた。
日比野だった。白い半袖のシャツに、リュックを片方の肩に掛けている。教室の中にほむらがいるのを見て、扉の取っ手に手を掛けたまま止まった。
「……あ」
いつもの日比野なら、この時間には来ない。前期も、先週も、開始の一分前か、ちょうどに入ってきていた。
「おはよう、ございます」
日比野は言葉の途中で一度区切った。
「早いですね」
「あなたもよ」
日比野は少し困ったような顔をした。それでも向かいの辺の自分の席へは行かずに、扉の近くに立っている。ほむらとのあいだには、長机の角が一つあるだけだ。
言うことは、先週決めたものと同じだった。事実を順番に並べる。それから、昼食に誘う。
先週は、並べる順番まで決めていた。今週は、先に誘うことにした。約束さえ取りつければ、残りは食堂で話せる。途中で誰かが来ても、約束だけは残る。四十一日を数えたあとで、ほむらが自分で組み直した手順だった。
「話したいことがあるの」
日比野の顔から、笑いが消えた。
「お昼、一緒にどうかしら」
日比野はすぐには答えなかった。
ズボンのポケットから、携帯を半分だけ引き出した。画面をちらりと見る。一秒か、二秒。何が表示されていたのかは、ほむらの位置からは見えなかった。
日比野は携帯をポケットに戻した。
「……行く」
それから、少しだけ声を落とした。
「俺も、行きたかった」
タメ口だ。ファミレスのボックス席で四十分だけ続いて、そのあと二か月、ほむらに向けては一度も戻ってこなかった口調だ。
「俺も、話したいことあって。先週、ちゃんと……」
廊下にまた足音がした。二人、三人。扉が開いて、同じゼミの女子学生が二人、おはよー、と言いながら入ってきた。日比野は口を閉じた。
「……あとで」
日比野はそう言って、向かいの辺の自分の席へ歩いていった。
*
九十分のあいだに、村瀬は夏休みのレポートを返却した。
一人ずつ名前を呼ばれて、教卓まで取りに行く。ほむらのレポートは四千字ちょうどで、評価の欄にはAとあった。その下に、村瀬の赤いペンで、短い講評が添えられている。
論の運びは明晰。引用も的確。ただ、あなた自身がこの作品をどう読んだのかが、最後まで見えませんでした。次は、そこを書いてください。
ほむらはその赤い字を見ていた。
作品の構造を分析し、先行研究を三つ引いて、三つの読みのあいだにある矛盾を整理した。どこにも誤りはないはずなのだ。誤りがないことと、自分の読みがあることは、別のことらしい。
何十周ものあいだ、ほむらは手順を組み、手順をなぞってきた。どの手順も、正しいかどうかで選んできた。その手順を選んだ自分がどう感じていたのかを、誰かに書けと言われたことは一度もない。
レポートを鞄にしまって、顔を上げた。
向かいの辺で、日比野が自分のレポートに目を落としていた。眉を寄せて、赤いペンの講評を指でなぞっている。それから、顔を上げた。
目が合った。
日比野は自分のレポートの評価欄を指で隠して、少し笑った。
ほむらは、自分の口元がほんのわずかに緩んだのを感じた。
*
十二時十分にチャイムが鳴った。
ほむらが立ち上がると、日比野も立ち上がっていた。二人はほかの学生たちより先に教室を出た。扉の横の窪みには誰もいない。
階段を下りながら、日比野は何も喋らなかった。ほむらも喋らなかった。二人分の足音が、人文棟の階段に交互に響く。
第二食堂は、いつもどおり混んでいた。
券売機の前で、ほむらは財布を出した。日比野が自分の財布を出すより先に、硬貨を入れる。かけうどんと、日替わり定食。食券が二枚、取り出し口に落ちた。
「え、ちょ」
日比野が慌てて自分の財布を開けた。
「俺の分、払います。……払う」
「誘ったのは、私よ」
日比野の手が止まった。
七月のファミレスのレジの前で、誘ったの俺なんで、と日比野は言った。ほむらは、借りになるわ、と言ってそれを断った。
日比野は開いた財布を手に、少しのあいだほむらを見ていた。それから、声を出して笑った。
「それ、俺の台詞」
「知っているわ」
日比野は財布をしまって、食券を受け取った。
窓際の長机に、並んだ二つの空席があった。四月から何度も座った席だ。夏休み前の最後の木曜には、ほむらはそこに一人で座った。
今日は二人で腰を下ろして、食べはじめた。
日比野は日替わりの鶏の照り焼きを一口食べて箸を置き、ほむらを見た。
「話って」
ほむらは丼から顔を上げた。
言うことは、花火の夜からずっと同じだ。並べる順番も決まっている。
「花火の日」
日比野の肩がわずかに固くなった。
「一緒にいた人は、友達の恋人よ」
日比野が瞬きをした。
「美樹さやかという友達がいるの。看護の大学の一年生。その子の恋人で、私とも中学の同級生だった人。あの日は六人で行ったわ。友達が四人と、その恋人と、私。じゃんけんで負けて、あの人と買い出しに行ったの。さやかも一緒だったけれど、途中で大学の知り合いに会って、離れていた。ラムネは、持つのを頼まれただけ」
日比野は黙って聞いていた。
「七月に、ファミレスで、一緒に行きたい人がいると言ったわね」
「……うん」
「あれは、まどかのこと。鹿目まどか。中学からの友達で、女の子よ。六月に、一緒に行こうと話していたの。火曜と木曜と土曜に夕飯を食べに来るのも、その子」
日比野の口が、少しだけ開いた。
「言葉が、足りなかったわ。ごめんなさい」
ほむらは頭を下げた。
「それと、ずっと言えなかった。夏休みのあいだも、先週も。ごめんなさい」
顔を上げると、日比野は箸を持った手を宙に浮かせていた。
長い息が、日比野の口から漏れた。肺の底から全部を吐き出すような息だ。吐き終えると、日比野は長机の上に額を付けそうなほど、深く俯いた。
「……よかった」
顔を上げずに、日比野は言った。
「よかった、ほんとに。俺、ずっと……」
日比野は顔を上げた。日焼けした顔が、少し赤くなっている。
「長野で蕎麦運びながら、ずっとそればっか考えてて。あの人が、暁美さんの一緒に行きたかった人なんだろうなって。ラムネ渡してたし。背高いし。なんか、ちゃんとした人っぽかったし」
「ちゃんとした人ではあるわ」
「そういうこと言わないで」
日比野はまた笑った。その顔が泣きそうに歪んで、日比野はそれをごまかすように照り焼きを口に入れた。
「てか、夕飯食べに来る人って、女の子だったんだ。火曜と木曜と土曜って聞いて、俺、てっきり」
「てっきり」
「……いや、なんでもない」
日比野は白飯を口に運んだ。
ほむらはうどんを啜った。
出汁の味がした。いつもより、少しだけ濃く感じる。たぶん、気のせいだろう。先週の銀杏並木のベンチで、コンビニのおにぎりの塩気がやけに舌に残ったのとは、逆の向きの感じ方だった。
胸の中にあった石は、どこにもない。八月の初めから毎朝確かめてきた重さが、今は、確かめようとしても指に触れない。代わりに、身体が軽すぎて、椅子の上で落ち着かなかった。
「あのさ」
日比野が箸を置いた。
「俺も話したいことあるって、言ったじゃん」
「ええ」
「先週の、授業のあとのこと。あれ、あいつは……」
「航!」
背後から、声がした。
日比野の顔が、ぎくりと固まった。
振り向くと、配膳口のほうから、ショートカットの女子学生がトレーを持って歩いてくるところだった。トレーの上には親子丼が載っている。
女子学生は迷わずに日比野の隣の空席にトレーを置いて、座った。
「いたいた。探したんだから。メッセージ、既読付いてんのに返事ないし」
「……桐谷」
日比野が低い声で言った。
桐谷と呼ばれた女子学生は、日比野の声の低さには構わずに、向かいのほむらを見た。
名乗るつもりで、ほむらは口を開きかけた。
「暁美さんだよね」
先に桐谷が言った。
「知ってる。有名だもん」
ほむらの口が、そこで止まった。
「髪の長い、すごい美人の一年って言ったら、うちの学部で知らない人いないよ。先輩たちも、航がファミレスで暁美さんと――」
「桐谷」
日比野が、さっきより強い声で言った。
「はいはい、言わない言わない」
桐谷は軽く手を振った。それから、ほむらに向かって、にっこり笑った。
「桐谷奈央。航と同じワンゲル。よろしくね」
「……暁美ほむらよ」
「知ってるって」
桐谷はまた笑った。
有名、とほむらは頭の中で繰り返した。
何十周ものあいだ、ほむらの名前は、一か月ごとに誰の記憶からも消えた。転校生として黒板の前に立ち、名前を書き、名前を呼ばれ、一か月かけて少しずつ誰かに覚えられて、そして嵐の日のあとで、全部が最初に戻る。病院のベッドで目を覚ましたとき、ほむらの名前を知っている人間は、この世界にほむら自身しかいなかった。
それが今は、会ったこともない人間に、先に名前を呼ばれている。
どこかで喜んでいいことのはずだった。それなのに、喜べない。喜ぶ前に、別の考えが割り込んできたからだ。
目に留まったのは、髪の長い一年ではないのかもしれない。日比野の隣にいる、髪の長い一年なのかもしれない。
桐谷は親子丼を三口で半分ほど食べた。それから箸を置いて、日比野の腕を叩いた。
「てか航、今日ミーティングだよ。十二時四十分から部室。秋合宿の班決め。忘れてたでしょ」
「……あ」
「あ、じゃないよ。班長やりたいって言ってたの誰よ」
日比野はほむらを見た。それから、自分のトレーの上の、まだ半分残っている日替わり定食を見た。
日比野は残っていた照り焼きと白飯を、四口で片付けた。味噌汁を一息で飲んだ。桐谷が、うわ、と言った。
「ごちそうさま。……暁美さん、ごちそうさまでした」
日比野はほむらに頭を下げた。敬語が、少しだけ混じっている。
「ごめん。話の途中なのに」
「いいわ」
「ほんとごめん。続き、また。メッセージする。絶対」
日比野はトレーを持って立ち上がった。桐谷も、半分残った親子丼を手早くかき込んで立った。
二人が並んで返却口へ向かいかけたとき、桐谷が一度だけ振り返った。
ほむらを見た。
一秒もない。そこに笑顔はなかった。
ほむらは、その目を、自分の知っている目と照らし合わせた。
魔女の目は、もっと平らだ。そこにあるものをただ壊そうとするだけで、相手の顔など見ていない。キュゥべえの目は、何も映していない。その空っぽを、隠そうともしない。別の周で、銃口越しに向き合った魔法少女たちの目は、もっと熱かった。あるいは、もっと冷たかった。どちらにしても、相手を同じ高さに置いて測っていた。
桐谷の目は、そのどれとも違っていた。
壊そうとはしていない。測ってもいない。自分より高いところにある何かを、下から睨み上げるような目なのだ。睨み上げながら、その手は、日比野の袖を掴んでいる。
敵意、という言葉が、いちばん近かった。ただ、それと同じではない気がした。
桐谷は前を向いた。日比野の袖を引いて、返却口の人混みの中へ入っていく。白いシャツとショートカットの頭が、階段のほうへ遠ざかっていった。
*
窓際の長机に、ほむらは一人で残った。
向かいの席には、日比野のトレーの跡が、うっすらと水の輪になって残っている。隣の席には、桐谷の座っていた温度が、まだ椅子に残っているのかもしれない。
ほむらはうどんの残りを食べた。
冷めかけている。出汁の濃さは、さっきと変わらない。
話せた。
花火の夜から二か月近くかけて、ようやく話せた。事実を順番に並べて、二度頭を下げた。日比野は、よかった、と言った。肺の底から息を吐いて、額を机に付けそうになった。石はなくなった。
そのなくなった石の場所に、別のものが置かれていた。
石よりもずっと軽い。それなのに、指で触れようとすると、形がはっきりしなかった。
航、とあの子は呼んだ。日比野は、桐谷、と呼んだ。既読を無視されても探しに来た。日比野の隣の席に、迷わずにトレーを置いた。班長をやりたがっていたことを知っていた。最後に、日比野の袖を引いた。
あいつは、と日比野は言いかけた。その続きより先に、本人が来た。
あいつは、何なのか。
日比野の話したかったことが、その続きだったのかどうかも、ほむらは知らなかった。
テーブルの上で、携帯が震えた。
日比野かと思った。画面を見ると、まどかだった。
『どうだった?』
それだけだ。今日が木曜日で、今日が何の日なのかを、まどかは知っていた。ほむらは話していない。マミから聞いたのだろう。予備校は、昼休みの時間だろう。
ほむらは画面を見つめた。どう答えればいいのかを、少しだけ考えた。
『話せたわ』
送信した。
返信はすぐに来た。
『よかったね』
十秒も経っていない。
七月の木曜日、夕飯を作れないと送ったときも、まどかの返信は十秒で来た。あのとき、ほむらは早すぎると思った。今日も、同じことを思った。
話せた、は嘘ではない。ただ、全部でもない。桐谷奈央という名前も、あの目のことも、その短い返事には入っていない。
ほむらは携帯を伏せた。空になった丼をトレーに載せて、立ち上がった。
返却口に丼を置くとき、隣に、日比野と桐谷が返したトレーが重ねてあった。日比野のトレーの皿は、米粒一つ残さず空になっていた。桐谷の丼の底には、親子丼の玉ねぎが残っていた。
ほむらは自分のトレーを、その上に重ねた。
*
三限のあと、図書館の前の広場を横切ろうとしたところで、名前を呼ばれた。
「暁美さん」
振り向くと、マミが立っていた。
薄い藤色のカーディガンに、ベージュのスカート。両腕に分厚い本を三冊抱えている。マミの隣には、背の高い男子学生が一人立っていた。細い銀縁の眼鏡を掛けていて、マミの抱えている本と同じ装丁の本を、もう二冊持っていた。
マミの頬が、見る間に色づいていった。
「あ、あの、こちら、研究会の先輩で。……先輩、こちらが、暁美さんです。いつもお話ししている」
「ああ」
先輩は穏やかに目を細めて、ほむらに軽く頭を下げた。
「巴さんから、よく話を聞いています。とても頼りになる後輩だって」
「……そう」
ほむらはマミを見た。マミはほむらの視線を受けて、ますます赤くなった。頼りになる、とマミが自分のことを話していたのは、ほむらには初めて聞く話だった。
先輩が持っている本の背表紙に、紅茶の歴史、という文字が見えた。もう一冊は、茶の産地の地図らしい。ゼミの発表の準備なのだと、マミが早口で付け加えた。先輩はそれを聞いて、少し可笑しそうに笑った。
ほむらは二人の立ち方を見ていた。
マミの左手が、先輩の右の袖の、すぐそばにあった。触れてはいない。その手前の、指一本分くらいの距離で止まっている。マミ本人は、そこに自分の手があることに気づいていないようだった。
さっき、第二食堂の返却口へ向かう途中で、桐谷は日比野の袖を掴んでいた。指一本分の距離など、なかったのだ。
「暁美さんも、図書館?」
「レポートの、次の資料を」
「そう。……あの、先輩、少しだけ」
マミは先輩に断ってから、ほむらの横まで来た。抱えた本で口元を隠すようにして、小声で言った。
「話せた?」
ほむらはマミの顔を見た。花火の夜の皿洗いで、暁美さんの隣に立つ男の子を少しだけ見てみたいわ、とマミは言った。今、見る側に立っているのは、ほむらのほうだ。
「話せたわ」
マミの顔が、ぱっとほどけた。
「よかった」
それだけ言って、マミは先輩のところへ戻っていった。二人で並んで、図書館の自動扉の向こうへ入っていく。先輩が扉の前で一歩下がって、マミを先に通した。
ほむらは広場に立って、閉まっていく自動扉を見ていた。
マミが一人だった周を、ほむらは知っている。紅茶を淹れるのも、ケーキを焼くのも、一人だった周を。その巴マミが、今、誰かに扉を押さえてもらって、本を抱えて、先に通っていった。
それをよかったと思う気持ちは、まっすぐにほむらの中にあった。昼の第二食堂で置かれた、形のはっきりしない軽いものとは、まったく別の場所に。
*
その夜の夕飯は、豚の生姜焼きにした。
まどかは予備校から直接来て、玄関で「おじゃまします」と言った。もう言い直すことはない。四月からの半年で、まどかの「ただいま」は、どこかへしまわれたらしかった。
まどかは一杯目の白飯を、ゆっくり食べた。生姜焼きを一切れ口に入れて、少し考えるような顔をした。
「今日のは、しょっぱくないね」
「八月のは、焦げていたわ」
「焦げてたのは、お魚だよ。生姜焼きは、七月にちょっとだけしょっぱかったの」
ほむらは、七月に生姜焼きを作ったかどうかを思い出そうとした。記憶のどこにも、その皿はなかった。まどかのほうが、よく覚えているらしい。
「お昼……ちゃんと、話せたんだね」
まどかは箸を止めずに言った。目は、ほむらのほうを向いていない。
「ええ」
「よかった」
まどかはそれ以上は訊かなかった。生姜焼きの最後の一切れを、ほむらの皿とのあいだで一瞬迷ってから、ほむらの皿のほうへ載せた。
「ほむらちゃん、今日あんまり食べてないから」
「食べたわ」
「ううん。お茶碗、まだ半分残ってるよ」
ほむらは自分の茶碗を見た。まどかの言うとおりだ。
*
食器を下げたあと、ダイニングテーブルに数学の問題集を広げた。
まどかは数列の単元で手が止まっていた。漸化式の問題だ。前の項から次の項が決まっていく。最初の一つが決まれば、あとは全部決まる。
「一つ前を見れば、次がわかるの。ここに書いてあるのは、その決まり方だけ」
「一つ前を、見れば……」
まどかが余白に式を書きはじめたとき、テーブルの端で、ほむらの携帯が震えた。
八時五十分。
ほむらは画面を見た。日比野だった。
『今日はほんとにごめん。話、途中で切れちゃって』
『あのあとミーティングで班長決まった。俺になった』
『それはどうでもよくて』
三つの吹き出しが続けて並んでいた。ほむらが画面を見ているあいだに、四つ目が届いた。
『さっきの続き、ちゃんと話したい。昼だとまた誰か来るかもしれないから、今度、晩ご飯どうかな』
ほむらは画面を上から読み直した。
班長になった、と日比野は書いていた。班長やりたいって言ってたの誰よ、と桐谷が言っていたのを思い出した。どうでもよくて、と日比野は書いている。本当にどうでもいいのかどうかは、文字からはわからなかった。
話の続き。
あいつは、と日比野は言いかけて、言い終わらなかった。その続きが、たぶん、今度の晩ご飯の用事なのだ。
花火の夜から二か月近くかけて、ほむらは自分の用事を果たした。今度は、日比野の用事なのだ。
断る理由を、ほむらは探さなかった。探す前に、指が入力欄に触れていた。
『行くわ』
打って、送信の手前で止まった。
顔を上げた。
向かいで、まどかがこちらを見ていた。
シャープペンシルは問題集の上に置かれていた。式の続きは、書かれていない。まどかは頬杖をついて、ほむらを見て、少しだけ笑っていた。
「……何かしら」
「ううん」
まどかは首を小さく横に振った。
「ほむらちゃん……顔、ちょっとゆるんでるよ」
「ゆるんでいないわ」
「ゆるんでるよ。さっきから、画面見て、口のところ、ちょっとだけ動いてた」
ほむらは自分の口元に手をやりかけて、やめた。
まどかはシャープペンシルを取り直して、問題集に目を落とした。式の続きを一行書いた。書きながら、何でもないことのように言った。
「そういえば……マミさんのごはん、また食べたいな」
「巴マミの」
「うん。この前の赤ワイン煮、すごくおいしかったし。マミさん、先輩とお付き合いしはじめてから、お料理、もっと上手になった気がするの。来週あたり、お願いしてみようかな」
まどかは問題集から顔を上げずに言った。
来週あたり、とまどかは言った。ほむらはまだ、日比野に返事をしていない。晩ご飯がいつになるのかも、決まっていない。まどかは、日付の決まっていない夜のために、先に自分の夕飯の行き先を空けていた。
ほむらはまどかの横顔を見た。まどかは問題集を見ている。シャープペンシルの先は、さっき書いた一行の終わりで止まっていた。
ほむらは画面に目を戻して、送信を押した。
『行くわ』
既読はすぐに付いた。
『よかった!!』
感嘆符が二つ付いていた。続けて、もう一つ届いた。
『暁美さん、いつ空いてる?』
ほむらは自分の予定を思い浮かべた。月曜から金曜まで、授業は四限で終わる。火曜と木曜と土曜の夜は、まどかが来る。それ以外に予定と呼べるものはない。夜に魔女が出れば外に出るが、魔女は日程を合わせてくれない。
『日比野くんの都合に合わせるわ』
送ってから、少しだけ考えた。
合わせる、と自分が書いたことに、ほむらは小さく驚いていた。前期のあいだ、昼食に誘われるたびに、行くか行かないかを決めていたのはほむらだった。日程も場所も、ほむらの都合で決まっていた。日比野が携帯に並べた店の写真を、一枚ずつ断ったのも、ほむらだった。
返事は少し間を置いて届いた。
『じゃあ、来週の土曜はどう? 講義ないし。六時半に駅前で』
土曜日。
ほむらの指が止まった。火曜と木曜と土曜の夜には、まどかが来る。そのことを、ほむらは昼の第二食堂で日比野に話したばかりだった。日比野は忘れているのかもしれない。あるいは、都合に合わせると書いたほむらの言葉を、そのまま信じたのかもしれない。
顔を上げると、まどかはもう問題集から目を上げていた。
「いつになったの?」
「……来週の、土曜」
「土曜日なら、ちょうどよかった」
まどかは、すぐに言った。
「マミさんにお願いしようと思ってたの、土曜日。杏子ちゃんも、土曜ならマミさんの家にいるし」
一拍の間もない。用意してあった答えのように、まどかの口から出てきた。
ほむらは、まどかの顔を見た。
まどかは、いつもの顔で笑っている。泣き出す前の顔でも、何かを決めてしまう前の顔でもない。ほむらが何十周も見張ってきた、どの危ない顔とも違っていた。
「……ありがとう」
「え? なにが?」
まどかは首を傾げた。
「わたしが、マミさんのごはん食べたいだけだよ」
ほむらはそれ以上は言わなかった。画面に目を戻して、返事を打った。
『ええ』
打ってから、ほむらは画面を見つめた。文字にすると、ええ、はずいぶん素っ気なく見える。消そうかと思った。代わりに書く言葉が見つからなかったので、消さなかった。
日比野からは、すぐに次が届いた。
『あと、今度はファミレス以外にしよ』
『ちゃんと店探す。前みたいな蝋燭とか暖簾とかのとこじゃなくて。普通においしいとこ』
ほむらは、七月の三限のあと、日比野が携帯の画面を指で送っていたのを思い出した。蝋燭、暖簾、夕暮れのテラス。写真の中の照明は、一枚送るごとに少しずつ暗くなっていった。普通のところがいいわ、とほむらは言った。日比野はずっと上のほうまで画面を戻して、赤い看板のファミレスを指した。
日比野は、ほむらの言葉を覚えていた。蝋燭も暖簾も忘れていない。そのうえでそれを避けて、ファミレス以外の場所を探すと言っている。
普通のところがいい、という言葉が、胸の中で少し形を変えた。
七月のほむらにとって、普通のところとは、何の意味も付いていない場所のことだった。どこにでもある赤い看板。誰が座っても同じ椅子。そこに座る自分を、思い描かずに済む場所。
今度の場所には、意味が付く。日比野が探して、日比野が選んだ、という意味が。
それを嫌だとは思わなかった。
ほむらは入力欄に指を置いた。
『任せるわ』
送信した。
既読が付いて、少しして、返事が届いた。
『任された』
その下に、敬礼をしている犬のスタンプが一つ付いていた。
ほむらはそのスタンプを見ていた。犬は片方の前足を額に当てて、妙に真剣な顔をしている。
「ほむらちゃん」
向かいから、まどかの声がした。
「……さっきより、顔ゆるんでるよ」
ほむらは答えなかった。携帯を伏せて、問題集のほうへ目を戻した。
まどかの式は、三行目まで進んでいた。四行目の途中で、止まっている。一つ前を見れば、次がわかる、とほむらはさっき言った。まどかの四行目がどこで間違えているのか、ほむらには一目でわかった。けれど、それを指摘するまでに、いつもより少しだけ時間がかかった。
*
九時に、ほむらはまどかを角の信号まで送った。
十月の夜風は、もう少し冷たい。まどかは薄いカーディガンの前を合わせて、ほむらの半歩前を歩いた。信号の手前で、まどかは携帯を取り出して、何かを打った。
「マミさんに、もう言っておいたよ。土曜日のこと」
「早いわね」
「忘れないうちに、と思って」
まどかは携帯をしまって、笑った。
信号が青に変わった。まどかは、またね、と手を振って渡っていった。向こう側の歩道に着いてから、まどかは一度だけ振り返った。手を振って、それから、街灯の下を歩いていった。
ほむらはその背中が三つ目の街灯を過ぎるまで見送ってから、部屋へ戻った。
流しには、洗いかけの食器が待っている。
蛇口をひねると、水の音が部屋の静けさを少しだけ埋めた。ほむらは茶碗を一つずつ洗った。二つ目を洗っているとき、自分が何を考えているのかを、ふと確かめた。
来週の土曜日の、六時半のこと。日比野が探す店のこと。話の続きのこと。
借りのことは、一度も考えていなかった。