魔法少女たちの恋(魔法少女まどか☆マギカ) 作:LongLong
第九話 結界
十二月二十日の土曜日、まどかは十時半にやって来た。
約束は十二時だった。冬期講習が始まる前の週で、予備校は休みだという。玄関の扉を開けると、まどかはマフラーに顎を埋めたまま、早く来ちゃった、と言って笑った。
「何か、手伝えることあるかなって」
まどかは上がってくるなり、ダイニングテーブルの上を布巾で拭いた。昨夜ほむらが拭いたテーブルだった。それから椅子を三脚、少しずつ位置を直した。台所の入口まで来て、ほむらの手元を覗き込み、すぐに離れた。冷蔵庫の前で立ち止まって、開けずに戻った。
「……あの人、何時に来るの?」
「十二時」
まどかは壁の時計を見上げた。時計の針は、十時四十分を指していた。
「まだ、一時間以上あるんだね」
まどかは椅子に座り、すぐにまた立ち上がって窓の外を見た。落ち着かないのは、どうやらほむらだけではないらしい。
*
出汁巻きは三回失敗した。
一回目は卵液を流しすぎて、巻く前に底が焦げた。二回目は火が弱すぎて、形にならなかった。三回目は形にはなったものの、切ったとたんに断面から出汁が溢れて、皿の上で崩れた。
失敗した三本を、まどかは一切れずつ小さく口に運んだ。
「おいしいよ、これ」
「崩れているわ」
「崩れてても、おいしいものはおいしいよ」
まどかは三本目を半分だけ食べて、残りを小さな容器に詰めた。パパに持って帰る、と言った。
四回目で形になった。黄色い層が断面で渦を巻いている。端を一切れ切って、味見をした。
十月の終わりに第二食堂で食べたものとは、少しだけ違った。甘さが、ほんのわずかに強いのだ。
卵液に入れる砂糖を、ほむらは日比野に聞いた分量よりほんの少しだけ多くしていた。そうするつもりはなかった。手が先に、そうしていたのだ。
四年分の火曜と木曜と土曜に、ほむらはこの台所で何百回も卵を焼いてきた。そのたびに、まどかは同じ顔をして食べた。
まどかは、甘い卵焼きが好きだった。
*
十一時五十分に、ほむらは外階段の下まで下りた。
日比野はもう来ていた。アパートの前の電柱の横で、両手で大きな段ボール箱を抱えて立っている。紺のダッフルコートの下に、水色の襟のあるシャツが見えた。これで四回目になる。
「……早いわね」
「電車、一本早いの乗っちゃって。十分くらい、ここで固まってた」
日比野は段ボール箱を抱え直した。側面に、長野県産、と赤い字で刷られている。
「それは」
「手土産。甘いものって言ってたから、実家から送ってもらった」
外階段を上がるとき、日比野は一段ごとに箱を持ち直した。三段目で、少し息を吐いた。箱は見た目よりずっと重いらしい。
「ほむら」
「何」
「俺、変じゃない? 髪とか」
右のこめかみの上で、寝癖がいつものように跳ねている。水で押さえた跡が残っている。
「いつも通りよ」
「それ、いいほう? 悪いほう?」
ほむらは答えずに、玄関の扉を開けた。
*
まどかは、廊下の真ん中に立っていた。
両手を胸の前で握り、カーディガンの袖口を指先できつく掴んでいる。
日比野がほむらの後ろから一歩前に出た。段ボール箱を床に置いて、背筋を伸ばす。
「はじめまして。日比野航です」
深く頭を下げた。
「ほむらさんと、お付き合いさせてもらってます。今日は、お時間いただいて、ありがとうございます」
コーヒーチェーンの告白よりも、さらに固い敬語だった。練習してきたのかもしれない。
まどかは日比野の旋毛を見つめたまま、すぐには口を開かなかった。日比野は頭を下げたきり、固まっている。動けないのだろう。
「……鹿目まどかです」
まどかは小さな声で言った。
「ほむらちゃんが、いつも、お世話になってます」
日比野が顔を上げた。
廊下で向かい合うと、まどかのほうが頭一つ低い。まどかは日比野を見上げていた。測るような目ではなかった。ほむらが思っていたとおり、笑う前に、全部を見ておこうとする目だった。
沈黙が三秒続いた。
「……あの、これ」
日比野が床の段ボール箱を持ち上げて、差し出した。
「つまらないものですが。実家の近くの農家さんから、送ってもらって……」
日比野が箱の蓋を開けた。
赤かった。
箱の中に、赤いりんごがぎっしりと詰まっていた。表面に、薄く蜜の筋が浮いている。
まどかの目が見開かれて、胸の前で握っていた手がほどけた。
「……わあ」
「ふじです。今がいちばんおいしい時期で。蜜、けっこう入ってると思います」
「全部、ですか?」
「全部です。二十個くらい」
まどかは箱の中を覗き込んで、それから日比野の顔を見た。両手で箱の縁にそっと触れた。
「……ありがとうございます。どうぞ、上がってください」
まどかは箱を抱えようとして、重さに少しよろけた。日比野が慌てて手を添えた。二人で箱を持って、居間のほうへ運んでいった。
ほむらは玄関に立っていた。
秋になると、まどかは父親が剥いたりんごを容器に詰めて持ってくることがある。そのことを、ほむらは日比野に話していなかった。
日比野は居間の入口で振り返って、声を出さずに口だけ動かした。今の、よかった?
ほむらは小さく頷いた。
*
ダイニングテーブルに、昼食を並べた。
出汁巻き。鮭の塩焼き。ほうれん草の胡麻和え。豆腐とわかめの味噌汁。白飯。
日比野はテーブルの上を見て、少しのあいだ動かなかった。
「……これ、全部、ほむらが?」
「そうよ」
「出汁巻き、ある」
「まどかが、作ったらと言ったの」
「わたしは、言っただけだよ」
まどかが少し慌てたように言った。まどかは日比野の斜め向かいに座っていた。りんごの箱は、まどかの椅子のすぐ横に置かれている。
「作ったのは、ほむらちゃんだから」
「いただきます」
三つの声が、少しだけずれて揃った。
日比野は、最初に出汁巻きへ箸を伸ばす。一切れを口に入れて、噛みながら目を閉じた。
「……うまい」
日比野は目を開けた。
「うまい。……けど、母ちゃんのより、ちょっとだけ甘い」
ほむらの箸が止まった。
「甘いの、おいしいですよ」
まどかが、自分の出汁巻きを口に運びながら言った。
日比野は、まどかを見て、その皿を見た。まどかの皿の出汁巻きは、もう半分になっている。それから日比野はほむらを見て、何かに気づいたような顔をした。
「……これ、鹿目さん用だ」
まどかの箸が、皿の上で止まった。
「甘さ。鹿目さんの好みに合わせてる。ほむら、たぶん、無意識で」
まどかが日比野を見た。日比野は小さく笑っていた。からかう笑い方ではない。蕎麦屋で、ほむらの一口目を見届けたときの笑い方だった。
まどかは、ほむらを見た。
ほむらは自分の皿の出汁巻きを見ていた。四回目でようやく形になった出汁巻きの、少しだけ多い砂糖のことを。
まどかの耳が、ゆっくりと赤くなった。
「……そう、なの?」
ほむらは返事をしなかった。返せる言葉を、持っていなかった。
まどかは俯いて、残りの出汁巻きを小さく口に入れた。噛みながら、白飯の茶碗を両手で持ち直した。
「……おいしいよ、すごく」
まどかは誰の顔も見ずに言った。
*
昼食が半分ほど進んだころ、まどかが箸を止めて日比野を見ていた。
日比野は鮭をほぐしながら、ワンゲルの秋合宿の話をしていた。八ヶ岳の初冠雪。凍った池。朝焼けの稜線。まどかは最初、黙って頷くだけだった。途中から、すごいですね、と言うようになり、さらに途中から、それで、と続きを訊くようになった。
ほむらはそれを見ていた。
まどかの肩から、少しずつ力が抜けていく。朝からテーブルを拭き、椅子の位置を直し、廊下の真ん中で袖口を握っていた肩だった。
「あの……」
山の話が一段落したところで、まどかが言った。
「わたし、ほむらちゃんに、ちゃんと見ちゃうって言ったんです。日比野さんのこと」
日比野が背筋を伸ばした。
「……はい」
「だから、訊いてもいいですか」
まどかは膝の上で両手を重ねた。
「ほむらちゃんの、どこが好きなんですか」
日比野の顔が、首から順番に赤くなっていった。
「え、あ、それ、本人の前で……」
「本人の前だから、訊きたいんです」
まどかは小さく笑った。その顔のどこにも、目を逸らす気配はなかった。
日比野はほむらを見た。ほむらは味噌汁の椀を持っていた。置くべきかどうか少しだけ迷って、置かずに持っていた。
日比野は、観念したように息を吐いた。
「……最初は、入学してすぐの、ゼミの自己紹介で」
日比野は自分の膝を見ながら話しはじめた。
「みんな、趣味とか、ハマってることとか言ってて。俺も、自炊始めたとか言って。それで、ほむらの番になって。名前と、出身だけ言って、終わって。先生が、趣味とか、って訊いたら、特にありません、って」
日比野は小さく笑った。
「それ聞いて、なんか、すげえって思ったんです。みんな、自分をちょっとでもよく見せようとして何か言うのに、この人、何も足さないんだって」
ほむらは椀を持った手を下ろした。
三〇二教室で、正面の辺から誰かが短く息を漏らした。笑い声と呼ぶほどのものではなかった。何かに感心したときに、人が思わず出す音に少し似ていた。
「それから、雷のとき」
日比野は続けた。
「ほむら、固まってたんです。誰も気づいてなかったけど、俺、正面だったから見えてて。手、机の下で押さえてて。息、止まってて。……なんか、守りたいって思った。変な意味じゃなくて」
まどかの重ねた手が、膝の上で小さく動いた。
「……わかります」
まどかは小さな声で言った。
日比野がまどかを見た。まどかは目を伏せて、りんごの箱のほうを見ていた。
「それから、ご飯食べるとき」
日比野は少しだけ声を落とした。
「ほむら、何食べても、だいたい同じって言うでしょ。でも、ほんとにおいしいもの食べたとき、ほんのちょっとだけ顔が変わるんです。一瞬だけ。見逃したら、わかんないくらい。……俺、それ見るのが、いちばん好きで」
まどかは、じっと聞いていた。
「あと」
日比野は顔を上げた。
「ほむら、嘘つかないじゃないですか。訊いたことに、そのまま答えてくれる。取り繕わないっていうか。俺、そういうとこが、すごく——」
ほむらの手の中で、味噌汁の椀が傾いた。
土曜の夜の九時半に、お風呂に入っていた。
指輪は、外せない。
まどかがほむらを見た。ほんの一瞬、その目がほむらの顔の上で止まって、何も言わずに日比野のほうへ戻った。
「……見た目は、どうですか」
まどかが言った。さっきまでより、少しだけ明るい声だった。
「ほむらちゃん、きれいだから。髪とか、目とか。そういうのは、好きなところに入らないんですか?」
日比野は困ったように笑った。
「それは、言わない約束なんで」
まどかの眉が少し上がった。
「約束、ですか?」
「前に、俺、ほむらの髪とか目のこと、綺麗って言っちゃって。怒らせて。それから、言わないって約束したんです」
日比野はほむらを見た。
「だから、言わない。……思ってないって意味じゃないけど」
まどかは日比野を見ていた。
さっきまでの、話の続きを訊く顔ではない。廊下で袖口を握っていたときの顔とも、違っていた。
まどかは、少しのあいだ口を閉じていた。
それから、テーブルの上の出汁巻きの最後の一切れを箸でつまんで、日比野の皿の上に置いた。
「……どうぞ」
「え、いいんですか」
「日比野さんが、いちばんおいしそうに食べてたから」
まどかは自分の茶碗に目を落とした。
日比野は皿の上の出汁巻きを見て、まどかを見て、ほむらを見た。両手を合わせて、いただきます、ともう一度言った。
*
食後に、まどかがりんごを剥いた。
包丁を持つまどかの手は、慣れていた。皮が途切れずに、長い一本の螺旋になって垂れ下がっていく。父親に教わったのだと、前にまどかから聞いたことがあった。八等分に切って芯を取り、皿に並べる。断面の中心に、透き通った蜜が星の形に広がっていた。
「すごい、蜜」
まどかは一切れを口に入れて、目を細めた。
「……甘い」
日比野が嬉しそうに笑った。
三人でりんごを食べる。日比野がまどかの包丁さばきを褒め、まどかは、パパのほうが上手なんです、と言った。
りんごを持つほむらの左手に、日比野の目が止まった。
「鹿目さんは、指輪、してないんですね」
ほむらの手の中で、りんごの一切れが止まった。
「ほむら、ずっとしてて。外せないって言ってたから。……何か、意味があるのかなって」
まどかは自分の手元のりんごを見た。
ほんの一秒、間があった。
「……中学のときから、ずっとしてるんです。ほむらちゃん」
まどかはりんごを口に入れた。
「お守りみたいなものだって。なくしたら困るから、外さないんだよね。ね、ほむらちゃん」
嘘ではない。けれど、全部が本当でもなかった。
まどかは、りんごを噛みながら、何でもない顔をしていた。日比野は、そっか、と言って笑った。お守りか、と言った。大事なものなんだね、と。
「……はい。ほむらちゃんの、大事なものなんです」
まどかは言った。
ほむらはまどかを見たが、まどかはほむらを見なかった。
ほむらの代わりに、まどかが嘘をついた。そういうことのいちばん苦手な人間が、自分の代わりにそれを引き受けたらしい。
りんごの甘さが、口の中で少しだけ遠くなった。
*
三時を少し過ぎたころ、日比野は帰り支度を始めた。
玄関で靴を履いて立ち上がり、まどかに向き直った。
「今日は、ありがとうございました。ごちそうさまでした」
日比野はまた深く頭を下げた。
まどかは廊下の壁の前に立っていた。朝と同じ場所だ。両手は胸の前で軽く重ねているだけで、もう袖口は掴んでいない。
「日比野さん」
「はい」
「ほむらちゃんのこと……泣かせないでくださいね」
「泣かせません」
日比野は即答した。
まどかは少しのあいだ、日比野を見ていた。
「……じゃあ」
まどかは、ほんの少しだけ笑った。
「また、来てくださいね。りんご、持って」
日比野の顔がぱっと明るくなった。
「はい! また送ってもらいます!」
「箱ごと、ですか?」
「箱ごとで!」
まどかは口元を押さえて笑い、居間のほうへ戻っていった。
ほむらは、日比野と一緒に外階段を下りた。
「……緊張した。人生でいちばん、緊張した」
日比野は階段の下で、大きく息を吐いた。
「鹿目さん、いい子だね」
「いい子よ」
「最初、めっちゃ緊張してたよね、鹿目さんも。廊下で、袖、ぎゅってしてて。りんご見たときの顔、すごかった」
日比野は、十二月の午後の薄い青を見上げた。
「それに」
日比野は、少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「鹿目さん、ほむらのこと、すごく好きなんだね」
ほむらは日比野の顔を見た。
日比野の目は、もう空ではなく、ほむらのほうにあった。
「出汁巻きの最後の一切れ、俺にくれたでしょ。あれ、たぶん、ほむらの作ったもの、ほむらを大事にしてるやつに食わせたかったんだと思う。……俺の勝手な想像だけど」
親友だから、とほむらは思った。中学のときから一緒にいた、親友だから。
「……ええ」
ほむらは言った。
「じゃあ、二十四日」
「二十四日に」
「鍋、何にするか、まだ決めてない」
「航が作りたいもので」
「それ、いちばん悩むやつ」
日比野は笑って、通りのほうへ歩いていった。角のところで一度だけ振り返って、手を上げた。
ほむらは手を上げ返した。
*
部屋に戻ると、まどかは台所に立っていた。
二個目のりんごの皮が、また途切れずに長い螺旋になって垂れ下がっていた。
「……いい人だね、日比野さん」
まどかは包丁を動かしながら言った。
「知っているわ」
「りんご、持ってきてくれたし」
「知らずに、持ってきたのよ」
「知らずに持ってくるのが、いいんだよ」
まどかはりんごを八等分に切って、一切れをほむらに差し出した。ほむらはそれを受け取った。
「まどか」
「なに?」
「指輪」
まどかの包丁が、まな板の上で止まる。
「……お守りって、言ったこと?」
「その話よ」
まどかは、すぐには答えずに、また包丁を動かしはじめた。
「ごめんね、勝手に。……わたし、嘘、苦手なのにね」
まどかはまな板を見ていた。
「でも、ほむらちゃんが言えないなら、わたしが言っておくよ。……それだけ」
ほむらは手の中のりんごを見た。断面の中心に、蜜が星の形に透き通っている。
「……ありがとう」
「お礼言うことじゃないよ」
まどかはりんごを一切れ、自分の口に入れた。噛みながら、窓の外を見ていた。
「ほむらちゃん、嘘つかないじゃないですか、だって」
まどかは、日比野の声をほんの少しだけ真似た。
「……あの人、そう思ってるんだね」
ほむらは答えなかった。
まどかもそれ以上は続けずに、二人で台所に立ったまま、りんごを食べた。
蜜の入ったりんごは甘い。まどかが剥いたりんごの味だった。
食べ終えると、まどかは段ボール箱の前にしゃがんで、中を覗き込んだ。
「杏子ちゃんにも、分けてあげようよ」
さっきまでとは違う、いつもの高さの声だった。
「りんご、好きだから。マミさんとさやかちゃんの分も。……明日、持っていってもいい?」
「そうして。杏子が喜ぶわ」
杏子は、りんごを剥かずに丸ごと齧る。四年前から、ずっとそうだ。剥いて渡したら、たぶん文句を言われるだろう。
まどかは箱の中から、赤いりんごを一つずつ手に取っては光にかざし、三つを選んでテーブルの上に並べた。
箱の中には、まだ十五個残っていた。
*
十二月二十四日の午後、ほむらは紙袋を一つ膝に載せて、ベッドの端に座っていた。
駅ビルの紳士服売り場の、白い紙袋だった。中には、薄い灰色の、襟のあるシャツが一枚、箱に入って収まっている。先週の木曜日に、マミと二人で選んだものだった。
決めたのは、ほとんどマミだった。ほむらは売り場の端から端まで、襟のあるシャツを一枚ずつ見ていった。三十枚ほど見て、どれも同じに見えて、手が止まった。マミが横から一枚を引き抜いた。水色の次は、これかしら、と言った。日比野くん、きっと水色のしか持っていないのでしょう。
店員が、プレゼント用にお包みしますか、と訊いた。ほむらは、はい、と答えた。包み紙は深い緑で、金色の細いリボンが掛けられた。
携帯が短く震えた。さやかからだ。
『明日のクリスマス会、ケーキ何個食べられるか勝負しよ』
続けて、もう一つ。
『あと今日、がんばれほむら。男の部屋行くんでしょ』
『覚悟しときなよ。いろいろ』
いろいろ、とほむらは読んだ。
その中身を考えた。十二月の最初の金曜日の夜、駅までの道で手をつないだ。その次に来るもの。恋人と呼ばれる二人が、その次にすること。言葉としては知っていた。本の中でも、画面の中でも、見たことがある。自分がする側になることは、一度も頭になかった。
試しに、思い浮かべてみた。日比野の顔が近くにある。ポケットの中の手のひらの温かさが、今度はもっと近いところにある。
嫌ではなかった。
そう思ったところで、胸の奥の冷たい場所がはっきりと疼いた。
日比野は何も知らない。その彼が、触れる。この身体が何なのかも、この指輪が何なのかも知らずに、好きだと言った相手の本当の形を知らずに、近づいてくる。
それは、嘘の上にもう一つ何かを積むことだった。
言うなら、その前に。
ほむらは紙袋の持ち手を握った。今夜、言う。鍋を食べて、シャツを渡して、それから。もしそういうことになりそうになったら、その前に必ず。この指輪は、の続きを。
蕎麦屋の夜は喉が詰まって言えなかった。今夜も同じことになるかもしれない。そうなったらどうするのか。何も言えないうちに、近づかれたら。
考えは同じところを何度も回って、そのたびに少しずつ速くなっていく。
携帯がもう一度震えた。まどかからだった。
『メリークリスマス。楽しんできてね』
少し間があって、もう一つ。
『明日、マミさんのところで、会えるよね?』
ほむらは画面を見た。
『会えるわ』
送ってから、紙袋を膝の上から持ち上げた。
まどかは今日も、予備校の自習室にいるのだろう。共通テストまで、あと三週間と少しだった。
*
待ち合わせは、駅の改札の前だった。
五時半に行くと、紺のダッフルコートに灰色のマフラーを巻いた日比野が、もう来ていた。手には、スーパーのビニール袋を二つ提げていた。袋の口から、長ネギの青い葉と白菜の端が覗いていた。
「買い出し、先に済ませといた。鍋、寄せ鍋にした。結局」
日比野は少し照れたように袋を持ち上げた。
「いちばん無難なやつ。……ほむらの好きなやつ、まだ全部わかってないから。いろいろ入れて、当たりを探す作戦」
「作戦」
「うん。作戦」
日比野はほむらの手の紙袋に目をやった。緑の包み紙と、金色のリボン。何も訊かずに、嬉しそうに口元を緩めた。
駅前の広場から、川沿いまで、イルミネーションが続いていた。
並木の枝という枝に、小さな白い電球が巻き付けられている。広場の中央には大きなツリーが立っていた。人の流れが、光の下をゆっくりと川のほうへ動いていく。恋人たちと、家族連れと、写真を撮る人たち。
二人も、その流れに混じって歩いた。
「きれいだね」
「……そうね」
白い光の並木は、川沿いの道まで伸びていた。夏に花火を見た土手の上にも、光の筋が一本、川に沿って走っている。四年前、この川の上の空は真っ黒だった。それを覚えている人間は、この光の下にはもうほとんどいないのだろう。
日比野が、ほむらの左手を取った。
「やっぱ冷たい」
日比野は、ほむらの手を自分のコートのポケットに入れた。返事をした夜と同じだった。
ポケットの中で、ほむらは日比野の手の温かさを感じていた。
この温かさの前に、言っておくべきだったのかもしれない。蕎麦屋の夜に。あるいは告白された日に。あるいは、初めて会った日に。
イルミネーションの終わりまで歩いたところで、日比野が言った。
「こっから、うちまで近道あるんだ。商店街の裏抜けると、坂の下に出る」
日比野はビニール袋を持ち直して、明かりの少ない路地のほうへ曲がった。ほむらはポケットの中の手を引かれて、その後ろを歩いた。
路地は細い。両側に、閉まった店の裏口と、室外機と、積まれた段ボールが並んでいる。イルミネーションの光は、ここまでは届かない。
ほむらは日比野の背中を見ていた。
鍋を食べて、シャツを渡して、それから。言う順番を、頭の中で並べ直していた。この指輪は、と言う。そこで詰まったら、指輪を外して見せる。いや、外して見せるわけにはいかない。外せば、この身体は。
左手の指で、指輪が熱を持っていた。
いつから熱かったのか、ほむらにはわからなかった。日比野のポケットの中で温められていたのだと思っていた。そうではない。この熱は、手の温かさとは種類が違う。四年間、何百回も感じてきた熱だった。
魔女の気配だ。
近い。近すぎる。
「航」
ほむらが呼んだのと、路地の空気が歪んだのは、ほとんど同時だった。
*
路地の奥が、ねじれていく。
室外機も、段ボールも、店の裏口も、紙に描いた絵を丸めるように内側へ巻き込まれていく。足元の舗装が柔らかくなった。靴の底が、何か紙のようなものを踏んでいる。
音が消える。商店街のざわめきも、遠くの車の音も、広場から流れていたクリスマスの曲も、一度に消えた。
代わりに、鈴の音がする。
気がつくと、二人は長い廊下に立っていた。
壁も床も天井も、包装紙でできている。赤と緑と金の、同じ柄の包装紙が、どこまでも続いていた。天井から金色のリボンが何百本も垂れ下がり、その先に硝子の飾り玉がぶら下がって、ぶつかり合っては鈴のような音を立てていた。
廊下の両側には、扉が並んでいた。扉ではなかった。包装された巨大な箱の、蓋だった。
「……え」
日比野の声が、包装紙の壁に吸い込まれた。
「え、何。何、これ。え?」
日比野はポケットの中で、ほむらの手を強く握った。もう片方の手からビニール袋が滑り落ちた。長ネギが、包装紙の床の上に転がった。
「路地、は? え、ほむら、ここ、どこ」
ほむらは黙っていた。ここがどこなのかは知っている。それを口にできなかった。
魔女の結界に、何も知らない人間を一人、連れて入ってしまった。
「携帯……」
日比野はほむらの手を離さずに、もう片方の手で携帯を取り出した。
「圏外……は? さっきまで、駅前だったのに」
日比野は廊下の前を見て、後ろを見た。どちらにも、同じ包装紙の廊下が同じように続いている。来た道は、どこにもなかった。
「ほむら、これ、何。夢? 俺、なんかおかしい?」
日比野の声が、少しずつ上ずっていく。
左手の指輪が熱い。
変身すれば、終わる。この結界の魔女がどれほどのものかは、気配でわかった。強くはない。杏子一人でも、一分もかからない。ほむらなら盾から一つ出して、投げれば済む。
変身すれば、日比野に見られる。
盾の砂時計を返せば、世界はほむら一人を残して止まる。その静けさの中で変身して、片付けて、元に戻れば、誰の目にも何も残らない。何十周のあいだ、そうやって無数の危険を、誰にも知られずに通り抜けてきた。
けれど今、日比野の手がほむらの手を握っていた。
ほむらに触れているものは、止まった時間の中でも止まらない。このまま砂時計を返せば、日比野は止まった世界の中で、ほむらの隣に立っていることになる。手を振り払ってから返せば、振り払われた手の先で、ほむらが姿を変えるのを見ることになる。
どちらにしても、見られる。
ほむらが指輪に目を落としたとき、廊下の奥の箱の蓋が一つ、開いた。
中から、兵隊が出てきた。
胡桃割り人形の形をしている。赤い上着に、金色のボタン、四角い顎。背丈は大人の男ほどある。関節が、木の軋む音を立てる。右手には、紙のように薄い銀色のサーベルが握られていた。
一体、二体、三体。隣の箱の蓋も開き、その隣も開いた。
「……は?」
日比野が一歩下がった。ほむらの手を引いて、自分の後ろへ回そうとする。
一体目が、軋みながらこちらへ歩いてきて、サーベルをゆっくりと持ち上げた。
変身するなら、このときだった。日比野は人形を見ていて、ほむらを見ていない。
その可能性を量っていた時間は、一秒もなかった。人形にはそれで足りた。
サーベルが振り下ろされた。
ほむらは身体を捻って、日比野のポケットから左手を引き抜いた。指輪を刃から遠ざけた。考えるより先に、身体がそうしていた。何十周のあいだに刻まれてきた順番だった。ソウルジェムだけは守る。指ごと斬り落とされて、指輪がどこかへ飛ばされれば、それで終わる。
指輪は刃から逃れた。その代わりに、左の前腕が刃の軌道に残った。
熱い線が、腕の内側を走った。
コートの袖が裂けた。その下の薔薇色のカーディガンの袖も裂けた。その下から、赤いものが溢れ出して、包装紙の床にぽたぽたと落ちていく。
痛みは遅れて来たが、それほど強くはなかった。この身体は、痛みを遠ざけるやり方を知っている。
「ほむら!」
日比野の声が裂けた。
*
日比野がほむらの右手を掴んで、走り出す。
廊下を、胡桃割り人形の群れとは反対の方向へ。包装紙の床は柔らかくて、靴が沈む。日比野は何度かつまずきかけて、つまずかずに走った。
「なんだよ、あれ、なんなんだよ!」
走りながら叫んでいた。それでも一度も、ほむらの手を離さなかった。
廊下の角を曲がっても、もう一度曲がっても、同じ廊下が続いていた。
三度目の角の先は、行き止まりだった。巨大な箱の壁が、廊下を塞いでいる。箱の側面に、金色の字で何か書かれていた。読めない字だった。
日比野が拳で叩くと、包装紙は鈍い音を立てたが、破れなかった。
「出口、出口……」
日比野は振り返った。廊下の奥から、軋む音が近づいてきていた。
ほむらの左腕から、血が落ち続けている。コートの袖が、肘の上まで重く濡れていた。指先が、少しずつ冷たくなっていく。
指輪だけが、まだ熱かった。
そのとき、結界の空気が揺れた。
遠くのどこかで、何かが入ってきた。魔女のものでも、使い魔のものでもない魔力の気配。
魔法少女だった。
杏子ではなかった。マミでも、さやかでもない。四年間、隣で感じてきたどの気配とも違う、知らない魔力だった。冷たくて、細くて、糸を張ったように鋭い。
誰かが、この結界に入ってきた。魔女を狩りに。
「ほむら、下がって」
日比野の声がした。
日比野は、行き止まりの壁と廊下の奥とのあいだに立っていた。ほむらを壁の側へ押しやって、自分は廊下のほうを向いている。
手に何かを持っていた。天井から垂れ下がっていた金色のリボンを、先の飾り玉ごと根元から引きちぎったものだった。硝子の玉が、リボンの先で揺れていた。武器と呼べるものではなかった。
胡桃割り人形たちが、五体、六体と角を曲がって現れた。
「来んなよ……」
日比野の声は震えていたが、その場からは動かなかった。
一体目がサーベルを振り上げた。日比野はリボンの先の飾り玉を、力任せに振り回した。硝子の玉が人形の顔に当たって砕けた。人形は一瞬だけ動きを止め、また動き出した。
二体目のサーベルが、日比野の肩を掠めた。コートの肩が裂けた。
「航!」
日比野は振り返らなかった。
「大丈夫、大丈夫だから、ほむら、動くな、そこにいて」
日比野の背中が、ほむらの前にあった。紺のダッフルコートの、裂けた肩の背中が。
守られている、とほむらは思った。
三つ編みをほどいたのは、守られる側をやめると決めた周だった。それから何十周、ほむらは誰かの前に立つ側にいた。まどかの前に。何度失敗しても、その前に。守られる側に戻ることは、二度とないはずだった。
今、何も知らない人間が、硝子の飾り玉一つを握って、ほむらの前に立っている。
三体目が、サーベルを振り上げた。日比野の頭の、真上に。
左手の指輪が光った。
考えるより先だった。
初めて会った日から、告白された日から、蕎麦屋の夜から、今日の午後まで、あれほど考えてきたことを、その一瞬は一つも考えなかった。見られることも。全部が終わることも。
指輪の光がほどけかけた。卵形の石の形に戻りかけた。
その瞬間に、結界が震えた。
遠くで、何かが砕ける音がした。重く、深く、結界の底から響いてくる音だった。
胡桃割り人形の動きが止まった。振り上げられたサーベルが、日比野の頭の上で止まった。
人形たちの輪郭が崩れはじめた。赤い上着の端から、包装紙が剥がれるようにほどけていく。サーベルがただの銀紙になって、ひらひらと落ちた。
廊下の包装紙が剥がれていった。天井のリボンが、飾り玉ごと光の粒になって消えていく。
魔女が倒されたらしい。知らない誰かの手で。
指輪の光が引いていった。ほどけかけた形が、元の銀の輪に戻った。
日比野の背中の向こうで、世界が元の形に戻っていった。
*
路地に戻っていた。
閉まった店の裏口と、室外機と、積まれた段ボール。冷たいアスファルト。遠くから、広場のクリスマスの曲がかすかに流れてくる。
日比野はリボンの切れ端を握りしめて、立ち尽くしていた。先の飾り玉はもうない。握っているのは、ただの金色の紙テープだった。
路地のずっと奥の暗がりに、人影が一つ立っていた。
ほむらの知らない形の衣装を着た、小柄な影だった。細い指の先に、黒い小さなものを摘まんでいた。グリーフシードだった。
影は、ほむらの顔を見て、左腕を見て、それから日比野の背中を見た。ほんの一秒のことだった。
影は路地の塀の上に跳んで、夜の中に消えた。
日比野はそれを見ていない。振り返って、ほむらだけを見ていた。
「ほむら」
かすれた声だった。
「ほむら、腕」
日比野の目が、ほむらの左腕に落ちた。
コートの袖が、肘から下まで黒く濡れている。街灯の光の下で、それが黒ではなく赤だということが、はっきりとわかった。袖口から、まだアスファルトに滴っていた。
日比野の顔から、血の気が引いていった。
「……うそ、これ、深い。すげえ深い」
日比野は自分の首からマフラーをむしり取った。灰色のマフラーを、ほむらの左腕に巻き付けようとして、裂けた袖をめくった。
腕の内側に、一本の線が走っていた。赤いものが、深い線の奥から途切れずに湧いていた。
日比野の手が震えた。
「救急車、救急車呼ぶ。今、呼ぶから。携帯……電波、戻ってる、今」
日比野は震える手で携帯を取り出した。
「大丈夫」
ほむらは言った。
日比野の指が、画面の上で止まった。
「大丈夫じゃない。大丈夫なわけないだろ。こんなに血、出て」
「大丈夫」
ほむらは日比野のマフラーを自分の腕から外して、日比野の手に返した。
魔力を傷に回せば、塞ぐことはできる。けれど、ここまで深いと時間がかかる。路地に座り込んで、日比野の目の前で治すわけにはいかない。こういう傷をすぐに塞げるのは、さやかだった。
病院にも行けない。救急車で運ばれれば、まどかの耳に入る。共通テストまで三週間と少しのまどかに、この腕のことで、しなくていい心配をさせることになる。
「ほむら」
日比野が、ほむらの右手を掴もうとした。
「さっきの、何。あれ、何だったの。ほむら、何か知ってるの? なんで、そんなに落ち着いて――」
ほむらは、その手をすり抜けた。
「ごめんなさい」
ほむらは走り出した。
路地の出口へ。イルミネーションの光のほうではなく、反対の暗い通りのほうへ。
「ほむら!」
背後で日比野が呼んだ。追ってくる足音がした。ほむらは速度を上げた。普通の人間の足では追いつけない速さまで。角を二つ曲がり、三つ目の角を曲がったところで、足音は聞こえなくなった。
ほむらは走り続けた。
夜の歩道に、左腕から落ちたものが、点々と赤い跡を残していった。
*
部屋に着いたのは、七時を少し過ぎたころだった。
鍵を開けて中に入ると、明かりの点いていない玄関の床に、血が落ちた。
ほむらは靴を脱ごうとして、膝が折れた。上がり框に腰が落ちた。
走っているあいだは感じなかった重さが、止まったとたんに一度に来た。左腕の感覚が、肘から先で遠くなっている。痛みを遠ざけていたのと同じやり方で、腕そのものが遠ざかっていくようだった。
右手で袖をまくり上げてみる。
腕の内側の線は、路地で見たときと変わっていない。塞がる気配はなかった。
ほむらは左手を、時間をかけて持ち上げた。
指輪をほどいた。掌の上に、ソウルジェムが載った。
今まで見た中で、いちばん濃く濁っている。底に沈んでいた煤が、石の半分近くまで黒く渦を巻いている。
グリーフシードは机の引き出しの中にあった。残りは二つ。ここから十歩もない。
立ち上がろうとした。膝に力を入れた瞬間、視界の端が暗くなった。上がり框に右手をつくと、そこに赤い手形が付いた。
この身体は、ソウルジェムが動かしている。ソウルジェムが無事なら身体は動く。そう信じて、何十周も戦ってきた。けれど、動かすための血が尽きれば、ソウルジェムがいくら命じても、身体のほうが応えなくなる。視界の端の暗さは、その始まりだった。
盾の中に、まだ残っているものがある。
四年前、自衛隊の基地からいくつも持ち出したもののうちの、使わずに残った残りだ。銃弾。爆薬。それから、使うことはないと思っていた、救急用の包みが一つ。
盾を出すには、変身しなければならない。
変身すれば、濁りはさらに進む。しなければ、血が尽きる。どちらを選んでも、削れるのはほむらのほうだった。
石を左手の指に戻し、その指輪に意識を落とした。
玄関の暗がりが、一瞬だけ紫に光った。
左腕に、円い盾の重さが戻ってきた。
ほむらは右手を盾の内側へ差し入れた。銃の冷たい把手を指が通り過ぎ、その奥で、布の包みを探し当てた。
止血帯。
肘の少し上に巻いて、棒を回して締め上げた。一回、二回。腕が締め付けられて、その先で、傷口から溢れていたものの勢いが少しずつ弱まっていく。
変身を解いた。盾が消えた。
指輪の内側を見るまでもなかった。濁りが、また一段進んだのがわかる。胸の奥の、ずっと深いところが冷たく重くなった。
それでも、床へ落ちる筋は細くなっていた。
ほむらは玄関の扉に背中を預けて、長く息を吐いた。
そのとき初めて、右手が空いていることに気づいた。
紙袋がなかった。
緑の包み紙と、金色のリボンの、白い紙袋。薄い灰色の、襟のあるシャツ。マミと選んだシャツ。
結界の中で、日比野に手を引かれて走り出したとき、どこかで落としたのだ。そのことにさえ、気づいていなかった。
コートのポケットの中で、携帯が震えた。何度も。途切れずに。
ほむらは右手で携帯を取り出した。画面に、日比野の名前が縦に並んでいた。
『ほむら、今どこ』
『お願い、返事して』
『病院行って。お願いだから』
『さっきの、何だったの』
『いや、今それはいい』
『無事かだけ、教えて』
少し間があって、もう一つ届いた。
『紙袋、落としてた。路地に。拾った。預かってる』
『緑の包みの。これ、俺に?』
『……ありがとう。まだ開けてない』
『だから、無事かだけ、教えて。それだけでいい』
ほむらは画面を見つめた。
返事をしなければ、日比野は警察を呼ぶかもしれない。病院に片端から電話をかけるかもしれない。あの路地で何が起きたのかを、誰かに話すかもしれない。
ほむらは右手の親指で、短く打った。
『大丈夫』
送信した。それ以上の言葉を打つ力も、打つ言葉も、残っていなかった。
既読が付いた。画面の中で、入力中の表示が点いては消え、また点いた。
ほむらは、その表示が何かの形になる前に、画面を切り替えた。
連絡先を開いて杏子の名前を押すと、呼び出し音が二回鳴った。
『ほむら?』
杏子の声の後ろで、ファミリーレストランのざわめきと、さやかの笑い声が聞こえた。さやかのクリスマスの慰め会に、杏子が付き合わされているらしい。
『どうした。……今日、あいつんとこじゃねえのかよ』
「杏子」
自分の声は、思っていたよりもずっと小さい。
電話の向こうのざわめきが、急に遠くなった。杏子が席を立って、どこか静かな場所へ移ったらしい。
『……ほむら。何があった』
「結界に、入ったの」
『は?』
「航と、一緒に」
杏子が息を呑む音がした。
「腕を、切られたわ」
『……どこ。今どこだ』
「部屋。玄関」
『深いのか』
ほむらは自分の左腕を見た。止血帯の下の、塞がらない線を。上がり框に付いた、赤い手形を。
「……深いわ」
『動くな』
杏子の声が変わっていた。冗談の高さでも、低い声でもない。四年前、結界の中で何度も聞いた、戦うときの声だった。
『さやか連れてく。十分で行く。いや、五分で行く』
電話の向こうで、杏子が誰かを呼んだ。さやか、と。ファミレスの扉が開く音と、冷たい風の音がした。
『ほむら。聞こえてるか』
「……ええ」
『切るなよ。そのまま喋ってろ。なんでもいいから』
走る足音が、電話越しに響いていた。杏子の息が荒くなっていく。その後ろでさやかの声がした。ほむら、どうしたの、と。杏子が何か短く答えて、足音が二人分になった。
ほむらは携帯を耳に当てて、玄関の扉にもたれた。
何を喋ればいいのか、見当もつかない。
「……シャツ」
『は?』
「落としたの。結界の中で。航が、拾ったわ」
電話の向こうで、杏子が短く息を吐いた。笑ったのかどうかは、電話越しでは聞き分けられない。
『……渡せたんじゃねえか。結局』
「渡していないわ。落としたのよ」
『あいつの手に届いたんなら、渡したのと一緒だろ』
杏子の足音が速くなった。
ほむらは目を閉じた。
止血帯の下から、まだゆっくりと血が滲んでいた。玄関の床の上で、小さな溜まりが少しずつ広がっていく。
電話の向こうで、杏子の息と足音が、途切れずに続いていた。その音だけが、暗い玄関の中ではっきりと聞こえていた。
窓の外のどこかで、教会の鐘が七時半を告げた。