魔法少女たちの恋(魔法少女まどか☆マギカ) 作:LongLong
第七話 出汁巻き
十月の第二日曜日、まどかと服を買いに行った。
予備校のない日曜の、昼から夕方までの四時間だった。模試が近いのに、とほむらが言うと、まどかは、四時間だけだよ、と言って笑った。約束したもん、と。
駅ビルの三階を、端から端まで歩いた。まどかは店に入るたびに値札をそっと裏返して、何も言わずに元に戻した。ほむらは店に入るたびに、店員に二度見された。
四軒目の店で、まどかが、ハンガーに掛かったカーディガンを一枚引き抜いた。
くすんだ薔薇色だ。乾いた花びらのような、少し灰色を含んだ、深いピンク。
「これ」
まどかはそれをほむらの胸の前に当てて、一歩下がった。両手を胸の前で小さく握っている。
「……これは、あなたの色よ」
「わたしのは、もっと明るいもん」
まどかは首を横に振った。
「これは、ちょっと大人のピンク。ほむらちゃんの髪、黒いから。黒の隣に置くと、きれいに沈むの」
まどかはカーディガンを当てたまま、ほむらの肩を、鏡のほうへそっと押した。
長い黒髪の下に、くすんだ薔薇色があった。白と黒と灰色と紫しかなかったクローゼットに、一枚だけ入ることになる色だった。
まどかの色だ、とほむらは思った。
八月の着付けの店では、まどかが藤色を選んだ。今度はまどかが自分の色をほむらに選んでいる。まどかはきっと、自分の好きな色を、誰かに着せてみたかったのだろう。ほむらはそう考えた。
「似合うね」
まどかは鏡越しに言った。着付けの店でも同じことを言っていたはずだ。
ほむらはそのカーディガンを買った。まどかは自分には何も買わなかった。わたしのは春に買うの、と言った。
*
十月は昼食を六回、日比野と食べた。
月曜の二限のあとに二回、木曜の二限のあとに四回。どれも第二食堂の窓際の二席だった。借りのある週もない週もあった。借りがあるかないかを、ほむらはもう数えていなかった。
夜は二回行った。
どちらもまどかの来ない曜日だ。日比野はほむらがそれを言う前に、月曜か水曜か金曜を選ぶようになっていた。
一回目は駅の裏の定食屋。日比野は鯖の味噌煮を頼み、ほむらに同じものを勧めた。ほむらは味噌の甘さが少し強い、と言った。日比野は携帯のメモ帳を開いて、何かを打った。候補の一覧は十月に入って、また少し長くなっていた。丸の数は四つになっている。
二回目は大学の坂を下ったところにある小さな洋食屋。ほむらは薔薇色のカーディガンを着ていった。
正門でほむらを見たとき、日比野は一瞬だけ口を開きかけた。髪と目のことは言わないで。七月の約束を、日比野はずっと守っている。その約束の内側で、何かを言おうとしているのが、ほむらにはわかる。
「……その色、いいね」
日比野はカーディガンの袖を指して言った。
「まどかが、選んだの」
「鹿目さん、センスいいな」
日比野はそれ以上言わなかった。ほむらもそれ以上は続けなかった。洋食屋のオムライスは、卵がやわらかくて、デミグラスソースが少しだけ焦げていた。
返事はまだしていなかった。
日比野はそれについて何も言わない。昼食のときも夜のときも、メッセージのやり取りの中でも。コーヒーチェーンの窓際で、待つ、いくらでも、と言ったきり、一度もその話を持ち出さなかった。それがほむらには、ときどき重い。借りとは違う種類の重さだった。
朝、目を開けて、日付を確かめる。指輪の濁りを確かめる。その前に胸の中を確かめる癖は、八月から抜けなかった。
胸の中にあるものが八月とは違っている。
木曜の朝、四一二教室に入ると、まず向かいの辺を見る。右のこめかみの寝癖がそこにあるかどうかを確かめる。夕飯の支度をしながら、日比野が昼に話した長野の山の話を思い出している。定食屋の帰りに送られてきた、敬礼する犬のスタンプを、消さずに残している。
それが大きくなっていることを、ほむらは知っていた。
それでも名前を付けることだけは、まだしなかった。名前を付ける前に、確かめなければならないことがあるのだ。その確かめ方がまだ見つかっていない。
夜、日比野と会った日の終わりに、ほむらは必ずソウルジェムを確かめた。
その日も、それは少しだけ濁っていた。会った日はいつもそうなのだ。
*
十月の第三木曜日の昼、第二食堂の窓際の席で、ほむらは言った。
「一つ、訊きたいの」
日比野は唐揚げを箸で挟んだまま顔を上げた。
「何?」
「名前」
「名前?」
「航と、呼んでもいいかしら」
日比野の箸から、唐揚げが落ちた。皿の縁に当たって、白飯の上に転がった。
「……え」
日比野は落ちた唐揚げを見て、ほむらを見て、また唐揚げを見た。
「え、あ、いや。いい。いいよ。いいけど。……え、なんで?」
なんで、と訊かれて、ほむらは答えを探した。
用意していた理由はある。ひびの、も、わたる、も、声に出せば音は三つだ。どちらで呼んでも手間は変わらない。それなら、わざわざ変える理由もない。
用意していた理由は口に出す前に自分で崩れた。
その下に、別のものがあった。四一二教室の扉の横の窪みで、ショートカットの女子学生が、航、と呼んだ。日比野はタメ口で答えた。頼んでないし、と。
あの声がまだ耳の奥に残っているのだ。
「……呼びたいから」
ほむらは言った。崩れずに残った理由は、それだけだ。
日比野は口を半分開けて、閉じるのを忘れたような顔をしていた。首から上がゆっくりと赤くなっていく。コーヒーチェーンで、好きです、と言ったときと同じ赤さだ。
「……いい。呼んで」
日比野は白飯の上の唐揚げを箸で拾い上げて、口に入れた。噛みながら、窓の外の足首のほうを見ている。
「航」
ほむらは一度だけ言ってみた。
日比野の咀嚼が止まった。
「……うん」
口の中のものを飲み込んでから、日比野は小さく頷いた。
「あのさ。俺のほうは、暁美さんで。……返事、もらうまでは」
ほむらは日比野を見た。
日比野は窓の外に目をやったまま言った。
「そういうの、勝手に先に進めたくないから」
一つ訊いて、止まる人なのだ。今度は一つも進めずに止まった。
「わかったわ」
ほむらはうどんを啜った。
出汁の味がする。いつもより、少しだけ濃い気がする。十月に入ってから、第二食堂のかけうどんは、ずっと少しだけ濃かった。
*
十月の第四日曜日、マミの部屋に五人が揃った。
まどかのいる年のお茶会は、月に一度になっている。この日は十一月の模試の直前で、ローテーブルの上には、ケーキの皿と一緒に、付箋だらけの参考書が一冊載っている。その横に、さやかの看護学の教科書が二冊。
マミのケーキは栗のタルトだった。
「暁美さん、いい色ね。そのカーディガン」
マミが紅茶を注ぎながら言った。
「まどかが選んだの」
「あら、鹿目さん、センスがいいのね」
「……わたしは、当ててみただけだから」
まどかはタルトを口に運びながら、少しだけ頬を染めた。
さやかは窓際のクッションに座っている。教科書を膝の上に開いていたが、ページをめくっていない。タルトの皿は手付かずのままだ。携帯を、画面を下にしてローテーブルの端に置いている。ときどきそれに目をやって、すぐに逸らした。
「美樹さん、タルト、食べないの?」
マミが訊いた。
「……あとで」
さやかの声は短い。
「栗、好きだったでしょう。美樹さんのために、少し甘めに――」
「あとでって、言ったじゃないですか」
マミの言葉の途中で、さやかが言った。声が少しだけ尖っている。
マミは口を閉じ、少し困ったように笑った。
「……ごめんなさいね」
「……別に」
さやかは教科書に目を落とした。ページはめくられない。
ほむらはさやかを見ていた。
実習の始まる前の時期だった。九月の夕飯で、さやかは前期の試験に全部通ったと喜んでいた。通った分だけ、次で落とすことが怖くなる。実習が近づいて、追い詰められているのだろう、とほむらは思った。看護学生の、いちばん苦しい時期なのだろう、と。
杏子はさやかをちらりと見て、何も言わずにタルトを食べていた。マミはさやかの皿の横に、そっとフォークを置き直した。
「それで、暁美さん」
マミが空気を変えるように明るい声を出した。
「その後、どうなのかしら。日比野くんとは」
ほむらは紅茶のカップを置いた。
話すかどうかを、この三週間、何度か考えた。そのたびに、話す理由も、話さない理由も、同じだけ見つかった。今日は話すほうに決めて、この部屋に来た。
「告白されたわ」
部屋の音が止まる。
「十月の初めに。付き合ってほしいと」
一秒の沈黙のあと、マミの手の中で、ポットが宙に止まった。
「まあ……!」
さやかの顔が教科書からわずかに上がった。杏子がタルトを運ぶ手を止めた。
その中で、まどかだけが、何事もなかったようにタルトを食べ続けている。まどかは知っていたのだ。あの夜、外階段の上で、箱の角をなぞりながら。
「それで、暁美さん、なんて答えたの?」
「考えたい、と言ったわ」
「考え中、なの?」
「ええ」
「十月の初めから? 三週間も……」
マミはポットをようやく置いた。
「三週間、待ってくださっているのね。日比野くん」
「まだ、何も決めていないわ」
「決めていなくても、よ。……あの喫茶店のあと、そんなことになっていたのね。よかったわ、本当に」
マミはあの台所のときと同じように、少しだけ目を細めた。それから、思い出したように言った。
「私、前に言ったでしょう。暁美さんが男の子と一緒にいるところ、想像できないって。あれ、取り消すわ」
「まだ、一緒にいると決めたわけではないわ」
「三週間、お昼と夜を一緒に食べているのでしょう。それは、一緒にいる、と言うのよ」
マミは口元を緩めた。
「それに、呼び方も変えたって」
ほむらはマミを見た。
「鹿目さんから聞いたわ」
まどかがタルトを喉に詰まらせかけて、小さく咳き込んだ。
「……言ってないよ」
「言ったわ。この前の土曜日、うちで夕飯を食べたとき。暁美さんが、日比野くんのこと、下の名前で呼びはじめたって」
「……一回だけだもん」
まどかは赤い顔で紅茶を飲んだ。杏子が笑い、マミが笑った。
ほむらはまどかの横顔を見た。木曜の夜、夕飯のあとで、そのことを話した覚えがあった。まどかは問題集から顔を上げずに、そっか、と言っただけだった。
部屋の空気がほどけた。
窓際のクッションだけが、ほどけていない。
「……で」
さやかの声がした。
教科書を、膝の上で閉じている。
「ほむらは、その人の、何がいいの」
笑い声が少しずつ小さくなった。
さやかはほむらを見ていた。まっすぐに。その目は四一二教室の前でほむらを測った桐谷の目とも、人混みの向こうで止まった日比野の目とも、違っていた。
「何が、って」
「だから、何がいいのって訊いてるの。顔? 優しいとこ? 三週間待ってくれるから? 蕎麦屋の息子だから?」
「さやかちゃん……?」
まどかが戸惑ったようにさやかを見た。
ほむらはさやかの問いを正面から受け取り、答えを探した。三週間のあいだ、名前を付けずにいたものの、その周りを。
一つだけ、はっきりしているものがある。
「訊かないところ」
ほむらは言った。
「家族と離れて暮らしていると言ったとき、理由を訊かなかった。それに、と言いかけてやめたときも、続きを訊かなかった。航は、訊かないの」
さやかの口の端が歪んだ。
「……ほらね」
「さやか」
杏子がタルトの皿を置いた。
「訊かないから、いいんだ。訊かれないから、楽なんでしょ」
さやかは杏子を見なかった。目はほむらから離れない。
「どうせ、何十回も時間を戻したことも、言ってないでしょ。あたしたちが死ぬとこ、何回も見てきたことも」
部屋から、音が消えた。
マミの手がポットの取っ手の上で固まった。まどかの顔から、血の気が引いていった。杏子がゆっくりとフォークを置いた。
「美樹さん」
マミの声は低かった。
「さやかちゃん、やめて」
まどかがさやかの袖を掴んだ。
さやかはその手を振り払わなかった。代わりに、言葉を続けた。
「言えないよね。言ったら終わりだもん。魔法少女のことも。夜に何してるかも。ソウルジェムのことも。全部隠して、何も知らない人に好きって言われて、それでほむら、幸せになれるの?」
「さやか、やめろ」
杏子がクッションから腰を浮かせた。
「嘘の上に乗っかって、その人の隣で笑ってられるの? その人が好きなのって、誰? ほむら? それとも、ほむらが見せてる、ほむらのふりした誰か?」
「美樹さん」
マミの声がさっきよりも冷たく響いた。
さやかは止まらなかった。
「訊かない人がいいって、それ、訊かれたら困るからでしょ。訊かれたら、全部言わなきゃいけなくなるから。だから、訊かない人を選んでるんでしょ。そういうの、好きって言うの? それ、ただ――」
「さやか!」
杏子が立ち上がっている。
さやかの言葉がそこで途切れた。
その続きを、ほむらは知っていた。コーヒーチェーンの窓際から、自分の中で、何度も同じ場所で途切れてきた言葉なのだ。
ほむらはさやかを見ていた。
さやかの手が膝の上の教科書を握りしめている。その指に、銀の指輪がある。嵌まった小さな青い石が、部屋の照明を受けて、鈍く光っている。
濁っている。
実習の前の看護学生のソウルジェムが、こんなふうに濁るものなのかどうか、ほむらは知らない。ただ、その濁り方は、好きだと言われた夜に自分の掌の上で見たものと、よく似ていた。
「……言っていないわ」
ほむらは言った。
さやかの目が揺れた。
「繰り返したことも、ソウルジェムのことも、何も言っていない。言えないの」
ほむらの声は平らだった。ほかの出し方を、知らないのだ。
「訊かれたら困るから、訊かない人を選んでいる。……そうかもしれないわ」
「ほむら……」
さやかの声から、尖りが抜けていった。その下から、別の何かが出てきそうになる。さやかは唇を噛んで、それを押し戻した。
杏子がさやかの前に立っていた。
「……もういいだろ。さやか」
杏子の声は低い。怒っているのに、怒鳴ってはいなかった。
さやかは杏子を見上げ、それから、ローテーブルの端の、画面を下にした携帯を見た。
さやかは教科書と携帯を掴んで立ち上がった。
「……帰る」
「さやかちゃん!」
まどかが呼んだ。さやかは振り返らなかった。玄関のほうへ歩いていって、靴を履いて、扉を開けた。扉が閉まる音は思っていたよりも静かだ。
杏子が一瞬、ほむらを見た。
何かを言おうとする顔だ。言わずに、杏子はさやかの後を追って玄関へ向かった。
「佐倉さん」
「すぐ戻る」
扉がもう一度開いて、閉まった。
*
部屋に、三人が残った。
ローテーブルの上に、手付かずの栗のタルトが一皿ある。さやかの皿だった。フォークはマミが置き直した位置から、少しも動いていない。
マミはポットの取っ手から、ようやく手を離した。
「……ごめんなさいね、暁美さん。私が、話を振ったから」
「話すと決めたのは、私よ」
マミは小さく首を振って、さやかの手付かずの皿を見た。
「美樹さん、ここ一か月くらい、ずっとあんな感じだったの。実習のせいだと、思っていたのだけれど」
「私も、そう思っていたわ」
ほむらは答えた。
そう口にしながら、さやかの指の、濁ったソウルジェムを思い出していた。画面を下にした携帯を思い出していた。九月の夕飯で、恭介がコンクールで二位だったと、誰よりも嬉しそうに話していたさやかを思い出していた。
今日、さやかは恭介の名前を一度も口にしなかった。
まどかは両手を膝の上で握りしめて、俯いていた。
さやかの言ったことの中には、まどかの知っていることが、いくつも入っていた。何十回のことも、誰かが死ぬところを何回も見てきたことも。まどかは四年前の春に、ほむらの口から全部を聞いている。そのうえで、まどかは一度も、その先を訊いてこなかった。
「暁美さん」
マミが静かに言った。
「美樹さんが言ったこと、気にしないで、とは言わないわ」
「ええ」
「あの子は、暁美さんに言っていたのではないのかもしれない。……それでも、言われたことは、言われたことよ」
マミはそれ以上は言わなかった。
まどかが俯いたまま、小さな声で言った。
「……ほむらちゃん」
「何かしら」
「わたしも、訊かないよ。ずっと」
まどかは顔を上げなかった。
「それも、ずるいのかな」
ほむらはまどかの頭のつむじを見た。答えを探そうとして、見つけられない。まどかはほむらの答えを待たずに、自分の紅茶のカップを両手で包んだ。
ほむらは自分の皿の上の、食べかけの栗のタルトを見た。
訊かれたら困るから、訊かない人を選んでいる。
そうかもしれない、とほむらは言った。嘘ではない。コーヒーチェーンの窓際で、この人は知らない、と思った。知らないから言えるのかもしれない、とも。その夜、ソウルジェムは濁った。十月に入ってからも日比野と会った日の夜は、必ず少しだけ濁った。
その理由を、さやかは、ほむらよりも先に言葉にした。
ほむらはタルトにフォークを入れた。栗の甘さが舌の上に広がった。マミのタルトの味だ。舌の上で、世界の輪郭が、少しだけはっきりする。
その輪郭の中に、答えの出ていない問いが、二つあった。
一つはほむらのものだった。自分は訊かない人を選んでいるのか。
もう一つはさやかの問いだった。あの青い石はなぜ濁っていたのか。
窓の外で、十月の終わりの日が、少しずつ傾いていった。杏子はまだ戻ってこない。
*
十時を少し過ぎたころ、部屋で携帯が震えた。
『ほむら、今から話せる?』
さやかからだ。
『駅裏の公園にいる』
ほむらは薔薇色のカーディガンを羽織って、部屋を出た。
駅裏の公園には街灯が二つしかない。
ブランコと、滑り台と、錆びた鉄棒。奥のほうに、木のベンチが一つ。さやかはそのベンチに座っていた。灰色のパーカーのフードを被って、膝の上で両手を組んでいる。
ほむらが近づくと、さやかは顔を上げた。泣いたあとの目だった。
「……来てくれたんだ」
「呼ばれたから」
ほむらはベンチの反対の端に座った。二人のあいだに、人一人分の隙間が空いた。
さやかはすぐには口を開かなかった。組んだ手の指を、何度も組み替えている。
「さっきは、ごめん」
さやかは前を向いて言った。
「ほむらに言ったこと。全部、ひどかった。あたしが言っていいことじゃなかった。……ごめん」
「謝られることは、されていないわ」
「されたでしょ」
さやかは少しだけ笑った。それもすぐに消えた。
「……あたしさ」
さやかはフードを脱いだ。
「恭介に、話したの。全部」
ほむらはさやかの横顔を見た。
「二週間くらい前。恭介に、訊かれたの。さやか、何か隠してない? って。夜、電話に出ない日があるとか。指輪、絶対外さないとか。……恭介、そういうの、ちゃんと見てるから」
さやかは左手の指輪を右手の指でなぞった。
「それで、言った。魔法少女のこと。あたしが契約したときの願いが、恭介の手を治すことだったってこと。コンクールで弾けてるのは、奇跡のおかげだってこと。それから、ソウルジェムのこと。この指輪が、あたしの魂で、この身体は、ただの入れ物だってこと」
さやかの声は途中から少しずつ小さくなった。
「恭介、自分の左手をずっと見てた。十分くらい。何にも言わずに」
公園の外の道を、車が一台、通り過ぎていった。ヘッドライトの光がブランコの鎖を一瞬だけ照らした。
「それで、言われたの。……少し、考えさせてって」
ほむらは膝の上に置いた自分の手を見た。
少し、考えたい。コーヒーチェーンの窓際で、ほむらが日比野に言った言葉だった。
「それから、電話、減った。毎晩十一時にかかってきてたのが、二日おきになって、三日おきになって。……でもね、あたしも、出なかったの。かかってきても。怖くて。何言われるのかと思ったら、出られなくて。だから、恭介だけのせいじゃない。あたしも、逃げてる」
さやかは両手で顔を覆った。
「言ったのに、終わりかけてる。訊かれて、ちゃんと言ったのに」
指の隙間から、声が漏れた。
「だから、ほむらの話聞いて、ムカついたの。訊かない人がいいって。訊かれないで、言わないで、それで三週間も待ってもらってて。……ずるいって思った。羨ましかった。あたしが、言わなきゃよかったのかなって、思っちゃって。そんなの、思いたくなかったのに」
さやかは顔から手を離した。
「ほむらに、八つ当たりした。最低」
ほむらは口を開かなかった。
かける言葉を、探さなかった。その代わりに、さやかの左手の指輪を見た。街灯の光の中で、小さな青いソウルジェムが、昼間よりもさらに鈍く光っている。
いつかの周で、このソウルジェムが真っ黒に染まるのを、ほむらは見ている。一度ではなかった。
ほむらはカーディガンのポケットに手を入れた。部屋を出るとき、引き出しから一つ取って、入れてきたものがあった。
グリーフシードを、さやかの膝の上に置いた。
さやかはそれを見下ろした。それから、ほむらを見た。
「……これ、借り?」
さやかは泣き笑いのような顔で言った。四年のあいだに、さやかは、ほむらが借りという言葉をどれだけ使うかをよく知っていた。
「借りじゃないわ」
口にしてから、ほむらはその言葉を自分の耳で聞いた。三〇二教室で、日比野に、借りを作ったままにしておくのは好きじゃない、と言った。あれから、半年が経っている。
さやかはグリーフシードを指輪に近づけた。濁りが音もなく移っていった。ソウルジェムが少しだけ澄んだ。
「……ありがと」
さやかは使い終わったグリーフシードを、両手で包むように握った。
少しのあいだ、ブランコの鎖が風で鳴る音だけがあった。
「このこと、みんなにも話す」
さやかが言った。
「次のお茶会で。ちゃんと。マミさんにも、謝らないと。タルト、残しちゃったし。まどかにも。あの子、今日、真っ青な顔してたし」
「ええ」
「杏子には、もう半分くらい話した。送ってもらったとき。……あいつ、なんにも言わないで、最後まで聞いてた」
さやかはベンチの背にもたれて、空を見上げた。街灯のせいで、星はほとんど見えない。
「ほむらは」
さやかは空に顔を向けたまま言った。
「言うの? その人に」
ほむらは答えなかった。
さやかは恭介に訊かれて、打ち明けた。そのあと恭介は自分の左手を十分間見て、考えさせて、と言った。その先がどうなるのかは、まださやかにもわからない。
日比野は訊かない。ただ、待っている。
「……まだ、決めていないわ」
「そっか」
さやかはそれ以上は重ねなかった。
「あたしが言うのも、なんだけどさ」
さやかはゆっくりと身体を起こした。
「言っても、言わなくても、たぶん、どっちも怖いよ。あたしは、言うほうの怖さしか知らないけど」
さやかは立ち上がって、パーカーのフードを被り直した。
「送ってく。……いや、ほむらのほうが強いか」
「送らなくていいわ」
「知ってる」
さやかは少しだけ笑った。今度の笑いはすぐには消えなかった。
公園の入口で、二人は別れた。さやかは恭介の家とは反対の方向へ歩いていった。
*
ほむらは川沿いの道を歩いて帰った。
アパートの前まで来ると、外階段の下に、長い影が一本立っていた。杏子だ。部屋着の上にパーカーを羽織って、サンダルを履いている。両手をポケットに突っ込んで、手すりに背中を預けていた。
杏子はほむらを見つけると、手すりから背中を離した。
「さやか、大丈夫そうか」
「少し」
「……そっか」
杏子はそれだけ言って、ほむらの横をすり抜けた。すれ違うとき、杏子の肩は、ほむらの目の高さより上にあった。
「おまえもな」
背中越しに、杏子が言った。振り返らずに、片手だけ上げて、マミの部屋のほうへ歩いていった。
部屋に入ってから、ほむらは左手を持ち上げた。指輪をほどいて、掌のソウルジェムを見た。
今日は日比野と会っていない。
ソウルジェムはそれでも、少しだけ濁っていた。
*
十月の最後の木曜日、日比野は、第二食堂に弁当箱を持ってきた。
青い布に包まれた、二段の弁当箱だ。窓際の長机に置いて、布の結び目をほどきながら、日比野は少しだけ照れたように言った。
「自炊、けっこう続いてて。……で、これ、暁美さんの分」
弁当箱は二つあった。
「作ったの?」
「作った。朝五時に起きて」
日比野は片方の蓋を開けた。白飯の上に、梅干しが一つ。おかずの段には鶏の照り焼きと、ほうれん草のおひたしと、黄色い卵焼きが三切れ並んでいた。
「卵焼きは、出汁巻き。うちの店で、母ちゃんが昼の定食に付けてるやつ。夏に帰ったとき、作り方、ちゃんと教わってきた」
ほむらは箸で、出汁巻きを一切れ持ち上げた。
断面から、薄い湯気のようなものが、もう冷めているのに立っている気がする。口に入れた。
噛むと、出汁が滲み出してくる。甘くはない。塩気も強くはない。卵のやわらかさの中に、昆布と鰹の味が、薄く、長く残った。
ほむらは二切れ目を持ち上げた。
一切れ目の感想を言うより先に、手が次へ伸びている。四月から、何を食べても、だいたい同じ、と言ってきた。その前に、次の一切れに手が伸びたことは、一度もなかった。
日比野は自分の弁当に手を付けずにほむらを見ていた。
「……どう?」
ほむらは二切れ目を飲み込んだ。
「……好き、かもしれないわ」
日比野の顔がゆっくりとほどけて、笑顔になった。その笑顔がさらに崩れて、泣き出しそうな顔になった。
「好き」
日比野はほむらの言葉を繰り返した。
「好きって、言った。暁美さんが。食べ物に」
「かもしれない、と言ったのよ」
「かもしれないでも、いい」
日比野は携帯を取り出して、メモ帳を開いた。候補の一覧のいちばん上に何かを打ち込み、画面をほむらに向けた。
出汁巻き、と書かれている。その横に、丸が二つ。
「二重丸。初めて」
ほむらは三切れ目の出汁巻きを見た。
好き、という言葉を、自分の口から出したのはいつ以来なのか。それさえわからないほど、使っていない言葉だった。何十周のあいだ、その言葉を向けていい相手は一人しかいなかったし、その一人にさえ、口に出して言ったことはなかった。
それが卵焼きに向かって出た。
*
十一月の最初の連休、日比野はワンゲルの秋合宿で八ヶ岳へ行った。
出発の前の晩、メッセージが届いた。
『明日から三日、山。上のほう、電波ないかも』
『下りたら連絡する』
ほむらは、気をつけて、とだけ返した。それだけを打つのに、少し時間がかかった。
一日目は何も届かなかった。
二日目の昼、テレビのニュースが、八ヶ岳の山頂付近で平年より早い初冠雪が観測されたと伝えた。画面の中で、白く薄化粧をした稜線が、青い空を背にして映っていた。
ほむらは台所で米を研いでいた手を止めた。
テレビの前に立った。ニュースはすぐに次の話題に移った。
携帯を見た。何も届いていない。電波がないかもしれない、と日比野は書いていた。その通りだった。何も届かないのは予定の通りなのだ。
予定の通りなのに、ほむらは、その日の夕方までに携帯を十一回見た。
その夜、魔女が出た。
見滝原の北の、再開発地区の外れ。杏子と二人で結界に入り、使い魔を片付け、ほむらの撃った弾が魔女の核を砕いた。いつもより、時間がかかった。杏子が二度、ほむらの名前を呼んだ。二度とも呼ばれてから半拍遅れて、ほむらは身体を動かした。
帰り道、杏子は一言も口をきかなかった。
三日目の夕方、携帯が震えた。
ほむらは夕飯の鍋の火を止めて、画面を見た。
『無事下山!!』
感嘆符が二つ。続けて、写真が一枚届いた。山小屋の前で、ワンゲルの仲間たちと並んでいる写真だ。全員、ニット帽を被っている。日比野のニット帽の、右のこめかみのあたりから、髪が一房はみ出して跳ねていた。
その後ろの稜線が白い。
ほむらは写真を見ていた。
そのうちに、胸の中の何かが、ほどけていった。三日間、ずっと固く結ばれていたものだった。そのことにさえ、ほどけるまで、ほむらは気づいていなかったのだ。
ほどけたあとに、残ったものがあった。
それは夏の石とは違う。十月に指で触れた、形のはっきりしないものとも違う。温かい。手のひらで包めるくらいの大きさで、確かな形をしていた。
ほむらはそれに付ける名前を探した。
手間はかからなかった。五日前、第二食堂の窓際で、出汁巻きに向かって口から出た言葉が、そこにあった。卵焼きのために使った言葉が、形を変えずに、別の場所に収まっていた。
好き。
ほむらはその言葉を、声には出さなかった。
携帯の画面を見つめたまま、動かなかった。台所で、火を止めた鍋が、小さく音を立てて冷えていった。
『よかった』
それだけ打って、送った。
それ以上の言葉を、ほむらは持っていなかった。仮にあったとしても送れなかっただろう。
*
十一月の二週目の月曜日、昼の第二食堂で、日比野が言った。
「土曜の夜、電話したんだけど。九時半くらい」
ほむらの箸がうどんの丼の上で止まった。
土曜の夜の九時半。まどかを角の信号まで送ったあと、ほむらは見滝原の東の、川沿いの廃工場の中にいた。結界の中だ。使い魔の群れを、杏子と二人で片付けていた。結界の中では、携帯は鳴らない。鳴っても出られない。
結界を出て、部屋に帰って、着信の履歴に日比野の名前を見つけたのは、十一時を過ぎてからだった。折り返すには遅すぎる時間だった。
「……気づかなかったわ」
「あ、全然いいんだけど。大した用じゃなかったし。山の写真、もうちょっといいの撮れたから、見せたかっただけで」
日比野は笑って言った。
「何してたの? 土曜の夜」
ほむらは答えを探した。
本当は一つしかない。本当の答えは口にできないのだ。代わりの答えを、作らなければならなかった。
「お風呂に、入っていたの」
言った瞬間に、舌の上に、何かが残った。
日比野は、そっか、と言った。それだけだった。いつものように一つ目で止まり、携帯を取り出して、山の写真を見せてくれた。朝焼けに染まった雪の稜線と、その手前の、凍った池の写真。
「きれいね」
ほむらは言った。それは嘘ではない。
本当のことと、そうでないことが、同じ口から、同じ声で出ていった。日比野にはその区別がつかない。そうなるように、ほむらは話していた。何十周のあいだに、身につけた話し方なのだ。
うどんを啜った。出汁の味がよくわからない。
写真を見終えたあと、日比野は、ほむらの手元に目をやった。
「その指輪さ。いつもしてるよね。四月から、一回も外してるの見たことない」
ほむらは手を丼の縁から少しだけ引いた。
「大事なもの?」
「……ええ」
ほむらは言った。
「外せないの」
嘘ではない。指輪を外して遠くへ離せば、この身体は、ただの入れ物になる。
日比野はほむらの指輪を少しのあいだ見ていた。それから、そっか、と言った。
「似合ってる」
それだけ言って、日比野は、自分の唐揚げ定食に戻った。
ほむらは指輪を見た。銀の輪が食堂の蛍光灯の光を鈍く返していた。
嘘ではない言葉で、嘘をついた。お風呂に入っていた、よりも、それはずっと重かった。
*
十一月の最後の日曜日、マミの部屋に五人が揃った。
模試は先週終わっている。ローテーブルの上に参考書はなく、代わりに、りんごのタルトが焼き上がったばかりの匂いを立てていた。
全員が座って、マミが紅茶を注ぎ終えたところで、さやかが言った。
「最初に、話したいことがあるの」
さやかはクッションの上で正座をしていた。
部屋の空気が変わった。
「先月、ここで、あたしがほむらに言ったこと。みんなの前で。……まず、ごめんなさい」
さやかは両手を膝の上に揃えて、頭を下げた。
「まどか。せっかくのお茶会で、心配させた。ごめん」
「さやかちゃん……」
「杏子。止めてくれたのに、無視した。それから、家まで送ってくれて、ありがと」
杏子は何も言わずにそっぽを向いた。
「ほむらには、もう謝った。公園で」
ほむらは小さく頷いた。
さやかは最後に、マミのほうへ向き直った。
「マミさん」
「ええ」
「マミさんのお部屋で、あんなこと言って、ごめんなさい。それと、せっかく作ってくれた栗のタルト、残しちゃって。……ごめんなさい」
マミは少しのあいだ、さやかを見ていた。
それから、ナイフを取って、焼き上がったばかりのりんごのタルトを切りはじめた。一切れ目を、ほかの切れの倍の大きさに切った。いつもなら、杏子の前に置かれる大きさだ。
マミはその皿を、さやかの前に置いた。
「いいのよ。……その代わり、今日のは、全部食べてね」
さやかの目に、みるみる涙が溜まった。
「……はい」
さやかはフォークを取って、大きな一切れに齧りついた。熱い、と言って、泣きながら笑った。まどかがティッシュの箱を差し出した。杏子は自分の前に置かれた普通の大きさの一切れを見下ろして、何も言わずに食べはじめた。
タルトを半分ほど食べたところで、さやかはフォークを置いた。
「それで、もう一つ。……なんで、あたしがあんなふうになってたか」
さやかは恭介のことを話した。
訊かれたこと。全部話したこと。願いのこと。手のこと。ソウルジェムのこと。恭介が自分の左手を十分間見ていたこと。少し、考えさせて、と言われたこと。電話が減ったこと。自分も出なかったこと。
公園のベンチで、ほむらが一度聞いた話だ。二度目は、さやかの声は震えていなかった。
話し終えると、部屋は静かになった。
まどかは両手で口を押さえていた。杏子は腕を組んで、天井に目を向けていた。
マミは自分の左手を見つめていた。
その指の、銀の指輪を。
「……それで、今は?」
最初に口を開いたのは、ほむらだった。
「上条恭介とは」
「昨日、メッセージが来た」
さやかは携帯を取り出して、画面は見せずに握りしめた。
「来週、会って話したいって。……それだけ。何を話すのかは、書いてなかった」
「そう」
まどかがさやかの手の上に、そっと自分の手を重ねた。
「言うかどうかは、さやかちゃんが決めることだと思う。さやかちゃんは、言うほうを選んだんだよね。……それは、すごいことだと思うよ」
まどかはそこで少し言葉を切った。
「でも、言ったあとのこと、一人で抱えないで。……今日みたいに、ちゃんと、みんなに話して」
さやかはまどかを見た。それから、少しだけ笑った。
「まどかって、ほんと、そういうとこあるよね」
「……そういうとこって、どういうとこ」
「わかんないけど、そういうとこ」
まどかが泣き笑いの顔で、さやかの肩に頭を載せた。杏子が天井を見上げたまま、ぼそりと言った。
「……さやかは、間違ったこと、してねえよ」
さやかは杏子のほうを向いた。杏子は天井から目を下ろさなかった。
「言うのも、言わねえのも、間違いじゃねえ。どっちも、しんどいだけだ」
その言葉を、ほむらは聞いていた。
言うのも言わないのも、しんどい。公園のベンチで、さやかは、どっちも怖い、と言った。
マミがゆっくりと息を吐いた。
「……私もね」
全員がマミを見た。
左手の指輪を、マミは右手で包むように覆っていた。
「先輩には、言っていないの。何も」
マミの声は静かだ。
「お付き合いを始めてから、二か月になるわ。先輩は、私が一人暮らしなのも、両親がいないのも知っている。でも、それ以上は知らない。夜、魔女を狩っていることも。この指輪のことも」
マミは指輪を覆った手を強く握った。
「美樹さんのお話を聞いていて、ずっと、自分のことを考えていたの。私は、訊かれたら、言えるのかしらって」
「マミさん……」
「先輩は、まだ何も訊いてこないの。訊かれないから、言わなくて済んでいる。……先月、美樹さんが暁美さんに言ったこと。あれは、私にも向いていたのよ」
マミはほむらを見た。
少し困ったような、少し寂しそうな笑い方だった。あの台所で、花火の夜の日比野くんと同じ場所に暁美さんが立っているわ、と言ったときと同じ笑い方だった。
ほむらは自分の指輪を見た。
お風呂に入っていた、と言った。大事なもの、と訊かれて、外せない、と言った。どちらも、日比野は信じた。そっか、とだけ言った。
この部屋の中に、指輪を嵌めた人間が四人いた。そのうち三人が魔法少女ではない誰かの隣にいる。一人は言って、揺らいでいる。二人は言わずに、濁っている。
指輪を嵌めていないのは、まどかだけだった。指輪のないまどかは四人の指輪の意味を、全部知っている。
「暁美さん」
マミが言った。
「暁美さんは、どうするの」
ほむらは答えなかった。
視界の端で、まどかの手が、紅茶のカップの持ち手から離れた。カップはソーサーの上で小さく鳴った。
答えはまだない。一か月前、公園のベンチで、さやかに同じことを訊かれたときと同じだった。
違うのは、答えが出ないのに胸の中にあるものの重さと温かさだった。
*
その夜、部屋に帰ってから、ほむらは机に向かった。
引き出しから、ノートを一冊出した。村瀬の基礎ゼミで使っているノートだ。最後のページを開いた。
黒いボールペンを持った。
喫茶店で、マミは言った。どうして誤解を解きたいの、と。九月までに、少しだけ考えておくといいわ、と。台所では、答え、出た? と訊かれた。まだよ、とほむらは答えた。
十一月の終わりに、答えは出ている。
ただ、それを声に出したことは、まだ一度もない。
ほむらはノートの最後のページにペンの先を当てた。
好きだから。
そう書いた。
その下に、もう一行書こうとした。ペンの先が紙の上で止まった。
書こうとしたのは、好きだから言えない、だった。あるいは、好きだから言いたい、かもしれない。どちらを書いても正しい。どちらを書いてももう片方が嘘になる。
ほむらは二行目を書かなかった。
ペンを置いて、ノートを閉じた。
左手を持ち上げて、指輪をほどいた。掌の上に、卵形のソウルジェムが載った。
濁っている。
十月よりも少しだけ濃く。今日は魔女を狩っていない。日比野とも会っていない。タルトを食べて、さやかの話を聞いて、マミの話を聞いて、帰ってきただけだった。
好きだと、ノートに書いた日だった。
その日の夜に、ソウルジェムは、いちばん濁っていた。
ほむらはグリーフシードを引き出しから出した。近づけると、濁りは音もなく移っていった。ソウルジェムはまた澄んだ。
グリーフシードの残りは、引き出しの中に三つになっている。
澄んだソウルジェムを、指輪の形に戻した。外せない、と日比野に言った指輪だった。似合ってる、と言われた指輪だった。
ほむらは部屋の明かりを消した。
カーテンの隙間から、街灯の光が一本、天井に白い線を引いていた。
ノートの最後のページに書いた言葉が、暗闇の中で、閉じたノートの内側に、確かにあった。