魔法少女たちの恋(魔法少女まどか☆マギカ) 作:LongLong
第六話 告白
土曜日の朝、ほむらはクローゼットの前に立っていた。
扉の内側の鏡に、寝間着の自分が映っている。その向こうに、ハンガーに掛かった服が並んでいる。白いシャツが四枚。黒いスカートが二枚。灰色のカーディガンと、黒いカーディガン。濃い紫のワンピースが一枚。四月の入学式で着た黒いスーツ。それで全部だった。
少しだけ、いつもと違うものを着ていこうかと思った。
けれど、手を伸ばす先がない。いつもと違うもの、というのは、このクローゼットのどこにも掛かっていなかった。白と黒と灰色と紫の中で、何を組み合わせても、いつものほむらにしかならないのだ。
紫のワンピースを、ハンガーごと取り出してみた。去年の冬、マミのお茶会に一度だけ着ていった服だった。胸の前に当てて、鏡を見る。
十月の初めに着るには、生地が厚すぎる。
ワンピースを戻した。白いシャツを一枚取り、黒いスカートを一枚取った。それを胸の前に当てて、また鏡を見た。いつものほむらだった。
玄関のチャイムが鳴った。
八時十五分。こんな時間に鳴るチャイムに、ほむらは心当たりがない。寝間着の上にカーディガンを羽織って扉を開けると、予備校の鞄を肩に掛けたまどかが立っていた。
「ごめんね、朝早くに。木曜日に、問題集、忘れちゃって」
まどかは申し訳なさそうに笑った。今日の授業で使う赤い表紙の問題集が、ダイニングテーブルの端に置きっぱなしになっていたのだ。ほむらは木曜の夜からずっとそれを見ていたのに、まどかに知らせることを思いつかなかったのだ。
「上がって」
「うん、すぐ行くから」
まどかは問題集を鞄にしまってから、廊下の奥のほうを覗いた。クローゼットの扉が開けっぱなしになっていて、白いシャツと黒いスカートが、ベッドの上に並べて置いてあった。
「……ほむらちゃん、もしかして、ずっとそこに立ってたの?」
「服を選んでいたのよ」
「お洋服?」
まどかはクローゼットの中を見た。白と黒と灰色と紫。それから、ベッドの上の白いシャツと黒いスカートを見た。
まどかの口元が、ゆっくりとほころんだ。
「今日、土曜日だもんね」
「ええ」
「……そっか」
まどかは何かを言いかけて、少しのあいだ、クローゼットの中の紫のワンピースを見ていた。それから、くすっと笑った。
「選ぶほど、ないよね。ほむらちゃんのお洋服」
「知っているわ」
まどかは口元を手で押さえて笑った。その顔のまま、玄関のほうへ戻っていく。靴を履きかけて、まどかは扉の前で一度立ち止まった。
「……今度、いっしょにお洋服見に行こ」
振り返らずに、まどかは言った。
「わたしも、着たいのあるし」
扉が開いて、また閉まった。外階段を下りていく靴の音が、二つ、三つと遠ざかっていった。
ほむらはベッドの上の白いシャツと黒いスカートを見た。いつもの服だった。これを着て、いつものほむらとして、六時半に駅前へ行く。
それで構わないはずだった。それなのに、ハンガーを戻すときの手が、少しだけ遅かった。
*
午後三時に、携帯が震えた。
ビデオ通話の着信だった。画面に、美樹さやかの名前が出ていた。ほむらが応答を押すと、画面いっぱいにさやかの顔が映った。背景に、骨格標本の写真が貼られた壁と、開きっぱなしの分厚い教科書が見える。
『ほむら! 今日でしょ!』
「何が」
『とぼけない! まどかから聞いたんだからね。土曜日、六時半、駅前』
ほむらは画面の中のさやかを見た。まどかがさやかに話したのは、たぶん木曜の夜か、金曜の朝だろう。三人で固まっていた高校の三年間で、ほむらの予定は、いつのまにか二人のあいだで共有される決まりになっていた。
『で、何着てくの』
「いつもの服よ」
『いつもの……』
さやかは一瞬固まった。それから、額に手を当てた。
『ちょっとカメラ、クローゼットに向けて』
「必要ないわ」
『いいから!』
ほむらは観念して、携帯をクローゼットのほうへ向けた。画面の中で、さやかが黙り込んだ。
『……ほむら』
「何かしら」
『これ、喪服の在庫?』
「失礼ね」
『白と黒しかないじゃない! 紫のワンピースはちょっといいけど、それ冬のやつでしょ』
さやかは教科書の上に突っ伏して、それから勢いよく顔を上げた。
『わかった、服はもういい。いつものでいい。ほむらは、いつものがいちばん似合うし。そのかわり、リップくらい塗りなさいよ』
「持っていないわ」
画面の中で、さやかの動きが止まった。
『……え?』
「持っていないの」
『一本も?』
「一本も」
さやかは両手で頭を抱えた。白衣の袖が画面の端に映った。実習の準備で、今日は白衣の試着をしていたらしい。
『ほむら……あんたって、ほんと……』
「必要がなかったのよ」
『必要とかじゃないの!』
さやかはひとしきり唸っていたが、やがて、諦めたように笑った。
『もういい。ほむらはそのままで行って。そのままで、ちゃんと帰ってきて。帰ったら、まどかにもマミさんにも、あたしにも報告すること。いい?』
「どうして、あなたに報告するのよ」
『あたしが聞きたいからに決まってるでしょ』
通話は、そこで切れた。最後まで言いたいことだけ言っていくのが、美樹さやかという人なのだろう。さやかの最後の顔は、画面の真ん中で、歯を見せて笑っていた。
ほむらは暗くなった画面を見つめた。四年前、さやかはほむらを転校生と呼んでいた。その呼び方がいつ消えたのかを、ほむらは覚えていない。消えたことに気づいたのも、ずいぶんあとになってからだ。
*
六時半に駅前へ行くと、日比野はもう来ていた。
水色の、襟のあるシャツを着ている。七月のファミレスの夜と同じシャツだ。右のこめかみの寝癖は、水で濡らして押さえた跡があって、乾いたところから少しずつ持ち上がりはじめていた。
日比野はほむらを見て、目を見開き、何も言わずに頭を掻いた。
白いシャツと、黒いスカート。いつもの服を着てきたのは自分だけだと、ほむらはそのとき知った。
「行こっか」
日比野は歩きだした。
店は、駅の反対側の、古い商店街の一本裏の通りにあった。八月にマミと入った喫茶店から、歩いて三分もかからない場所だ。
白い暖簾が掛かっていた。ほむらは暖簾を見て、それから日比野を見た。
「……暖簾だけど、蝋燭はないから」
日比野は言い訳するように言った。
「蕎麦屋。手打ちの。先輩に教えてもらって、この一週間で三回来た。三回とも、うまかった」
「三回」
「下見。……いや、下見っていうか、単に俺が食べたかっただけっていうか」
暖簾をくぐると、中は小さかった。カウンターが六席と、四人掛けのテーブルが二つ。奥の厨房から、湯の沸く音と、包丁がまな板を叩く規則正しい音が聞こえてくる。客は、カウンターに年配の男性が一人いるだけだった。
二人は奥のテーブルに向かい合って座った。
日比野は品書きを見ずに、せいろを二枚と鴨汁を一つ頼んだ。
「暁美さん、鴨、大丈夫?」
「大丈夫よ」
「じゃあ、一枚は鴨せいろで。俺は普通のせいろ」
ほむらは壁に掛かった品書きの木札を順に読んでいった。かけ、もり、ざる、せいろ、天ざる、鴨南蛮。どれも、ほむらにとってはほとんど同じものに見える。
蕎麦が来るまでのあいだ、日比野は湯呑みのお茶を二口飲んで、それから湯呑みを置いた。
「この前の、続き」
ほむらは頷いた。
「桐谷のこと」
日比野は湯呑みの縁を指でなぞった。
「ワンゲルの同期で。一年の春から、ずっと一緒に活動してて。山、いっぱい一緒に登った。……それで、夏の合宿で、告白された」
日比野は湯呑みを見ていた。
「断った」
「……そう」
「ちゃんと断った。理由も、言った。……その理由は、今日は、ちょっと言えない。あとで、言えたら言う」
日比野はそこで一度言葉を切った。ほむらは理由を確かめなかった。
「おごる約束は、合宿の前にしてたやつで。買い出しの班、代わってもらったお礼。断ったあとも、あいつ、普通にしようとしてくれてて。この前も、たぶん、普通にしようとして待ってたんだと思う。だから、俺も、無下にできなくて」
日比野は顔を上げた。
「暁美さんに変な態度とってたら、ごめん。あいつの代わりに俺が謝るのも、変だけど」
「変な態度は、とられていないわ」
ほむらは言った。事実だった。桐谷は、笑って、名乗って、日比野の袖を引いて、一度だけ振り返った。それは変な態度ではない。桐谷にとっては当たり前の態度だったのだろう、とほむらは思った。
「……そっか」
日比野はほっとしたように息を吐いた。
蕎麦が来た。
せいろの上に、細く切り揃えられた蕎麦が平たく盛られている。灰色がかった緑の麺に、細かい黒い粒が散っていた。鴨汁の椀からは、脂の浮いた湯気が立っている。
「最初、何もつけないで、一口だけ食べてみて」
日比野が言った。
ほむらは箸で数本だけ持ち上げて、口に入れた。
噛んだ。
香りが鼻の奥に抜けていった。土のような、草のような、少し甘い香りだ。噛むたびに、麺の中から何かが少しずつ滲み出てくる。
それから、鴨汁に浸して、もう一口食べた。脂の甘さと醤油の塩気と、さっきの香りが、口の中で重なった。
ほむらは箸を止めて、顔を上げた。
日比野がこちらを見ていた。自分の蕎麦には、まだ箸を付けていない。ほむらの顔を見つめて、それから、ゆっくりと笑った。何かを見届けた人の笑い方だった。今のは、日比野が半年かけて待っていた顔なのかもしれない。
蕎麦って、食べる前と後で、顔が変わるんですよ、と七月のファミレスで日比野は言った。一口目で、ちょっとだけ変わる。それを、盆を下げに行くときに見るのが好きだったのだ、と。
「……何かしら」
「なんでもない」
日比野は自分のせいろに箸を入れた。口元には、まだ笑いが残っていた。
食べ終えるまで、二人ともほとんど喋らなかった。厨房からは包丁の音が続いている。カウンターの年配の男性が、蕎麦湯を頼んだ。
せいろが空になった。日比野は店の人に蕎麦湯を二つ頼んだ。
白く濁った湯が、四角い湯桶から注がれた。日比野はそれを鴨汁の残りに注いで、ほむらの前に戻した。
「これ、最後に飲むやつ。うちの店でも、これ飲まないで帰るお客さんいたら、父ちゃんが寂しそうな顔する」
ほむらは蕎麦湯を一口飲んだ。温かい。とろりとしていて、鴨の脂の甘さが薄く伸びていた。
日比野は自分の蕎麦湯を飲みながら、ぽつりと言った。
「長野の話は、前にしたからさ。……暁美さんの話も、聞いてみたい。嫌じゃなければ」
ほむらは椀を置いた。
嫌ではなかった。自分のことを話すのは得意ではない。話せることと話せないことの境目を探しているうちに、話すべき瞬間が過ぎていく。七月のファミレスで、ほむらはそうだった。
今夜は、境目を探す前に、口が開いた。
「中学二年のときに、見滝原に来たの」
日比野の手が、椀の途中で止まった。
「それまでは、ずっと病院にいたわ。心臓の病気で。長く入院していて、学校にはほとんど通えなかった。……今は、もう治ったけれど」
嘘ではない。事実のうちの、言える部分だ。
「家族とは、離れて暮らしているわ。見滝原に来たときから、ずっと一人」
「……そうなんだ」
「転校した日に、保健室まで連れていってくれた子がいたの。保健係だったから、と言って。それが、まどか」
日比野の顔が、少しだけほどけた。
「まどかは、よく食べるわけではないけれど、私の作ったものを、絶対に残さないの。火曜と木曜と土曜に来て、九時までいて、帰っていく。それが、二月から続いているわ」
七月に、夜は無理よ、と三度言った理由を、ほむらは初めて口にした。日比野はそれに気づいたような顔をした。
「友達は、少ないわ。中学のころからの友達が、何人か。花火に行った人たち。高校では、あまり増えなかった。三人でいれば、それで足りたから」
第二食堂で、慣れてる感じですね、と言われて、高校の三年間で慣れたわ、と答えた。その三年間の中身を、少しだけ付け足した。
それで、話せることは終わりだった。
話せないことが、その後ろに長く続いていた。
中学二年の、同じひと月を、何十回繰り返したのか。その一か月の終わりに、何を何度見たのか。退院の日に病院のベッドで目を覚ますたびに、誰も自分の名前を知らない世界が始まったこと。眼鏡と三つ編みの少女を、自分の手で一枚ずつ剥がして、今の顔を貼ったこと。
この指の指輪が何なのか。夜ごとの結界のこと。盾の中に何が入っているのか。
四年前の空の、最後の光が、誰の手から放たれたのか。
そして、そのすべてが、たった一人のためだったこと。
ほむらはそれを一つも口にしなかった。そのための言葉を、そもそも持っていないのだ。
日比野は少しのあいだ、湯呑みのほうに目を落としていた。
一つ目の質問が来るのを、ほむらは待った。どうして、家族と離れて。人はここで、必ず一つ目を訊く。
日比野は訊かなかった。
「……話してくれて、ありがとう」
それだけ言った。
それから、蕎麦湯の残りを飲み干して、湯呑みにお茶を注ぎ足し、ぽつりと付け加えた。
「鹿目さんに、今度、会ってみたいな。暁美さんが、ご飯作ってる人」
ほむらは日比野を見た。
訊かれなかった一つ目の質問が、テーブルの上に置き去りにされていた。日比野はそれを拾わずに、別の話を置いた。ほむらが話したことのうち、いちばん明るいところを選んで。
*
店を出ると、日比野は、もう一軒行かないかと言った。
駅前の、緑の看板のコーヒーチェーンだった。全国のどこにでもある店。ファミレスと同じくらい、何の意味も付いていない場所のはずだった。
中に入ると、カウンターの上に、細かい字でびっしりと飲み物の名前が書かれたメニューが掲げられていた。サイズの名前が、ほむらの知らない単語で並んでいる。
「……暁美さん、もしかして、ここ初めて?」
「初めてよ」
何十周のどの一か月にも、こういう店に入る用事はなかった。入る時間があれば、次の手順を一つ確かめていた。
日比野は口元を押さえて笑いをこらえたが、肩が揺れていた。
「じゃあ、俺が頼んでもいい? 甘いの、平気?」
「平気よ」
日比野が注文したのは、自分にはキャラメルの何か、ほむらにはほうじ茶のラテだった。店員がほむらの顔を二度見してから、カップに名前を書いていいかと訊いた。日比野が、アケミで、と答えた。
窓際の、二人掛けの小さなテーブルに座った。
ほうじ茶のラテは、甘くて、温かくて、香ばしかった。蕎麦の香りとは違う種類の、焦げたような香りがする。焦げたところは悪くない。
日比野はカップを両手で包んでいた。
一口も飲んでいない。
カップの紙のスリーブを、指先で少しずつずらしている。上に、下に。ずらし終えると、今度はカップの蓋の飲み口を指の腹でなぞった。それから、右のこめかみの寝癖を押さえた。その手を下ろして、またスリーブをずらした。
窓の外を、土曜の夜の人の流れが、駅のほうへ流れていった。
日比野は何度か口を開きかけて、閉じた。
ほむらはラテを飲みながら待った。ファミレスの夜、ドリンクバーに三回立って、三回目は何も持たずに戻ってきた日比野を思い出した。あの夜よりも、今夜のほうがずっと落ち着きがない。
十分ほどが過ぎた。
日比野のキャラメルの飲み物は、一口も減っていなかった。表面のクリームが、少しずつ溶けて沈んでいく。
「……暁美さん」
日比野がカップから手を離した。
テーブルの上に両手を置いて、指を組んだ。ファミレスのボックス席で、花火に誘ったときと同じ組み方だった。指の関節が、白くなっている。
「さっき、桐谷を断った理由、あとで言えたら言うって、言ったじゃん」
「ええ」
「好きな人がいるって、言ったんだ」
日比野は組んだ指を見ていた。
それから、顔を上げた。
「暁美さんのことが、好きです」
敬語だ。
「四月から、ずっと。……付き合って、ください」
窓の外の人の流れが、急に遠くなった。店内の音楽も、隣のテーブルの話し声も、エスプレッソのマシンの蒸気の音も、どこか壁の向こうへ下がっていった。
目の前に、日比野の顔があった。
日焼けした顔が、首まで赤くなっている。目は逸らされていなかった。四月の最初の木曜日、どこへも逃げなかった目だ。七月に一度、髪と目で止まって、それから二度と止まらなくなった目だ。
好きだと、言われた。
ほむらはその言葉を、頭の中で持ち上げようとした。そのまま、どこかの棚に置こうとした。借りの棚でもなく、保留の棚でもない、どこか別の棚に。
置く場所が見つからなかった。
代わりに、手の中の温かいカップの感触が、急にはっきりした。自分の指の指輪が、カップの紙越しに当たっていた。
この人は知らない。
何十周もの一か月のことを。この手が何を撃ってきたのかを。この身体が、指輪に収まった石に動かされている入れ物にすぎないことを。四年前の空の、最後の光がどこから来たのかを。ほむらという人間が、たった一人のために作り直されてきたことを。
知らない人間が、好きだと言っている。
知らないから、言えるのかもしれなかった。
それを思った瞬間、胸の奥の、ずっと深いところで何かが冷えた。怒りの冷たさとは、違う。もっと古い、もっと底のほうの、四年前から、あるいは最初の病院のベッドから、ずっとそこにあった冷たさだった。
日比野は、何も言わずに待っていた。
ほむらは口を開いた。
「……少し、考えたいわ」
日比野の組んだ指が、わずかにほどけかけて、また組み直された。
「今まで、こういうふうに」
ほむらは言葉を探した。浮かんでくる言葉の、どれもが、自分の口に合わない大きさをしていた。
「男の人と、こういうふうに、接したことがないの」
「……うん」
「それに……」
言葉がそこで止まった。
それに、の先に続くはずのものが、胸のあたりで折り重なっていた。何十周の一か月のこと。指輪のこと。盾のこと。最後の光のこと。たった一人のこと。どれを先頭に置いても、その後ろに残りが全部ついてくる。一つでも口にすれば、全部を口にしなければならない。
日比野は続きを待っていた。それだけで、促しはしなかった。
ほむらは一度口を閉じ、それから、別の言葉を選んだ。
「……自分の気持ちが、まだ、わからないの」
事実ではある。言える部分の、事実だった。言えない部分は、ラテのカップを握る手の中に、指輪と一緒に隠れていた。
日比野は少しのあいだ、ほむらを見ていた。
やがて、組んでいた指を、ゆっくりとほどいた。
「うん」
日比野は頷いた。
「待つ。いくらでも」
そう言って、日比野はようやく自分のカップを持ち上げた。溶けたクリームの沈んだキャラメルの飲み物を一気に半分飲んで、甘っ、と小さく言った。
ほむらの口元が、ほんのわずかに動いた。
日比野はそれを見て、少しだけ笑った。首の赤さは、まだ引いていない。
「……てか、言っちゃった。言っちゃったな、俺」
日比野は両手で顔を覆った。指の隙間から、声が漏れた。
「先輩に、今日言えって言われてて。言わなかったら、ワンゲルの秋合宿でずっといじるって」
「そう」
「いや、先輩に言われたから言ったんじゃなくて。言いたかったから言ったんだけど」
日比野は顔から手を離した。
「……蕎麦屋で、暁美さんが一口目食べたとき、顔、変わったんだ。ほんのちょっとだけ」
ほむらは日比野の顔を見た。
「それ見て、今日言おうって、決めた」
*
駅前で、日比野と別れた。
改札の前で、じゃあ、と彼は言い、何かを付け足そうとして、やめた。代わりに、軽く手を上げた。
「また、木曜」
「ええ」
日比野は改札を抜けていった。一度だけ振り返って、もう一度手を上げた。ほむらは手を上げ返さなかった。上げ方を、思いつかなかったのだ。
部屋までの道を、川沿いに歩いた。
十月の夜の空気は、もうシャツ一枚では少し冷たい。土手の斜面で、虫が細く鳴いていた。
アパートの前まで来たとき、外階段の上に小さな人影が見えた。
外階段のいちばん上の段に、まどかが座っていた。
膝の上に、白い紙の箱を載せている。七月の夜と同じ場所だ。あのときはロールキャベツの容器で、今夜はケーキの箱だった。
「あ……おかえり、ほむらちゃん」
まどかは立ち上がった。スカートの後ろを手で払う。
「マミさんが、ほむらちゃんにって。ケーキ。今日のごはんのデザートの残りなんだけど、ほむらちゃんの分、ちゃんと取っておいてくれたの」
「一人で来たの?」
「うん。マミさんの家から、すぐだもん」
「夜は危ないわ」
まどかは、困ったように笑った。
「ほむらちゃん、それ、四年前から言ってるよ」
まどかは箱を差し出しかけて、そこで、ほむらの顔に目を留めた。
口を開きかけて、閉じた。さっきまでの笑顔が、少しずつ引いていった。
「……なにか、あったんだね」
ほむらは外階段を上りきって、まどかの前に立った。
「好きだと、言われたわ」
まどかの手が、箱の上で止まった。
「付き合ってほしい、と」
外階段がしんとした。土手のほうから、虫の声だけが聞こえていた。
まどかは箱を見ていた。箱の角を、指でそっとなぞっている。
「……なんて」
まどかの声は低かった。いつもの冗談の高さではない。
「なんて、答えたの?」
「考えたい、と言ったわ」
まどかの指が、箱の角で止まった。
「……そっか」
まどかは長く息を吐いた。それから、箱をほむらの手に、そっと載せた。
「ほむらちゃんが、決めればいいからね」
まどかはほむらの顔を見ずに言った。視線は、ほむらの手の中の箱の上にあった。
「わたしのことは、考えなくていいから。火曜とか、木曜とか、土曜とか。……わたし、パパのごはんも、マミさんのごはんも、食べられるし」
「まどか」
「おやすみ、ほむらちゃん」
「送るわ」
まどかは首を小さく横に振った。
「ううん。……今日は、一人で帰りたいの」
まどかは外階段を下りていった。一段ずつ、いつもより少し早い足取りで。最後の段を下りたところで、まどかは一度だけ振り返った。街灯の光が逆光になっていて、表情は見えなかった。小さく手を振って、まどかは通りを歩いていった。
ほむらはケーキの箱を玄関の内側に置いて、外階段を下りた。
まどかの背中が角を曲がるのを待ってから、同じ角を曲がった。間を空けて、足音を立てずに歩く。それは、ほむらにとって難しいことではない。何十周ものあいだ、まどかの後ろをこうして歩いてきたのだ。
まどかは一度も振り返らなかった。
まどかの家の門の明かりが点いて、玄関の扉が閉まるまで、ほむらは通りの向こうの電柱の陰に立っていた。
帰り道、まどかの声の低さを、ほむらは確かめていた。
泣き出す前の声ではない。何かを決めてしまう前の声でもない。キュゥべえの名前を口にする前の、平らになる声でもない。何十周も聞き分けてきた、どの危ない声とも違う。
まどかは心配しているのだ、とほむらは思った。日比野が何も知らないことを、まどかは知っているから。何十周の一か月も、最後の光も、まどかは全部知っているから。
そう思いながら、ほむらは自分の部屋へ戻った。
*
部屋の明かりは点けなかった。
玄関に置いていたケーキの箱を、ダイニングテーブルの上に移した。開けはしなかった。カーテンの隙間から、街灯の光が細く差し込んでいる。
ベッドの端に座った。
左手を顔の前に持ち上げた。指を広げる。指輪がほどけて、掌の上に卵形のソウルジェムが載った。
街灯の細い光の中で、紫の表面が鈍く光った。
濁っている。
今日は一度も魔女を狩っていない。いつもの一日なら、濁りは底のほうに薄く沈んでいるだけのはずだった。朝と同じ、細い煙の筋が。
煙は、朝よりもはっきりと増えている。
好きだと言われた日だった。蕎麦の一口目で、顔が変わったと言われた日だった。話してくれてありがとう、と言われた日だった。
その日の夜に、ソウルジェムは濁っていた。
ほむらはソウルジェムを見つめた。濁りは減らない。何がこの濁りを生んだのかを、ほむらは知っていた。
あの人は知らない。
何も知らずに、好きだと言った。
知ったら、同じことを言えるのか。この身体が入れ物にすぎないと知っても。何十周もの一か月のあいだに、この手が何を撃ってきたのかを知っても。ほむらの全部が、たった一人のために組み立てられてきたと知っても。
言えるはずがない、とほむらは思った。
けれどそれは、日比野に向けた問いではないのだ。自分に向けた問いだった。知られたうえでなお、好きだと言われる資格が、自分にあるのか。
同じ問いを、ほむらは前にも聞いたことがあった。
いつかの周で、さやかが言っていたのだ。魂を抜き取られたこんな身体で、抱きしめてほしいとも、キスしてほしいとも、言えるわけがない、と。上条恭介のそばへ行けなくなったころのことだった。それを聞いても、あのときのほむらは何も思わなかった。さやかがそこで折れていくことを、前の周から知っていたからだ。見たことのある場面が、また一つ繰り返されただけだった。
そのさやかの問いを、今、ほむらは自分の胸の中で繰り返している。
この時間軸のさやかは、毎晩十一時に恭介からの電話を待っている。あのときと同じ身体のままで。
引き出しからグリーフシードを一つ取り出して、ソウルジェムに近づけた。濁りが、音もなく移っていった。
ソウルジェムはまた澄んだ。
それを指輪の形に戻した。指の上の銀は、いつもと同じ冷たさをしていた。
濁りは、グリーフシードに移せる。
胸の奥の冷たさは、どこにも移せなかった。
ほむらはベッドに横になった。天井に、カーテンの隙間から差し込む光が、一本の白い線を引いていた。
目を閉じると、蕎麦屋の湯気と、キャラメルの飲み物の溶けたクリームと、首まで赤くなった日比野の顔が、順番に浮かんだ。最後に、外階段の上で箱の角をなぞっていた、まどかの指が浮かんだ。
待つ、いくらでも、と日比野は言った。
いくらでも待たれたら、いつか、答えを出さなければならない。答えを出すなら、その前に、自分が何者なのかを、自分で決めなければならない。何十周のあいだ、ほむらが何者であるかは、いつも一つの目的が決めてくれた。その目的は、四年前の春に果たされている。
ほむらは目を開けた。
天井の白い線は、まだそこにあった。
枕元で、携帯が一度だけ震えた。
画面を見ると、まどかからだった。
『ケーキ、冷蔵庫に入れてね。おやすみ』
送信時刻は、一時十二分だった。
受験生が起きていていい時間ではない。二次試験の過去問を、遅くまで解いていたのだろう。ほむらはそう思って、起き上がった。
ダイニングテーブルの上の白い箱を、冷蔵庫にしまった。扉を閉めると、台所はまた暗くなった。
ベッドに戻って、横になった。
天井の白い線を見ながら、ほむらは朝まで眠らなかった。