魔法少女たちの恋(魔法少女まどか☆マギカ)   作:LongLong

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第八話 冷たい手

第八話 冷たい手

 

 十二月の最初の月曜日の夜、ほむらは日比野にメッセージを送った。

『金曜の夜、晩ご飯に行けるかしら』

 送信してから、画面を見つめた。

 四月から、ずっと誘われる側だった。昼食も夕飯も花火も。ほむらのほうから誘ったのは、四一二教室で声をかけた昼食が一度きりで、あれは誤解を解くための用事だった。

 夜を誘うのは、これが初めてになる。

 既読が付いてから返事が来るまでに、三分かかった。日比野の返信にしては長い三分だった。

『行ける』

『行く』

『絶対行く』

 三つの吹き出しが、続けて並んだ。

『店、どこがいい? 探そうか?』

 ほむらは入力欄に指を置いた。

 十月の初めには、任せるわ、と送った。今度は任せない。

『この前の、蕎麦屋』

『鴨せいろの店』

 少し間があって、返事が来た。

『了解。六時半、駅前で』

 その下に、敬礼する犬のスタンプが一つ付いていた。

 

    *

 

 木曜の夜、夕飯の片付けをしながら、ほむらはまどかに言った。

「明日の夜、航と晩ご飯を食べるわ」

 まどかは問題集を鞄にしまう手を、少しだけ止めた。

「……そっか。金曜日だもんね」

 まどかの来ない曜日だ。まどかはそれを確かめるように言ってから、鞄の口を閉じた。

「あのカーディガン、着ていくの?」

「そのつもりよ」

「似合うよ、あれ」

 まどかは玄関で靴を履きながら、振り返らずに言った。

 翌朝、七時二十分に携帯が震えた。予備校へ向かう電車の中から送ったのだろう。

『いってらっしゃい』

 それだけで、スタンプも付いていない。

 ほむらはクローゼットから薔薇色のカーディガンを出した。白いシャツの上に羽織って、鏡を見た。十月にまどかが選んだ色だ。長い黒髪の下で、くすんだ薔薇色が静かに沈んでいた。

 

    *

 

 蕎麦屋の白い暖簾は、冬の風に小さく揺れていた。

 中は十月と同じだ。カウンターが六席と、四人掛けのテーブルが二つ。奥の厨房から、湯の沸く音と包丁の音がする。

 二人は十月と同じ奥のテーブルに座った。

 日比野は紺のダッフルコートを脱いで、椅子の背に掛けた。コートの下は、七月にも十月にも着てきた水色の襟のあるシャツだった。

「それ、三回目ね」

 ほむらが言うと、日比野は自分の襟を見下ろした。

「……これしかないんだよ、ちゃんとした服」

 日比野は少し赤くなって笑った。

「ほむ……暁美さんのそれ、あのカーディガン。いいよね、やっぱ」

 言いかけた名前を日比野が途中で飲み込むのを、ほむらは聞いていた。

 注文は日比野がした。鴨せいろを二枚。十月には普通のせいろだった日比野が、今夜はほむらと同じものを頼んでいる。

 蕎麦が来るまでのあいだ、日比野は湯呑みのお茶を少しずつ口に運んだ。置くたびに、湯呑みの位置が少しずつずれていく。

 ほむらは自分の湯呑みを両手で包んでいた。

 言うことは、もう決めてある。

 コーヒーチェーンの窓際で、日比野は言った。好きです。付き合ってください。ほむらは考えたいと答えた。あれから二か月と少しが経っている。そのあいだに出汁巻きがあり、初冠雪があり、ノートの最後のページに書いた一行があった。

 その一行を、今夜、声にする。

 その先のことも決めてあった。声にしたあとで、もう一つ、指輪のことを言う。

 蕎麦が来る前に言うか、あとに言うか。ほむらはあとにすることにした。十月に、一口目で顔が変わったと言われた店だ。一口目を、先に食べておきたかった。

 蕎麦が来た。

 鴨汁の湯気が、二人のあいだに立ち上った。

 ほむらは何もつけずに数本だけ口に入れた。土のような、草のような、少し甘い香りが鼻の奥に抜けていく。十月と同じ香りだ。

 顔を上げると、日比野が見ていた。

 十月と同じように、自分の蕎麦には手を付けずに、ほむらの顔を見ている。それから、少しだけ笑う。

 ほむらは箸を置いた。

「航」

 日比野の笑みが止まった。

「十月の、返事」

 日比野の手が膝の上で握られたのが、テーブル越しにもわかった。

 ほむらは息を吸った。

 三〇二教室で雷が鳴ったとき、息は勝手に止まった。今は、自分で吸って、自分で吐くことができる。

「航のことが、好きよ」

 店の中の音が遠くなった。

 厨房の包丁の音も、湯の沸く音も、カウンターの客が蕎麦を啜る音も、全部どこか壁の向こうへ下がっていった。

 目の前に、日比野の顔がある。

「一緒に、いたいの」

 ほむらは言った。

「付き合ってほしいと、言われたわね。……私も、そうしたい」

 日比野は動かなかった。

 開いた口のまま、目がほむらの顔の上で止まっている。四月の最初の木曜日からどこへも逃げなかった目が、今は、どこへも動けずにいるのだ。

「……ほんとに?」

 日比野の声は、かすれている。

「嘘は――」

 言いかけて、ほむらは口を閉じた。

 嘘は言わないわ、と続けるつもりだった。その言葉が出てこない。土曜の夜の九時半に、お風呂に入っていた、と言った。指輪は外せない、と言って、本当のことを隠した。その口で、嘘は言わないとは言えない。

「……本当よ」

 ほむらは言い直した。

 日比野の目が、みるみる潤んだ。

 日比野はテーブルに肘を突いて、両手で顔を覆った。指の隙間から漏れた息は、第二食堂で花火の誤解が解けたときよりも、もっと長かった。

「……やば」

 手の中で、日比野は言った。

「やばい。……ちょっと、待って。今、顔、やばいから」

 ほむらは待った。

 日比野は顔を覆ったまま、肩を小さく震わせていた。やがて下ろした手の向こうで、目も鼻の頭も赤いのに、それでも笑っていた。

「ありがとう」

 日比野は言った。

「待ってて、よかった。……よかった、ほんとに」

 それから、少しだけ迷うような顔をした。

「あのさ。……ほむらって、呼んでもいい?」

 十月から、日比野は、返事をもらうまでは、と言って暁美さんと呼び続けていた。さっき言いかけて飲み込んだのも、その名前だったのだ。

「ええ」

「……ほむら」

 日比野はその名前を一度だけ口にして、また少し赤くなった。

 ほむらの胸の中で、八ヶ岳の写真を見たときと同じものが、温かく形を持った。

 そして、その温かさのすぐ隣に、冷たいものがあった。

 言うことは、もう一つある。

「航」

 ほむらは左手をテーブルの上に置いた。

 銀の指輪が、店の暖色の照明を受けて鈍く光った。

「もう一つ、話したいことがあるの」

 日比野の顔から笑みが引いて、真剣な顔になった。

「うん」

 ほむらは指輪を見た。

 言うことは決まっている。この指輪が何なのか。ほどけると、何が現れるのか。それが自分の何であって、この身体が何であるのか。中学二年の同じ一か月を、何十回繰り返したのか。四年前の空の最後の光が、誰の手から放たれたのか。

 最初の一言だけでいい、とほむらは思っていた。この指輪は、と言う。そこから先は、口が勝手に続けてくれるはずだった。

「この、指輪は」

 そこで、喉が閉じた。

 息が通らない。三〇二教室のときのように止まったのではない。胸と喉のあいだで、何かが固く詰まっている。言葉がその手前で行き場を失って、積み重なっていた。

 指輪が冷たい。

 胸の奥の、ずっと深いところにある冷たさと同じ温度だった。コーヒーチェーンで好きだと言われたときに来た、あの古い冷たさだ。

 口を開けても、声が出なかった。

 閉じて、もう一度開けても、出なかった。

 日比野は黙ったまま、ほむらを見ていた。その目が、テーブルの上の左手に、それから指輪に下りていく。

 ほむらの左手が、テーブルの上で少しだけ震えていた。

 日比野の手がテーブルを越えて伸びてきた。

 ほむらの左手の上に、そっと重なった。

「……冷たいな、手」

 日比野は小さく言った。

「無理しなくていい」

 日比野の手は温かい。その手が冷たい手を、指輪ごと包むように覆っていた。

「言えるときで、いいから。……俺、訊かないから」

 訊かない、と日比野は言った。

 十月のマミの部屋で、さやかは言った。訊かれないから、楽なんでしょ。訊かれたら困るから、訊かない人を選んでるんでしょ。

 ほむらは、日比野の手の下の自分の左手を見ていた。

 指輪は、日比野の手のひらの下に隠れてそこにあった。日比野の手の温かさが、指輪の上からゆっくりと染みてくる。それでも指輪は冷たかった。

「……ごめんなさい」

 ほむらは言った。喉は、それだけは通した。

「謝ることじゃないって」

 日比野は少し笑った。

「言いたくなったら、言って。言いたくならなかったら、それでもいい」

 日比野は一度だけ軽く握ってから、手を離した。

「蕎麦、伸びるよ」

 ほむらは箸を取った。

 鴨汁に浸した蕎麦は少し伸びかけていた。それでも香りは、まだ残っている。

 

    *

 

 店を出ると、十二月の夜は十月よりもずっと冷たかった。

 駅までの道を、二人で歩いた。商店街の街灯に、クリスマスの小さな電飾が巻き付けられている。

 商店街の出口の少し手前で、日比野が言った。

「……手、つないでもいい?」

 ほむらが見ると、日比野は前を向いていた。耳が赤いのは、寒さのせいだけではなさそうだった。

「ええ」

 日比野の右手が、ほむらの左手を取った。

 日比野の手は温かく、ほむらの手は冷たい。指輪が、二人の指のあいだに挟まった。

「やっぱ、冷たいな。ほむらの手」

「冷え性なの」

 言ってから、それも嘘だと知った。

 日比野はほむらの手を自分のコートのポケットに引き入れた。ポケットの中は、日比野の体温で温まっていた。

「俺、手だけは熱いから。蕎麦屋の息子だし。茹で釜の前にずっといたし」

 日比野はよくわからない理屈を言って、笑った。

 駅の改札の前で、手が離れた。

「また、月曜」

「ええ」

 日比野は改札を抜けて、一度振り返って手を上げた。

 ほむらは左手を上げ返した。

 告白された夜、同じ改札の前で、ほむらは手を上げ返せなかった。上げ方を思いつかなかったのだ。今夜は、思いつくより先に手が上がっていた。

 日比野は嬉しそうに笑って、ホームへの階段を上っていった。

 ほむらは上げた手を、ゆっくりと下ろした。

 ポケットの中の温かさが、まだ手のひらに残っている。指輪だけが、もう冷えていた。

 

    *

 

 アパートの前まで来ると、外階段の上に、小さな人影があった。

 まどかだ。いちばん上の段に座って、膝の上に白い紙の箱を載せている。告白された夜と同じ光景だった。

「……また、一人で来たのね」

「マミさんの家から、すぐだもん」

 まどかは立ち上がって、スカートの後ろを払った。

「おかえり、ほむらちゃん」

「ただいま」

 まどかはほむらの顔を見た。

 あの夜のまどかは、口を開きかけて、閉じた。今夜は閉じない。

「……言えたの?」

「言ったわ」

 ほむらは外階段を上りきって、まどかの前に立った。

「好きだと言ったわ。付き合うことになった」

 まどかは紙の箱の角を、指でなぞった。土手のほうから、冬の風の音だけがしていた。

「……そっか」

 まどかは顔を上げた。

「よかったね、ほむらちゃん」

 まどかの声は、いつもの高さだった。ほむらには、その高さに戻る前の一瞬の低さが、聞こえた気がした。受験の一か月前の、疲れた声なのだろう、とほむらは思った。

「おめでとう」

「……ありがとう」

 まどかは紙の箱をほむらの手に載せた。

「マミさんから。今日のは、ガトーショコラだって。お祝いって言ってた。……マミさんには、わたし、言ってないよ。でも、なにか、わかってたみたい」

「そう」

「それでね」

 まどかはほむらの手の上の箱を見たまま言った。

「言ったの? あっちのことも」

 ほむらは答えなかった。

 まどかは少しのあいだ待ってから、ゆっくりと息を吐いた。

「……言えなかったんだね」

「言おうとしたわ」

 ほむらは箱を持っている左手を見た。

「この指輪は、まで言ったの。そこから先が、出なかった。喉が、詰まって」

「……うん」

「航は、言えるときでいいと言ったわ。訊かない、と」

「そっか」

 まどかの唇が、少しだけ動いた。笑ったのか、何か別のことを言いかけたのか、ほむらにはわからなかった。

「……さやかちゃんの言ったこと、気にしてる?」

 ほむらが返事をしなかったことが、答えになった。

 まどかは外階段の手すりに、そっと手を置いた。

「わたしはね」

 まどかは街灯のほうを見て言った。

「言ってとも、言わないでとも、言わないよ。どっちもつらいのは、わかるから。さやかちゃん見てて、わかったし」

「ええ」

「ただ」

 まどかはそこで言葉を切った。

 手すりの上の指が、冷たい鉄を一度だけ握った。

「全部知ってて、ほむらちゃんのごはん食べてる人も、いるってこと」

 まどかの声は低く、冗談の高さではなかった。

「それだけ、忘れないでね」

 ほむらはまどかを見たが、まどかは街灯から目を下ろさなかった。

 全部知っていて。

 まどかは全部知っている。何十回の一か月のことも。指輪のことも。四年前の空の最後の光のことも。眼鏡と三つ編みの、最初の周のほむらのことも。四年前の春に、ほむらの口から全部を聞いている。

 そのうえで、火曜と木曜と土曜に、この部屋でほむらの作った夕飯を食べてきた。一度も残さずに。

「……まどか」

 ほむらが呼ぶと、まどかは手すりから手を離した。

「今日は、送ってくれる?」

 まどかはほむらのほうを見ずに言った。

「この前は、一人で帰りたかったけど。……今日は、送ってほしいな」

 ほむらはケーキの箱を玄関の内側に置いて、鍵を掛けた。

 二人で外階段を下りて、川沿いの道を並んで歩いた。まどかは、今夜は半歩前にも半歩後ろにもいない。ほむらのすぐ隣を歩いている。マフラーに口元を埋めて、ときどき白い息を吐いた。

 まどかの家の門の前で、まどかは立ち止まった。

「ほむらちゃん」

 まどかは振り返らなかった。

「……ほんとに、よかったね」

 門が開いて、閉まった。玄関の明かりが点いて、扉の向こうに、まどかが消えた。

 ほむらは門の前に、少しのあいだ立っていた。

 まどかの声の低さのことを考えた。受験の疲れ。さやかのことで沈んでいるのかもしれない。それに、日比野が何も知らないことを、まどかは知っている。心配しているのだ。十月の夜と同じように。

 ほむらはそう思って、来た道を戻った。

 

    *

 

 部屋に戻って、ほむらは玄関に置いていたケーキの箱を、ダイニングテーブルの上に移した。

 開けると、ガトーショコラが一切れ入っている。粉砂糖が、表面に薄く振られている。

 左手を持ち上げて指輪をほどき、掌の上のソウルジェムを見た。

 濁っている。

 好きだと言った日だった。好きだと言われた日だった。手をつないだ日だった。

 言えなかった日だった。

 引き出しまで行かずに、ほむらはその濁りを見つめていた。窓の外を、遅い電車の音が一本、遠くで通り過ぎていった。

 やがて引き出しを開けて、グリーフシードを一つ出した。ソウルジェムに近づけると、濁りが音もなく移っていく。

 引き出しの中の残りは、二つになった。

 

    *

 

 十二月の第二日曜日、マミの部屋のリビングの隅に、小さなツリーが置かれていた。

 腰の高さほどの、白い樹脂のツリーだ。金色の玉と赤いリボンと、先端に小さな星。マミが毎年、十二月の最初の週に出してくるものだ。四年前の冬、ワルプルギスの夜を越えて最初の十二月にも、同じツリーが同じ場所に立っていた。

 ローテーブルの上には、苺のショートケーキが載っている。受験生のまどかにとっては、年内最後のお茶会になる。一月の半ばには、共通テストがある。

 全員が座って、マミが紅茶を注ぎ終えたところで、さやかが言った。

「報告。……恭介と、別れた」

 部屋の音が止まった。

 さやかはそれを予期していたように少しだけ笑った。先月のように正座はしていない。クッションの上で膝を抱えて、自分のカップを見ていた。

「先週の日曜。ちゃんと会って、ちゃんと話して、それで」

「さやかちゃん……」

 まどかの目に、もう涙が溜まっていた。

「泣かないでよ、まどか。あたし、もう泣いたから。二日くらい」

 さやかはまどかの頭を軽く撫でた。

 マミがポットを置いた。

「……魔法少女のことが、理由なの?」

「うーん」

 さやかは天井を見上げた。

「半分は、そう。でも、半分は違う」

 さやかはカップを両手で包んだ。

「十一月に、会って話したいって言われたでしょ。あのとき、恭介、ちゃんと受け入れてくれたの。全部聞いて、考えて、それでもさやかと一緒にいたいって。……あたし、泣いた。嬉しくて」

「それなら、どうして」

 ほむらが訊いた。

「そのあとが、ダメだったの」

 さやかは紅茶を一口飲んだ。

「恭介、変わっちゃったの。あたしに、すごく優しくなった。すごく、すごく優しく。荷物持とうとすると、全部取られる。階段で、手、引かれる。寒くない? 疲れてない? って、一時間に三回くらい訊かれる」

 さやかは少しだけ笑った。

「最初は嬉しかったよ。でも、だんだんわかってきたの。恭介、あたしのこと、壊れ物みたいに扱ってるんだって。この身体が入れ物だって聞いたから、傷つけたら終わりだと思ってるんだって」

 さやかは左手の指輪を見た。

「それとね。……恭介、ヴァイオリン弾くとき、必ずあたしに、ありがとうって言うようになった。弾く前に。弾いたあとにも」

 部屋の中の誰も、口を挟まなかった。

「この手が動くの、さやかのおかげだから、って。最初は、それも嬉しかった。でも、毎回なの。練習のたびに。電話でも。……それで、あたし、わかっちゃった」

 さやかの声が、かすかに揺れた。

「恭介の中で、あたし、恋人じゃなくなってたの。恩人になってたの。一生かけても返せないものをくれた人。だから、大事にしなきゃいけない人。優しくしなきゃいけない人。……好きだから一緒にいるんじゃなくて、返さなきゃいけないから一緒にいる人」

 ほむらの指先が、カップの縁の上で止まった。

「恭介は、たぶん、そんなつもりなかったと思う。本気で、あたしのこと大事にしてくれてた。でも、あたしのほうも、変わっちゃってたの。恭介の顔を、いちいち確かめるようになった。今、気持ち悪いって思ってない? 怖いって思ってない? あたしのこと、ちゃんと人間だと思ってる? って。何か言われるたびに、裏を探しちゃって」

 さやかはカップを置いた。

「どっちも、前みたいにできなくなってた。手をつないでも、恭介は壊さないように握るし。あたしは、握り返しながら恭介の顔色見てるし。……そんなの、付き合ってるって言わないでしょ」

 さやかは少しだけ肩をすくめた。

「だから、別れようって、あたしから言った。恭介、泣いてた。僕が悪かったって。悪くないのに」

 沈黙が、部屋を満たした。ツリーの金色の玉が、窓からの光を受けて小さく光っていた。

「……話さなければよかった、とは思ってない」

 さやかは膝を抱え直した。

「話さなかったら、嘘の上で付き合ってたわけだし。それはそれで、いつか壊れてたと思う。……ただ、話したら、魔法少女ってことより、そっちのほうが重かった。知られたことで、相手が変わっちゃうのと、自分が変わっちゃうのが」

 さやかはほむらを見た。

 先月の尖った目ではない。夏の喫茶店のマミの目に、少し似ていた。

「ほむら。だからって、言うなって意味じゃないからね。あたしの場合は、こうだったってだけ」

「……ええ」

 ほむらはそれだけ言った。

 杏子が自分のショートケーキの皿を、さやかの前に押しやった。

「食え」

「……杏子?」

「苺、でかいやつだぞ。やる」

 さやかは杏子を見た。杏子はそっぽを向いていた。杏子が食べ物を人に譲るのを、この部屋の全員が、ほとんど見たことがない。

 さやかは泣きそうな顔で笑った。

「……ありがと」

 さやかは杏子のケーキの苺をフォークで刺して、一口で食べた。

 

    *

 

 マミは紅茶を淹れ直しながら、ずっと口をつぐんでいた。

 さやかの話のあいだ、マミは一度だけ自分の左手の指輪に触れ、すぐに手を離した。ほむらはそれを見ていた。

「……クリスマス会のことなのだけれど」

 淹れ直した紅茶を配り終えてから、マミが言った。

「今年は、二十五日にしようと思うの。二十四日は……その」

 マミの頬に色がのぼった。

「みんな、予定があるかもしれないし」

「マミさん、先輩とですね」

 さやかが赤い目でにやりと笑った。

「あたしは空いてるけどね、二十四日。見事に」

「さやかちゃん……」

「いいの、ネタにしないとやってらんないから」

 さやかはケーキの残りを口に入れた。

「受験生は、ケーキだけ食べに来ます」

 まどかが控えめに手を挙げた。

「暁美さんは?」

 マミがほむらを見た。

 二十四日。まだ何も決まっていない。日比野とは、クリスマスの話を一度もしていなかった。

「……わからないわ」

「そう」

 マミは何かを知っている人の顔で微笑んだ。

 まどかは紅茶のカップを両手で包んで、ツリーのほうを見ていた。

 

    *

 

 その夜、部屋に帰って、ほむらはさやかの話を思い出していた。

 恩人になっていたの。

 一生かけても返せないものをくれた人。好きだから一緒にいるんじゃなくて、返さなきゃいけないから一緒にいる人。

 三〇二教室で、ほむらは日比野に、借りを作ったままにしておくのは好きじゃない、と言った。借りを返すために食券を渡した。借りがなくなれば、関係もなくなると思っていた。

 さやかと恭介は、その逆なのだ。返しきれない借りができたことで、関係が、恋人から別のものに変わってしまった。

 もし、日比野に話したら。

 この指輪が何なのか。四年前の空の最後の光が、どこから来たのか。

 日比野は四年前の空を、何かが勝った瞬間みたいに見えた、と言った。それを確かめるために、長野から見滝原まで来た、と。

 あの光の半分ほどが、ほむらの手から放たれたものだと知ったら、日比野はほむらを、何として見るのだろう。

 恋人ではなく、恩人として。あるいは恩人でさえない、別の何かとして。

 怖いのは、拒まれることだけではない。今日、さやかにそれを教えられた。変わってしまうことが怖い。日比野の目が、ほむらを見るときに、何か別のものを見るようになることが。

 四月の最初の木曜日、その目はどこへも逃げなかった。

 その目のまっすぐさは変わらずに、見るものだけが変わってしまう。ほむらはそれを想像した。

 そこまで考えたところで、別の考えが、思いがけないほうから割り込んできた。

 恩人。

 ほむらは四年前の春のことを思い出した。全部が終わったあとで、ほむらはまどかに、何十周の話をした。まどかは最後まで聞いて、泣いて、それから、ありがとう、と言った。何度も、言った。

 あの夜から、まどかは、ほむらに一度も何かをねだったことがない。二月に入学を辞退すると言ったときでさえ、それはだめ、と言っただけだった。火曜と木曜と土曜に来て、残さずに食べて、九時に帰っていく。外階段で待っている。いってらっしゃい、と送ってくる。

 まどかも返そうとしているのかもしれない。

 一生かけても返せないものを受け取った人として。だから、大事にしなければならない人として。

 そう思った瞬間、胸の奥のどこかが、小さく軋んだ。ほむらはその軋みの意味を確かめなかった。代わりに、別のことを考えた。もし、まどかがそう思っているのなら、自分はそれを、まどかから下ろしてやらなければならない。借りなど、どこにもないのだと。

 どうやって下ろせばいいのかは、わからなかった。

 

    *

 

 翌日の月曜日、第二食堂の窓際で、日比野が言った。

「ほむら。一個、お願いがあって」

 日比野は唐揚げ定食の箸を置いた。

「鹿目さんに、会わせてほしい」

 ほむらはうどんの丼から顔を上げた。

「ちゃんと、挨拶したいんだ。ほむらが、ずっとご飯作ってる人でしょ。中学のときからの、親友でしょ。……付き合ってるのに、会ったことないの、なんか、ちゃんとしてない気がして」

 日比野は目を逸らした。

「あと、正直に言うと、ちょっと怖いから、早めに済ませたい」

「怖い」

「だって、ほむらの親友だよ。俺、たぶん、値踏みされるでしょ。こいつで大丈夫かって。長引くほど、怖くなりそうだから」

 日比野はそう言って笑った。笑い方が、少し引きつっていた。

 ほむらはまどかの顔を思い浮かべた。値踏み、という言葉は、まどかにはあまり似合わない。まどかは測ったりしない。ただ笑って、全部を見る。

「……訊いてみるわ」

「ほんと?」

「まどかが、いいと言ったら」

 日比野は両手を合わせて、拝むような仕草をした。

「年内で、お願いします。……できれば、冬休み入ってすぐとか。二十日の土曜とか」

 

    *

 

 火曜の夜、夕飯の食卓で、ほむらはまどかに言った。

「航が、あなたに会いたいと言っているの」

 まどかの箸が、鯖の塩焼きの上で止まった。

「……わたしに?」

「挨拶したい、と。親友だから、と言っていたわ」

 まどかは鯖を見ていた。

「親友……」

 まどかはその言葉を口の中でそっと転がすように繰り返した。

「その人が、そう言ったの?」

「言ったわ」

 まどかは鯖の身を箸でほぐして、口に入れて、ゆっくりと噛んだ。飲み込んでから、白飯を一口食べた。

「……いいよ」

 まどかは言った。

「会ってみたい。いつ?」

「二十日の土曜。お昼に」

「ここで?」

「ここで。……お昼ご飯を、作るわ」

「何作るの?」

「まだ、決めていないわ」

 まどかは少し考えるような顔をした。

「……出汁巻き、作ったら?」

 ほむらはまどかを見た。

 出汁巻きの話を、ほむらはまどかにしていた。十月の終わりに、日比野の弁当で食べて、好きかもしれない、と言ったこと。二重丸が付いたこと。まどかはそのとき、問題集から顔を上げずに、そっか、と言っただけだった。

 まどかは覚えていたのだ。

「作れる?」

「……作ってみるわ」

「その人のお母さんのより、おいしく作ってね」

 まどかはまた鯖に箸を伸ばした。

「それで、わたし、ちゃんと見ちゃうからね。ほむらちゃんに、ふさわしい人かどうか」

「まどか」

「冗談だよ」

 まどかは少しだけ笑った。

「……たぶん」

 ほむらが横顔を見ているあいだも、まどかはいつもの速さで鯖を食べていた。いつもの量を、いつものように残さずに。

「ありがとう」

 ほむらが言うと、まどかは首を傾げた。

「え? なにが?」

 まどかは箸を置かずに言った。

「わたしが会ってみたいだけだよ。ほむらちゃんの好きな人、どんな顔してるのか」

 

    *

 

 二十日の約束を日比野に伝えたのは、その夜のことだった。

『まどかが、いいと言ったわ』

『二十日の土曜、お昼。うちで』

 返信はすぐに来た。

『ほんとに!?』

『ありがとう!!!』

『何持ってけばいい? 手土産。鹿目さん、何が好き?』

 ほむらは少し考えた。まどかの好きなもの。甘いもの。マミのケーキ。父親のロールキャベツ。弟の描いた絵。何を挙げても、どれも日比野の手土産にはなりそうになかった。

『甘いもの、かしら』

『了解。長野のりんご、実家から送ってもらう!』

 少し間があって、次のメッセージが届いた。

『あと、話変わるんだけど』

『クリスマスって、どうしてる? 毎年』

 ほむらは画面を見つめた。

 毎年のクリスマスは、マミの部屋にいた。四年前から。二十四日の夜に、マミの焼いたケーキとローストチキンを、五人で囲んだ。今年はそれが、二十五日になった。二十四日は空いている。

『毎年、友達の家でパーティーよ』

『今年は、二十五日』

 打ってから、もう一行足した。

『二十四日は、空いているわ』

 送信した。

 既読が付いた。返事が来るまでに、今月の最初の月曜日の三分よりも、長い時間がかかった。

『じゃあ、二十四日』

『一緒に過ごしたい』

『駅前のイルミネーション、見に行かない? 今年、川沿いまで伸びてるらしい』

『それで、晩飯なんだけど』

 吹き出しが、一度途切れた。少ししてから、次が来た。

『クリスマスの店、どこも予約いっぱいで。取れなくて』

『それで、もしよかったらなんだけど。俺の部屋で、鍋とか。俺、作るから』

『いや、変な意味じゃなくて!! ほんとに鍋!!』

 感嘆符が四つ並んでいた。

 ほむらはその四つの感嘆符を見ていた。

 日比野の部屋に行ったことは、まだない。大学の近くのアパートで、一人暮らしをしていることは知っていた。自炊をしていることも。朝五時に起きて、出汁巻きを焼いたことも。

『行くわ』

 それだけ打って、送った。

『ほんとに!?』

『ええ』

『やった』

『鍋、何がいい? 寄せ鍋? キムチ? すき焼きでもいいよ』

『航が作りたいもので』

『それ、一番悩むやつ……』

 困った顔の犬のスタンプが届いた。汗をかいていた。

 ほむらは携帯を伏せた。

 それから、天井を見た。

 二十日には、まどかと日比野が会う。二十四日には、日比野の部屋で鍋を食べる。二十五日には、マミの部屋で、みんなとクリスマス会をする。

 十二月の後半に、予定が三つ並んでいた。何十周の一か月のあいだ、ほむらの予定はいつも一つしかなかった。嵐の日に、何をするか。その一つのために、ほかの全部を並べ直した。

 プレゼントのことを考えた。

 日比野に何を渡すか。人に何かを渡すことなら、ほむらは得意だった。何も言わずに置いて、そのまま離れればいい。何十周のあいだ、そうしてきた。

 蕎麦屋の夜、日比野は言った。ちゃんとした服、これしかないんだよ。水色の、襟のあるシャツ。七月にも十月にも十二月にも着てきたシャツだ。

 新しいシャツを一枚、と、ほむらは決めた。

 選ぶのを、誰かに付き合ってもらおうと考えた。まどかには、もう頼めない。共通テストまで一か月を切っている。マミに頼めばいい。同じ大学にいて、二十四日の予定を持っている人に。

 決めてから、もう一つのことを考えた。

 包めるものは、服だけだった。

 ソウルジェムのことも、何十周の一か月のことも、ワルプルギスの夜のことも、まだどの紙にも包めない。

 さやかは包んで渡して、それで恭介は変わってしまった。そうなるくらいなら、包まずにおくほうがいいのかもしれない。

 そう思ったところで、胸の奥の、いつもの冷たい場所が少しだけ疼いた。

 ほむらは左手の指輪を右手で包んだ。

 冷たかった。二十四日の夜、日比野はまたこの手を冷たいと言うだろう。そして、温めようとするだろう。

 その温かさを受け取っていいのかどうかを、ほむらはまだ決められずにいた。

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